[2008年01月11日(金) ]
今日の朝刊にも載っていたのだが、asahi.com2008年01月11日06時02分より。
《06年以降に閣僚を経験した国会議員(引退1人を含む)47人のうち、福田首相ら24人が代表を務める各自民党支部が06年、国から補助金を受けた36法人から計1690万円の政治献金を受け取っていたことが朝日新聞の調べで分かった。(中略)尾身幸次前財務相、高市早苗前特命相はすでに企業側へ返金し、松田岩夫元特命相も近く返金する。》
で、朝日の社会面には、それぞれがいくら貰って、どうコメントしたかの一覧が載っている。
それを見ると。
返金組の尾身さん、高市さん、松田さんは、それぞれ数万〜十数万円なんですね、献金額が。
一方、100万円以上貰っている人は、
《「適用除外に該当する」「寄付者が補助金を受けているか把握することは事実上、不可能だ」などとして、献金に問題はないという考えを示した》、と。
やっぱ、100万円以上にもなると、簡単に「返します」とは言えないんだろうなー、と思って、少しおかしかった。「ちっ、10万だったら、おれもすぐに返金したのに」と思っている議員さんも、いるんではないだろうか。
500円弁償しろ、と言われたら「ごめんなさいねー」と払うけど、500万円弁償しろ、と言われたら、よしんば自分に非があると思っても裁判に持ち込む、というのと似てるかな。
ただ、「適用除外に該当する」から「献金に問題はない」というのはわかるが、「寄付者が補助金を受けているか把握することは事実上、不可能」だから「献金に問題はない」、というのは、国語力的にちょっとヘンかな、と思った。
「寄付者が補助金を受けているか把握することは事実上、不可能」だから、受けた時点では「献金に問題はない」と思ったが、寄付者は補助金を受けていることが把握できた今、返金します、というのが普通なんじゃないだろうか。
[2008年01月10日(木) ]
今日更新の、国語力検定ホームページ連載コラム「言葉にまつわるあれこれ」で、以下のように書いた。
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こんなニュースがあった(asahi.com2008年01月07日11時45分より)。
《2016年夏季五輪招致を目指す東京オリンピック招致委員会(会長・石原慎太郎都知事)が、立候補都市が守る行動規範に反した疑いがあるとして、国際オリンピック委員会(IOC)から文書注意を受けていたことが分かった。招致委は「厳粛に受け止めて対処する」としている。》
へえ、何をやらかしたんだ?と思って読み進めてみると、こうある。
《招致委によると、在ブラジルの日本在外公館関係者が昨年12月、16年五輪に立候補しているリオデジャネイロ招致委員会のヌズマン会長を表敬訪問した際、「ブラジルが14年サッカーワールドカップ開催地に選ばれたのに、なぜ立候補するのか」と尋ねた。この発言が「立候補都市は他都市を尊重する」と定めた行動規範に反すると、リオの招致委がIOCに報告した。》
五輪立候補都市である東京の人の、「ブラジルが14年サッカーワールドカップ開催地に選ばれたのに、なぜ立候補するのか」という発言が、同じく五輪立候補都市であるリオを尊重していない、ということのようだ。
よくある、疑問か反語か、という問題である。
ちょっと何種類か、言い換えを作ってみよう。
「14年サッカーワールドカップ開催地に選ばれたこと、おめでとうございます。ところで、どうして16年五輪に立候補されるんですか?」
これだと、あんまりトゲはないかな。純粋な疑問と解される余地はある。
「14年サッカーワールドカップ開催地に選ばれましたよね。そのうえ、どうして16年五輪に立候補されるんですか?」
これは、かなりトゲがありますよね。反語と解されてもしょうがない。
「14年サッカーワールドカップ開催地ですよね。そのうえ、16年五輪に立候補するなんて、何を考えの所業ですかそれは」
ここまで来ると、もはや詰問・恫喝に近い。
表敬訪問の場で、よもや恫喝めいた言葉を口にしたとは考えられないが、言い方一つで、疑問にも反語にも詰問にも恫喝にもなる。
さらに難しいのは、その解釈が、受け手に任されていること。
単純な疑問のつもりで聞いたのに、詰問と解釈されてしまった、なんてことは、みなさんにも経験があると思う。
気をつけましょう……としか、言えませんね、これは。
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これを、同僚アーさんに渡し、「更新よろしくー」とお願いしたところ、アーさん、一読後、こう言った。
「これって、通訳するときに、細かいニュアンスを落としちゃったんじゃないですかね」
なるほど。さすが大学で英語を専攻していただけある。その視点には、気づかなかった。
方言を標準語に置き換えるときでさえ、「何か違うな」と思うときがあるんだから、いわんやある言語の他言語への翻訳においてをや。
「14年にサッカーワールドカップ、さらに16年に五輪なんて、いろいろ大変なんじゃないですか、ははは」程度の発言が、通訳の人を介した結果、詰問に聞こえてしまったという可能性は、大いにあるでしょうな。
[2008年01月09日(水) ]
このネタであんまり引っ張るのも何だし、テキスト自体はできてるし、ということで、ホントは明日分にしようと思ってたんだが、出勤後会議前の今の時間に、アップしてしまおう。……というのを読んで、文字面どおりに取らず、「ははーん、明日、別ネタをアップしたいんだな」と気づくのが国語力、と。国語力か?
