今橋映子『フォト・リテラシー』(中公新書)読了。
写真に様々な言葉で解説を加え、というか、解釈を加え、まあ、その素晴らしさを褒め称えているんでしょうな、そういう章もあるが、いまいちピンとこない。
そんなに難しく解釈しなくても、ああ、いい写真だなあ、でよいのではないか、という気もする。
てか、1枚の写真を解釈するのに、こんなにも多くの言葉が必要なのか、ということに、国語力的に興味を覚えた。
百聞は一見にしかず、ではないけれども、ああ、言葉よりもイメージのほうが、圧倒的に多くのことを伝えられるんだな、と。
言葉って、不自由なもんなんだな、と。
それでも、いや、それだからこそ、
国語力検定が必要であると考えるわけである。
お。なかなかよいオチだったな。
いくつか引用しておく。
《例えば芸術系ではない一般大学の一般講義で(それでも「写真と異文化理解」という講義題目に惹かれて、二百名近く集まってくる学生の中で)、キャパの「崩れ落ちる兵士」を初めて見たという学生が、実に七十パーセントにも上ることを、私は実際自分がアンケートを採ってみて初めて知った。》(p185〜186)
ここを国語力的に解釈すると、「まさか初めて見る学生が70%だとは思わなかった、もっと多くの学生がすでに見ているはずだと思っていた」となりますが。
でもそれって、自分の好きなアーティストを実際以上にメジャーだって思うようなもんじゃないですかね。
《しかもその彼らが、半年の授業の後に、例の大回顧展に足を運んでみれば、それこそ数時間にもわたって飽きることなく堪能できた……と報告してくれるのである。これは写真の、メディアとしての力の減退ではなく、報道写真を知る、あるいは写真を(意識的に)見る――という機会さえあれば、読者は確実に増えることを暗示しているだろう。》(p186)
これも、自分がその授業を担当する教師だ、という点を割り引いて考えたほうが、よろしいかと。
「先生、全然つまんなかったすよ」という報告は、なかなかできんでしょ。
という、脇の話はおいといて。
《写真は、現実の鏡や窓でなく、そこから恣意的な選択を続けられた上で私たちの手許に届けられた断片にすぎないのだとすれば、私たちはあくまでもそれを思考の契機とするほかない。(中略)映像の向こうにいる写真家、その向こうにある「写らなかった」世界、その写真がこちらに届くまでの媒体の性質……こうした諸現象に思いをめぐらし、調べ、思考して初めて、私たちは自分自身の判断を下すことができる。》(p201)
これには、深く納得しました。
でも、脇筋から、もう1つ。
パリの街角でキスをする男女の写真、ロベール・ドアノーという写真家の「市庁舎前のキス」という写真だそうですが、目にしたことがある人もいるかと思います。(何パーセントかは、予想もつきませんが。)
これ、発表時は、演出も何もなく自然にパリの街角を撮ったものだ、という話だったんですが、それを巡ってのエピソード。
《絵葉書やポスターでドアノー人気が急上昇するに伴って、「自分たちこそ、このモデルだ」と名乗りを上げるカップルが続出したのである。何と十四、五組のカップルがあらわれたという。そしてついにそのうちの一組が、肖像権を主張してドアノーを相手取り、訴訟にまで持ち込むに至り、事態は笑い事ではすまされなくなる。》(p87〜88)
あーあ。人間って、カネがからむと、情けないっすね。
《実は一九五〇年『ライフ』初出の記事は、数組の俳優たちを使って、パリを舞台に撮影された「演出写真」であった。》(p88)
訴訟にまで持ち込んだカップル、「いや、あまりにも我々に似ていて……」とでも言ったんでしょうかね。
さて、これで一件落着かというと、さにあらず。
《ドアノー側がそれを認めた後、今度はその撮影に加わって演じていたカップルの一人が(この映像の爆発的売れ行きに乗じたのか)ドアノーおよびラフォ(フォトエージェンシー)にロイヤリティの追加支払いを求める別の訴訟を起こした》(p88)
あーあ。
結局、追加支払いは認められなかったようですけどね。
話は、まだ続く。
《さらなる後日談を記せば、敗訴した元女優(つまり写真の中の女性)は、当時ドアノーから贈られたオリジナルプリントを、二〇〇五年オークションに出品し、約二一〇〇万円もの高値で落札されたという。》(p88〜89)
よかったですね。