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おからと吉兆と、国語力検定

[2007年11月17日(土) ]

今日はオフで、すでに飲みながら書いているため(飲みながらじゃなくてもそうかもしれないが)、尻切れトンボになるかもしれないが、ご容赦。昨日の記事の、最後の3段落は、キレイに起承転結……じゃないか、序破急……でもないか、まあうまくまとまったな、と思っているんですが。

さて、その昨日の記事に対する垂渓庵先生のコメントを読んで、はたと考えた。

ぼくもその京都の小料理屋、連れてってくださいよ……ではない。いや、行きたいのはやまやまだが。

昨日書いた、おからが産業廃棄物になっちゃうスパイラル、《もともとタダに近い→社会が豊かになって「わざわざこんなものを食べなくても」と、需要が減る→商品として出回らなくなる(余ったものは捨てられる)→おからを食べたことのない人が増える→ますます売れなくなる→ますます捨てられるものになっていく……》というのが、ものすごく一面にすぎないのではないか、と思ったのである。

京都の小料理などで使われるおからと、産廃になるおからは、そもそも出所が違うのではないか。ていうか、違うに違いない。(「違う」を2つ重ねた、あんましうまくない表現だな。)

前者は、豆腐屋さんがお豆腐を作る過程で生まれたおから。後者は、豆腐工場でパック詰め豆腐を生産する過程で生じたおから。

後者では、豆腐生産はいわば大量生産の「工業」である。だから、前者よりは安く供給できる。しかし、その過程で生じたもの、しかもさほど利益が見込めないものを、商品にしようというインセンティブは働かないだろう。したがって、おからが産廃になってしまう。

かつては、豆腐は豆腐屋さんで買うものだった。その時代は、おからもまた、豆腐屋さんの商品として生きていたのだろう(し、一部では今も生きている)。

しかし、今は多くの人がスーパーで豆腐を買う。他のものも一緒に買えてラクだし、何よりスーパーのほうが安いしね。業務スーパーなんか、300グラム入り1パックオールウェイズ39円だぜ。すいません、よく買います。

やっぱ、今日はうまくまとまらんかったな。こういうことです、豆腐を工業生産物にした主体=おからを産業廃棄物にしてしまった主体は、ほかならぬ(ぼく自身を含む)我々消費者ではなかったのか、ということです。これもまた、物事の一面だろうとは思いますが。


えーと、もう1つ。

昨夜、テレビで、吉兆のもろもろの偽装疑惑に対して、街の人々が「ケシカラン!」と憤慨しているのを見ました。

たとえば、疑惑の1つである但馬牛は、3万円ぐらいする商品だそうです。

しかも、「贈答用」と、わざわざことわってるし。

いや、街行く人々にインタビューして、その中に吉兆を利用したことのある人、吉兆の商品を食べたことのある人、今後吉兆にカネを使おうという意図がある人も含めていいけど、それがどれだけいるんだろうか、と思ったわけです。吉兆ユーザーって、日本国民の何パーセントぐらいなんだろう。

もし、ぼくがインタビューされたら、「いやー、お金持ちの人たちも、実はあんまり舌肥えてるわけじゃないんですね、その疑惑の牛肉を『さすが但馬牛、美味い!』とか何とか言って食ってたわけですよね、呵呵」とか何とか答えたんじゃないかな。

だからっつって、「産地表示じゃない、味だ!」というと、それはそれで難しい問題になるわけで。

それが直接的に吉兆に向かった(向かう)かどうかはわかりませんが、お金持ちの人の「どや、但馬牛、美味いやろ!」的なものが台無しになった怒りというか恥ずかしさは、あるんじゃないかと思います。ええと、こういうのが嫌われる発言なのかな。まあいいや。すいません。だいぶ酔ってきました。