さて、北陸を出て、関西へ向かう。
カミサンの実家に、3泊4日。
ここでは、日が高いうちからは飲まないのである。といっても、それはつい最近の話で。少し前は、必ず朝風呂を浴びて、まずビール、ちょっと気持ちよくなったところで本格的に飲み、とやっていたのであるが。義父があんまし飲まなくなったせいもあるかな。
関西っぽいものとしては、白味噌のお雑煮、棒ダラの煮たのなどをいただく。
せっかくここまで来たんだから、ということで、





[2008年01月09日(水) ]
(承前)
ぼくの生まれた家では、お正月の朝、仏壇と神棚に手を合わせる、というところまで書いた。
最後に、1月1日の朝、


[2008年01月08日(火) ]
2008年正月である。
地元のテレビ局では、地元制作のお正月バラエティ番組を放映するのである。
メインパーソナリティは、地元アナウンサー。ゲストは、数年前に富山から東京へ出て、人気女優となった女性。
いやー、さすがに都会の水のせいか、周囲の地元局女性アナに比べて、華がありますねー。スタジオへのお土産は、代官山だか表参道だかのお店のお菓子だし。
で、メインパーソナリティの地元アナウンサーは、ポイントポイントで、富山弁を織り交ぜつつ話すのであるが……あ。やめとこ。このネタ、国語力検定メールマガジンに使おうっと。オチ、バレバレかな。そうであっても、オチを指摘するコメントなど書かないのが、オトナの国語力ってことで、よろしくお願いします。
さて。富山のお正月のことを少し記す。
自分とは異なる地方の出身の人と結婚し、お正月にその実家へ行ったりすると、「え。お正月って、ああしたりこうしたりするのがアタリマエじゃなかったんだ!」ということがわかって、なかなか新鮮である。(別に、異なる地方の人との結婚だけが、その方法じゃないんですけどね。ぼくの場合は、そうだったってことで。)
もっとも、これは、世代差って要因もあるのかもしれないし、あるいは、実はそんなことをしているのは、ぼくの生まれた地方でも、ぼくんち(及び、せいぜいぼくが知っている範囲の、ぼくの親類んち)のみ、という可能性も、捨てきれないわけですが。
ともかく、「ああ、カミサンの実家では、こんなことしないなあ」ということが、いくつかある。
まずは、1月1日の朝、仏壇にお雑煮を供えて、手を合わせる。……てのは、世代差ですな、むしろ。
次に、1月1日の朝、

[2008年01月07日(月) ]
というわけで、年末年始は、北陸〜関西漂泊。漂泊、といっても、前者はぼくの帰省先、後者はカミサンの帰省先なわけですが。
うちのカミサン、「えーっと、ここはJR北陸だっけ?」だと。ねーよ、JR北陸なんか。西日本でーすー。西日本の仲間に入れてやってくれ。
でもなー。高岡駅はもちろん、金沢駅ですら、まだ自動改札じゃないんだよなー。スイカやらイコカやらが使えるのは、いつの日のことやら。
地元の新聞によると、北陸新幹線、富山以東は、かなりイイ感じで進んでるらしい。へー、知らんかった。
でも、富山以西(高岡〜金沢)は、用地取得すら、まだ20%台の由。おまけに、富山の人たちは、「金沢までえーえ、新幹線通してしもうとおーお、みんな富山通り過ぎてしもてーえ、金沢行ってしもうがんないがけ」という心配もしているらしい。なかなか難しいね。
高岡駅。駅前は変わったけど、駅だけは、ぜんっぜん変わんないね。構内にマックができ、コンビニができ、というマイナーチェンジはあるけど、駅の構造物自体は、おれが物心ついたときから、ぜんっぜん変わってない。高校生のときに愛用していた、ステーションデパートの中の「越中ラーメン」は、もうないけど。いつごろまであったんだろう。なくなる前に、いっぺん行っときたかったな。
さて。帰省先で、「ならでは」のものを食う。まずは、


[2008年01月06日(日) ]
