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戦争関連本を2冊と、国語力検定

[2007年12月08日(土) ]

12月8日だからってわけでもないのだが(という含意をわかっていただけるのが、国語力、と)、最近の読書から2冊紹介。

まずは、久生十蘭『久生十蘭「従軍日記」』(講談社)。



久生十蘭、いくつか作品を読んで、面白いなあ、と思っていたんだが、年譜的なものは、この本で初めて読んだ気がする。函館出身で、現在の函館中部高校に通ったことがあったんですね。おまけに、この日記の翻刻をした人が、北海道教育大学函館校の先生。函館漂泊の楽しみがまた増えた。北教大の先生も、紹介してもらおうかな。

印象に残った箇所を、いくつか紹介しておく。

昭和十八年三月四日、台北〜高雄〜マニラと飛んだ日の記述。

《二時十分、マニラ上空。低空なれば赤瓦の美しき町よく見える。いよいよ来たかと思う感じなり。確実に日本を離れたような気がす。》(p27)

当時、台湾は外国ではなく、日本と認識されていた、ということですね。

昭和十八年四月二十七日、ジャワ島にて、現地の司政長官(当時、占領地だったということです)と。

《長官、今日は二人きりでゆっくり話そうという。いやはや、えらいことになりそうな予感あり。気が滅入る。(中略)いつか読んできかせるといった家族八人から来た厖大な手紙の綴込帳二冊取りだす。予感命中の趣なり。日本出発の当初からの分、内室の分、長女の分、長男の分、一つずつ音読し、いちいちくわしく註釈をつける。これが涯てきりもなくつづく。合槌をうつのに苦しむ。厖大な一冊が終るとまた一冊にかかる。いささか心気朦朧とす。》(p129)

手紙の朗読が終わると、次は長官さん、日本の家族へ出すハガキに、著者にも何か書いてくれと頼み、結局解放されてこの日著者が寝たのは深夜(明け方?)の4時。

翌四月二十八日。7時半に起床して、この日は現地視察とパーティ。

《(夜)十時、帰る。改めて夕食をする。それから撞球になる。暑く、疲れ、へとへとなれど(長官の)相手をする。二時近くまでやり、それから長官の部屋で、三時までいろいろ家族の話をうけたまわり、三時半、ようやく解放されてくたくたになって引退る。》(p133〜134)

翌四月二十九日。この日もイベントやパーティ。

《(夜、)やれやれと思ってがっくりしていると長官また玉を撞こうと云いだす。みな逃げておれ一人なり。止むなく相手をする。三時までやり、それからまた長官の寝室で家族の話をきく。日本へ帰ったらぜひ家を訪問してくれなどといろいろ約束させられる。五時近くマンデー(=水浴び)をし疲労の極で眠る。》(p136〜137)

翌四月三十日。この日もイベント、現地視察など。

《九時起きる。連日の寝不足でフラフラす。(中略)十一時半、帰ってまた撞球。いい加減にしろと腹が立ってくる。(略)官邸みな寝しずまり、寂閑した中で二人で真夜玉を撞く図異様なり。(中略)一時半ようやく切上げるとこんどは日本出発以来の日記を読む。三時なり。》(p138)

この数日間の記述に、なんとはなしに可笑しみを感じました。

作家が日記で感情をあらわにしているところも興味深いですが、それ以上に、昭和十八年半ば、外地の、少なくともこの地域においては、結構酒も食料もふんだんにあったんだなあ、というのも意外でした。

九月六日の記述、このときは前線を視察していたんですが、《朝食にジン少々飲み》(p369)ともあるし、《毎日ご馳走をたべ、風呂へ入り、時間にさまたげられず思うさま読書をするということ、作家生活をはじめてから殊にこの二三年はほとんどなかったことであったが、いまこういう場所でこういう充ち足りた時間を与えられたというのがなにか並々ならぬ摂理であるように感じられ感謝に耐えぬのである。本のあるところで読めず第一線に近い前線でこのような読書が出来るというのは仲々並々ならぬことのようである。》(p369〜370)ともあるし、翌九月七日の記述には《さもしい事を云うようだが内地の乏しい暗い食事のことを考え、帰ってからのわびしさが思いやられ、いつもながらそればかりで沈んだ気持にさせられる。》(p374)ともあるし。

ちなみに当時のご馳走は、やっぱりすき焼きとお刺身だったようですね。

捕虜収容所を視察した際の記述。

《見上げると二階の廊下の窓からまた大勢見下して何か云っている。焼けっぱちに歌をうたっているのが反抗的にて癪にさわる。北米の同胞のことを思い合せれば、むしろ優遇にすぎるという位のものなり。》

北米の同胞、ときたか。そうそう、『紀ノ上一族』、読みたいんだけど、なかなか見つからないんだよなあ。


その北米の同胞つながりで、野崎京子『強制収容とアイデンティティ・シフト』(世界思想社)を読む。



著者が日系三世アメリカ人、著者のお父さんが日系二世アメリカ人で、実際に強制収容経験者なわけだが、著者のお父さんが、実に飄々としているなあ、という印象を受けた。飄々とした生き方をしたいものです。

印象に残った箇所を紹介。

《父と伯父たちはイチゴ農園を営む農民であったし、一家で農作業に従事する日本の習慣にそって、母も育児の合間を縫って手伝っていた。これは当時、男性しか農作業をしなかったアメリカでは異質のことだったらしく、母が仕事の欄に“farmer”と書いていぶかしがられたといっていた。しかしこのように家族一同で農作業をしたからこそ、限られたやせた土地にもかかわらず、驚くような収穫高と品質のよい農作物を手にすることができたのだった。しかし白人農家の中には、「子供までが参加して農作業する日本人/日系人農家は自分たちに不当な競争を強いている」と主張する人もいた。》(p149)

ははあ。白人農家のみなさん、そう来ましたか。子供にお手伝いぐらい、させたほうがいいと思いますがね。

もう1箇所、日系米国人の戦時補償問題に献身したデイル・ミナミ弁護士の言葉。孫引きになっちゃいますが。

《私は、我々の国家が完全無欠でなければならないなどと信じる程無邪気ではありません。何故なら、そんな国家などありえないからです。しかしまた、自らの過ちを正すことができない国家が、本当に偉大な国家になれると信じるほど無知でもないのです。》(p189)

ちょっと感動しました、この言葉。


さあ、明日は2007年度第2回国語力検定の実施日だ! もちろんワタクシ、朝から研究所につめてますよー!