昨日は自宅飲みが6時スタートと早かったため、9時には酔って寝てしまい、結局「特命係長」は観られず。
今朝は3時に起きる。1時間ほど本を読んで、寝直す。6時に起きて、今度は新聞を読み、また1時間ほど本を読んでから寝直す。
結局、本格的に起きたのは、11時近くだった。あーよく寝た。久々だな、こんなに寝たの。
別出版社からの依頼原稿がすべて終了し、毎日小学生新聞連載も年度末分まで脱稿、という一種の解放感というか達成感ゆえか。
毎小のほうは、4月からも続くみたいだけど。やりますよー、なぜか住所が会社の石戸編集長!
というわけで、今日は、スーパーへ豆乳を買いに行ったり、本を読んだりして過ごす。
でも、別出版社のほうもそうだし、毎小のほうもそうなんだけど、読書中に気づいたネタをストックしておくと、後々非常にラクなことがわかったので、読書中もPCを立ち上げっぱなしにしておき、随時ネタをエクセルに打ち込んでいく。なるほどこれが生産性の向上ってやつか。
外出先では、ケータイのメモ帳機能を使うこともある。先日は、出先でちょうど入力中に、研究所から電話がかかってきた。同僚アーさん、いつもと違って、すぐ電話に出たから、ちょっとビックリしたかもしれない。というのは、いつもはカバンのポケットにケータイを突っ込んでいるので、着信に気づくのに時間がかかるor気づかないことも多いゆえ。
さて、先週後半からの読書。
まず、山崎正和『文明としての教育』(新潮新書)。
Z会国語力研究所が考えるところの国語力、またそれを測定し、向上するためのツールとしての
国語力検定、というところとは、距離のある方かな、と思っていたんですが、恥ずかしながらそれは、ぼくの思い込み、勉強不足でした。
そうそう、そうなんですよね!と思ったところ、引用しておきます。
《じつは言葉とは、個人が自分自身のために意思や感情を伝える道具としてあるものでありません。むしろ、言葉は伝える相手のために、第三者を含む社会のためにあるものです。》(p136)
《かつて本を読むということは、じつは朗誦するということでした。(中略)そうした訓練によって、私たちは日本語の文体、あるいは息づかいを身につけ、はじめて個性のにじむ文章が書けるようになるのです。(中略)/そのうえでさらに必要なことは、書き言葉にもとづいた話し言葉の教育です。書き言葉がきちんとしていないかぎり、まともな話し言葉ができるわけはありません。そして、書き言葉に活きた流暢さを与え、逆に話し言葉に規律を与えるためにも、私は名文の朗読と暗誦が不可欠だと考えるのです。/(中略)いずれにしても、世には「型」をきちんと持つ表現方法があって、人びとはそうした型に接するところからそれぞれ話し言葉を身につけていったのです。》(p160〜161)
山崎先生、
国語力検定に一枚かんでいただけないものかなあ。手紙出してみようかな。
次に、石井竜生『先生の集団逃亡が始まった』(清流出版)。
先生の集団逃亡が始まるほど、子供や保護者がどうしようもなくなってる、という趣旨の本かと思ってましたが、それもあるにはあるけど、教師に対する批判もなかなか厳しい。とりわけ、小学校の校長先生や教頭先生に対するそれが。「ったく、イマドキの子供や保護者は!」というカタルシスを求めてであれば、小学校の先生方は、読まないほうがいいっすね、これ。