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さて、旅館・吉田屋は、「東京からJRで一番遠い温泉街」と言われています。
Yahoo!路線情報で調べてみると、こんな感じです。
東京→浜松町→羽田空港第1ビル→東京国際空港(羽田空港)→出雲空港→JR出雲市駅前(バス乗り場)→出雲市→温泉津
往路だけで4時間14分、交通運賃は片道33,170円もかかります。
飛行機・高速バス・電車を乗り継いでやっとたどりつく「東京から一番遠い温泉街」にある旅館なのに、自腹で東京から学びに来る若手の中央官僚や外国人客も増え、2007年は前年度比2.4倍の売り上げになったそうです。
食糧自給率39%の日本で、吉田屋は65%。
前述した通り、生産農家と直接売買するなど吉田屋ならではの工夫と知恵によって、この数字が実現されており、その魅力に人が全国から集まってくるのでしょう。
田舎に若い力を注ぎ、経済的に自立する知恵をみんなで絞り出せば、世界は変わります。
そんな辺境の土地から山根さんは、この東大自主ゼミにお越しくださいました。
山根さんは疲れるどころか、呼ばれて振り向くといつも笑顔です。
ファミレスもコンビニも無いこの町にまだまだ大きな可能性を感じて、いつもワクワクしてるからでしょう。
一度、吉田屋を訪れてみてください。
●吉田屋
http://www.lets.gr.jp/yoshidaya/
●山根多恵さんのブログ
http://blog.goo.ne.jp/lets_yoshidaya/
●日経BPネット対談:人のために働く「社会起業」を考える1
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/cover/socialentre/080109_1st/
●日経BPネット対談:人のために働く「社会起業」を考える2
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/cover/socialentre/080111_2nd/
●ソーシャルベンチャー 〜もっといい世の中を作ろう!
http://gogo-socialventure.blogspot.com/
●講談社MOURA「社会問題を、ビジネスの手法を用いて解決!」
http://mopix.moura.jp/?p=328
●読売新聞 地域 島根「ここから羽ばたく島根のひよこたち」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shimane/kikaku/037/2.htm
●浜村建設PRESENTS だんだん倶楽部
http://www.dandanclub.jp/cgi-bin/shopping/tmcom3cart1-dandanclub.cgi?mode=disp&sydata1=2007090611480012480
「島根は、過疎や高齢化、伝統ある仕事の後継者不足など日本が抱えるあらゆる課題の先進地。ここで問題を解決した成功例は、全国そして世界のモデルになるはず」
山根さんは、コミュニティ・ビジネスを手掛ける醍醐味をそう説明しました。
どんな田舎でも、そこにある問題を一つ一つ解決していければ、その方法を共有できるほかの地方にも応用することができます。
そのためには問題解決に取り組む方法ばかりでなく、そこに携わり続ける人材の確保も必要であり、それはより若い世代に役目を引き継ぐことを意味します。
山根さんも、2007年秋の段階から若女将の座を後進の現役女子大生・三原綾子(22歳)に譲りました。
週刊誌『読売ウィークリー』で彼女を取材したフリーライターの遠藤一さんは、こう書いています。
「三原は若女将を引き継ぎ、スタッフ総出で遊休農地を利用して収穫の比較的簡単なブルーベリーを栽培し、高齢者や障害者が働ける環境を作ったり、世界遺産に登録された石見銀山近辺の竹の伐採を行うなど、若い力を地域再生に活かしている。
そんな三原も、島根県立大学に進学し、2007年夏には東京で就職活動をしていた。数社も内定したが、地元に残ることを決めた。
『東京で学ぶより、地元で挑戦したい。地域の人は私を支えてくれると思う』
吉田屋には、全国から多くのインターン希望者が続々と集まっている。彼らを「修行」させながら将来の地域のリーダーに育てるのも吉田屋の役割だ。
『みんな居場所を探しています。なら自分で作れといいたい。私も代わりなんていくらでもいると大組織の中で言われたくないから、ここで活動しているのかも』
三原は『農家での宿泊体験』という新しい観光旅行のプランも進めており、集荷のついでに生産農家に提案している。そんな彼女に生産者の顔も自然にほころぶ」
(『読売ウィークリー』2008.2.3号新就職先「ソーシャルベンチャー」って何?)
