ブログ検索
最新記事
最新コメント
国語力研究所代表
御茶ノ水でランチと魯山人の料理王国と、国語力検定 (2008年11月22日)
タカバタケ@御茶2F
御茶ノ水でランチと魯山人の料理王国と、国語力検定 (2008年11月22日)
国語力研究所代表
「ふしゅう」とホッケとアーレントと、国語力検定 (2008年11月19日)
国語力研究所代表
成功の秘訣は1日14時間労働と、国語力検定 (2008年11月17日)
国語力研究所代表
輿論と世論と、国語力検定 (2008年11月16日)
垂渓庵
輿論と世論と、国語力検定 (2008年11月15日)

http://www.zkaiblog.com/kokugoryoku/index1_0.rdf
プロフィール

一般教養としてのマルクスと大社の河津桜と、国語力検定

[2008年02月19日(火) ]

昨日は休日の予定だったが、いろいろあって、仕事に出よう、と、朝起きるまでは考えていた。

しかし、あまりの眠たさと身体のだるさに、中止。予定通り休日とする。

ごろごろしつつ、本を読んで過ごす。

アドルノ『否定弁証法講義』(作品社)読了。



40年前のドイツの大学生、しかも哲学専攻なわけでもない学部生が、この講義を聴いて、内容を理解し得たということに、かるく驚く。読んで、じゃなくて、耳で聴いて、だよ。

十全に理解し得たかどうかは別としても、少なくとも試験を受ける程度は理解できたんだろう。すげーなー、40年前のドイツの大学生。

いや、40年前に限らず、現在でもそうなのかもしれない、階級社会的要素が残るヨーロッパの大学生は。たまにコメントくれるミルヒさんがヨーロッパの高校での試験のことを以前書いていたが、日本の高校じゃ考えられないレベルの知的トレーニング受けてるからな。大学生のレベル低下は、日本だけか。

と、思ったのだが、どうもそうでもないらしい。彼の地でも、大学生のレベル低下というか、教養の欠如(あくまで、かつてと比較しての話、だが)は、進んでいるようで。

「編者あとがき」より引用。

《この編者註は、アドルノの講義がなされていた背景にある教養、いまではほとんど自明のものと前提することのできない教養の世界をありありと浮かび上がらせるうえで、手助けになろうとするものである。》(p363)

さらに、「訳者あとがき」より引用。

《膨大な「編者註」も本書の特徴のひとつと言えるが、これを訳出しながら、いくらか戸惑いがあったことは事実である。アドルノの講義の理解に必ずしも直接関わらない一般的な「教養」に類するものも多く見受けられるからである。(中略)あえてこのような原註を付す態度に、ひとつの時代のおわりを感じとることもできるだろう。ニーチェもショーペンハウアーも、さらにはマルクスも、とうてい自明の前提ではなくなったのである。》(p369)

ここから、国語力的に読み取れること。

・ニーチェ、ショーペンハウアー、マルクスの著作は、一般的な「教養」に類する。
・しかし、現実には、大学生に対してそれを自明の前提とすることはできなくなった。

……ニーチェ、ショーペンハウアー、マルクスが、一般的な「教養」かあ。

そりゃやっぱ、旧制高校の時代まででしょう。大学進学率が50%近くまで達した現在は、ちょっとそれは無理がある。訳者の方も、十分わかっていらっしゃるとは思うが。

同世代の半分がマルクスを読んでいたら、ちょっとコワイな。

そういえば、学部1年生、入学したばっかりの後輩女子が、『資本論』読んでたことあったっけ。それも、20年以上前の話だ。

えーと、一応、本文からも引用。

《哲学が目指しているのは、世界をあらかじめ加工されたカテゴリーの体系へ還元することではなく、まさにその反対に、経験において精神に差し出されるものに対して、ある一定の意味において自らを開かれたものにする試みである、ということです。》(p130)

この程度であれば、多分、耳で聴いても理解できます。

あ、そうだ。

現在企画中の国語力検定シニア(アダルト?達人?)レベル、聞き取り問題として、こういうのも入れようかな。

高校の倫社に登場するような人の著作は一般的「教養」と見なし、それを前提としたうえでの講義の内容を把握する問題。いかがでしょう?



