[2008年03月10日(月) ]
というわけで、土日は本を読んで過ごす。
木田元『反哲学入門』(新潮社)読了。


[2008年03月09日(日) ]
やらねばならぬことが山のようにある。せめて書き仕事でも家で、と思って持ち帰ってはみるものの、一方で読まねばならぬ本も山のようにあり、ついつい読書に耽ってしまう。という土日でした。
5日水曜日は、西新宿にて、石田淳さんと対談。
テーマは、国語力と読書(と、国語力検定)。
対談、といっても、石田さんのお話をうかがう、という趣きが強いものではあったが。しかし、広義の国語力伸長には読書が不可欠、そのための環境作りが重要、という点は、まさに国語力研究所の目指すところと一致しており、よっしゃこれで行こう!の意を改めて強くしたのであった。
インターエデュというサイトに、4月〜5月、掲載されるそうです、この対談記事。
石田さん、

[2008年03月08日(土) ]
スティーブン・ホルツナー『DELL 世界最速経営の秘密』(インデックス・コミュニケーションズ)読了。

[2008年03月07日(金) ]
宣伝ばかりだと気が引けるので、追加。
まあ、これも新聞ネタなので、鮮度が落ちちゃあしょうがない、という側面もあるのだが。
昨日の朝刊に、別刷りで「静岡県公立高校入試 問題と正解」というものが入っていた。
帰宅後、問題を眺めてみる。
国語……ふむ。大問ニの論説文、野口恵子さんの「かなり気がかりな日本語」は、かなり国語力検定との関連が深いテーマだな。『日本語朝練ドリル』で出題した、いくつかの問題の答えが、本文の中に載っちゃってるし。あちゃー。ま、いいか。取り上げるトピック自体は、大概似たようなもんだ。あとは、それをどう料理するか、の違い。
英語……ふむふむ。中学英語なら、まだ全然大丈夫だな、おれ。
数学……。
数学……。
やばい。
全部解けるかどうか、アヤシイ気がする。
解答延期。中学数学のおさらいをしてから、改めて解いてみることにしよう。
と、ここまでがマクラである。
解答のページを見てみる。
国語の大問ニ、問六の正答例は、次のとおり。
《視覚情報がない分、想像力や思考力を発揮でき、それによって日本語の使い方のよしあしを感じ取ることができるようになるから。》
60字の記述問題である。
正答例の下には、「採点基準及び採点上の留意事項」というのもある。
この、60字の記述問題に対する採点基準は、次のとおり。
《同じ内容のことが書いてあればよい。》
……え?
こここ、これが採点基準?
いや、マジで一瞬目を疑ったね。
静岡県の公立高校入試問題って、教科を問わず、公立の割には結構記述問題が多いんだけど、この問題に限らず、ほとんどすべての記述問題の採点基準が「同じ内容のことが書いてあればよい」「同じ趣旨のことが書いてあればよい」。
どこかの予備校や塾が作成した、なんてことは書いてないから、おそらくこれは、県当局が発表した正答例および採点基準なんでしょうねえ。
かつてぼくも、採点基準作成という仕事を日常的にやっていたが、こういう採点基準でオッケーであったなら、激しくラクだったろうなあ。月に2日は確実に休日が増えて、有給休暇取得率100%を達成できたような気がする。
でも、現場の先生方(が実際に採点するんだとして)、ホントにこの採点基準で、採点するんだろうか。てか、採点できるんだろうか?
あ。ひょっとして配点が2点とか3点しかないから、部分点などなく、必ず0点か2点(3点)なのかな。だったら、少ーしだけ、わからんでもない。
受験生もまた、「部分点など存在しない」という共通認識でいるのなら、問題ないのか、これで。
ただ、そうなると、こまかーく部分点を設定しちゃってる模擬試験のほうが、むしろ問題アリ、となっちゃうね。入試の実情と乖離している、という意味で。
[2008年03月07日(金) ]
2月14日の記事で、「国語力道場」が本になる、という話を書きましたが、週明けの10日から書店に並ぶそうです、聞いたところによると。15日ぐらいには、全国にあまねく行き渡る由。1000円+消費税。

