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優生学とアウトバーンと「である」ことと「する」ことと、国語力検定

[2008年08月07日(木) ]

昨夜見ました? 「趣味悠々」。坂先生、ちょっと笑顔が硬かったすね。エンディングはウケたけど。

国語力的な話題に結びつけると、人の名前。

東京と大阪で、イントネーションの異なる名前がある。

たとえば、「田中」。

同じように、ぼくの郷里と東京とでは、イントネーションの異なる名前があるのだが、まあ、名前は、郷里のイントネーションのままでよかろう、と考えて、そうしている。郷里で、郷里のイントネーションで呼んでいた人に対してはね。

上京したばかりのころは、それでも東京イントネーションにしようとしたのだが、同じ相手に対して、東京と郷里とでイントネーション変えて呼ぶのもヘンじゃないかな、と。



原克『流線形シンドローム 速度と身体の大衆文化誌』(紀伊国屋書店)の続き。



本来は物理学の用語だった「流線形」という言葉が、アメリカでは優生学と結びついたわけだが、その優生学について。

《人為的な手立てでもって人間を改変しようという極端な立論を、そもそも可能にした発想の根本が問題なのである。それは、およそ生命現象に対して、なんであれ理想なるものを設定して、それに向かうものを是とし、それに向かわないもの、あるいはそれに向かうことを邪魔するように見えるものを非とする考え方である。その結果、理想なるものにとっての、障害因子を排除することを良しとする発想そのものである。》(p196)

ふと思ったんだけど、ビジネス書って、てことはビジネスの世界も、そして企業も、激しく優生学的発想で動いてるよな。対象は必ずしも「生命現象」ではないけど。

《機械仕掛けやメカニズムならば、まだしもこうした発想も是認されるところかもしれない。しかし、生命現象は別である。そもそも機械や道具というものは、なんであれ特定の目的をもった存在である。しかし、生命現象にはあらかじめ決められた目的などない。あえて言えば、生きてそこに居るということ自体が、目指されるべき目的である。もちろん、人間なり生命体が、生きてゆく中でその時々の状況に応じて、特定の目的をもつことはある。しかし、それは生命活動にとり、いっときの部分真理にすぎない。一方、生命というのは、あらゆることを含みこんだ全体真理なのである。特定の目的があらかじめ設定されているわけではない。優生学的発想に重大なあやまちがあるとしたら、しばしばその点を見失いがちになるということだ。》(p196)

これには激しく同意するんだけど、でも、この「生命現象」って、人間だけを対象としているような気もする。

狩猟採集生活をしている人間は別だが、栽培された植物と家畜化された動物を食べている人間は、この批判を受けねばならなくなるよねえ。もちろん、ぼくも含めて。

……ここで悟りを開きたいところだが、仏陀じゃない身では、なかなか、それは難しい。

《虚構というのは、すべて出鱈目からできているわけではない。そんなものは、出来の悪い物語である。出来の良い虚構とは、かならず一部真実をふまえているものだ。部分真理にすぎないものを、あたかも全体真理であるかのように語る。これが本物の虚構である。あるいは、あるできごとを元々の文脈から切り離し、できごと自体はそのままに別の文脈で語ってみせる。こう言いかえても良い。出来の良い虚構、これがプロパガンダの手法である。》(p239)

なるほど。応用できそうだ。創作のコツってやつだな、これは。

てか、実践してもいるか。ぼくの場合は、あまりに「おいおい、信じるなよ」と思うときは、自分で「話半分、いや、七割」と言っちゃうところが誠実だが。……誠実、てのもヘンだな。小心、なのかもしれない。その意味で小心じゃないことが、作家の条件か。

《およそあるメッセージが発信されるとき、そのメッセージ内容を現実感をもって受信できないことがある。とりわけ、発信されるべき内容が抽象的であったり、超感覚的であったりする場合である。人びとの日常的な感覚では掴むことがむずかしい場合だ。そんなときには、さまざまな比喩表現や日常的なイメージが援用されてくるわけだが、そこでしばしば倒錯した事態がおこる。本来、理解を助けるための補助手段であったはずの比喩表現なりイメージが、内容理解の方向性を決定づけかねなくなるのだ。》(p276)

ありますねえ、これ。いやいや、それは比喩であって、そのまんま受け取るなよ、てこと。……ここは、ちょっとだけ国語力的かな。

ドイツにおける「流線形」の語られ方について。

《〔流線形は〕「ドイツの技術」というイデオロギーを言いつのる排外的な語り口。流線形イメージの拡散現象を、非ドイツ的だと断罪する語り口。なるほど流線形は、優生学を直接意味しはしないが、しかし「ドイツの技術」という概念を介して、排外的国家主義という枠組みで優生学的発想と深く癒合している。》(p286)

アメリカにおける流線形と優生学の関係はわかりやすかったんだけど、ここがね。ちょっとわかりにくかった。

アメリカの場合、「アメリカ→流線形、流線形→優生学、よって、アメリカにおける流線形→優生学」という構図なのだが、ドイツの場合は、「ナチス→流線形、ナチス→優生学、よって、ナチスにおける流線形→優生学」という構図のような感じがした。すいません、まだまだ国語力不足かもしれません。

しかし、アウトバーンって、なるべく自然を破壊しないように作られたそうですね。最短距離を結ぶのではなく。

最短距離を結ぶためには自然の破壊を厭わない、そういう効率第一主義を、アメリカ的だといってナチス(というかドイツというか、これは西欧の古典的発想なのかな)は批判していたそうです。ふーん。このへんが、むしろ面白かったっす。

最後に、日本における「流線形」の受容のされ方について。

《小林秀雄をもじれば、流線形を「すること」ではなく、流線形「であること」だけが重要な価値になっている。》(p321)

……ん?

「である」ことと「する」ことって、丸山眞男じゃなかったっけ。