昨日、事務次官さんの発言を取り上げたが、今度は夕刊に、大臣さんの記者会見での発言が載っていた。
《(次官の発言は)「講演の全体を盛り上げる意味で若干過激な、誤解を生むような表現を使った」》との由(朝日新聞2月8日付夕刊より)。
「若干過激」という表現が、国語力的には極めて微妙ですねえ。
「若干」=副詞的に使うと、「多少。いささか。」(広辞苑第六版)。多くはないが、少しはある、といった感じ。「若干過激」=ちょい過激、といったところか。
だとすると、大臣さんは「発言の方向性自体は間違っていない」という認識だと、読めなくもない。
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朝日書評欄先取り企画、久々にビンゴ!
2月10日の、朝日書評欄掲載書籍。
まず、2月5日の記事で取り上げた、ヨアヒム・クルツ『ロスチャイルド家と最高のワイン―名門金融一族の権力、富、歴史』(日本経済新聞出版社)でしょ。
次に、筒井清忠『昭和十年代の陸軍と政治―軍部大臣現役武官制の虚像と実像』(岩波書店)。
さらに、五十嵐惠邦『敗戦の記憶―身体・文化・物語1945-1970』(中央公論新社)。
おお、3冊もビンゴだ!
というわけで、『昭和十年代の陸軍と政治』と『敗戦の記憶』の書評を、先取りでやっちゃいましょう!
……というのはウソです。
いや、このことに気づいたのが、昨日の夜。水曜日に気づいていれば、読書の順番を変更して、土曜日中に先取り書評、アップしたのに。入手しただけで、未読でした。残念。
こんな本を読んでいたのもあって、機会を逸してしまった。
こんな本、なんて言っちゃいけませんね、国語力研究所の人間として、読まねば。難波博孝編『臨床国語教育を学ぶ人のために』(世界思想社)。
なかなかおもしろい。
が、ちょっと気になった箇所をいくつか。
2章「私の臨床国語教育の歩み」より。
《しかしもっともショックだったのは、教員を目指さない学生の多さである。教育学部(教育学科)の学生は、教員養成に関する十分な授業を受けてみんな教員を目指すのだと思っていた私は、大学に来て教育関係の授業内容を詰め込まれながらも人生に迷い続けている学生の姿であった。》(p31)
気になったのは、教育学部の学生の姿ではなく、引用した部分の第二文。これ、非常に難解である。
思うに、
@「私は、教育学部(教育学科)の学生は、教員養成に関する十分な授業を受けてみんな教員を目指すのだと思っていた」
A「教育学部(教育学科)の学生は、大学に来て教育関係の授業内容を詰め込まれながらも人生に迷い続けていた」
という二文を、グシャッと一文にしちゃった結果、こうなったのではなかろうか。
ただ、このままだと、どうしても「私は……学生の姿であった」という主述関係と(まずは)読んでしまい、「へ?」となってしまう。
ひょっとしたら、この本自体が、読者の読解力を試す実践になっているのかもしれない。
もう一箇所。
《国語教育研究者(大学で学生に授業を教える実践者としてではなく)としては、臨床国語教育に対して何に対してどのようにかかわればいいのだろうか。》(p45)
「学生に授業を教える」じゃなくて、「学生に授業をする」なんじゃないの?と思われたかもしれないが、相手は教育学科の学生だから、「授業を教える」はアリであろう。
それよりも、「臨床国語教育に対して何に対してどのように」が気になった。「臨床国語教育に対してどのように」あるいは「臨床国語教育の何に対してどのように」のほうが、いいんではなかろうか。
さらにもう一箇所。
3章「臨床国語教育の理論的基盤」1節「「ことばの学び」生成の場への「臨床的アプローチ」」より。
《例えば検定教科書の「ごんぎつね」「走れメロス」「こころ」などの定番の学習材は、ある特定の世代を越えて親も子も、また、どのような地域に生きていようとも、学校教育文化というべき共通性をもって読まれてきた。その際に、それぞれの作品に絶対的な価値が埋没しており、それを読解し理解していくことだけを「読むこと」の学習だと考えると、読み手にとっての意味は捨象され、絶対的価値が国語科授業の外に存在することになってしまうことも指摘した。》(p63〜64)
そうじゃなくて……という、論の流れ自体には、激しく賛同します。が、ある語がちょっと気になった。
どこかわかります?
「価値が埋没しており」というところ。
なんか、「埋没」しちゃってたら、見つけ出されることもなかろうに、と、思ってしまったわけです。
「価値がビルトインされており」……と、やたらにカタカナ語を使うのは、国語力的にはよくないですね、「価値が埋め込まれており」とかのほうが、いいんではなかろうか。
マクラのつもりが、ずいぶん長くなっちゃったんで、今日のところはこのへんで。
臨床国語教育についての本格的紹介は、明日以降、改めて。