先週末の結婚記念日の夕食。
白ワインを飲みつつ(焼酎泡盛だけじゃないっすよ)、
タマネギのフライを食いつつ、
マグロを焼いてバルサミコソースかけたやつ(かな?)を食う。
イ、ターリアン。
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イタリアつながりで、ってこともないんだが、ロベルト・サヴィアーノ『死都ゴモラ』(河出書房新社)読了。
……読了、と書いたが、半分読んでヤメ。
イタリアでは100万部売れた由。イタリア人にとっては、とってもおもしろいんでしょうなあ。
ナポリって街が、いかに○○(想像にお任せします)なところかがわかります。
しかしこれ、「ノンフィクション小説」なんだそうだが、一瞬、「なに、ノンフィクション小説って?」と思ってしまった。
ノンフィクションと小説とは、別々のものと思い込んでいたゆえ。
ノンフィクション小説=事実をもとにした(事実を素材にした)小説、ってことか?
しかし、100%空想だけで作り上げられた小説ってのも、滅多にあるまい。事実が素材、事実がモチーフとなっているものが、ほとんどのはず。人間、なかなかゼロからモノを考えられるものではない。
となると、小説とノンフィクション小説とを分ける境界は、どこにあるんだろう?と思ってしまったわけです。
ほとんど事実、というのが、ノンフィクション小説になるのだろうか。もしそうだとすると、ロベルト・サヴィアーノさん、よく生きていられるな、という気もする。書かれたほうは、「余計なこと書きやがって」と思うに違いないんだが。しかも書かれたほうは、何のためらいもなく人を殺す集団のようだし。
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今朝の新聞より。
朝日新聞朝刊には、「もっと知りたい!」というコーナーがある。
今朝のそれが、「
東北大 抜群教授に給与奮発」という話題。
記事リードには、《「給料には無頓着」といわれる研究者たちを、それで確保することができるだろうか。》と、
東北大の試みを疑問視するようなくだりがある。
記事本文を読んでいくと、国内の教授さんたちは、確かに給料よりも研究環境重視のようだ。
「給料のことを考えたら初めから研究なんかやっていませんよ」と話す、
阪大の審良教授のような方もいらっしゃる。
一方、「給料より研究環境、というのは日本だけ」「上乗せが月20万円と聞いて、みみっちいと笑ってしまった」と話す、米カリフォルニア大の中村教授のような方もいらっしゃるわけで。
国語力的には、「給料には無頓着なのか無頓着じゃないのか、どっちじゃい!」という突っ込みを入れたくなる。また、「中村教授、20万円を『みみっちい』、なんて言い方は、しないほうがいいと思いますよ」とも。
文句なしの研究環境を与えられて、かつ給料もいっぱい、というのがベストなんでしょうが、ここで思ったのは、研究者の「業績」と給料との関係について。
誰かが莫大な経済的富を手中にしている、しかもそれはオレの研究のおかけじゃないか!と研究者が感じたとき、「もっと給料くれよ!」となるんでしょう。やっぱり人間、こういうときの心のエネルギーが、最も強い。
どんなに画期的な発見をしたとしても、それが一文のカネも生み出さないのであれば、おそらく研究者は「もっと給料よこせ」とは言わないような気がします。
もし、研究者の給料が「業績」に比例するのだとしたら、では「業績」とは、経済的富を生み出すものに限られるのか、ということです。
文科系なんて、ねえ。経済学は、まだいいかもしらんが。
理科系で、莫大な経済的富を生み出す仕事をした研究者は、たとえば文学部の研究者に対しては、どういうふうに感じているんだろう。「おれの給料の百分の一でいいじゃん」とかかな。
まあ、「カネにもならん研究をしとるなあ」と思われていることは確かだろうが。
文学部出身者のヒガミ、というか、屈折した心情、ということで、ご容赦ください。