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1965年生。早稲田大学第一文学部を3か月で勇退。広告業界を経て25歳でフリーライターに。企画・編集した『日本一醜い親への手紙』はベストセラー。『完全家出マニュアル』で造語した「プチ家出」が流行語に。2007年春から東京大学(駒場キャンパス)で自主ゼミの講師を始める。著書に『親より稼ぐネオニート』(扶桑社新書)、『ゲストハウスに住もう!』(晶文社)など多数。
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お父さんの育児 (2008年06月22日)

第24回 メディア・リテラシーC[2007年11月30日(金) ]

 わたなべ氏の証言が続きます。

「あるとき編集部から、『夏だからお化けを撮ってきてよ』と言われました。
 撮りましたよ。
 仲の良い病院に電話して、そこは古いビルなので、三脚を止めて30秒シャッターを切りました。
 そして、レンズの前にライターの火を置くと、良いお化けが撮れるんです。
 そこで、一番よく撮れているものと、一番だめなのと、中間と3枚を編集部に渡すと、真ん中が使われます。
 もっとも、べつの記事で美輪明宏さんあたりが『お化けはいるんです』というコメントをしてくれて、それを記事中に使うのであれば、なるだけ上手く撮れているものを使います。
 編集者が誰かに責任をなすりつけたい時はそう。
 でも、編集部の責任が問われそうなものには、あいまいなものを使うんです。
 ある雑誌の写真整理棚には、有名人別のファイルがあります。
 たとえば、安達祐実の欄に笑顔・泣き顔・怒った顔などで仕分けされているボックスがあります。
 なにかその時の話題のネタがあった時に、それに見合った表情の写真がいつでも掲載できるようにしてあるんですね。
 だから、ふつうにインタビュー取材で撮影に行く時でも、『(笑顔だけでなく)他の絵も撮って来い』と言われます。
 そうやって、くしゃみしそうな顔が『不機嫌な顔』としてストックしてあるので、安達祐実を叩きたい時はそういう表情の写真を使うわけです」

 ここで、ゼミ生に質問を投げかけてみることにしました。

今「優秀な高学歴の大学出身者が集まる、日本で1位、2位を争う大きな出版社の編集部の仕事でも、今わたなべくんが証言してくれたようなことが平気でまかり通っているんだけど、なぜそうなると思いますか?」

学生「そうしないと、売れないから」

わたなべ「過去にはそうやって売れたというのは、確かにあるかもしれない」

学生「読者が期待しているから?」

わたなべ「じゃあ、本物を使えばいいじゃないの」

学生「コストを下げるため」

わたなべ「それはあるかもしれない」

学生「楽だから」

わたなべ「そこに来ている編集者は社内で稼ぎ頭のトップ社員ですよ。
 会社全体の売上を確実に支えている集団でもある。
 わざわざ楽しようというわけではないんだ」

学生「時間がないから」

わたなべ「そうです」

 わたなべ氏が解説します。

「雑誌の制作にはとかく時間がないんです。
 週刊誌の取材なら、1日あればいいほう。
 その中で〆切に間に合わせるには、最初に結論を決めてないと作れないんです」

 もちろん、その時間の無さゆえの仕事の安直さに居直ってしまえば、マスメディアには妄想ばかりがはびこり、編集者の知らない新しい現実や希望が世の中に生まれていることが伝わらないまま、社会に嫌な空気が蔓延することにもつながりません。

 そういうマクロ的な視点で社会的に意義のある仕事がしたいと考える(圧倒的に少数派の)ライターやフリーの映像ディレクターは、孤軍奮闘や貧乏を恐れずに自分の時間やお金を費やして取材したものを企画として編集者に提供し、「こういう記事をあなたの雑誌で書かせてくれませんか」と売り込むわけです。

 そして、なんとか良心的な記事や番組が少しでも広く社会に伝わるように日々頑張っているわけですが、そういう実態の詳細は大学のメディア・リテラシーの講義でも教わらないはずです。