僕自身も2007年12月に吉田屋を若者雑誌の取材で訪れました。
和風の客室で夕食を待ってると、配膳と同時にお品書きが渡されました。
そこには「美千代さんのいんげん」といった具合に、食材提供者の農家の名前と似顔絵イラストがありました。
吉田屋の若いスタッフたちが地元の農家さんと一緒に地域活性をしていきたいという思いが伝わると同時に、顔の見える食材としての安全さも同時に伝える素敵な試みだと感じました。
朝食には発展途上国からフェアトレードで買い付けたコーヒーが出されました。
フェアトレードと呼ばれる貿易活動は、世界の南北間にある経済格差問題の解決を目指し、1960年代にヨーロッパで始まった世界的な活動です。
吉田屋の仲間である東京の株式会社プレス・オルターナティブの「第3世界ショップ」では1986年からこの活動を始め、現在はフェアトレードをベースに、コミュニティ・トレードを推進しています。
コミュニティ・トレードとは、地域の問題解決に役立つビジネスと、そこから生まれる商品やサービスの交流、流通のかたちを意味します。
たとえば、アジアや南米にはいくら農作物を生産しても安い賃金で貧困を余儀なくされている農民がいます。そこで、生産農家と直接契約して、国際市場価格よりも高い値段で農作物を買い取ることで現地の農民の暮らしを向上させると同時に、生産者の顔の見える安全な食材を確保するという試みを意味します。
お金のある国の民がこのようにトレード(商品の売買)をすれば、現地での雇用や経済的自立を促進し、貧困という問題を解決することに貢献できます。
ただエスニックな食材を得る楽しみだけではなく、いつも飲むコーヒー1杯をフェアトレード商品に変えるだけで世界の貧困の解決にお手伝いできるのですから、これは消費者による貧困救済運動ということができますし、そういう経済活動の仕組みを作ることが、コミュニティ・ビジネスがソーシャルベンチャー(社会的企業活動)であるゆえんなんですね。
「若女将塾」と称して「田舎の旅館を拠点に地域の問題を解決しよう」と呼びかけると、春には女将志望の女性が東京の仕事を辞め、修業のためにやってきました。
大学生や社会人も続々と訪れ、山根さんが女将に就任した後から1年間で全国から約100人のインターン(※就業体験のためにスタッフになる無給のお手伝い)が集まってきたのです。
こうして週休4日を始める頃には、「もったいない運送」の試みが始まりました。
きっかけは、隣県の知り合いから「夏ミカンの収穫をする人手が足りず、出荷できずに腐りそうだ」との連絡を受けたこと。
そこで山根さんは旅館スタッフと現地に出向いて収穫を手伝い、ミカンを旅館の風呂に浮かべてみたところ、旅客たちから大好評を得たんですね。
これを機に、形の悪さや大きさ、傷の多さで「規格外」と判断されて買い取られずに捨てられている農作物を生産農家から直接買って再利用することも始めたんです。
煮たり、揚げたり、出汁(だし)を取ったり、小さく切って使えば、規格外でも味は変わりません。
「規格外の野菜を売るのは恥だ」と渋る農家と1か月ほど粘り強く交渉し、「値段をつけてほしい」と頼んでみました。
しかし、そんな経験がなかった農家は、自分で額面をなかなか決められなかったのです。
山根さんは規格内の野菜の一割高で買い取るところから始め、旅館の食材として使ったり、社会教育施設の給食用に販売を始めました。
やがて買い取り額は月20〜30万円に上り、農家の新たな収入源に育て上げることに成功。
今後はそうした規格外の野菜を加工する工場も設ける予定だそうです。
この成功によって、「もったいない運送」は農作物以外にも波及しました。
「引っ越しの時には、家具や家電など不要品が出ることが多いでしょ。
その人にとっては不要なものでも、他の人には必要なものがもっとあるはず。
そこでブログで不用品の募集を始めたんです」
車の提供や運び手はボランティア、ガソリン代はもらい手に負担にしてもらう形で、今では県内だけでなく、山口、福岡など10箇所の拠点で再利用候補品の回収が行われ、毎週トラック1台分が県内外に運ばれているほか、「もったいない運送」は新語としてYahoo! Japan辞書に登録されました。
また、人手不足の農家の持つ休耕地に農作業に出向く援農隊「NOLO耕作隊」を結成・組織し、農業を営む農家25件を訪ね、農作業体験&農業事情を記事にする取材を行うと、農林水産省の「農村コミュニティ再生・活性化事業」に採択されました。
さらに、世界遺産に登録されて観光の目玉になっている地元の石見銀山遺跡の付近で生い茂る竹に困っている人のために、伐採から運搬、加工、流通までの過程の流れ作りを作ろうと、一口10万円の「竹やぶSOS基金」を設立。
こうした活動を地元の方に知ってもらおうと、廃材にされたレンガと伐採した竹の炭で火をおこし、規格外の野菜で作ったピザを実演販売するイベントも開きました。
普通の発想なら邪魔者扱いされるものばかり集めても、素敵な野外ピザ・パーティはできるわけです。
それは、山根さんがコミュニティ・ビジネスに賭ける思いをどこか象徴しているようですね。
島根県大田市に、1300年の歴史を誇る温泉街・温泉津(ゆのつ)があります。
2007年11月、その通りに面した明治創業の老舗旅館「吉田屋」を訪れると、20代の若者たちが笑顔で出迎えてくれました。
65歳以上のおじいちゃん、おばあちゃんが2人に1人もいる高齢化率42%のこの町では、一見とまどってしまうほどのパワーみなぎる面々です。
玄関に入るとすぐ目の前にある机には、にんじんや大根、株やきゅうりなど、収穫されたばかりの野菜が値札を貼られて並んでいました。
