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杉山さんがモーハウスに入社してから、たった3ヶ月後の6月。
彼女は、名古屋で行われた愛・地球博でモーハウスのトークイベントの仕切りをいきなり任されることになりました。
「大変だった? いや、別に。やるしかなかった(笑)。
授乳ショーに出演してくれる人を募って当日の手配をして…。
『ほんとに出演者が来てくれるの?』とか、まったく不安がなかったわけではないんですが、そういうことを働いて間もない私にやらせてくれる環境がものすごくありがたかった。
他の会社ではありえないこと。
ここまで任せてくれてくれたんだから、すごい頑張ろうと思ったんですよ」
しかも、光畑さんは毎度、「杉山さん、仕切りやってくれる」「はあ? はい」といった調子で、細かい指示がないんだそうです。
「初めて授乳ショーを観た時に、『これ、大学の学園祭でやりませんか?』と言ったら、『いいじゃない、やったら?』って感じで平気で無茶振りする(笑)。
常に自分で考えて動かないといけないから、いつの間にかそういうこともできるようになっていったんです。
知らず知らずのうちに成長させてもらいました。
新卒を面接して雇うのも私が窓口で、人事もやってるんですよ。
ありえないですよね、1年目で人事ですよ。
そういうのも楽しくてしかたがない」
このように仕事をしていると、杉山さんの中で変化が起きてきたそうです。
「仕事を通じて変わってきたのは、私は子育てしている人たちを『退屈そう』とかすごい偏見の目で見ていたんだなって気づいたこと。
私みたいな思いをしてきた子たちに対して、私が持っていたような偏見を取っ払えるようにできたらいいなって思えるようになった。
ママさんたちは思った以上に仕事ができる人がいて、憧れです。
子育て中の女性に対する見方を変えてくれる人たちに出会えるのが楽しい。
だから、女性に生まれたことを、自分を、すごく誇りに思いました。
『知ってしまったからには女であることを満喫しなければ!』という妙な使命感にかられている毎日です(笑)」
一方、モーハウスは、2005年10月に初めてのショップを東京・青山にオープンしました。
光畑さんは、その当時の思いをこう話してくれました。
「家賃を日割りにした分くらいは売っていけるだろうか、とまず考えました。
諸経費を別に考えれば約3万円。
ライブハウス経営の経験者に聞くと、『そのくらい何とかなるんじゃない』とおっしゃる。
自宅でのオープンハウスでさえ、日によってはママたちの異業種交流の場になっていました。
これを青山に持っていけば、さらにいろんな方たちと交流ができて何か面白いことが起こるかも。
最終的に出店を決めたのは、その魅力に抗しかねたからです。
売上を伸ばそうということはあまり考えていませんでした。
誰でも服の質感を味わえる場を作ること。
お母さんたちに安心して遊びに来てもらえるハレの場を作ること。
子連れで働く場を作ること。
ショップに期待するものはそんなものでした」
このように、赤字にならない程度の仕組みは考えながらも、社会にとって必要なインフラを整備することを優先的に課題にする構えこそ、ソーシャルベンチャー(社会起業家)特有のあり方と言えるでしょう。
授乳服の製造・販売を通じて女性の自由を一つずつ実現してきたモーハウスは、「母親」になった後から起こりうる問題に、敏感に反応してきたのです。
実際、出産直後から何をするにも赤ちゃん中心で動き、忙しさの中で自分にとって気持ち良いことや自分らしい暮らし方を忘れてしまう人は珍しくありません。
また、母親になった途端、出産前には当たり前だった友人との交際や趣味に没頭する時間も捨てなきゃいけないような気持ちにもなりがちなのです。
そんな女性たちに、モーハウスはオープンハウスやイベント、授乳服を通じて「なんとかなるわよ」とゆるく訴えかけてきました。
その大らかな構えが「授乳以後」というライフステージにおける新しい選択肢になることを、当事者のママさんたちは自然に感じとってきたのでしょう。
しかし、女性には、まだまだ明るみにされない可能性が眠っています。
その一つが子連れ出勤です。
(つづく)