[2008年03月07日(金) ]
Z会の通信教育大学受験コースで国語・小論文を担当するO橋君、ええいこれじゃイニシャルにする意味あんましないな、大橋君から、3月4日付の苅谷剛彦さん関連記事について、メールが届く。
以下引用(使用許諾取得済み)。
《じつは、昨年度(2007年度)の12月に受験科文系小論文(TC)で、「教養」に関する問題を出しました。竹内洋『大衆モダニズムの夢の跡』(新曜社、2001年)の中から、「学生文化と教養主義」という文章で出題しています。》
竹内洋さん……『日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折』は読んだな。てか、珍しく購入したな。おまけにZ会中学コースの仕事をしていたころ、中学生に向けて、この本を紹介したことがあったような……。なかなかシャレが利いてていいでしょ。それをどう受け取るかが、国語力、ということで。
《その問題文で使用している中に、こういうくだりがあります。
(引用始め)
旧制高校は一九五〇年に廃校になったが、旧制高校的教養主義は、あの大学紛争まで新制大学のキャンパスを支配していた。
一九七〇年頃までの日本の国立大学には、教養部の授業に旧制高校の建物をそのまま使用しておこなわれていた大学も多い。
建物だけではない。国立大学の教授のかなりは旧制高校出身者だった。かれらには専門の学問を越え、旧制高校的教養の香りのようなものがあった。戦後の大学生は旧制高校の香りを教授たちから得ることになった。
(中略)
旧制高校は一九五〇年に終わったのではない。精神や文化として存続した。精神や文化としての旧制高校的なるものが解体されたのが一九七〇年代前後の大学紛争である。
(引用終わり)
……というわけで、竹内氏が書いていることをそのまま受け取るとすると、苅谷氏は、「旧制高校的なるもの」に直接触れることのできた最後の世代、ということになりそうです。/ちなみに、上の文章で竹内氏は、今日の大学のキャンパスを支配する学生文化を「軽い『キョウヨウ』主義」「過剰な現実適応学生文化」と呼び、「旧制高校的教養主義」と対比させています。/そして設問では、「『旧制高校的教養主義』の意義について、今日、大学という場で学ぼうとするあなたはどのように考えるだろうか。五〇〇字以内で述べなさい」と問うています。解答例および解説も、なかなかおもしろい内容になっていますので、一度ご覧ください。》
ほほう。出題自体、なかなかおもしろいじゃないっすか。これを、現在の大学受験生にぶつけるとは。やるね、大橋君&Z会通信教育大学受験コース小論文。解答例と解説も、あとで読ませてもらうよ。
しかし、なるほど。
1970年前後において、大学生、あるいはちょっとマセた高校生であったか否かが、ターニングポイントだったわけね。
旧制高校的文化に接し、旧制高校的教養をさほど違和感なく摂取できたか否かの。
これを読み、今の大学受験生は、どういうふうに感じるんだろう。答案に書く内容とは別に、正味な話ね。
そんな昔のことなんてカンケーねーよ、となるのか、それとも「こんなこっちゃイカン!」と、現状を否定的に見るようになるのか。
……大多数は後者で、少数の後者が、学者さんになるのかもしれませんね。
さて、「1970年前後において、大学生、あるいはちょっとマセた高校生であったか否かが、ターニングポイント」というところから、社会人ワタクシが考えたこと。
苅谷さんが、ぼくより10コ上。1970年当時の大学1年生は、ぼくより13コ上、大学4年生は16コ上ということになる。
この世代って、まさに今、企業なら役員〜社長のような、組織のトップにいる世代なんだよね。
現在、組織のトップにいる世代が、ギリギリ、旧制高校的教養イコール教養、だった世代。
組織のトップは、10年で世代交代するとして、今から10年後、旧制高校的教養イコール教養と考える世代は、組織のトップから、ていうか、組織自体からいなくなる。
あ。定年延長とかあるから、15年後ぐらいか、ホントにいなくなるのは。
そのとき、企業において求められる教養の質が、ガラッと変わるかもしれない。てか、「今の若いモン」と組織トップの教養の質が、さほど変わらなくなるかもしれない。
よかったね、現在小学生のみなさん……よいのか?
旧制高校的教養を全肯定するつもりはないけど、教養のレベルが下がる一方じゃマズいだろ、ということで生まれたのが、国語力検定でもあります。
おお、国語力検定でまとまったね。
[2008年03月06日(木) ]
2008年2月沖縄漂泊記その4。
このシリーズ、そろそろ終わらせねば。
漂泊最終日の前夜は、誰も付き合ってくれなかったので、外で孤独に晩飯を食う……のも寂しい、ということで、宿で飲んで食うことにする。
レンタカーがあればサンエーにも出かけたのだが、歩いていけるタウンプラザかねひででお買い物。
あ、サンエーもタウンプラザかねひでも、地元のスーパーです。かねひでは、たまに「おお!」という掘り出し物があるなど、総じてサンエーよりも安いと思うが、お惣菜系はサンエーのほうが充実している……ような気がする。
さて、かねひでへ行くと。
県産品コーナーに、観光客が群がっているではないか!(買い物カゴ見りゃわかりますよ、観光客だって。)
たしかに、店の前には「観光客歓迎!」と書かれてるけどさ。
おれも(出張だけど)観光客の仲間には違いないけどさ。
国際通りで売っているのと同じ品が、かなり安く買えたりするけどさ。
かねひでポイントカード(200円1ポイント)に、150ポイントほどたまってるけどさ。(すいませんポイントカードまで持ってます。)
国際通り、こんなところにお客さんを(多少は)奪われているんではないか。
などということを考えながら、晩御飯のお買い物。