午後から少し復活。



三島大社へ散歩に出かける。



おお。境内を歩くのは、定年25歳というウワサの、巫女さんではないか!

お守りを販売(とは言わないのか、まあ、販売のようなもの)しているところにも、巫女さんがいるのだが、ジロジロ眺めているうちに、こんなことを思った。

「労働力人口の減少に伴い、企業も60歳定年を延長しつつある。三島大社も同様に、いつまでも定年25歳というわけにもいかず、定年延長したのだろうか?」

……冗談です冗談です、激しく冗談です!

そんなことを言うと、神罰が下る。

さて、三島大社には、天然記念物があります。



樹齢1200年と言われる、キンモクセイ。すばらしい。



駐車場横の河津桜も、ほころびかけていました。

来週には、だいぶ咲いてるかな。

と、だいぶ宣伝したってことで、中段の冗談は、ご容赦ください。

「食い逃げされてもバイトは雇うな」は真か偽か?と、国語力検定

[2008年02月18日(月) ]

今朝の「ちりとてちん」は今イチだった……ような気がする。

京本政樹、あれはちょっとヘンじゃないの?というところで。

先週は、泣けたのになあ。

……なんてことを言っていると、カミサンいわく。

「人が亡くなる話で泣かせるのは、ちょっとベタすぎちゃう?」

なるほど。そういう説もある。

そういえば、中学生のころ、「中○コース」などというものをとっていたが、不治の病の中学生を主人公とする涙涙の物語が、必ず載っていたなあ、なんてことを思い出した。



このところ、新聞のテレビ面でZ会の通信教育の広告をよく見かける。

4月にも、新聞広告、掲載するのかなあ。

3分の1とは言わない、4分の1とも言わない、5分の1……いや6分の1のスペースでもいいから、下のほうに「国語力検定申込受付中!」と載せてくれないものだろうか。

一応、そんなことを書いておくのも、国語力、と。

「あれ、そんなこと書いてたの?」と切り返すのも、これまた国語力、なんですけどね。



今朝の新聞広告で、いちばんおもしろかったのは、光文社新書のそれ。

2月新刊として、

『「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い 禁じられた数字〈下〉』

という本の広告が、デカデカと載っている。

〈下〉とあるから、〈上〉もあるんだろうな、と思ってよく見ると。

その〈上〉のタイトルが、

『食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字〈上〉』

なんですね。

同じ著者による本。『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』がベストセラーになった、山田真哉さん。3部作、だそうだ。

こりゃ、前作買った人は、買わざるをえんでしょ。

やるなあ、と思った次第であります。

学習指導要領改訂と橋下知事の「机上の空論」発言と、国語力検定

[2008年02月17日(日) ]

携帯からのネット接続がうまくいったりいかなかったり。今イチ不安定である。今はうまくいっている。

さて、『敗戦の記憶』(中央公論新社)読了。年末によくある企画、「今年の十冊」などに選ばれそうな気がするんだが、刊行が去年の暮れか。どうでしょう、このタイミング。サントリー学芸賞とか、大仏次郎賞も、この手の本、好きなはず。好きっつーのも、何かヘンだが。

昨日は横浜で教育関連のセミナーでした。国語力検定の宣伝はあまりせず。むしろ、学校現場にいる人たちが考える、今の子供たちにとって必要なものは何だろう、ということを考えていました。

セミナー会場へ行く朝、朝刊一面を見ると、学習指導要領改訂話が。

理数系、それに社会科も、2011年より前、2009年から教える内容を増やす由。

2002年から2008年までの間に小中学生だった世代は、言葉は悪いが、国によって「ババ引かせられた」観もあるように思うが、どうなんでしょうね。

それから、ワイドショーを観ると、大阪の橋下知事がゲスト出演。

江川紹子さんがコメンテーターとして出演しているワイドショーだったのだが、その江川さんを前にして、

「ぼくや江川さんのような机上の空論者は……」

などと発言されたのが、国語力的におもしろかった。

江川さん、その時点では、苦笑というか何と言うか、微妙な笑顔。しかしオトナの対応で、その発言に噛み付くようなことはない。うむ、国語力だなあ。

ていうか、橋下知事、自分以外の誰かを「机上の空論者」とするのではなく、自分も含めて「机上の空論者」としたことがミソで、これにはなかなか、「いや、あなたはそうかもしらんが私は違う」とは言いにくい。国語力だなあ。