 テレビ局や新聞社から定年退職して「天下り」のように大学の先生に収まったおじさんたちには、「問題」として見えてこない現実だからです。

 もっとも、わたなべ氏は、「そこには世代論がある」と指摘します。

「僕らより前の世代の人は、たとえば『そろそろ安達祐実を叩くか』と思って調べてみたら、リサーチに動いたライターたちから『あの人はけっこういい人ですよ』という声がいっぱい上がってきた場合には、『じゃあ、そういう路線で書くか。先週売れたから、今週はそんなに売れる必要はないし』と考えてくれる編集もいました。
 また、まったくの素人でも面白い逸材がいれば、『こいつ面白いから有名にしちゃおうぜ!』と意気込んで、新しいスターを生み出すことに面白がれた時代もあったようなんだ。
 けど、そうした仕事ぶりや予算の高さを見て『マスコミは美味しい仕事だ』と思う僕らの世代が仕事をする90年代の頃には、既に『昨年のデータはこうだった。だから、今回もこの記事はこうしよう』というルーティン仕事になっていたり、既にある写真データを使い回せばそれなりに記事が作れてしまうから、あとは都合のいいコメントをしてくれる人を探すのだけが仕事になったのかもしれないね。
 それが時間も金もかけずに仕事が成り立つことを踏襲できる世代になってしまったってことなんだろう」

 もちろん、そういうルーティン仕事をするマスコミの対応を観るにつけ、真意が伝わらないまま自分のコメントがいいように使われて名前だけが有名になっていくのを嫌う知識人も少しずつ現われてきていて、そういう人はパッとテレビや雑誌に出ていたと思ったら、とんとコメントしなくなるってことがあります。

 でも、大学の先生や精神科医のような人たちは世間知らずの代表のような商売ですから、たとえば、「酒鬼薔薇聖斗」事件(1997)から10年経っても変わらないコメントをしてくれるんですね。

 10年前とほとんど同じ内容がそのまま記事や番組になっていても、まったく恥ずかしさを感じてないのですから、これは「出たがりな人」としか言いようがありません。

 最後にわたなべ氏は、こんな宿題をこれから社会に出ていくゼミ生に与えました。

「99%違うけど、1%ある悪い部分も『真実」として記事にする雑誌でも、編集者の社員は入社すると、それを率先してやってしまうんです。
 たかだか1万5千程度のギャラのために、平気でそれをやってしまうフリーライターもいる。
 ネタを垂れこんだ友達に迷惑がかかっても、書いてしまう。
 優秀な大学を出て、なぜそうなってしまうんだろうね?」

第23回 メディア・リテラシーB[2007年11月23日(金) ]

 雑誌編集者が妄想的仮説で企画を考え、その編集方針に合致する現実のみを取材するライターがいるおかげで、世の中に妄想を重ね塗りするような記事ばかり流通してしまうという傾向は、新聞記事やテレビ・ラジオの番組を制作する場面でもたいして変わりません。

 それゆえに、編集者は自分の妄想を裏付けてくれるようなコメントをしてくれる「偉い人」をコメンテーターとして、記事や番組にインサート(挿入)します。

 たとえば、少年事件で猟奇的なものがおきれば、現役の精神科医や「犯罪心理にくわしい」大学教授などの学者にコメントを語らせれば、それを観る者に「偉い人が言っているんだから、なんとなくそういうもんかな」と思わせることができます。

 こういうコメントにほいほい出てくる学者や「識者」をマスコミ界隈では「御用学者」と呼んで重宝しますが、言わば、妄想でしかない発想に学者の権威で肉付けしてくれるわけですから、大変便利な存在として扱われているわけです。

 しかし、これは、妄想という根拠のないメッセージを公に報道してしまう編集者自身の不安を解消するための演出にすぎません。

 なので、自分が1時間も長々と丁寧に説明したコメントが、編集者にとって都合のいいところだけを切り取られて15秒の映像や3行の文章として視聴者や読者に届けられるという仕組みを理解した「識者」は、わざわざコメントを言う仕事に付き合うバカバカしさに呆れて新たなコメントを拒否することもあります。

