佐藤卓己『テレビ的教養――一億総博知化への系譜』(NTT出版)読了。
《すでに半世紀以上にわたりテレビを長時間視聴し続けた結果として、日本人の学力は低下していない。今後もさらに格差の少ない社会を維持するのであれば、良質なテレビ文化はますます必要である。/だとすれば、テレビを観ないことは市民の美徳ではない。(中略)私たちはテレビを「育児放棄」すべきではなく、見守る必要があるはずである。そのためには、まずテレビをよく読み、よく批判しなければならない。》(p291〜292)
というのが結論。
そうかー、テレビは観なきゃならんのかー。
ここんとこ、朝のワイドショーも観てないしな。
深夜放送はちょっと面白そうなんで、録画して観ることにするかな。
で、結論以外の部分から「へー」と思った箇所を、いくつか引用。
《放送法で番組は「教育番組」「教養番組」「娯楽番組」「報道番組」の四つに分類されている。》(p12〜13)
そして、全番組に占める「教育番組」「教養番組」「娯楽番組」「報道番組」の比率は、この数十年、ほとんど変わっていない。
なんかヘンだと思いません?
実感とかけ離れているというか。
それはなぜか、と言いますとね。
《放送局の免許条件としてNHK総合、民放など一般局は教育番組一〇%以上、教養番組二〇%以上で常時編成することが明示されている(中略)この基準をクリアするために、勧善懲悪の時代劇に「武道教育」、輸入ドラマに「国際教養」といった要素を組み込む慣行が続いてきた》(p13)
分類基準は公開されていないし、それぞれの番組がどのカテゴリに該当するかは、各放送局が主観的・恣意的に決定している由。
そんな「免許条件」って、アリなのか?
統計はアテにならんという、よい例ですね。
もう1つ。これは、
Z会ブログゆえの引用か。
《「教育=教養+選抜」、逆にいえば「教養=教育−選抜」、すなわち教養とは、学校教育や社会教育から入試・資格など選抜的要素を除いたものである。今日の中学校の教育では高校入試合格が主目的となっているから、「教育≒選抜」となり、「教養」は限りなくゼロに近づいてしまう。逆に、戦前の旧制高等学校などで教養が高く見積もられた理由も、この数式である程度説明できる。難解な「デカンショ」など哲学書が愛読されたのは、選抜試験なしで帝国大学への進学が保証されていたからである。》(p17)
なるほど。
だから早稲田高等学院出身の連中は……うーん、教養あったかなあ。人間的にオトナって感じはしたけど。それが教養の1つの現れだったのかもしれない。
しかし、エスカレーター式の大学附属中高以外の生徒は、中学では高校入試合格、高校では大学入試合格あるいは就職試験合格、大学生になると1、2年生から就職試験合格と、今の制度のままでは、教養の復活ってのも、なかなか難しいですね。
中高一貫6年教育じゃなくて、高大一貫7年教育(6年でもいいけど)というのも、1つの手か。
最後に。
《敗戦後、解体された警察・軍事組織のエリートたちが民間放送という新しい情報組織に活動場所を求めたことはよく知られた事実である。特に失業した旧軍人、満州国官僚などを大量に採用し、放送業界に送り出した電通の役割は重要であり、本社ビルは「第二満鉄ビル」と呼ばれていた。民間放送局のほとんどはこの人材バンクからの供給を受けており、それが広告代理店・電通の影響力の源泉となった。》(p111)
へーえ、電通って、そんなこともしてたんですね。