しかし、江川さん、内心おもしろくないのは当然で、違う場面で橋下知事の発言を否定・批判していらっしゃった。

これぞまさに、「江戸の敵を長崎で討つ」。ちと違うか。

ちと大変と、国語力検定

[2008年02月16日(土) ]

ぱそこんで更新できない状況に陥って携帯からだがなんだかなドコモかなり不愉快。

道路財源で駐車場とミュージカル!と、国語力検定

[2008年02月15日(金) ]

今日の朝刊社会面にも載っていたのだが、《道路財源で整備の地下駐車場ガラガラ 天下り法人運営》という記事(asahi.com2008年02月14日21時52分)。

記事のトーンは、「まあこんなに無駄遣いをして!」というものだが、それはひとまず措き、今日は純粋に国語力的な考察として、記事の最後にあった〈国土交通省道路交通安全対策室の話〉、さらにその末尾部分を取り上げる。

《995億円の税金投入に見合うか批判もあるかもしれない。しかし、回転率は平均で2.0台あり、一定の効果は上がっている。》

費用対効果に対して批判があるかもしれない→しかし一定の効果はある、という流れ。効果はあるんだから、批判には当たらない、という主旨になる。

これを、要素は全く同じままで、順序だけ入れ替えてみよう。

「回転率は平均で2.0台あり、一定の効果は上がっている。しかし、995億円の税金投入に見合うか批判もあるかもしれない。」

どうですか?

これだと、批判されるのもわからんではない、というニュアンスになりますよね。

このように、要素は全く同じでも、その順序を変えるだけで、読み手(聞き手)が感じるニュアンスは変わってきます。

ビジネスパーソンのみなさん、人を褒めるとき叱るときにも、このことを念頭においていただきたいと思います。

「グッジョブ! でもね……」とするのか、「ちょっとなー、………、でもグッジョブ!」とするのか。

「でもね……」以降、「ちょっとなー」以降を伝えるときには、いずれが効果的なのか。

おお、まるでビジネスブログのようだ。このネタ、インサイトナウに投稿すりゃよかったな。



道路財源に関して言えば、こっちの記事のほうがおもしろかった。

《道路財源でミュージカル 冬柴国交相「もうやめる」》(asahi.com2008年02月14日20時30分)

ミュミュ、ミュージカル? 何でまた?

《冬柴国土交通相は14日の衆院予算委員会で、国交省地方整備局が行っている道路整備への啓発ミュージカル上演を、08年度からやめると表明した。》

道路整備への啓発、ねえ。「国民は道路の必要性もわからぬほど愚かである」と思われているってことなんだろうか?

しかし、字の読めない人が多かった時代ならともかく、という気もする。就学前児童扱いされてるってことか?

《国交省によると、ミュージカルは「助け合いの精神での道路整備」がテーマ。近畿地方整備局などが劇団に依頼し、03〜05年度で約80回実施された。道路整備特会から計5億円を支出。費用の大半は会場費で毎回300〜1000人が無料で鑑賞したという。》

ほう。「助け合いの精神での道路整備」ねえ。どんなストーリーで、どんな歌が歌われたんだろう。国交省、オープンにしてくんないかな。

《冬柴国交相は「適切だと思っていたが、支出が過大だとの指摘であればやめる」と述べた。》

だだだ大臣、「適切だと思っていた」って、マママ、マジすか?