杉山さんは、大学を卒業する2005年3月からモーハウスで仕事を始めました。
もっとも、ほとんど大学には顔を見せず、時間を見つけてはバイトばかりしていたといいます。
彼女は、その頃を思い出して、こう言いました。
「一つのところに固定でいるのが苦手で、あっち行ったりこっち行ったりするのが好きで、いろんなところで知り合いがほしかったので、派遣で登録していました。
一日3箇所回ったり、かなり無謀な稼ぎ方をしていたことも。
バイトは本当にあらゆることをしてきたっていう自信はあります。
やりたい仕事の面接に行って落ちたことないんです。
ふらっと鮨屋に入って、『今日から働かせてもらえませんか?』って言っても即採用。
実家にお金入れてるわけじゃなかったから、遊ぶお金にも不自由しない生活でしたが、お金がほしいわけじゃなかったんです。
働くのが楽しかったから。
何よりも年齢、職業もいろいろな友達ができて、すごくいい社会勉強になったし、いろいろな環境の中で『働く』ということが、とっても楽しかった」
家や学校ではない場所にいるさまざまな人間。
その数だけあるさまざまな人生。
幼稚園の頃から習い事や塾で放課後が全部埋まっていた杉山さんにとって、バイト先の職場は、学校的な価値観(進学→就職→結婚という直線的で画一的なレール)とは異なる人生にたくさん触れられる場所だったのでしょう。
「でも、興味のある授業だけはしっかり出ていました。
好きなものにはわりと没頭できるタイプなんですよ。
それはジェンダー論とボランティア論。
どちらも私に疑問を残してくれる授業で、とくにボランティア論では、無償でさまざまな社会活動をしている人たちの心理に興味がわきました。
働いた分だけお金がもらえて、社会のことなど何も気にせず楽しく生活をしている自分が急に恥ずかしく思えて、『無償で社会貢献している人や活動にこそお金は使われるべき!』と強く感じました」
卒業が近づき、就職を真剣に考え始めると、「これといった取り柄はないし、このまま行くと本当にうんざりするような毎日だな…と一種の鬱状態」に陥り、就職活動らしいことは一切しませんでした。
悶々としていると、ゼミの先生がA4一枚の紙をくれたそうです。
それが、モーハウスの会社概要でした。
「社員がいないってところにものすごく興味があった。
まっさらなところに飛び込むような気がして。
子ども連れで働いてる育児中のお母さんたちだけのところに(ただ一人独身の)自分が飛び込むことで何かが起こるんじゃないかなーって。
そこに自分が働く意味を見出せるかなと思ったんです。
私の知らない世界、私が見たくなかった世界、想像できない世界が会社になってて、『なんだこれ?』って驚いたし、すごい楽しそうと思っちゃって、そういうとこなら就職してみたいなと」
杉山さんにとって、平然と授乳服の胸に赤ちゃんを抱いた女性たちどうしが打ち合わせをしたり、そのそばで小さな子どもたちがのこのこ歩き回る様子は、まるでカンガルーしかいない動物園に放り込まれたぐらいのショックだったのかもしれません。
「女性であることをすごく損だと思ってきた私にとって、モーハウスとの出会いは先生が与えてくれたチャンスでした」
なぜ女性であることを「すごく損だ」と思ったの?
「私の母親は普通の専業主婦で家にいることが多く、父親は仕事でまったく家にいないことが多かったんです。
当たり前のように毎日家事をする母親と、それを手伝おうともしない父親。
母親がカリスマ主婦とかで主婦であることに楽しみを見出しているようであれば違ったのかもしれないけど、そんなはずもなく、楽しんでる様子はなくて、つまらなさそうだった。
だから、女らしい人生に良いイメージが全然なかったんですよ。
今でも母はときどき懐かしむように学生時代の一人暮らしの話をしたがる。
可哀そうになって変な同情もしましたが、私は結婚して、子育てして、あっという間に年老いてしまうのは絶対に嫌だった。
結婚しても子どもを生んでも外に出ていたい、働いていたいと自然に思うようになってて…。
それが難しいことだと悟ってからは、結婚にはまったく興味がなくなった。
当時付き合っていた人から『結婚』が匂うだけで拒否反応」
女の子なんだからこうしなさい、とかが嫌だった?