ディック『暗闇のスキャナー』(創元SF文庫)読了。
おもしろい。が、「訳者あとがき」で山形浩生さんも書いているけど、残酷なお話。救いがないっすね、これは。それが現実なんだろうけど。ところで仕事中毒状態になると……やめとこ。
そういえば、訳者紹介のところに、こんな記述を発見。(1991年の初版本です。)
「1987年、東京大学工学部都市工学科卒、同大学院修正課程修了。」
大学院で、何かを「修正」されたんだろうか。
「修士」の誤植だと思うんですけどね。
そうだ、国語力検定メールマガジンの読者投稿コーナーとして、「おもしろい誤植発見!」てのを新しく作るか。
実は、年末から北陸〜関西を漂泊しており、昨日帰宅して、久々に朝日新聞を読む。
昨日の朝刊社会面左下の、「青鉛筆」というコーナーが、なかなか秀逸であった。
《俳優の故松田優作さんにちなんだ宿泊プランの販売を京王プラザホテル(東京・新宿)が始めた》
という内容のコラムだが、こう締めくくられる。
《没後18年が過ぎた今も「兄貴」と慕う男性は多いが、部屋で一人悦に入って、周囲の女性からへそを曲げられない?》
……間違えました。正しくは、こうでした。
《没後18年が過ぎた今も「兄貴」と慕う男性は多いが、部屋で一人悦に入って、周囲の女性から「何じゃこりゃ〜」とへそを曲げられない?》
「何じゃこりゃ〜」という一節を付け加えたところに、激しく国語力を感じたわけです。(あるいは、後から付け加えたのではなく、「何じゃこりゃ〜」を使いたいというのが先にあって、それに合わせてオチを考えた、というのが正解かもしれませんが。)
今日の朝刊経済面には、「10年後」というタイトルの連載記事で、ミクシィ社長・笠原健治さんのインタビューが載っている。
ネットというかコンピュータというか、それらによって「人間のあり方自体も変わりますか」と問われた笠原社長は、こう答えていらっしゃる。
《最終的には創造、判断、決定に特化するかもしれません。むだに知識を詰め込んで記憶するようなことは必要なくなっていく。》
なんというか、ちょっとコワイな、と感じた。シャレや冗談抜きでこの方向を目指しているんだとしたら。
「むだに知識を詰め込んで」というところに違和感を覚えてしまうのは、ぼくが旧世代に属しているからなんでしょうかね。
いや、違う、わかった、《国語力検定の知識分野の出題は「むだに知識を……」》と言われているような気がしたからだな! ……冗談ですよ冗談。
「むだに知識を」と、「むだな知識を」とでは、意味が違う、ということですよね。
まあ、でも、ぼくは、「むだな」知識を「むだに」詰め込むことに対して、そんなに否定的じゃないってことで。それがいつ「むだ」じゃなくなるか、わかんないし。
[2008年01月05日(土) ]
訪れた家の習慣に、テレビ視聴も合わせるのである。これもまた、国語力、ということで。
いきなり結論かい、じゃなくて、そういうわけで、昨日今日と「ちりとてちん」を観る。おまけに、10時からの「前半ハイライト集」的番組も観る。(「ちりとてちん」、chikurin先生が激しく観ている、ていうのも、アタマにあったんですが。)
NHKの朝ドラ、97年ぐらいから観始めて、「ちゅらさん」の途中まで観ていた。
「あすか」では、仮面ライダーの藤岡弘さんが「菓子や! 菓子なんや!」と叫んでいて、ヒロインの竹内結子さんじゃなくて舞ちゃん役の人のほうがいいなー、と思ってて……なんつーことは、どこに書いたんだっけ。最近、やや混乱気味。国語力検定ホームページ上での連載「国語力道場」だっけ。
「ちゅらさん」の途中まで、というのは、そこで三島から鎌倉に引っ越したからである。9時前にオフィス到着、というのを自らに課したため、BS(7時半から朝ドラをやっている)も見られなかった鎌倉では、朝ドラを観るのはあきらめた。