ホントは思っちゃいない(のかもしれない)ことを、立場上言わねばならぬ、というのは、大変だなあ、と、思った次第であります。

「国語力道場」が本になります!とガソリン税にまつわるあれこれと、国語力検定

[2008年02月14日(木) ]

国語力検定ホームページに掲載している「言葉にまつわるあれこれ」というコラムも、残すところあとわずか。3月からは、強力新企画を予定しているゆえ。

今日更新のものは、季節感あふれるものなので、アドレスを貼り付けておこう。このブログほども読まれていない、かわいそうなコラムだしなあ。

http://www.zkai.co.jp/kentei/language/index.asp

そうそう、もう1つの連載、「国語力道場」も、残すところあとわずか。これも、3月からは、強力新企画を予定しているゆえ。同僚アーさんにより、タイトルも決定。名づけて、「ちりとてちん」……ではなく、「ちりもつもれば国語力」。七五調というところが、国語力っぽくていいなあ。



さてその「国語力道場」、途中からアダルトテイストに舵を切ったところ、学生・社会人向けの一般書にしませんか、というお話が昨年暮れにあった。

うーむZ会の出版物とは畑も対象も違うし、この春には出したいというスピード企画だし、ここは他社から出してもらうか、国語力検定の認知度アップにもなるし、ということで、「よっしゃやりましょう!」となった本が、もう完成……というか、印刷に入っちゃったらしい。

一週間後にはできあがり、3月10日には配本の由。はえーなー。

といっても、「一週間で50ページ分増やしてくれ」と言われ、その一週間のうち2日は会議会議、2日は出張だったりして、兼業ライターのぼくにとっては、なかなか大変だったのではあるが。

さらに、設問や解説の「遊び」の、あまりにやりすぎな部分を手直ししたり、思い出話やガンダム話を書き換えたり、年配の方に配慮して(かつ、国語力的にもいかがなものか、というのもあり)不要なカタカナ語を言い換えたり、と、これまたなかなか大変だったのであるが。

先週日曜は本文をガシガシ校正してファミマから宅急便で送り、今日は「はじめに」や「国語力検定のお知らせ」ページ(へへ、載せてもらっちゃった)を校正して、ファクスで送って完成。

ちなみに、タイトルに「国語力」を入れるのは却下されました。「日本語」のほうが一般的、とのこと。ちと残念。数年後には、そのまんま「国語力道場」というタイトルが通るようになるといいなあ。

タイトルは『日本語朝練ドリル』です。ディスカヴァー21という出版社から出ます。お値段は……いくらなんだろう。まだ聞いておりません。でも、そんなに高くはないと思います。

『日本語朝練ドリル』、ぜひ、お買い求めください。



ここんとこ、ガソリン税、というか、道路特定財源が話題である。

ガソリンの値段が下がると良い・良くない、というときの、政治家さんの根拠を眺めていると、なかなか国語力のトレーニングになるような気がする。

「なわきゃねーだろ」と突っ込めるのも、国語力、と。

もう1つ。一方は、道路は必要だ!と言い、一方はそんなに道路はいらない!と言う。

両者がなぜ噛みあわないのか、というと、これも一種の国語力的状況で、一方は「道路(工事)が必要だ!」と言っているのに、一方は言葉を額面どおりにとって「道路が必要? いいやそんなに必要ない!」と返しているからであって、……というのは、インサイトナウ向けのネタだな。近いうちに。

企業内の保守派と改革派も、実は同じような構図だと思いますよ。「何を守り、何を変えたいのか」という認識に、往々にしてズレがある。

『敗戦の記憶』と沖縄での事件と、国語力検定

[2008年02月13日(水) ]

今朝の朝日新聞国際面の小さな記事より。

《福田首相は12日、東ティモールの大統領らが武装グループに衝撃された事件について「襲撃は(以下略」》

……衝撃された?

そんな言い方、あったっけ。

でも、直後に「襲撃は」とあるんだから、わざわざ「衝撃」って語を使った可能性もある。

うーむ。



五十嵐惠邦『敗戦の記憶―身体・文化・物語 1945―1970』(中央公論新社)を読み始める。

まだ60ページあまりだが、なかなか、おもしろそうな予感。

昨日は朝刊がお休みだったので、夕刊で沖縄の痛ましい事件を知る。

事件を報じるテレビニュースをちらちら観ながらこの本を読んでいると、昭和天皇とマッカーサーのツーショット写真に行き当たった。

……いわく言いがたい思いがわき起こった。


さて、すでにこの時点で「ほう」と思った箇所があったので引用。誤植じゃないっすよ。

《原爆の使用に、広島と長崎の住民は恐怖し、うろたえたが、このような本能的は反応は必ずしも戦争終結の願いへとは結びつかなかったのである。広島で被爆した医師、蜂谷道彦は日記の八月十五日の欄に「日ごろ平和論者であった者も、戦争に厭ききっていた者も、すべて被爆この方俄然豹変して徹底的抗戦論者になっている」と記載した。(中略)蜂谷は続けて「降伏の一語は全市壊滅の大爆撃より遥かに大きなショックであった」という。》(p44)

