[2007年06月05日(火) ]
昨日、ファッションは場所や状況に規制される、というようなことを書いた。
ただ、場所や状況の性質というものは、客観的というか外的というか絶対的というか、つまりは誰にでもひとしなみに適用されるもの、実際にそこにいる人の思惑とは無関係に、あたかも法のようにキッチリと決まっているもの、ではなく、そこにいる人がそれをどう認識しているかにも左右される。
したがって、同じ場であっても、そこをどう認識するかが人によって異なれば、それに応じてファッションも異なる、ということになる。
かつてぼくは、長泉町というところに住んでいた。10年ぐらい前である。徒歩3分ぐらいのところに、「エース」という激安スーパーがあり、10年前のぼくは、いつもそこで、休日の朝、ギルビージン緑ボトル880円ぐらいだっけかな、を、6本ほどまとめ買いするのが常であった。(それを2週間で飲んでたからな……若いな。)
その、「エース」へ、どんな格好で行くか。徒歩3分の途中、道路の両側は田んぼが過半である。休日の朝である。
そう、パジャマのままで行っていたのである。一応、同僚などに会わないよう、朝の開店直後に行くのが常であったが、それでも、たまーに知り合いに出くわし、「えへへ」などと誤魔化していたのではあるが。
ぼくにとっては、当時、徒歩3分のところにあるスーパーは、自室の延長だった、自室の延長と認識していた、ということになるだろうか。
パジャマとまではいかなくとも、たとえば「ここまでならジャージのままでオッケー」のような境界は、それぞれの人が持っており、その境界は人によって微妙に異なっているのでないか、と思う。そしてその境界こそが、その人の持つ空間認識の反映である。あるいは、「この空間は〈私〉にとってはこういう性質であるべきだ」という、意思表明であると言ってもいいかもしれない。
(ファッションの持つコミュニケーション的側面、ということで、ちょっとは「国語力」に絡んできたでしょうか。)
さて、先日の大阪出張の際の帰り道。
新幹線の中で、「へえ」と思う光景に出くわした。