 もっとも、大学教授には大学の外の世界を知らない世間知らずな人がいっぱいいますから、マスコミ側から見れば、コメントをしてくれる人材に事欠きませんし、世の中の多くの人が大学教授を「偉い人」と信じてくれている限りは、妄想を支える権威として「〜にくわしい」という枕詞で何度もメディアに登場するわけです。

 ここには、事実の現場を取材するライターの取材に金や時間を投資するよりも、メディアの内容を左右する編集権を持つ編集者が恣意的に「売れる妄想」「売りやすいメッセージ」を優先的に考え、知っておくべき事実を延々と放置してしまうという問題が取り残される構図があります。

 こうした取材の現場について、もっと具体的な体験談を知ってもらうために、ゼミにはゲスト講師としてゴシップ雑誌での仕事経験のある友人のわたなべけんいち氏に登場してもらいました。

 彼の現在の肩書は、映像制作プロダクション「株式会社ナベックス」の社長であり、童話作家ですが、26歳から雑誌カメラマンや記者の仕事を始め、30歳(1995年)で地下鉄サリン事件の被害者宅へ撮影に行かされたのを機に、ゴシップ雑誌のカメラマン&ライターを廃業しました。

 その時に話題になっている事件や人物ならば読者の関心が高いので、どんな記事でもいいから、話題に便乗して記事を作ろうとする現場には、ついていけないものを感じることが僕にもあります。

 そんな現場について、彼はこう証言しました。

「僕が某ゴシップ雑誌で取材していたのは10年前ですが、たとえば突然、編集部から『安達祐実を叩こう』という話が振られます。
 160字が1320円でデータ原稿を書いていたので、10枚書いて1万円といったところですよ。
ボツになったらギャラが出るけど、ボツにならないように動くわけで、当然『作ってくる』しかありません。
 なので、気の利いた記者は原稿の中にうまくそれを示唆します。
 『〜と関係者が言った』『〜と消息筋は言った』という表現で語尾を曖昧にし、『これにはウソが混じっているよ』『無理やりこじつけたよ』とほのめかすわけです。
 もっとも、『〜とマネジャーが言った』『〜とテレビ関係者は語る』という語尾であれば、ちょっと信憑性が増します。
 それでも、コメントした人名が特定できるわけではありませんから、信憑性もその程度でしょう。
 しかし、これが記事を書いた人の名前が出ている署名記事だと、信憑性はぐっと上がります。
 取材・文●●と名前が大きく掲載されているのが、署名記事です。
 しかも、他に本を何冊も出しているなどその雑誌の仕事がなくても食っていける人、あるいはその仕事をなくして貧乏になっても困らないと感じている人だと、まず、ほとんどウソはないと思っていいです。
 ただ、独自理論に走る場合が多いです(笑)。
 もっとも、見方はそれぞれに正しいともいえるので、すぐさまコンセンサスがとれる見方とは限らない意見を書いているというのが正しい言い方でしょうか。
 人間は日々成長します。
 昨日の自分のまま明日の自分があるということではないので、見方も意見も日々変わって当たり前なので、それはよしとしましょう。
 むしろ、注目すべきは、一度編集部内で『安達祐実を叩こう』という編集方針が決まってしまえば、その論調に都合よくコメントしてくれる人に証言させて、論調に説得力を持たせるということがあるという点です。
 芸能ネタであれば、『芸能レポーターの●●さんはこう語る』みたいに、安達祐実が憎くなくても都合のいいコメントをいつも出してくれる人に声をかけて、コメントをいただくわけです。
芸能界では、同じ相手に対して悪口を言う人と良い評判を言う人が同じ場合がままあります。
 『なんでこんな絶好の場所で不倫の写真がばっちりピントが合って撮れるの?』と首をひねってしまうような写真が雑誌にはよくありますから、せめてそこにある語尾に注目してほしいです。
 うちの父親は学のない男でしたが、僕が『お父さん、テレビでこんなことを言ってたよ』と言うと、『おまえ、それを見たのか?』と答えるのが口癖でした。
 今なら、なるほどと思いますね。
 こんなやつ(今一生)や、こんなやつ(自分)が書いてるんですから(笑)」

(つづく)

第22回 メディア・リテラシーA[2007年11月16日(金) ]

 雑誌編集者がデスクワークの中で妄想した切り口に見合う取材対象者をライターに探させて記事を作っていくあり方には、そもそも問題がある、と前述しました。

 何が「問題」なのでしょうか?

