内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文藝春秋)読了。
国語力検定メールマガジンでも、冒頭部分を取り上げたが、あいかわらず、おもしろい。うちのカミサンは、あんまり好きじゃないみたいだけど。
まずは、国語力的な部分を引用。
《社会的なふるまい方の根本原則はどんな場合も同じである。/それは「世の中が全部『自分みたいな人間』ばかりになったときにでも愉快に生きていけるような生き方をする」ということである。》(p50)
いいっすね。そのとおりだと思います。
もう1つ。
《私はどんな質問にも(自分が知らない事案についてさえ)「それはね……」と即答することができる。/なにしろ、それだけで飯を食ってきたのである。/別にむずかしいことではない。/相手が「どういう答えを聞きたがっているか」を探り当てればよいのである。/ほとんどの場合、インタビュアーは「私から聞き出したいこと」をあらかじめ決めて取材に臨んでくる。だから、質問を聞けば「聞きたい答え」はだいたいわかる。それをそのまま答えたのでは曲がないから、ちょっと違う方向から切り込んで、相手を少しの間不安にさせておいて、最終的に「聞きたい答え」にするりと着地すればよろしいのである。》(p59)
これは、いわゆるコンサルテーションにおいても、同じではないだろうか。相手を少し不安にさせる、というのが、芸達者だなあ、と思いますが。
次に、仕事、働くことについての部分から引用。
p70、「『若者はなぜ3年で辞めるのか』を読む」という節より。「働く」ことの意味について、深く共感しましたが、くわしくは読んでいただきたいということで、ここでは脇筋から引用。
《著者は能力のある人間であれば若くても相応の給与と待遇を獲得し、能力のない人間は老人であっても放逐されるのがフェアな社会だと考えているようである(「強欲で恥知らずな老人ども」というような措辞から推して)。/若い読者の中にはこれを読んで溜飲を下げる人もいるだろうけれど、私は「能力があるけれど貧しい若者」と「無能で強欲な老人たち」というようなシンプルな二項対立で現代日本の社会状況を説明することはいずれ破綻をきたすだろうと思う。/なぜなら、確実にあと二〇年経てば「老人たち」はいやでもリタイアして、一部の「若者たち」が「既得権益の享受者」の席に繰り上がる。そのとき「元・若者」たちが「いまこそ社会改革のときだ」と呼号して、自分たちに選択的に与えられた既得権益を放棄して、「貧しい若者たち」とシェアするフェアな社会システムの構築を求めるようになるだろうという見通しに私は与することができないからである。》(p78)
時間、という要素を入れて考えていますか、ということですね。その要素を入れると、世代間対立で片付けるのは、ちょと難しくなってくる。
もう1つ、仕事の適性や能力について。
《「いいから、まずなんか仕事をしてみなよ」と私たちは若者たちに告げねばならない。/「それを見て、君がどの程度の人間だか判定するから」/人間の適性や能力や召命は、労働する人間が「主観的にそうありたい」と願うことや「そうであるはずだ」と信じることによってではなく、いかなる「実在する客観的な所産」をこの世に生み出したかによって事後的に決定される。》(p100)
やってみる前に「その仕事をする能力はありません」と言うことは、論理的に不可能である、ということです。
さらにもう1つ、若者が「やりがいのある仕事」を求めることについて。
《この場合の「やりがいのある仕事」という言葉を彼らは「受験勉強と同じような仕事」という意味で使っている。つまり、自分で選択した仕事における自分の努力の成果が、他ならぬ自分宛に、客観的評価を受けて、決められた時日に、開示されるような仕事のことである。/残念ながら、ほとんどの仕事はそういうふうには構造化されていない。/だから、「やりがい」を求める若者たちが最後にゆきつく「やりがいのある仕事」はミュージシャンとかアーティストとか作家とかという「個人営業のクリエーター」系に固まってしまうのである。/たしかにロケンローラーが一〇〇〇万人、漫才師が一〇〇〇万人、漫画家が一〇〇〇万人いる社会というのもにぎやかでよろしいだろうけれども、社会的ニーズということも多少は考えねばならぬ。》(p108)
これは、最後の一文に笑っちゃったんで引用してみました。