「それが大嫌いだった。
仕事を一生懸命やりたいと思ってるのに、彼氏とつき合っていく中で『女なんだから…』とかポッと言われるだけで『もうやだ!』って。
『じゃあ、私は何なの?』って。
『女だから』って言われるのが泣けるくらい悔しかったんですね。
モーハウスに入って、授乳服を使って母乳育児をしながら仕事してる女性の姿に驚きました。
むしろ感動した。
何よりも楽しそうだった」
(つづく)
翌1999年秋、光畑さんは雑誌を一緒に出していた友人と一緒に地元のつくばでもイベントをやろうと思い立ち、「いいお産の日INつくば」として会場の一角に「お産・おっぱいエリア」を作りました。
エリアの中では赤ちゃんの体重測定や相談会などを開きたいと考え、助産師と、長女を出産したときにお世話になった助産師に恐る恐る電話でオファーすると、二人とも快諾してくれました。
また、体育館を借りて、東京の「いいお産の日」で見てきた出産のお芝居をしたり、授乳服を着た母親たちが赤ちゃんに授乳しているところを観客に見てもらいました。
それぞれに「出産ショー」「授乳ショー」というタイトルをつけ、助産師さんの解説付きで行ったところ、雨の日だったのに会場は満員の来場者でにぎわったのです。
この成功を機に、その後、お産とおっぱいの一連のイベントはモーハウスとして独立して企画・運営していくようになりました。
そして、モーハウスの活動を始めてから5年目の2002年の11月27日、光畑さんはこの活動団体を「モネット」という法人名で有限会社として登記したのです。
「私にとっての授乳服作りは、それまで私が関わっているいくつかのうちの一つでしかありませんでした。
仕事も授乳服の製作一筋ではなく、雑誌の製作も建築への関わりも続けていました。
今は子どもが小さいからお産やおっぱいの面白さにはまっているけれど、いつまで続くかわからない。
いつかは服作りをやめて、好きな本作りや美術系の仕事を始めるんじゃないか。
そんなふうに思っていたんです。
それがだんだんと変わってきたのは、確実に授乳服を使う人が増えてきて、たくさんのお礼のメッセージが届き、少しずつ私の気持ちが動かされてきたからです」
自宅をベースにして、時々来てくれるアルバイトの女性だけでやってきた仕事でも、法人化直前の頃には一年に2万枚くらいは販売し、毎年毎年、売上は倍以上に伸びていきました。
もう「飽きたからやーめた」と言える時期ではなく、愛用者に対する責任があると思い、「やめない決心」として法人化にふみきったのだそうです。
「私にとっての授乳服は、お金を得る手段だけではありません。
『子どもと共に自由でいられる』という新しいライフスタイルを提案するためにイベントを開いていましたし、それを続けてこられたのは授乳服の販売による収益があったから。
ですから、このメッセージをより多くの方に届けるには特定非営利団体(NPO)にするという選択肢もありました。
そこでいろいろな方にも相談した結果、『モーハウスで働く人には働き方によっては自立できる給料を出せるようにしたい』と思ったのです。
経済的な自立ができることは精神的な自由につながるからです」
ボランティアで手伝いに来てくれていたスタッフ二人にも、「会社にしようと思うんだけど、スタッフにならない?」と聞いてみました。
あえて「責任のないボランティア」を選んだ女性たちだったのですが、二人ともこの話に乗ってくれたそうです。
「当初から『授乳服の販売でいただくお金は同じ立場の人に払いたい』と思ってましたから、縫製も発送の仕事もできるだけ子どもがいる女性にお願いしてました。
仕事ができる能力があって、状況さえ許せばできるのに仕事が得られない人がいる。
他方で仕事を頼みたい人がいる。
そこをうまく結び付けたいと、コーディネーター根性を出してしまったんです。
子どもがいる縫製スタッフがこの仕事をやりたいと思うのは、自分のペースで仕事ができるから。
他の在宅仕事と同じように夜中まで仕事をしないと終わらないようなノルマを課したら、モーハウスで働く意味がありません。
私が仕事をする基準は楽しく快適にできるっていうことですから」
2005年3月、光畑さんは地元の大学で講演したのを機に、新卒予定の大学生を社員に採用しました。
それが杉山貴子さん(27歳)。
モーハウスにとって初めて正社員であり、初めての独身スタッフでした。
(つづく)
「ソーシャルベンチャー」という言葉が日本でまったく話題に上っていなかった頃から、世の中にある問題を解決するためにビジネスの手法を使おうという動きは芽吹いていました。