これも旅館には珍しい光景でしょう。
彼らを率いる山根多恵さん(26歳)は、2006年1月に24歳の若さでここの若女将(おかみ)に就任しました。
旅館経営などまったく未経験のド素人でした。
「どうせゼロからのスタート。失うモノは何もない。
常識にとらわれず、やりたい事ができる場所を作ろう。
『旅館の女将はもてなしの心こそ命』みたいな昔風の価値観に縛られたりするのは納得がいかない」
地元紙にそう書いた彼女は、館内に無線LANを引き、インターネット予約を受け付けるホームページを開設し、ブログやメールマガジン、ミニコミなどで毎日の仕事の面白さを伝えました。
朝6時に起き、朝食を作り、8時にはすべての客室に配膳し、10時にチェックアウトを見送ってからは客室の掃除。
午後3時には新たな客を迎え、品数の多い夕食を作り、片づけを済ませてお風呂に入り、さまざまな事務・連絡を済ませると、寝るのは夜12時過ぎ。
分刻みの慌ただしい生活です。
そんな慌ただしい中でまめに情報発信を続けると、ユニークな旅館再生のあり方に関心を持ったマスコミから取材が殺到。
こうして宣伝費0円で集客する一方、手数料が客単価に響く旅行代理店との契約を断り、温泉旅館なのに泉源の栓を閉め、自前のみかん風呂にして徹底的に温泉の維持費などのコストを下げたのです(その代り、近所の元湯の温泉に入れる無料券を客に配ることに)。
すると、就任から半年で1年分の売り上げ目標を達成してしまったのです。
そこで仲間から「売り上げ倍増より地域のために時間を使いたい」という声が出ました。
同年7月、吉田屋は金・土・日しか営業しない週休4日にふみきり、その4日間を地域の課題を見つけて解決の道筋を探る「地域貢献日」にすることを決めたのでした。
温泉津で女将を始める前から、山根さんには自分たちが豊かに生きていける可能性をハンデの多い辺境の町で模索し、実際にできることを世界に発信していきたいという思いがあったといいます。
山口県下松市のサラリーマン家庭で生まれ育った彼女は、地元の山口大在学中にカナダに留学。
しかし、1年後に帰国すると、同級生たちの様変わりにガク然としました。
「生き生きと将来の夢を語っていたのに『親の言う通りに地元に残る』なんて、淡々と話していた。自分もああなるのかなって……」と、読売新聞の取材に答えています。
その頃、市民バンク代表・片岡勝さんの授業をきっかけにベンチャービジネス論に興味を持った彼女は、山口や大阪で起業支援の活動に参加し、温泉津のある大田市で始まった厚生労働省の雇用促進事業に加わると、地元の商工会から老舗旅館が後継者不在の悩みを抱えていると伝え聞いたのです。
経済産業省でも、地域資源を活かしながら地域課題の解決をビジネスの手法で取り組み、地域の人材やノウハウ、施設、資金を活用することで、地域における新たな創業や雇用の創出、働きがい、生きがいを生み出し、地域コミュニティの活性化に寄与する「コミュニティ・ビジネス」の促進・普及が目指されていました。
そんなコミュニティ・ビジネスを教えてくれた恩師から、山根さんは誘われたのです。
「温泉津で旅館の女将をやらないか」
そして、後継者のなかった吉田屋を訪れ、先代の指導の下で約1か月修行し、世襲という慣例を塗り替えたのでした。
2006年の頃から百貨店でも授乳服の取扱いが少しずつ始まり、翌2007年に地元・つくばの西武でも始まると、モーハウスでは当然のように子連れ出勤を始めました。
「モーハウスには社員、子連れスタッフ、ボランティアスタッフ、そしてパートスタッフがいます。
ふだんはそんな区別をせず、45人全員を『スタッフ』と呼んでます。
ほとんどが0歳〜5歳の子の母親で、半数近くは職場で子どもと一緒に仕事をしてます。
朝出社してきて夕方まで働き、場合によっては残業する社員たちは今のところみんな独身。
それからママスタッフとして子連れで短時間働く人。
それから『モーハウスに興味はあるけど、仕事ではなく趣味で関わりたい』というボランティアスタッフ。
そして、最もたくさんいるのがパートスタッフです。
彼女たちなくしてモーハウスの仕事は成り立ちません。
ほとんどは幼稚園、小学校や学童保育、保育所などに子どもを預けて朝10時から昼3時頃まで働いてますが、子どもの参観日や運動会、病気の際は気兼ねなく休めますし、場合によっては子どもを連れてくることもできます」
こうしたママさんたちが、赤ちゃんや幼児の子どもを胸に抱いたまま電話を受けたり、ネットからの注文に応えたり、商品の発送準備をしたり、カタログを送ったりしているわけです。
「小さな会社ですし、『一人一人の力も小さくてもいいよ』という主義でやってきています。
できるだけ無駄な労力は使いたくないので、目標ありきではなく、流れに沿っての目標設定が必要。
あまりに力が入ってないのは、その時の流れに合わせた活動をしているからかも。
授乳ショーもファッション・ショーも流れに任せた結果、実現できたんじゃないかな。
自分に無理を強いながら仕事一筋で働くか、仕事をあきらめて育児をするかの二者択一じゃない、その間の働き方を提案したいのです。
なので、『人を仕事に当てはめるのではなく、その人に合わせた仕事を作りたい』とよく言ってます。
ピンチをプラスに変えよう。
それが私の方針。
最初のモーハウスサークルができたきっかけも、そんな方針からでした。
月1回自宅を開放したり、町内の集会所などを借りては集まり、専門知識が必要な時にはモーハウスの助産婦が支援します。
商品の委託を受けたサークル主催者には、販売を通じて活動資金を作れるようにしたいです」