これは今まで思いもしなかった。降伏前、街ごと吹っ飛ばされた時点で、みんな「もうこんな戦争はこりごり」となったと思い込んでいた。

でも、よく考えると確かに、「徹底的抗戦論者」になるのも、わからなくはない。

「こんだけ徹底的に痛めつけられて、おめおめ引き下がれるか」「カタキ討たんとおさまらん」的なメンタリティですね。

酔って転倒して強打!と古紙含有率問題と、国語力検定

[2008年02月12日(火) ]

昨夜は痛飲。60度の泡盛と40度の芋焼酎は極めて美味。

しかし、効く。自宅で転倒して左側頭部を強打する。まさに痛飲。

が、その時点では全く痛みを感じない。強打したという意識もない。

なるほどアルコールが麻酔に使われるわけだ。

今朝になって、ズキズキ頭が痛む。

うーむ、二日酔いか、と思ったのだが、やっと抜けてきたな、と思っても、変わらずズキズキ痛む。

そこでやっと、転倒して強打した箇所が判明した次第。

痛飲して通院、なんてことにならぬよう、気をつけねば。



その60度の泡盛。

栓が固くて、なかなか開かない。

「ち、あかね!」「あれ、あかね!」

などと言って、栓と格闘していると、

「は?」「は?」

というリアクションを見せる人が、一名。

……その人の名前が、アカネさんだった、というオチでした。

国語力に、ちょっとだけかすったかな。



国語力検定オリジナル封筒を、ようやく作ることになりました。

今までは、Z会ロゴだけが入った、主にビジネスユースのグレー封筒で代用しておりましたが、あれじゃ中味が国語力検定なのか何なのか、わからんもんね。

というわけで、さっき、封筒を作ってもらう印刷所の方と、紙質や色について打ち合わせ。

「あれ? これ、古紙100%の再生紙って書いてあるけど、マジ?」

「冗談です(→とは言わなかったけど)、ホントは25%ぐらいです」との由。

申し訳ありません、とおっしゃってたが、別に印刷所さんが悪いわけではない。

ほとんどの大手製紙会社が、古紙含有率を水増ししていた、という話題。

そもそも、古紙率の高い紙のほうが、高いんだろうか、安いんだろうか。

もし、高いんだとすれば、買ったほうは被害者である。ホントは安いものを、高く売りつけられたわけだから。断固抗議すべし、損害賠償を要求すべし。

もし、安いんだとすれば、話はヤヤコシクなる。買ったほうは、ホントは高いものを、安く手に入れたわけだから。

「いや、その場合も被害者である」という場合、それは、精神的被害ってことになるのかな。

「古紙率100%でございます」と胸張って言ってたのに、実はそうじゃなかった、というとき、その、今まで胸張ってた人は、どんな気持ちになるか。まず何よりも、たまらなく恥ずかしい気持ち、そして、そういう恥ずかしさを感じさせた相手への激しい怒り、だと思う。

ところで、古紙含有率だが、数%表示とは違った、という程度なら、なかなかわからんだろうけど、1年間に製紙会社へ流れた古紙の量×新しい紙となる率(歩留まり率、とでも言おうか)と、1年間に製紙会社が生産した紙の量×表示の古紙含有率、という2つの数字を並べてみれば、「あれ? こんだけしか古紙を仕入れてないのに、なんでこれだけの古紙含有率の紙を生産できるわけ?」と、不自然さにすぐ気づくはずだと思うんだけど。誰が?って、製紙会社のトップの人。

あるいは、その数字自体は不自然にならないよう、現場の判断で古紙を仕入れるだけはしていたのか?

