荒岱介『新左翼とは何だったのか』 (幻冬舎新書)読了。
今さら、かつての新左翼への共感を求めているわけでもないでしょうし(これを読んで共感を覚える人がいるとも思えないし)、かといって鋭く批判するわけでもないし、今イチ狙いのよくわからない本でした。
記録および解説、というやつでしょうか。でも、新左翼について知りたいという人が、そんなにいるとも思えないしなあ。まあ、ぼくは読んだわけですけどね。
二箇所ほど引用。
《ベーシックに返れという新左翼の問題意識は(中略)教条主義と表裏一体のものとして新左翼を成立させています。(中略)この結果、新左翼の教義問答は、宗教の教義問答と同じになる宿命をはらむことになります。マルクスはこう言っている、レーニンはこう言っていると、教典化された文献からの引用で自分の主張を飾るのは新左翼の特徴であり、トロキツストはじつはトロツキー教徒なのです。つまり「新」は「守旧」でもあるパラドックスのもとに成立することになってしまうのです。》(p70)
宗教、とは言わなかったけど、大学の同級生に運動をやっているやつがいて、「でもそれって、サークルの代わりだよね」と言ったら、ものすごくイヤな顔をされたな。
諸々の理由でサークル活動なぞには縁のなかったぼくにとっては、「サークルの代わりだよね、いいなあ」と続く言葉のつもりだったのだが。
もう一つは、国語力的な箇所。
三里塚の話の部分で、三里塚といえば、かつて『ぼくの村の話』というマンガに激しく感動し、涙を流したものだが。
小中高校生にも、そのマンガを、強く強く勧めたものだが。
《九月十六日、ゲリラ戦法をとった農民・支援者は、報復として(中略)機動隊三人を殲滅してしまいます。》(p92)
殲滅、ねえ。
これって、ナチスが「最終的解決」などと表現したのと、似てますよね。
いわゆる、婉曲語法でしょう。
虐殺、という状況ではなかったと思いますが、「三人を殺してしまいました」「三人を殺害してしまいました」と書くのが、国語力的にはベターではないか、と。
と、思って、辞書で調べてみると、「殲滅」には、「皆殺しにする」という意味がありますね。てことは、婉曲語法ってわけでもないのか。
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続けて、雨宮昭一『占領と改革』(岩波新書)読了。
特に感想はありません。
何だろう、文体が今イチなじめなかったのかな。
まあ、これは好き嫌いの問題ですね。
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ついさっき、ちょっと離れたところで拍手が聞こえたので、「何だ?」と思って見てみると、新人さんが配属先へ挨拶に来たようです。
国語力研究所には、新人の配属はない。
こうして、また1つ、ぴったり1つ、研究所スタッフの平均年齢が上がるわけですな。
ここで一句。
と思ったけど、そんなにうまくはひねり出せません。
おお、配属先への挨拶のあと、関連する部署へも、上司の人に連れられて挨拶に回っているようですな。
お、研究所まであと5メートルのところまで来たぞ。
来るか来るかぁ?
ネクタイをビシッと直して、と。
あれ?
……おいおい、そこでUターンかよ。
シクシクシクシクシクシク……。
(もちろん、一部フィクションです。今日はネクタイもしてないしね。)