[2008年03月04日(火) ]
漂泊記だけ、というのも何なので、追加。
というより、ネタが古くなる前に、というほうが正確なんですけどね。
昨日の朝日新聞夕刊、池上彰さんのコラム「新聞ななめ読み」が、なかなかにおもしろかった。国語力的に。
タイトルは、「大きくなる新聞活字」。
毎日新聞が先行し、近日中に朝日・読売がそろって、新聞の活字を大きくする、という話題にからめたものなのだが、そのコラムの末尾部分。
《新聞が相次いで活字を大きくする本当の理由は、読者が高齢化したからではないか。などという憎まれ口を叩くのはやめておきましょう。高齢化が進む私も、活字が大きくなるのは嬉しいのですから。》
こういう場合、「高齢化が進む私も……」という表現で緩和されてはいるものの、国語力的には「憎まれ口」のほうが本意と考えて間違いありません。
うまいなあ、池上さん。
ところで、ぼくは、次のようにも考えました。
活字を大きくして、ページ数が同じなら、文字の総量は減る。すなわち、必要原稿枚数=必要原稿料も減る。
一方、大事な収入源である広告は減らせない。かつ、広告は文字数じゃなくてスペースを売っているわけだから、紙面における広告の割合が減らないとすると、必要原稿枚数は、相対的にますます減る。
「わかりやすくするため」なんて言っているが、これって要するに、新聞社サイドのコスト削減ではないか。もちろん、原稿料じゃなくて給料で書かれている紙面も多いが、文字数=投入リソースだと考えると、紙面作りに要するリソースを節約できるのは間違いない。
あ。「あれえ、何だか記事を書く負担が減ったのに、給料は同じだぞ」という新聞社社員が増える、という可能性もあるか。
……などという憎まれ口を叩くのはやめておきましょう。
■
もう1つ、新聞から。
今朝の朝日新聞の「ひと」欄。
オックスフォード大学教授になる苅谷剛彦さんが紹介されていたのだが、その、生い立ち紹介部分。
《東京の下町生まれ。高校紛争の空気が残る都立高校1年の時、ヘーゲルやマルクスを論じる級友の議論に何か違うと手に取ったのが、社会学の本だった。》
え。
マジ?
……2月19日のブログで、
《ニーチェ、ショーペンハウアー、マルクスが、一般的な「教養」かあ。/そりゃやっぱ、旧制高校の時代まででしょう。大学進学率が50%近くまで達した現在は、ちょっとそれは無理がある。》
と書いたが、これはぼくの認識違いであったか。
苅谷さんは、ぼくより10コ上。
10コ上の高校1年生が、ヘーゲル・マルクスを論じていたとは。
ちょいと驚き。じゃなく、かなり驚き。
まあ、全員が全員じゃあないとは思うけど(ていうか、思いたいけど。もしクラス全員、たとえば○○高校1−Bの生徒全員がヘーゲルを論じていたとしたら、何か気が遠くなります)。
長じて学者になるような人は、高校時代からそうなのかもしんないけど。
少なくとも、ぼくの高校時代、ぼくの周囲には、そんな人間、1人もおりませんでした。すいません。SFや推理小説ばっかり読んでました。小林秀雄を読まされて、深く考えることを断念させられてたし。なーんてね。
教養のレベルが激しく落ちたのは、意外と最近なのかもしれない。
これで、昨夜〜今朝拾ったネタを消化、と。