でもその場合も、古紙じゃないパルプの仕入れは必要で、「こんだけ古紙やら、(古紙じゃない)パルプやらを仕入れてるのに、なんでこれだけの量しか紙を生産できないのか? 生産性が低すぎるのではないか?」という不自然さに気づくはず。製紙会社のトップの人なら。

というわけで、製紙会社のトップの人、この問題は「現場が勝手にやった」とは言えないでしょうね。

さて、一応古紙の仕入れだけはしていた、という場合、さらに問題となるのは、仕入れるだけ仕入れた古紙が、一体どうなったのかということ。

ひょっとして、燃やしちゃったのかな。燃やすものを購入してたなんてことになると、モノ言う株主さんがいたりしたら、激しく突き上げられるだろうなあ。

あ。他にも、状況を把握できる立場の人たちがいた。

国税の人たち。

「この仕入れで、この生産量は、おかしいのではないか?」と突っ込みそうなもんだけど、スルーしちゃったってことか。

『昭和十年代の陸軍と政治』と、国語力検定

[2008年02月11日(月) ]

一昨日の記事で取り上げた、筒井清忠『昭和十年代の陸軍と政治―軍部大臣現役武官制の虚像と実像』(岩波書店)読了。

陸軍の暴走みたいなイメージで一般に捉えられている時代だが、宮中勢力やメディア(すなわち当時の国民ですな)の果した役割を相対化というか免責するために、ことさらそう位置づけられたんではないか、というお話。なるほど。

宮中勢力というのは、とりわけ近衛さん。近衛さんもなあ、という読後感を持つ人が多いんではないだろうか、この本。

まあでも、陸軍の政治力は確かに強かったわけで、でもそれが一枚岩なわけではなく、上層部と中堅が権力をめぐって対立していたりする。どっちの推す陸軍大臣を出すか、とかね。

このあたりが、企業とは違うところだと思うわけである。

企業では、中堅がトップ人事に影響力を行使できることなど、まずありえないだろう。

……あら。そうじゃない? すいません、ぼくの知る範囲では、ということです。

とにかく、陸軍ではなぜそれが可能だったのか、と考えると、やっぱ、組織そのものが暴力装置だったからなのかな。

中堅であっても、目に見えない抽象的な権力ではなく、物理的に人を殺傷できる道具とスキルを持っているわけだし。

※今日は、国語力で落ちない日でした。

山本夏彦さんと、国語力検定

[2008年02月10日(日) ]

今日は、若くして亡くなった友人の五回忌。といっても、お墓参りに行ったわけではない。なんとなく、忸怩たる思いで一日を過ごす。ダメだ。今イチやれてない。違うアプローチで、と思ったことも、まだうまく行ってないし。「そんなんじゃダメっすよ!」と言われそうだ。また元に戻ってのアプローチにおいて、というところに、取っ掛かりができそうなんで、これ、やってみる。国語力検定という形も、もちろんやるけどな。「そんなん、大変なうちに入りますか!」と言われそうだな。はは。

さて、国語力検定を広く知っていただくためのツールになろう、ということで、ほいほい引き受けた他出版社から出す本のゲラが、昨日届く。

今日は、それをシコシコ校正。えーと、まあいいや。いい仕事したなあ。ということで。

ゲラの校正後、嶋中労『座右の山本夏彦』(中公新書ラクレ)を読む。読了。

なんか、いろいろ書いてもしょうがない(ていうか、酔っ払ってきたのもあるが)ので、「うーむ、なるほど」と思った一節だけ紹介。

「あの二〇〇一年九月十一日のアメリカの同時多発テロが起きた際、夏彦は事務所へ来るなり、手を叩きながらこう言ったという。《テレビ見た? いい気味だねえ》。」(p159)

すげーな。

でも、昭和20年時点で20代以上だった人、あるいはそれ以下でも、アメリカの空襲なり何なりを経験した人には、言葉には出さないが、そういう思いを抱いた人、意外といるのかもしれない。確かにみんな、そんな聖人君子じゃないって。あかん、もう酔った。

前へ | 次へ