[2008年03月06日(木) ]
2008年2月沖縄漂泊記その3。
久々に国際通りを歩く。今回はレンタカーではなく、少し時間もあったゆえ。
この季節は、素もぐりじゃ海にも入れないからさ。……冗談です冗談です、激しく冗談です、海に入れないからレンタカーにしなかったわけでは決してなく、よいツアー(駐車場がタダのホテルのツアー)がなかったし、歩いても暑くないし、という理由でのレンタカーなし。国際通りへ行ったのも、たまたまポッカリ空いた時間があっただけです。
そんなわけで、レンタカーでの移動が多かったので、国際通りは久々でした。
おや?






[2008年03月05日(水) ]
2008年2月沖縄漂泊記その2。
行きたい行きたいと思っていて、ずっと行けなかった沖縄そば屋さんに、ようやく行く。
ずっと行けなかった、というより、行くといつも閉店していた、というほうが正確か。売り切れ次第終了のそば屋さんゆえ。いっつも、夜になってから行ってたから、必ず閉まっちゃってたわけ。
今回は、朝メシを食いに沖縄そば屋さんへ行ったので、大丈夫であった。





[2008年03月04日(火) ]
漂泊記だけ、というのも何なので、追加。
というより、ネタが古くなる前に、というほうが正確なんですけどね。
昨日の朝日新聞夕刊、池上彰さんのコラム「新聞ななめ読み」が、なかなかにおもしろかった。国語力的に。
タイトルは、「大きくなる新聞活字」。
毎日新聞が先行し、近日中に朝日・読売がそろって、新聞の活字を大きくする、という話題にからめたものなのだが、そのコラムの末尾部分。
《新聞が相次いで活字を大きくする本当の理由は、読者が高齢化したからではないか。などという憎まれ口を叩くのはやめておきましょう。高齢化が進む私も、活字が大きくなるのは嬉しいのですから。》
こういう場合、「高齢化が進む私も……」という表現で緩和されてはいるものの、国語力的には「憎まれ口」のほうが本意と考えて間違いありません。
うまいなあ、池上さん。
ところで、ぼくは、次のようにも考えました。
活字を大きくして、ページ数が同じなら、文字の総量は減る。すなわち、必要原稿枚数=必要原稿料も減る。
一方、大事な収入源である広告は減らせない。かつ、広告は文字数じゃなくてスペースを売っているわけだから、紙面における広告の割合が減らないとすると、必要原稿枚数は、相対的にますます減る。
「わかりやすくするため」なんて言っているが、これって要するに、新聞社サイドのコスト削減ではないか。もちろん、原稿料じゃなくて給料で書かれている紙面も多いが、文字数=投入リソースだと考えると、紙面作りに要するリソースを節約できるのは間違いない。
あ。「あれえ、何だか記事を書く負担が減ったのに、給料は同じだぞ」という新聞社社員が増える、という可能性もあるか。
……などという憎まれ口を叩くのはやめておきましょう。
■
もう1つ、新聞から。
今朝の朝日新聞の「ひと」欄。
オックスフォード大学教授になる苅谷剛彦さんが紹介されていたのだが、その、生い立ち紹介部分。
《東京の下町生まれ。高校紛争の空気が残る都立高校1年の時、ヘーゲルやマルクスを論じる級友の議論に何か違うと手に取ったのが、社会学の本だった。》
え。
マジ?
……2月19日のブログで、
《ニーチェ、ショーペンハウアー、マルクスが、一般的な「教養」かあ。/そりゃやっぱ、旧制高校の時代まででしょう。大学進学率が50%近くまで達した現在は、ちょっとそれは無理がある。》
と書いたが、これはぼくの認識違いであったか。
苅谷さんは、ぼくより10コ上。
10コ上の高校1年生が、ヘーゲル・マルクスを論じていたとは。
ちょいと驚き。じゃなく、かなり驚き。
まあ、全員が全員じゃあないとは思うけど(ていうか、思いたいけど。もしクラス全員、たとえば○○高校1−Bの生徒全員がヘーゲルを論じていたとしたら、何か気が遠くなります)。
長じて学者になるような人は、高校時代からそうなのかもしんないけど。
少なくとも、ぼくの高校時代、ぼくの周囲には、そんな人間、1人もおりませんでした。すいません。SFや推理小説ばっかり読んでました。小林秀雄を読まされて、深く考えることを断念させられてたし。なーんてね。
教養のレベルが激しく落ちたのは、意外と最近なのかもしれない。
これで、昨夜〜今朝拾ったネタを消化、と。