その一つが、授乳服(※赤ちゃんにおっぱいをあげるための服)の製造・販売を手掛けながら、母親というライフステージから女性の自由で新しい生き方を試みようと呼びかけている「モーハウス」という団体です。
http://www.mo-house.net/
茨城県のつくば市に事務所があるこの団体の発足は、代表者・光畑由佳さん(43歳)自身のこんな経験から始まりました。
1997年、生後1ヶ月の次女と一緒に電車に乗っていたところ、空いてきた車内で次女がぐずり始めたのです。
いつまでも赤ちゃんは泣きやまず、声は大きくなるばかり。
乗客たちの視線が集まります。
次女はおなかがすいているのです。
ミルクは持参していませんでした。
(降りる駅まであと少し。もう少しがまんすれば、授乳できる…)
でも、そのとき、彼女は苦い経験を思い出しました。
長女がまだ授乳期の頃、丸一日搾乳しなかったために母乳が出なくなってしまったことがあったのです。
心配が募った光畑さんはパニックになり、途中下車も思いつかず、仕方なくブラウスの前ボタンをはずし、授乳をすることにしました。
駅に着き、赤ちゃんのいる女性の友人に会ってこの体験を話すと、「信じられない」と言われた。光畑さんは母乳育児にこんな不便さがあるのかと痛感したが、同時に「そんなのおかしい」とも思ったのです。
「本来自然なものであるはずの母乳による授乳が自分の行動を束縛するなんて変。
どこでも授乳する自由はあっていいと思うけど、気遣いはやっぱり必要。
だったら解決する方法はないかな」
そこで光畑さんは、以前取り寄せた海外の授乳服の通信販売カタログを思い出し、取り寄せて、試しにそれを着て外出してみたのです。
「羽根が生えたような気持ち、想像もしなかったような解放感が心の中に湧き出てきました。
『これでどこにでも行ける! 私の自由は保証された!』という感じ。
解放感があったということは、それまで束縛感があったはずなのに、それまで全然そんなふうに感じたことはありませんでした。
でも、こうして解放感を感じて初めて『今まで自分は我慢してたんだ』と気づかされたんです。
世の中のお母さんたちがそれに気がつかず、ずっと我慢したままなら、この解放感を教えたい。
そんな気持ちでいっぱいになりました」
それ以来、光畑さんは「授乳服の伝道者」になりました。
そして、ママさんどうしの間でいろいろと情報収集をする中で、だんだん「やはり自分で作ろう」という気持ちは大きくなっていったのです。
しかし、光畑さんには、プロとして服を作った経験はありませんでした。
それでも、「自分で縫えなくても、できる人をつないでいけば、生産できるはず」と考え、縫える人やデザインのできる人を探したのです。
すると、たまたま自宅のお向かいの奥さんがドレメを出て縫製のできる方だったので、「売れたら払うから」と製作をお願いできました。
また、小学校時代からの友人にアパレルメーカーのデザイナーがいて、デザインを頼むこともできました。
資本金は「財布に入っているお札数枚」。
でも、光畑さんの故郷・倉敷は繊維産業が盛んなところで、「安いけれど素敵な生地」を探しては数メートル単位で買えたんですね。
こうして光畑さんとその仲間は特価品の生地を買い、作っては売るというペースで仕事を始めました。
授乳服といっても、「マタニティでも授乳中でも体型がきれいに見える」と「授乳用のためだけに穴が空いているのではなく、ふだん着としても違和感なく着られる」という2点を重視したデザインにしました。
やがて光畑さんは自宅をママさんたちに開放し、より多くのママさんたちとの交流のチャンスにすることにしました。
こうした「オープンハウス」の試みは、出会いのチャンスを増やしただけではなく、乳幼児との付き合いに悩む母親たちの肩の荷を下ろす効果もありました。
「お母さんが心地よく過ごせると、赤ちゃんも心地よいんですよ。
力を抜いて、自分が楽をすることが悪いとは思わずにいてほしい。
そのいい加減の力の抜き方の例がオープンハウスにはあふれていました。
毎日の育児のプレッシャーでいっぱいいっぱいの人も、『ああ、育児ってこんなのでいいんだ』と安心してくれました。
多数派のおおざっぱなお母さんたちを見たり、話を聞いたりすることで自然に悟ってくれるんです」
こうしたオープンハウスの手応えを得て、光畑さんの気持ちはより多くの母親に向けて発信できるイベントの開催に傾いていったようです。
(つづく)