 たとえば、「中高生の間でリストカットが流行っている」ということでライターに取材をさせるように指示する編集者は、実際にリストカッターを探させ、インタビューすることを急がせます。

 しかし、その時点では当事者であるリストカッターの声を十分に拾っているわけではなく、当事者と向き合う人にとってもどんな適切な付き合い方が望ましいのかについても、はっきり把握しているわけではありません。

 それでも、編集者側では「手首を切ることは『問題』だ。だから、辞めさせる方法を結論に持っていけるような取材をしてほしい」という取材方針を先に決めてしまい、この方針に見合う取材だけをすれば記事の執筆に十分だという判断をしがちなのです。

 ところが、現実は編集者の妄想どおりではありません。

 現実のリストカッターには、「手首を切らなかったら苦しすぎる。そこで我慢だけをしていると、衝動的に飛び降り自殺してしまうような不安がある」と言い出す人も珍しくないのです。

 そういう人にとっては、手首を切る行為は衝動的な自殺を回避する「生きていくための必要な行為」と認知されているわけです。

 こうなると、「いかに辞めさせるか」という結論を一目散に目指すことには無理が生じてきますし、どんどん現実から遠いことを記事にしてしまいかねません。

 自傷癖や家出などを繰り返す若者たちを10年以上取材してきましたが、あるとき大手新聞社の記者に「うちの紙面では『手首を切っていい』とか、『家出してもいい』とは書けませんよ」と言われたことがあります。

 つまり、自分を傷つけることや家出するという行為は「反社会的」なものだから、それを事実上容認するような記事は掲載できないという媒体(メディア)側の都合が何を「問題」としてとらえるのかについての基準を決めているわけです。

 これは、取材する前から「問題」があらかじめ決められているようなものです。

 このように、妄想でもいいから結論(=実際は仮説)を決めて取材するほうが、取材を担当する側の時間やコストを省くことができ、仕事が早く簡単に進むという現実がある以上、当事者の声よりも、取材する自分の都合を優先してもいいと思う人が少なくないのが、残念ながら新聞やテレビ、雑誌に今なお見られる傾向なのです。

 しかし、新聞社やテレビ局などに属さず、彼らの下請けとして記事や番組を制作しているフリーライターやフリーのディレクターの中には、「そういう取材の仕方こそ『問題』なのだ」と感じ、自分が貧乏になっても、時間やお金を十分にかけて真相を追おうとする人たちもわずかながらいます。

 もっとも、取材相手と実際に会い、当事者の切実な声を聞いている最前線のライターやディレクターと、編集部の机に座って妄想猛々しく次の企画をひねり出している編集者では、現実に対する認識の深さが違うのは当たり前です。

 なので、一部の良心的なフリーライターは、妄想から出発した安い記事が氾濫するのを防ぐためにも、現実を十分に知らない編集者に「こういう現実があるんですよ」と企画書を提出し、これまでに報道されていない現実の新局面を広く知らしめるチャンスを一緒に作ろうと呼びかけるわけです。

 たとえば、自殺予防策には、「早めに精神科にかかろう!」というメッセージが世の中に蔓延しています。

 しかし、こうしたメッセージも、抗うつ剤の新薬を売りたい薬剤メーカーがさんざん広告費を投入して作り上げた空気かもしれません。

 そこで、「そのメッセージに正当な根拠があるのか?」と問うのが、まさにメディア・リテラシーの基本です。

 だから、良心的なライターであれば、現実に精神科に通院している「自殺を考えてしまう人々」を取材し、精神科への通院前と通院後では明らかに自殺したい気持ちが減ったり、やわらいでいるのかを調べる必要性を痛感するはずです。

