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ノンフィクションと小説との境界と20万円はみみっちい?と、国語力検定

[2008年03月13日(木) ]

先週末の結婚記念日の夕食。



白ワインを飲みつつ(焼酎泡盛だけじゃないっすよ)、



タマネギのフライを食いつつ、



マグロを焼いてバルサミコソースかけたやつ(かな?)を食う。

イ、ターリアン。



イタリアつながりで、ってこともないんだが、ロベルト・サヴィアーノ『死都ゴモラ』(河出書房新社)読了。



……読了、と書いたが、半分読んでヤメ。

イタリアでは100万部売れた由。イタリア人にとっては、とってもおもしろいんでしょうなあ。

ナポリって街が、いかに○○(想像にお任せします)なところかがわかります。

しかしこれ、「ノンフィクション小説」なんだそうだが、一瞬、「なに、ノンフィクション小説って?」と思ってしまった。

ノンフィクションと小説とは、別々のものと思い込んでいたゆえ。

ノンフィクション小説=事実をもとにした(事実を素材にした)小説、ってことか?

しかし、100%空想だけで作り上げられた小説ってのも、滅多にあるまい。事実が素材、事実がモチーフとなっているものが、ほとんどのはず。人間、なかなかゼロからモノを考えられるものではない。

となると、小説とノンフィクション小説とを分ける境界は、どこにあるんだろう?と思ってしまったわけです。

ほとんど事実、というのが、ノンフィクション小説になるのだろうか。もしそうだとすると、ロベルト・サヴィアーノさん、よく生きていられるな、という気もする。書かれたほうは、「余計なこと書きやがって」と思うに違いないんだが。しかも書かれたほうは、何のためらいもなく人を殺す集団のようだし。



今朝の新聞より。

朝日新聞朝刊には、「もっと知りたい!」というコーナーがある。

今朝のそれが、「東北大 抜群教授に給与奮発」という話題。

記事リードには、《「給料には無頓着」といわれる研究者たちを、それで確保することができるだろうか。》と、東北大の試みを疑問視するようなくだりがある。

記事本文を読んでいくと、国内の教授さんたちは、確かに給料よりも研究環境重視のようだ。

「給料のことを考えたら初めから研究なんかやっていませんよ」と話す、阪大の審良教授のような方もいらっしゃる。

一方、「給料より研究環境、というのは日本だけ」「上乗せが月20万円と聞いて、みみっちいと笑ってしまった」と話す、米カリフォルニア大の中村教授のような方もいらっしゃるわけで。

国語力的には、「給料には無頓着なのか無頓着じゃないのか、どっちじゃい!」という突っ込みを入れたくなる。また、「中村教授、20万円を『みみっちい』、なんて言い方は、しないほうがいいと思いますよ」とも。

文句なしの研究環境を与えられて、かつ給料もいっぱい、というのがベストなんでしょうが、ここで思ったのは、研究者の「業績」と給料との関係について。

誰かが莫大な経済的富を手中にしている、しかもそれはオレの研究のおかけじゃないか!と研究者が感じたとき、「もっと給料くれよ!」となるんでしょう。やっぱり人間、こういうときの心のエネルギーが、最も強い。

どんなに画期的な発見をしたとしても、それが一文のカネも生み出さないのであれば、おそらく研究者は「もっと給料よこせ」とは言わないような気がします。

もし、研究者の給料が「業績」に比例するのだとしたら、では「業績」とは、経済的富を生み出すものに限られるのか、ということです。

文科系なんて、ねえ。経済学は、まだいいかもしらんが。

理科系で、莫大な経済的富を生み出す仕事をした研究者は、たとえば文学部の研究者に対しては、どういうふうに感じているんだろう。「おれの給料の百分の一でいいじゃん」とかかな。

まあ、「カネにもならん研究をしとるなあ」と思われていることは確かだろうが。

文学部出身者のヒガミ、というか、屈折した心情、ということで、ご容赦ください。