ブログ検索
最新記事
最新コメント
国語力研究所代表
神聖喜劇と裾野中華と三島ウナギの比較と、国語力検定 (2008年08月19日)
国語力研究所代表
三島夏祭り最終日で激突と、国語力検定 (2008年08月18日)
ちゅんしゃんじん
三島夏祭り最終日で激突と、国語力検定 (2008年08月18日)
エ○タ見ているTさん
頼朝公旗挙げ行列出陣式と、国語力検定 (2008年08月16日)
国語力研究所代表
頼朝公旗挙げ行列出陣式と、国語力検定 (2008年08月16日)

http://www.zkaiblog.com/kokugoryoku/index1_0.rdf
プロフィール

「国語力」について考えた本その2

[2007年02月22日(木) ]

まず、タイトルとは全然関係ない話を。

ベネッセやっちゃったなあ。

うちの朝日新聞だと、週刊新潮の広告がちょうど経済面にあって、その広告の真上に、社長交代が記事として掲載される間の悪さ、というか、間の良さ、というか、朝日も意地悪だなあ、というか。

新潮の広告見て、「またまた、トバシじゃないの?」とまでは思わなかったが、せいぜいかつてのウワシンの一行情報ぐらいの信憑性か、と一瞬思ったのだが、その真上に辞任の記事だからねえ。なんだ、認めちゃったんかい。

と、思って、朝のワイドショーを見たんだが、さすがにテレビメディアでは、このニュース、大々的にはやらんでしょうね。落としてる広告費が違うもん。無邪気には叩けんでしょう。代理店の動きを見つつ、メディアもしばらく様子見って感じでしょうか。

彼らは、「国民の安全を脅かすわけでもないし、もっと大事なニュースが山ほどある」という理屈を用意してるんでしょうが、だったら同様のケースの田舎の校長先生も叩くなよ、と思ったりもする。


さて、タイトルに戻る。

国語力検定」では、ということは国語力研究所としては、もちろん、読書を勧めている。だけど、けっして、読書は、読書それ自体が目的ではない。(えーと、純粋にエンタメ系は、ちょっと別かもしれません。)

作家の重松清さんは、次のように書いている。

《小説なんて、読みたければ読めばいいし、読みたくなければ読まなくてもぜんぜんかまわない。本をたくさん読むよりも、たくさん片思いをするほうが、絶対に、意味がある。》(藤原和博・編『[よのなか]教科書 国語 心に届く日本語』新潮社、p268、重松清さんの言葉)



なるほど。そのとおりである。可能であれば、たくさん片思いをするほうがよい。人は、想いがうまく伝えられない状況に放り込まれてこそ、想いをいかに伝えるかを考え始める。(で、ついでにいえば、何度かは失恋もしたほうがよい。理由は、大人であれば、言わずもがなですね。子どものみなさんは、まあ、だまされたと思って。)

これは、高橋源一郎さんの、次の言葉にも通じるのではないだろうか。

《世界を、「外部」を読み解くために、小説が存在しているのであって、小説を、あるいはテキストを読むために、世界が存在しているのではない。》(高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』文藝春秋、p51)



高橋源一郎さん、実物はなかなかカッコいいらしいです(鎌倉ミスドの前で会った、というか、見た、うちのカミサン談)。

コメント

Z会のSNS パルティオゼットならもっと多くのユーザーで交流を深められるよ!コチラから参加しよう
名前 : 
Email : 
URL : 
クッキーに保存

小文字 太字 斜体 下線 取り消し線 左寄せ 中央揃え 右寄せ テキストカラー リンク