 さて、なるだけ多くの通院患者に会ってみようと取材を始めてみると、処方薬の副作用で体のだるさが取れなくなったり、クスリなしには生きられない依存症になってしまって無気力を持て余して仕事ができなくなった患者が少なくないなど、精神科に通院することの弊害も指摘せざるを得ないことがわかってきます。

 もっと取材を続ければ、30年前ではカウンセリングなどの精神療法がメインだったのに、今日ではすっかり薬物療法に偏重しており、オーバードーズ(=処方量以上の過剰摂取)で心臓や肺の機能が低下し、突然に死んでしまうケースが後を絶たないこともわかってきます。

 そこまでわかってくると、「とにかく早めに精神科へ行こう!」というメッセージは必ずしも良い結果を招くとは限らず、むしろ当事者の人生を混迷させる危険すらはらんでいることを伝えないわけにはいかなくなります。

 もっとも、ここまで時間をかけてより深い取材を目指す人は、限りなく少数派です。

 なので、新しい現実を知ってしまっても、それをテレビ局や新聞社などの編集者・プロデューサなどにはなかなか理解されないことも多々あります。

 そこで、僕自身は、マスメディアにすぐに取り上げてもらえないことは専用ブログで公表し、少なくとも取材対象になる当事者が損をしないような配慮をします。

 実際、精神科で薬物依存症になってしまう人向けには、次のようなブログを解説し、精神科に通わなくても心の安定を取り戻すチャンスが豊かにあることを伝えています。

●クスリをやめたいあなたのために
http://no-drug.seesaa.net/

(つづく)

第21回 メディア・リテラシー@[2007年11月09日(金) ]

 「メディア・リテラシー」という言葉があります。
これは、情報を載せる媒体(=メディア)が正しい情報を過不足無く伝えているかどうかを見極める能力のことです。

 しかし、日本ではまだメディア・リテラシーに関する教育が十分に行き届いているとは言い難く、それゆえに身近なメディアについて、その内容が事実かどうかを検証する基準を持ち得ないまま、「みんながそう言うのだからたぶん正しい情報なんだろう」という空気を読むことのほうが優先され、事実かどうかの検証が置き去りにされたまま、自分が面白いと感じる妄想をそのまま鵜呑みにして、独りよがりな世界観を構築してしまうことが珍しくありません。

 たとえば、学生にとって身近なメディアといえば、教科書とインターネットでしょう。

 もっとも、その2つにしても、誰が、どういう意図で、どんな内容を選んで、そこにその情報やメッセージを載せているのかについて、あまり深く考えないのが、日常的なメディアとの付き合い方だろうと思います。

 そうした付き合い方が、自分自身に不利益をもたらすことの恐ろしさをなかなか実感として覚える機会がないことも、メディア・リテラシー教育が浸透しない一因だろうとは思うのです。

 本当は負けているのに、あたかも勝ち続けているかのような報道一色だった第2次世界大戦の大本営発表は、形を変えてこの国を覆っているのかもしれないのですから。

 竹宮恵子さんのマンガ『地球(テラ)へ…』を知っていますか?

 20年以上ぶりに今年テレビ・アニメ化されましたが、これはメディア・リテラシーを考える上でとても興味深い作品です。

 主人公ジョミーは14歳で「成人検査」を受け、それまでの記憶を消されそうになります。

 これが超能力者の集団によって邪魔されると、自分が住んでいたところが地球ではなく、両親だと思っていた人も血のつながった関係ではないことを初めて知らされるわけです。

 「今まで誰かに教えられてきたことと、自分の目で確かめたことには違いがあるかもしれないぞ」というのが、まさにメディア・リテラシーというものの考え方なんですね。

 たとえば、「誰が」「どのように」情報を伝えているかということを一つとっても、多くの市民は知らされていないはずです。

 ふだん見ている雑誌・新聞の記事、テレビやラジオの番組を、誰がどのように作っているか、具体的にイメージできますか?