今日でも、モーハウスサークルは、服を試着できたり、授乳中のママたちがお互いに悩みを話し合える場として増殖中です。
(北海道から沖縄まで全国52ヶ所。2007年7月現在)
2006年10月、モネット有限会社は経済産業省から「IT経営百選」の最優秀企業に選ばれました。
子育て中の母親のストレスを軽減し、女性として充実した生活をしてもらうことを目指して、ユーザーである母親から直接ニーズをくみ取った製品を開発するとともに、メーリングリストによって子連れで働く母親どうしが仕事のスケジュール調整を行う「モーハウス型ワークスタイル」を作り上げたことが評価されたのです。
「母乳を与え始める時期から女性は障害者みたいに世間から虐げられて疎外されます。
本人も上手く社会とつながっていかないんですね。
だから、授乳期間中のライフステージを上手く利用できるライフスタイルを提案してきたんです」
モーハウスの活動を始めて2007年で早10年。
光畑さんは、母親たちを支援してきた手応えを感じています。
青山ショップでは月2回程度イベントも催され、ママさんどうしの楽しみを提供しています。
新潟の地震被災地には服やブラを送り、パパの育児をテーマにした集まりや母乳体験エッセイのコンテストも行いました。
「学校」を作る動きすらあるようです。
スタッフの杉山さんが、こんなことを言っていました。
「いつか子どもができたら、子連れ出勤で何ヶ月間かモーハウスに関われたらいいなと思ってるんです。
そうなるとモーハウスってある種の通過点なのかな。
自分でも何かできないか、ぼんやり考えたりしますもん。
なにか面白いことができそうで」
以上は、拙著『プライドワーク/自分をつくる働き方』(春秋社)からのダイジェスト版です。
東大自主ゼミでは、光畑さんと杉山さんの両名をお招きし、もっと豊かな話をしていただきましたが、それは受講できた人だけのお楽しみとしておきましょう。
なお、東大自主ゼミは、2008年春からも継続して行う予定です。
ソーシャルベンチャーに特化した内容になるかもしれませんが、起業意欲のある方なら誰でも受講できますので、お気軽に下記までお問い合わせください。
●東大自主ゼミ(conゼミ@東大)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=2040296
(※上記リンクのSNS「mixi」は18歳以上の方しか参加できませんが、自主ゼミは東大生以外でも18歳未満でも参加できます)
●ソーシャル・ベンチャー 〜もっといい世の中を作ろう!
http://gogo-socialventure.blogspot.com/
●『プライドワーク』をamazonで買う
http://astore.amazon.co.jp/con-isshow-book-22
杉山さんがモーハウスに入社してから、たった3ヶ月後の6月。
彼女は、名古屋で行われた愛・地球博でモーハウスのトークイベントの仕切りをいきなり任されることになりました。
「大変だった? いや、別に。やるしかなかった(笑)。
授乳ショーに出演してくれる人を募って当日の手配をして…。
『ほんとに出演者が来てくれるの?』とか、まったく不安がなかったわけではないんですが、そういうことを働いて間もない私にやらせてくれる環境がものすごくありがたかった。
他の会社ではありえないこと。
ここまで任せてくれてくれたんだから、すごい頑張ろうと思ったんですよ」
しかも、光畑さんは毎度、「杉山さん、仕切りやってくれる」「はあ? はい」といった調子で、細かい指示がないんだそうです。
「初めて授乳ショーを観た時に、『これ、大学の学園祭でやりませんか?』と言ったら、『いいじゃない、やったら?』って感じで平気で無茶振りする(笑)。
常に自分で考えて動かないといけないから、いつの間にかそういうこともできるようになっていったんです。
知らず知らずのうちに成長させてもらいました。
新卒を面接して雇うのも私が窓口で、人事もやってるんですよ。
ありえないですよね、1年目で人事ですよ。
そういうのも楽しくてしかたがない」
このように仕事をしていると、杉山さんの中で変化が起きてきたそうです。
「仕事を通じて変わってきたのは、私は子育てしている人たちを『退屈そう』とかすごい偏見の目で見ていたんだなって気づいたこと。
私みたいな思いをしてきた子たちに対して、私が持っていたような偏見を取っ払えるようにできたらいいなって思えるようになった。
ママさんたちは思った以上に仕事ができる人がいて、憧れです。
子育て中の女性に対する見方を変えてくれる人たちに出会えるのが楽しい。
だから、女性に生まれたことを、自分を、すごく誇りに思いました。
『知ってしまったからには女であることを満喫しなければ!』という妙な使命感にかられている毎日です(笑)」
一方、モーハウスは、2005年10月に初めてのショップを東京・青山にオープンしました。
光畑さんは、その当時の思いをこう話してくれました。
「家賃を日割りにした分くらいは売っていけるだろうか、とまず考えました。
諸経費を別に考えれば約3万円。
ライブハウス経営の経験者に聞くと、『そのくらい何とかなるんじゃない』とおっしゃる。
自宅でのオープンハウスでさえ、日によってはママたちの異業種交流の場になっていました。
これを青山に持っていけば、さらにいろんな方たちと交流ができて何か面白いことが起こるかも。
最終的に出店を決めたのは、その魅力に抗しかねたからです。
売上を伸ばそうということはあまり考えていませんでした。
