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「人間であることの恥」と、反戦運動とピザーラと、国語力検定

[2008年09月03日(水) ]

今朝、ワイドショーを見てて、「なんでグッチ裕三さんが政治について熱く語ってんだ?」と思ったら(いや、語っちゃ悪いわけじゃないですけどね)、グッチ裕三さんじゃなくて、民主党の原口さんという議員さんでした。

以下、ひょっとしたら全然笑えないかもしれないので、冒頭に和みネタをもってきました。



鵜飼哲『主権のかなたで』(岩波書店)読了。



半分くらいまでは、難しいけれども、ところどころ「なるほどー」と思いながら読み進めていたのだが、何だか途中から、「あれ? この人は要するに、○○と○○と○○と……が、激しくキライなのね」ということばかりが、前面に出てくる……ように感じられる。

ほとんどが、キライな(と思われる)ものへの批判ばっかりで、つまりはネガティブな文章ばっかりで、こう、読んでいてあまり楽しくない。読者を憂鬱にさせようという意向なのか。

前半部分から、「なるほどー」と思った箇所を引用。

《「人間であることの恥」という表現は、いかなる点で衝撃的なのだろう? それは、一見近似しているが、おそらくこれの対極にあるもう一つの表現、「人間としての恥」と比較することによって明らかになる。(中略)「人間であることの恥」は、人間主義のリミットの言表である。「人間」のリミットでしかなされえない言表行為である。それは「人間」への帰属自体に対する違和感、抵抗感を表明する。この帰属を否応なく問題化する。この場合、言表の主体と言表行為の主体は、「人間として恥ずかしい」と言う場合のようにすっきり別の場所に置くことができない。日本語の固有表現を用いるなら、おのれを棚に上げることができない。そこで、この表現には、まるでこの恥から逃れるには「人間」から脱出しなくてはならないかのような衝動がはらまれることになる。》(p48〜49)

「〜として恥ずかしい」と、「〜であることが恥ずかしい」。「〜」に、いろいろ代入してみてください。ここは、国語力的に「なるほどー」ってやつね。てことにしておきます。

後半部分から引用。

《東京オリンピックは、私のなかの「少国民」の屈辱の記憶である。》(p170)

当時小学四年生だった著者、日の丸・君が代に喝采を送り、「頑張れ、ニッポン!」で終わる作文を書いて先生にほめられたから、だそうです。

ちなみに、この部分が書かれたのは1999年で、次のような記述が続きます。

《二〇〇二年、日韓ワールドカップの年。法制化された「国旗・国歌」がまたしても大量の「少国民」を作り出すのを私は座視できない。》(p172)

2004年アテネオリンピック、2006年ドイツワールドカップとトリノオリンピック、2008年北京オリンピックと、2年ごとに座視できない状況が起きるわけだ。

《日本の公教育を被るさだめのすべての子供に私は呼びかけたい、私の記憶のなかの小学四年生に呼びかけるように――。「あの旗が揚がったら、眼を伏せよう、横を向こう、お喋りをしよう。出来ることなら、背を向けよう。あの歌が聞こえたら、地べたにしゃがみこもう。口をこじあけられそうになったら、噛みつこう。恥ずかしいことは何もない。恥ずかしいのは彼らの方だ」。》(p172)

こう呼びかけるのも、一種の強制じゃあないの?という疑問を抱くと、多分、「それが、国家による強制を、強制とも感じなくなっている、最も危険な状態だ!」と返されるんでしょうね。

また、2年ごとに大量の「少国民」を作り出しているのは、むしろメディアや企業なんじゃないか、とも思いますけど。

にしても、小学生はともかく、公立高校を受験する中学生にとっては、なかなかこの呼びかけに応えるのは厳しいと思いますよ。そういうことを堂々とやっても、京都大学を卒業して一橋大学の教授になれるだけの自信がある、というのであれば別ですが。

ぼくは、やりたいのであれば、腹の中で舌を出している、ぐらいでいいと思いますけどね。

反戦ビラをポスティングした人が、逮捕されたことについて。

《今回の弾圧は、ビラの配布という、すべての社会運動の呼吸ともいうべき基本作業の圧殺を狙っている。三人が有罪になるなら、いっさいの社会運動が有罪を宣告されるのだ。》(p304)

うーむ。「いっさいの……」というのは、国語の問題の選択肢的には、誤りとされる表現ですね。

《駅構内はもちろん、すでに多くの大学でも、構内でのビラの配布は禁じられている。公道でのビラまきがいつ禁止されても不思議ではないところまで、この社会の自由の空間は切り縮められている。》(p305)

ここ、マナビゲートのときの、有楽町駅前のビラまき部隊を思い出しました。警察に注意されても、どこ吹く風のビラまき部隊。実は、自由のあかしだったのか。

《郵便受けとは私的な空間が公的な空間に向かって開かれる「窓」である。同じ社会に生きる市民として、そこにみずからの政治的主張を記したビラを投ずることは私たちの譲ることのできない権利である。》(p305)

だそうです。

ピザーラとかのチラシのスペースを買う、あるいは、ピザーラチラシに挟み込んでもらう、などすれば、より効果的じゃないっすかね。と、建設的な提案をしてみたりする。いやいや、コンサル料など不要です。

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