 これは、マスコミの仕事を10年以上していないと、ちゃんと説明することはできないでしょう。

 それらは、その新聞社やテレビ局といった社内の正社員が承認した企画を社外の制作プロダクションやフリーのスタッフが下請けとして制作することが多いんですね。

 しかし、一つの番組内容や新たな新聞記事が作られる際に真っ先に考えられていることは、その番組や記事を制作するコスト(経費)です。

 特定の事実を取材するには、取材するスタッフの人件費がかかりますし、交通費や飲食費、宿泊費、資料代などの細々とした経費もかかります。

 こうしたコストを支払ってもなお利益を出さないと、メディアの仕事はビジネスとして成り立たず、持続不可能になってしまいます。

 それゆえに、あらかじめそうしたコストを補填して余りあるだけのお金を調達するっ必要があり、そのためにスポンサー(広告主)を募り、TVCMや紙面での広告スペースを設けて、広告媒体料金をスポンサーの企業や団体から受け取るわけです。

 新しい雑誌を創刊するような場合は、当然、最初に広告ページのページ数を先に決めて、スポンサーが支払う額面(=ページ単価)を決め、そこに広告費を出してくれるスポンサー(=出稿先)を探すことになるわけです。

 社内の編集会議で、たとえば「新・常識マガジン」というコンセプトが決まると、それに見合ったスポンサーを探し、そういうコンセプトに沿った記事の企画を考えるようになるわけです。

 ところが、編集会議では、「新・常識として考えられるような現実があったらいいよね」という抽象的で骨太な方針だけが決まるのであって、その方針を裏付ける具体的な事実や取材先が決まっているわけではありません。

 そこで、そのコンセプトに合うような事例(=ネタ)を外注のライターたちに探させます。

 フリーのライターは、自分の収入になる仕事が欲しいので、コンセプトに合う記事を夢中で探します。

 新聞社やテレビ局などの正社員であれば、ネタが探す能力なくても毎月、固定給をもらえます。

 しかし、自営業者であるフリーライターは、自分がネタを探せなければ、記事を書けないため、ギャラが出ません。

 ですから、社内の編集者たちがデスクワークでひねり出した妄想に限りなく近い現実を血眼になって集めてくるのです。

 これは言わば、無茶振りです。

 現実の裏付けがなくても、そうした妄想を面白いと編集者が思っている以上、多くの外注のライターは「そんな妄想は勘弁してくれよ」とは思いません。

 たとえば、特集記事で「お金をまったく使わないすごい人々」みたいな魔法遣いのような人間を集めてこいと言われても、とにかく締め切り日までに集めるわけです。

 これは、社内ではコンテンツが作れず、社外のスタッフの存在なしには記事や番組が作れないということを意味しています。

 妄想に見合った現実を探す能力は、「それを見つけることなしには食えない」という切実さで毎日動いている外注スタッフにしか無いのですから。

 ですから、「14歳の少年が殺人を犯した」などという第一報が編集部に入った時などは、編集者はライターに頼んでその少年の写真を調達します。

 実際、週刊誌のライターなら、少年の卒業した学校関係者から卒業写真をもらうとか、少年の友人・知人筋から携帯カメラの画像を買うなどして、とにかく1両日中にそうした画像を集めてしまうのです。

 それだけフリーライターにはリサーチ能力が問われ、実際にリサーチ能力を身につけているライターならメディア業界で生き残れるわけですが、こういうコンテンツの作られた方が延々と今日まで続けられていること自体、メディア・リテラシー教育が浸透していない証拠なのかもしれません。

(つづく)

番外編☆後期ゼミ・レギュラー参加生、受付中![2007年11月02日(金) ]

 今年(2007年)4月から、東大(駒場キャンパス)で毎週、自主ゼミ「オルタナティヴ・スタディーズ 〜自分を知るための当事者学」が始まりました。

 講師を担当する僕自身、自身の進路の選択の間違いから、大学を3か月で自主退学した者ですし、そもそも一人の先生が一方的に話す講義を毎週1年間も黙って聞き続けること自体に僕自身が魅力を感じませんでした。