誰でも服の質感を味わえる場を作ること。
お母さんたちに安心して遊びに来てもらえるハレの場を作ること。
子連れで働く場を作ること。
ショップに期待するものはそんなものでした」
このように、赤字にならない程度の仕組みは考えながらも、社会にとって必要なインフラを整備することを優先的に課題にする構えこそ、ソーシャルベンチャー(社会起業家)特有のあり方と言えるでしょう。
授乳服の製造・販売を通じて女性の自由を一つずつ実現してきたモーハウスは、「母親」になった後から起こりうる問題に、敏感に反応してきたのです。
実際、出産直後から何をするにも赤ちゃん中心で動き、忙しさの中で自分にとって気持ち良いことや自分らしい暮らし方を忘れてしまう人は珍しくありません。
また、母親になった途端、出産前には当たり前だった友人との交際や趣味に没頭する時間も捨てなきゃいけないような気持ちにもなりがちなのです。
そんな女性たちに、モーハウスはオープンハウスやイベント、授乳服を通じて「なんとかなるわよ」とゆるく訴えかけてきました。
その大らかな構えが「授乳以後」というライフステージにおける新しい選択肢になることを、当事者のママさんたちは自然に感じとってきたのでしょう。
しかし、女性には、まだまだ明るみにされない可能性が眠っています。
その一つが子連れ出勤です。
(つづく)
杉山さんは、大学を卒業する2005年3月からモーハウスで仕事を始めました。
もっとも、ほとんど大学には顔を見せず、時間を見つけてはバイトばかりしていたといいます。
彼女は、その頃を思い出して、こう言いました。
「一つのところに固定でいるのが苦手で、あっち行ったりこっち行ったりするのが好きで、いろんなところで知り合いがほしかったので、派遣で登録していました。
一日3箇所回ったり、かなり無謀な稼ぎ方をしていたことも。
バイトは本当にあらゆることをしてきたっていう自信はあります。
やりたい仕事の面接に行って落ちたことないんです。
ふらっと鮨屋に入って、『今日から働かせてもらえませんか?』って言っても即採用。
実家にお金入れてるわけじゃなかったから、遊ぶお金にも不自由しない生活でしたが、お金がほしいわけじゃなかったんです。
働くのが楽しかったから。
何よりも年齢、職業もいろいろな友達ができて、すごくいい社会勉強になったし、いろいろな環境の中で『働く』ということが、とっても楽しかった」
家や学校ではない場所にいるさまざまな人間。
その数だけあるさまざまな人生。
幼稚園の頃から習い事や塾で放課後が全部埋まっていた杉山さんにとって、バイト先の職場は、学校的な価値観(進学→就職→結婚という直線的で画一的なレール)とは異なる人生にたくさん触れられる場所だったのでしょう。
「でも、興味のある授業だけはしっかり出ていました。
好きなものにはわりと没頭できるタイプなんですよ。
それはジェンダー論とボランティア論。
どちらも私に疑問を残してくれる授業で、とくにボランティア論では、無償でさまざまな社会活動をしている人たちの心理に興味がわきました。
働いた分だけお金がもらえて、社会のことなど何も気にせず楽しく生活をしている自分が急に恥ずかしく思えて、『無償で社会貢献している人や活動にこそお金は使われるべき!』と強く感じました」
卒業が近づき、就職を真剣に考え始めると、「これといった取り柄はないし、このまま行くと本当にうんざりするような毎日だな…と一種の鬱状態」に陥り、就職活動らしいことは一切しませんでした。
悶々としていると、ゼミの先生がA4一枚の紙をくれたそうです。
それが、モーハウスの会社概要でした。
「社員がいないってところにものすごく興味があった。
まっさらなところに飛び込むような気がして。
子ども連れで働いてる育児中のお母さんたちだけのところに(ただ一人独身の)自分が飛び込むことで何かが起こるんじゃないかなーって。
そこに自分が働く意味を見出せるかなと思ったんです。
私の知らない世界、私が見たくなかった世界、想像できない世界が会社になってて、『なんだこれ?』って驚いたし、すごい楽しそうと思っちゃって、そういうとこなら就職してみたいなと」
杉山さんにとって、平然と授乳服の胸に赤ちゃんを抱いた女性たちどうしが打ち合わせをしたり、そのそばで小さな子どもたちがのこのこ歩き回る様子は、まるでカンガルーしかいない動物園に放り込まれたぐらいのショックだったのかもしれません。
「女性であることをすごく損だと思ってきた私にとって、モーハウスとの出会いは先生が与えてくれたチャンスでした」
なぜ女性であることを「すごく損だ」と思ったの?
「私の母親は普通の専業主婦で家にいることが多く、父親は仕事でまったく家にいないことが多かったんです。
当たり前のように毎日家事をする母親と、それを手伝おうともしない父親。
母親がカリスマ主婦とかで主婦であることに楽しみを見出しているようであれば違ったのかもしれないけど、そんなはずもなく、楽しんでる様子はなくて、つまらなさそうだった。
だから、女らしい人生に良いイメージが全然なかったんですよ。
今でも母はときどき懐かしむように学生時代の一人暮らしの話をしたがる。
可哀そうになって変な同情もしましたが、私は結婚して、子育てして、あっという間に年老いてしまうのは絶対に嫌だった。
結婚しても子どもを生んでも外に出ていたい、働いていたいと自然に思うようになってて…。
それが難しいことだと悟ってからは、結婚にはまったく興味がなくなった。
当時付き合っていた人から『結婚』が匂うだけで拒否反応」
女の子なんだからこうしなさい、とかが嫌だった?
