[2007年02月12日(月) ]
たまには、マジメな話を。
鈴木直『輸入学問の功罪』(ちくま新書)より。
《新東京の山の手に居を構えた新政府の官僚などは、江戸下町の庶民の世界から見れば、しょせんは無教養で野暮な薩長の田舎侍にすぎない。この新支配層が威光を放ち、庶民の敬意を勝ち取るために、外国語の知識や文明の利器ほど好都合なものはなかった。文明開化は新支配層の文化的コンプレックスを糊塗する絶好のアクセサリーとしても機能した。豊かなコミュニケーション・ネットワークを享受する下町庶民への対抗戦略として、山の手階級が西洋的教養を振りかざすという図式は、以後長きにわたって、日本の教養主義をめぐる基本構図となる。》(p118)
なるほどー。現代でも、たとえば都会で最先端のファッションを身に付けている人は、大概地方出身者だったように思う。ファッションも、自己表現という意味では、「国語力」の一要素か。
《学生たちにドイツ語を教えて生活している私は、学生たちが仲間うちで話している日本語が、私の使う日本語とはまったく別の言語として生き生きと進化(退化?)をとげていることに日々感心している。ところが彼らがいったんドイツ語のテクストに向かうと、その訳語はしばしば古代の化石のごとく固定化し、パターン化してしまう。それだけではない。およそ自分が翻訳した文章が、何を意味しているのかについての想像力がまるで停止してしまう。本人ですら意味のわからない訳文を平気で作る。「それはどういう意味なの?」と尋ねると「わかりません」と言う。「なぜそんなふうに訳したの?」と尋ねると、よく返ってくるのが「辞書にそう書いてありました」という返事だ。これは外国語教師ならば、必ずといってよいほど日常的に経験している対話だろう。》(p218)
これは、外国語についてだけだろうか。「本人ですら意味のわからない日本語を平気で書いている」ということは、ないだろうか。