 そのため、この自主ゼミでは、僕がファシリテーター(司会者)として毎度「ゲスト講師」を紹介し、大学では教わらない社会的な問題、それ も解決が遠ざけられているマイノリティ(少数派)の問題を優先的にテーマに掲げ、その問題解決に従事している「当事者」の方々の声を学生に届けることにしました。

 そうすることで、 世の中が今どうなっているのか、目の前に横たわる問題に対して自分にできることは何かを考える機会を学生や一般の方に提供・共有したいと考えました。

 ですから、テーマは毎週違うのですが、必ず「当事者」の方をお招きし、受講者自身もその時のテーマにおける「当事者」として向き合う構えを学んでいただきたいですし、僕自身も受講者と同様に自分自身が「当事者」として関心を抱けるポイントを探っていきたいと考えています。

 現実の問題につきまとう無関心という厄介な問題も、自分がそれに興味を持てるポイントを発見し、どんなことも自分の生活とつながっているのだという視点を発見するだけでも、このゼミには価値があると考えています。

 つまり、知識をただ頭にインプットするための勉強ではなく、次のアクションのための「知恵」を共有しようというのが狙いなのです。

 そこで、前半45分はゲスト講師にご自身の活動やテーマについて話していただき、後半45分はゼミ生(レギュラーゼミ生20名)を交えて、各自に自分の今すぐできること、関心を抱けたポイント、発展的なアイデアなどの意見交換や議論を行います。

 この討議は、ゲスト講師の話を受けて、ゼミ生がそのテーマにおける自らの当事者性を発見するためのものです。

 たとえば、討議では貧しい人を目前にした時に自分に何ができるのかを語ってもらってもいいでしょうし、ゲスト講師の活動について自分が具体的に支援できることを各自ゼミ生に発言してもらってもいいかもしれません。

 20歳そこそこの学生が多く、これから本郷で専門的な研究をしていく卵たちなのですが、僕は社会人の論理で講義をし、彼らと接しています。

 このゼミでは「まだ学生だから世の中のことはわからない」という言い訳は通用せず、ゲスト講師の方からもぜひ容赦なく、突っ込んでいただければ、面白くなると思っています。

 前期では、こんなプログラムとゲスト講師が組まれました。
(以下は、随時このブログで講義内容のダイジェスト版を報告していきます)


【前期ゼミ内容】

★第1回□「『私』を知るオルタナティヴ・スタディーズとは何か」
 今一生(以下、ゲスト講師)
★第2回□ 「『私』を生きる、という困難を超えるために」
 with石井政之(ジャーナリスト。合同会社「ユニークフェイス」代表)
★第3回□「ネオニートはなぜ親より稼げるのか」
 with矢代竜也(有限会社「ネットサプライ」代表。月収300万男)
★第4回□ 「ゲストハウスの可能性 〜人生をシェアする」
 with山中武志(業界最大手の「株式会社オークハウス」代表取締役)
★第5回□ 「演出されるメディア」
 withわたなべけんいち(映像ディレクター。株式会社「nabex」代表)
★第6回□「SNS開発の裏側で」
 with横濱悠平(株式会社「ローハイド」CEO)
★第7回□「人を幸せにして稼ぐソーシャル・ベンチャーの現在」
 with山本繁(NPO「コトバノアトリエ」代表理事)
★第8回□「ナーシング・フリーダム 〜私と子ども、どっちも大事」
 with光畑由佳(授乳服の製造・販売「mo-house」代表)&杉山貴子(同スタッフ)
★第9回□「『私』という性(さが) 〜居場所がないという安心」
 with今多千絵(フリーライター)
★第10回□「心の病は不幸か?/ひきこもりからの脱出体験」
 with月乃光司(「こわれものの祭典」代表)&市野善也(ひきこもり経験者)
★第11回□「『私の人生』は『私』らしいか? /自分史持ち寄りディベート」
 withレギュラーゼミ生全員
★第12回□「分散恋愛とフレンド・セックス 〜人格から関係へ」
 with新崎もも(作家。『分散恋愛』著者)