ので、朝ドラ、久しく観ていなかったのだが、うん、1回15分(正味時間でいうと14分ぐらいか)の中に、笑いも涙もシリアスも、なんともうまくギュッと詰め込まれているよなあ。これが脚本家の、国語力ってやつか。
今はBSも見られるし、なんだか週明けから、「ちりとてちん」、観ちゃいそうな気がする。
[2008年01月04日(金) ]
スタニスワフ・レム『ソラリス』(スタニスワフ・レム コレクション、国書刊行会)読了。
たしかに、『エデン』と通じるものがありますね、これも。海=知性体って、ひょっとしてエヴァ的世界?と最初は思ってたんですが。
《この現象に動機を求めることは、人間形態主義だ。人間がいないところには、人間に理解できる動機などというものはないのだから。》(p223)など、複数の箇所に出てくる「人間形態主義」というのが、キーワードの1つですかね。
でも、それを脱するのは、正味な話、難しいんだろうな。
《人間は人間以外の誰も求めてはいないんだ。われわれは他の世界なんて必要としていない。われわれに必要なのは、鏡なんだ。(中略)ところが実際には、われわれの世界の向こう側には、何やら人間が受け入れられないもの、人間がそれから身を守らなければならないようなものがある。(中略)そして、宇宙の向こう側から真実が――人間が口に出さず、隠してきた真実が――突きつけられたとき、われわれはそれをどうしても受け入れられないんだ》(p120)
と、登場人物の一人が言うように。
全然レベルというか次元の異なる話だけれど、人間相手ですら、何とか既知の枠組みを適用して理解しようとするわけで。(……ここから、ビジネスの話につなげてもいいんだけど、やっぱやめとこ。まだ(ぼくは)お正月だし。)
国語力的な箇所を、いくつか引用。
《科学が扱うのは、何かがどのように起こるかであって、なぜ起こるかではない。》(p122)
《人間というものは、見かけによらず、自分で目的を創り出したりはしないんだ。目的は、人間が生まれた時代によって押し付けられるものさ。人間はその目的に奉仕することも、反逆することもできるけれども、いずれにせよ奉仕や反逆の対象は外から与えられたものだ。》(p334)
えええ、どこが国語力?と悩まれる方がいるかもしれないんで、付け加えておきますと、「国語力的な」という枕詞には、ほとんど意味がない場合もあります。
※なお、巻末には、レム自身が作品について語った文章も掲載されています。『ソラリス』って、2度映画化されてるそうなんだけど、いずれも原作者ご自身は激しく不満、「でも映画化する権利はもう譲った後だったから」(p360)……というのが、ちょっとおもしろかった。
[2008年01月03日(木) ]
スタニスワフ・レム『エデン』(早川書房)読了。
なんとなーく、堪能しどころを間違ってる気がしてならない。アルコールのせいか。……国語力のせいかも。(垂渓庵先生、『エデン』については、もう語ってもらっていいっすよ! 『ソラリス』は、しばしお待ちを。)
暮れに読んだ『逝きし世の面影』つながりで、一箇所引用しておきます。
《どこかの高度に発達した種族が、数百年前、宗教戦争の時代の地球にやって来て、紛争に介入しようとした――弱者の側についてだ――と考えてみたまえ。その強大な力をもとに、異端者の火あぶりや異教徒迫害等々を禁じたとしよう。彼らの合理主義を地球上に普及させることができたと思うかね。当時の人類はほとんど全員が信仰を持っていたのじゃないかね。その宇宙の高度な生物は、人類を最後のひとりになるまで、つぎつぎと殺さなくてはならなかったにちがいない。そして彼らだけが、その合理主義的理想とともに残るということになっただろうね》(p222)
全然関係ないが、テレビを観ていると、「新番組、ヤッターマン!」という番宣をやってて、ちょっとビックリ。ヤッターマンって、たしかおれが小学生ぐらいのときにやってたよな。