「それが大嫌いだった。
仕事を一生懸命やりたいと思ってるのに、彼氏とつき合っていく中で『女なんだから…』とかポッと言われるだけで『もうやだ!』って。
『じゃあ、私は何なの?』って。
『女だから』って言われるのが泣けるくらい悔しかったんですね。
モーハウスに入って、授乳服を使って母乳育児をしながら仕事してる女性の姿に驚きました。
むしろ感動した。
何よりも楽しそうだった」
(つづく)
翌1999年秋、光畑さんは雑誌を一緒に出していた友人と一緒に地元のつくばでもイベントをやろうと思い立ち、「いいお産の日INつくば」として会場の一角に「お産・おっぱいエリア」を作りました。
エリアの中では赤ちゃんの体重測定や相談会などを開きたいと考え、助産師と、長女を出産したときにお世話になった助産師に恐る恐る電話でオファーすると、二人とも快諾してくれました。
また、体育館を借りて、東京の「いいお産の日」で見てきた出産のお芝居をしたり、授乳服を着た母親たちが赤ちゃんに授乳しているところを観客に見てもらいました。
それぞれに「出産ショー」「授乳ショー」というタイトルをつけ、助産師さんの解説付きで行ったところ、雨の日だったのに会場は満員の来場者でにぎわったのです。
この成功を機に、その後、お産とおっぱいの一連のイベントはモーハウスとして独立して企画・運営していくようになりました。
そして、モーハウスの活動を始めてから5年目の2002年の11月27日、光畑さんはこの活動団体を「モネット」という法人名で有限会社として登記したのです。
「私にとっての授乳服作りは、それまで私が関わっているいくつかのうちの一つでしかありませんでした。
仕事も授乳服の製作一筋ではなく、雑誌の製作も建築への関わりも続けていました。
今は子どもが小さいからお産やおっぱいの面白さにはまっているけれど、いつまで続くかわからない。
いつかは服作りをやめて、好きな本作りや美術系の仕事を始めるんじゃないか。
そんなふうに思っていたんです。
それがだんだんと変わってきたのは、確実に授乳服を使う人が増えてきて、たくさんのお礼のメッセージが届き、少しずつ私の気持ちが動かされてきたからです」
自宅をベースにして、時々来てくれるアルバイトの女性だけでやってきた仕事でも、法人化直前の頃には一年に2万枚くらいは販売し、毎年毎年、売上は倍以上に伸びていきました。
もう「飽きたからやーめた」と言える時期ではなく、愛用者に対する責任があると思い、「やめない決心」として法人化にふみきったのだそうです。
「私にとっての授乳服は、お金を得る手段だけではありません。
『子どもと共に自由でいられる』という新しいライフスタイルを提案するためにイベントを開いていましたし、それを続けてこられたのは授乳服の販売による収益があったから。
ですから、このメッセージをより多くの方に届けるには特定非営利団体(NPO)にするという選択肢もありました。
そこでいろいろな方にも相談した結果、『モーハウスで働く人には働き方によっては自立できる給料を出せるようにしたい』と思ったのです。
経済的な自立ができることは精神的な自由につながるからです」
ボランティアで手伝いに来てくれていたスタッフ二人にも、「会社にしようと思うんだけど、スタッフにならない?」と聞いてみました。
あえて「責任のないボランティア」を選んだ女性たちだったのですが、二人ともこの話に乗ってくれたそうです。
「当初から『授乳服の販売でいただくお金は同じ立場の人に払いたい』と思ってましたから、縫製も発送の仕事もできるだけ子どもがいる女性にお願いしてました。
仕事ができる能力があって、状況さえ許せばできるのに仕事が得られない人がいる。
他方で仕事を頼みたい人がいる。
そこをうまく結び付けたいと、コーディネーター根性を出してしまったんです。
子どもがいる縫製スタッフがこの仕事をやりたいと思うのは、自分のペースで仕事ができるから。
他の在宅仕事と同じように夜中まで仕事をしないと終わらないようなノルマを課したら、モーハウスで働く意味がありません。
私が仕事をする基準は楽しく快適にできるっていうことですから」
2005年3月、光畑さんは地元の大学で講演したのを機に、新卒予定の大学生を社員に採用しました。
それが杉山貴子さん(27歳)。
モーハウスにとって初めて正社員であり、初めての独身スタッフでした。
(つづく)
「ソーシャルベンチャー」という言葉が日本でまったく話題に上っていなかった頃から、世の中にある問題を解決するためにビジネスの手法を使おうという動きは芽吹いていました。
その一つが、授乳服(※赤ちゃんにおっぱいをあげるための服)の製造・販売を手掛けながら、母親というライフステージから女性の自由で新しい生き方を試みようと呼びかけている「モーハウス」という団体です。
http://www.mo-house.net/
茨城県のつくば市に事務所があるこの団体の発足は、代表者・光畑由佳さん(43歳)自身のこんな経験から始まりました。
1997年、生後1ヶ月の次女と一緒に電車に乗っていたところ、空いてきた車内で次女がぐずり始めたのです。
いつまでも赤ちゃんは泣きやまず、声は大きくなるばかり。
乗客たちの視線が集まります。
次女はおなかがすいているのです。
ミルクは持参していませんでした。
(降りる駅まであと少し。もう少しがまんすれば、授乳できる…)
でも、そのとき、彼女は苦い経験を思い出しました。