 既に始まっている後期ゼミのプログラムは、下記の通り(※10月28日時点)。

【後期ゼミ内容】

★第1回10/15(月)□「中卒からのハローワーク」  ※終了
 with澤田晃宏(『SPA!』編集者&ライター)
★第2回10/23(火)□「身体障害者の生活と性」 ※終了
 with熊篠慶彦(バリアフリー・アドバイザー。NPO「ノワール」代表)
★第3回10/29(月)□「ソーシャルベンチャーとプライドワーク」 ※終了
  with今一生(フリーライター。『プライドワーク』著者)
☆第4回11/05(月)□「触れる美術 〜批評の現在」
 with樋口ヒロユキ(美術評論家。『死想の血統 〜ゴシック・ロリータの系譜学』著者)
☆第5回11/12(月)□ ※現在、ブッキング中
  with ゲスト打診中
☆第6回11/19(月)□「女性は困ったことを事業化する」
 with奥谷京子(ソーシャルベンチャー「WWB/ジャパン」代表) 
☆第7回12/03(月)□※現在、ブッキング中
  with ゲスト打診中
☆第8回12/10(月)□「ネット売買で気軽に社会貢献」
 with関根健次(「ユナイテッドピープル」代表)
☆第9回12/17(月)□「16歳からの起業」
 with本部えりか(株式会社ドゥーイットCEO)
☆第10回01/07(月)□「ビジネスの手法による地域再生」
 with筒井啓介(LET’Sきさらづ代表)
☆第11回01/15(火)□ ※現在、ブッキング中
  with ゲスト打診中
☆第12回01/21(月)□「振動力発電の将来性」
 with速水浩平(音力発電)
☆第13回01/28(月)□「ソーシャル・ビジネスのシミュレーション」
 with任意のレギュラーゼミ生2名による40分発表×2 ※日程変更有



○基本的に、ゼミの時間帯は午後4時20分〜5時50分の90分です。

○月曜日の教室は東京大学駒場キャンパス(駒場東大前駅下車)の1号館2階の163教室ですが、火曜日は随時変わりますので、事前にコミュでチェックしてください。
 以下は教室マップへのリンクです。
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam02_01_01_j.html

○13回の日程すべてに参加できる方のみ、レギュラー生(※議論&質問が可能)として参加します。
 レギュラー生以外は、ビジター生(※質問&議論への参加が不可能なオブザーバ)となり、レギュラー生の外側の席があてがわれます。

 現在、レギュラー枠には3名の空きがありますが、先着順で埋まります。
 埋まらない場合、当日に出席したビジター生から先着順でレギュラー枠内に入ることを申し出ることもできます。

○受講希望者は東大生を中心に呼びかけていますが、東大生しか受講できないのではなく、一般の方も無料で受講できるようにしています。

 mixiのコミュ「conゼミ@東大」で受講希望者に対して事前予告をし、参加希望者からの予約を受け付けています。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=2040296

 これから受講したい方は、上記のmixiコミュに参加してください。

 mixiに参加していない方で、mixiに入りたい方は、僕(今一生)の公式サイトからメールをくだされば、mixiにお誘いします。

今一生の公式サイト
http://www.createmedia.co.jp

 東大生でなくても構いませんし、1回限りの参加(=ビジター生)も歓迎しています。
 ぜひ、お気軽にmixiコミュから参加予約してください。
 (※18歳未満の方はmixiに参加できませんので、メールでご相談ください)
 
 なお、後期ゼミでは、ソーシャルベンチャーを中心にプログラムを組んでいます。
 これから参加される方は、拙著『プライドワーク』(春秋社)を儀お購読の上、参加予約をしてください。

●amzonで今すぐどうぞ!
http://astore.amazon.co.jp/con-isshow-book-22

●関連イベント
http://mixi.jp/view_event.pl?id=24403311&comment_count=0&comm_id=3755