長女がまだ授乳期の頃、丸一日搾乳しなかったために母乳が出なくなってしまったことがあったのです。
心配が募った光畑さんはパニックになり、途中下車も思いつかず、仕方なくブラウスの前ボタンをはずし、授乳をすることにしました。
駅に着き、赤ちゃんのいる女性の友人に会ってこの体験を話すと、「信じられない」と言われた。光畑さんは母乳育児にこんな不便さがあるのかと痛感したが、同時に「そんなのおかしい」とも思ったのです。
「本来自然なものであるはずの母乳による授乳が自分の行動を束縛するなんて変。
どこでも授乳する自由はあっていいと思うけど、気遣いはやっぱり必要。
だったら解決する方法はないかな」
そこで光畑さんは、以前取り寄せた海外の授乳服の通信販売カタログを思い出し、取り寄せて、試しにそれを着て外出してみたのです。
「羽根が生えたような気持ち、想像もしなかったような解放感が心の中に湧き出てきました。
『これでどこにでも行ける! 私の自由は保証された!』という感じ。
解放感があったということは、それまで束縛感があったはずなのに、それまで全然そんなふうに感じたことはありませんでした。
でも、こうして解放感を感じて初めて『今まで自分は我慢してたんだ』と気づかされたんです。
世の中のお母さんたちがそれに気がつかず、ずっと我慢したままなら、この解放感を教えたい。
そんな気持ちでいっぱいになりました」
それ以来、光畑さんは「授乳服の伝道者」になりました。
そして、ママさんどうしの間でいろいろと情報収集をする中で、だんだん「やはり自分で作ろう」という気持ちは大きくなっていったのです。
しかし、光畑さんには、プロとして服を作った経験はありませんでした。
それでも、「自分で縫えなくても、できる人をつないでいけば、生産できるはず」と考え、縫える人やデザインのできる人を探したのです。
すると、たまたま自宅のお向かいの奥さんがドレメを出て縫製のできる方だったので、「売れたら払うから」と製作をお願いできました。
また、小学校時代からの友人にアパレルメーカーのデザイナーがいて、デザインを頼むこともできました。
資本金は「財布に入っているお札数枚」。
でも、光畑さんの故郷・倉敷は繊維産業が盛んなところで、「安いけれど素敵な生地」を探しては数メートル単位で買えたんですね。
こうして光畑さんとその仲間は特価品の生地を買い、作っては売るというペースで仕事を始めました。
授乳服といっても、「マタニティでも授乳中でも体型がきれいに見える」と「授乳用のためだけに穴が空いているのではなく、ふだん着としても違和感なく着られる」という2点を重視したデザインにしました。
やがて光畑さんは自宅をママさんたちに開放し、より多くのママさんたちとの交流のチャンスにすることにしました。
こうした「オープンハウス」の試みは、出会いのチャンスを増やしただけではなく、乳幼児との付き合いに悩む母親たちの肩の荷を下ろす効果もありました。
「お母さんが心地よく過ごせると、赤ちゃんも心地よいんですよ。
力を抜いて、自分が楽をすることが悪いとは思わずにいてほしい。
そのいい加減の力の抜き方の例がオープンハウスにはあふれていました。
毎日の育児のプレッシャーでいっぱいいっぱいの人も、『ああ、育児ってこんなのでいいんだ』と安心してくれました。
多数派のおおざっぱなお母さんたちを見たり、話を聞いたりすることで自然に悟ってくれるんです」
こうしたオープンハウスの手応えを得て、光畑さんの気持ちはより多くの母親に向けて発信できるイベントの開催に傾いていったようです。
(つづく)
「コトバノアトリエ」は、2006年9月には水道橋駅前に事務所を移し、10月には生放送、オンデマンド、携帯電話で聞けるネットラジオ番組「オールニートニッポン」を制作し、放送を開始しました。
www.allneetnippon.jp/
これは、映画『不登校の真実』の監督で小説家の巨椋修さんや、全国のひきこもり支援の取り組みを取材しているフリーライターの永冨奈津恵さんなどがパーソナリティとなってひきこもりやニートの問題を広く呼びかけるもの。
いじめや自殺などの深刻な話題を扱ったり、リスナーを集めての公開放送も行い、視聴者は月間2〜3万人に膨らみました。
「社会問題は深刻さの優先順位が高くなればなるほど早く解決されます。
問題の緊急性を訴えることで、より優秀な人材が集まり、解決が早くなるので、プロモーションとしてメディアを設けたんです。
今のところ赤字ですが、今後は広告収入を見込んでいます」
2007年2月には、ETIC.主催の30歳以下のビジネスプラン・コンペ「STYLE 4th」のファイナリスト(最終選考候補者)になり、優秀賞を受賞。20万円の援助を受けられました。
3月にはやはりコンペで勝ち抜き、「SEEDCap Japan」(社会起業家育成支援プログラム)の助成団体に選ばれ、200万円を援助されました。
これはアメリカのヘッジファンド運用会社の運用益から生じる成功報酬の10%を助成金の原資とし、日本のソーシャル・ベンチャーを支援するプログラム。
3年間で350万円の助成が検討される対象になったため、専従スタッフを雇い、続々と社会的事業を展開していけるめどが立ちました。
活動を続けていく中で、山本さんにとっては想定外の収入も生まれました。
「オールニートニッポン」でパーソナリティの雨宮さんの話を収録した本(※『雨宮処凛のオールニートニッポン』祥伝社新書)が出版され、印税収入につながったのです。
「それでも収入はカツカツです。
2000万円ほど入ってきても、純利益は500万を切りますから。
スタッフには給与を払ってますが、二人で一人分くらい。
これで生活していくのは大変なので、講演やコンサルティングなどの副業もしてます」
しかし、山本さんらスタッフが支援を続けてきたおかげで、ニートは少しずつ自分の力でお金を得られるようになっています。
「神保町小説アカデミー」の生徒で45歳のニートは、『フリーターズ・フリー』という雑誌でライター・デビューし、2008年1月には『45歳、ニートで障害者』という本が発売されて晴れて作家デビューできる予定とか。
また、「トキワ荘」に入居した25歳の女性は、こう言います。
「疲れて寝てしまいたい夜も、仲間が努力していれば刺激される。
出版社に作品を持ち込むと、胸をえぐられるほどダメ出しされることもある。
そんな時、悩みを相談出来る相手がいるのは心強い」
(朝日新聞2007年5月8日付より)
「オールニートニッポン」でも、現役ニートが初体験ながらパーソナリティとディレクターを務めているから職業技術を覚えられますし、番組を聞いて名古屋から公開イベントに足を運んだのを機に上京した元ひきこもりの男性も現れました。
彼は言います。
「当事者が集まれる場所を作ってくれた。そういうチャンスがなかったから嬉しい」
山本さんが解説します。
「番組はニートたちがボランティア・スタッフとして制作してますが、これは無料の専門学校。
将来的に放送関係で食えるようになるといいな。
親に金がないせいで高等教育が受けられないのは嫌だったんです。
高等教育の無償化は世界的に進んでいますが、それを保留してるのは日本とルワンダとマダガスカルだけですから。
機材の使い方を覚えていけば、ポッドキャスティング配信の仕事を受注でき、90万円の売り上げになります。
実際に、『僕の団体を通じてスタッフに仕事が回ればニート支援になるので』という営業をしてるんです。
自力で卒業していくのがベストですが、今後はオールニートニッポンをうちの団体から独立させ、スタッフが自分たちで回せるようにしたいです」
興味があれば、やってみる。
すると、その体験から開かれてくる道があり、次の夢が見えてきます。
山本さん自身も、そんな具合に試行錯誤を重ねながら活動を続けてきました。
山本さんは、なぜそこまで頑張れるのでしょうか?
「わかんない(笑)。
僕だってお金も欲しいし、地位も名誉も欲しいし、自分自身を成長させたいし、社会の役に立ちたいし、女の子にもモテたいし。
そういう小さいモチベーションが束になって一本の綱になってる気がします。
『私はこういう問題を解決します』っていう強烈なミッションを持ってる人もいますが、僕にそうしたものがあるとしたら作品を作ること。
両親もクリエイターですから。
でも、僕は自分を突き詰めた結果、からっぽなんですよ。
だから支援する側に回ろうとしてるのかな」
(以上、『プライドワーク』から一部抜粋)
このように、自分らしい仕事を自分で作り、人の役に立とうとする若者たちは増えています。
会社に雇われなくても収入を得られるビジネスモデルを自分で作った方が、自分自身を誇れる働き方ができるからです。
そのような「ソーシャル・ベンチャー」については、拙著『プライドワーク/自分をつくる働き方』(春秋社)にくわしく書いてあります。
また、東大での自主ゼミでも毎回ソーシャル・ベンチャーの担い手をゲスト講師に招いて、さまざまなビジネスモデルがあることを、東大生はもちろん、女子高生からおじさんたちまでが学んでいます。
来期(2008年春以後)もソーシャルベンチャーの担い手をゲスト講師に招いた自主ゼミを続ける予定でいますから、ぜひ下記リンクを参考に今期から一度でも参加してみてください。
今期は2008年1月末まで開講しています。
●東大自主ゼミ(※東大生以外でも参加できます)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=2040296
※18歳以上の方のみ、興味があればお誘いしますので、今一生の公式サイトからメールを送ってください。
●Create Media Online(今一生の公式サイト)
http://www.createmedia.co.jp
●東大自主ゼミについて読売新聞が取材した記事
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20070626ur01.htm
●ソーシャル・ベンチャー 〜もっといい世の中を作ろう!(リンク集)
http://gogo-socialventure.blogspot.com/
●『プライドワーク』をamazonで買う
http://astore.amazon.co.jp/con-isshow-book-22
●『プライドワーク』書評
http://dricomeye.net/07_book/book.html
●今の働き方で満足ですか?『プライドワーク』出版記念イベント
http://www.delta-g.org/news/2007/11/post-31.html
●『プライドワーク』インタビュー
http://www.freestyle-life.net/free-100-page-29.htm
●『プライドワーク』についてのZ会ブログ
http://www.zkaiblog.com/histaff/archive/245