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本日東京ロマンチカと、国語力検定 (2009年06月11日)

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勉強や受験がらみのネタだと思った方、ご容赦ください。そうじゃありません。

朝日新聞「志布志事件」取材班『虚罪――ドキュメント 志布志事件』(岩波書店)読了。



朝日新聞、やるじゃん。素直にそう思いました。東京新聞に変えようかと思っていたのだが、もう少しだけ様子を見るか。

しかし、警察は怖いね。……なんてことを書くと、尾行がつくかもしれないので、やめておきましょう。あ。こんな本を取り上げた時点で、その危険性はあるか。すいません冗談です。

と、言いつつ、いくつか引用。

「志布志事件」で取られた警察官調書について。

《たとえば、懐智津子さんの四回目の会合についての警察官調書では、テーブルの上には大きな盛り皿が二個置いてあり、唐揚げ、エビや野菜などの天ぷら、ウィンナー、卵焼き、薩摩揚げなどが盛られ、その中に銀色のアルミ箔の容器に入れられたキュウリやタマネギなどの酢の物などが添えられ、透明なラップが被せられていた、また、青っぽい発泡スチロールの四角いトレーに大根の千切りとイカと魚の刺身が五切れくらいずつ入れられたものも一人分ずつ準備されていたことになっていた。そのトレーに入っていた刺身醤油の袋やワサビの袋の形状について供述があるなど、極めて詳細だった。》(p49)

うーむ、ここまで詳細な供述を引き出すとは、なかなかやるな、警察官。

……と、思いました?

続けて、こうあります。

《これについて、判決は、「全体としてみると、あまりにも詳細にすぎるというべきである。仮に、このような供述が記憶に基づいてなされたというのであれば、被告人懐智津子は、驚異の記憶力の人物ということになろう」と皮肉った。》(p49)

やりすぎちゃった、ということですな。

でも、たまーに、皮肉が通じず(なのか、皮肉とわかっててもムキになっちゃうのか)、「そうだよ、滅多にいない驚異の記憶力の持ち主だったんだよ、フフーン(鼻息の音)」て言い張るやつ、いますよね。見てて辛くなるから、やめてほしいんだけど。

県警の課長さんが、県会議員さんから「会合があったのかどうかの認識を」と質問されて。

《無罪が言い渡されたことは重く受け止めている。無罪が確定した以上、今申し上げた以上の認識を申し上げるべきではない。》(p126)

県会議員さん、

《「会合がなかった」と表現している判決を尊重するのか。》(p126〜127)

と、重ねて質問。

県警の課長さん、

《重く受け止めている。》(p127)

納得しない県会議員さん、「刑事部長、答えてもらえるか」と、今度は刑事部長さんに質問。

《重く、真摯に受け止めている。無罪が確定した現在においては、認識を述べるのは控えたい。》(p127)

納得しない県会議員さん、「本部長、もし何かあれば答えてください」と、今度は本部長さんに質問。

《自白したような会合が存在したとする証拠がないと裁判所で判断されたものと認識している。この判断を尊重するのは当然だ。》(p127)

ここ、国語力的に興味深いな、と思って引用してみました。

「会合があったのかどうか」に対して、「無罪が言い渡されたこと『は』重く受け止めている」。

「は」がポイントですね。国語力的に意訳すると、「会合があったかどうかは藪の中だ」あるいは「自分は会合があったと思っている」となるでしょうか。

また、県会議員さんの「判決を尊重するのか」は、「判決を事実と認めるのか」という意味でしょう。

それに対して、「重く受け止めている」「重く、真摯に受け止めている」。「真摯に」が入ろうが入るまいが、国語力的に意訳すると、「質問に正面から答えるつもりはありません」となりますね、これは。

本部長さんにいたって、ようやく質問に答えたといった感じでしょうか。

ひょっとしたら、本部長さんの前に課長さんや部長さんが「判決を事実と認める」旨の答弁をしちゃうと、あとで本部長さんにえらく怒られる、という事情があったのかもしれませんが。企業不祥事になぞらえて考えると、そういう事情、わからなくもない。

さて、その後、捜査が適切だったかどうか、県警で内部調査が行なわれた。

ところが。

《内部調査の結果が文書化されていないことがわかった。(中略)理事官によると、検証会議は「午前、午後、夜と連日のように開かれた」が、「通常の会議同様、議事録はない」という。》(p131〜132)

ふーむ。警察の「通常の会議」では、議事録がないのか。

なんでだろう、機密保持のためかな。

しかし、そうすると、伝達事項や決定事項を、みんなどうやって覚えているんだろう。

個人個人で、手帳などにメモとして議事録を残すのかな。

でも、それだと、機密保持の意味がない気もするし。

やっぱり、みんながすべてを頭に叩き込んでいるのか。

なるほど、誰もが「驚異の記憶力」を持っていても不思議に思わないわけだ。

岩本茂樹『教育をぶっとばせ 反学校文化の輩たち』(文春新書)読了。



久々に「どうなんだろ、これ」という感想の本。いや、つまんないという意味ではなくてね。書かれている状況が。

「反学校」なら、なんでわざわざ学校に行くんだろう、「輩たち」は。義務教育ならともかく、高校はそうじゃないし、学校へ行かなくても卒業資格をとることはできるのに。

ああ、「ぶっとばす」ためか、学校を。教育を。関わりのないところだと放置するのではなく。

いくつか引用。

《「おい、岩本。百円やるさかい、ジュース買うて来い」/夜間定時制課程・柏木高校に赴任した私が、緊張した面持ちで二年A組の教室に足を踏み入れた瞬間、生徒から投げかけられた言葉がこれであった。》(p10)

初っ端から思った。

国語力的に、この言葉遣いはいかがなものか。

別の生徒が、教師を殴ったときの話。

なんと、父親が学校に駆けつけた。

そのときの様子から引用。

《轟音とともにアメ車ムスタングで校門をくぐり抜け、車を玄関入り口に横付けにした。》(p11)

まあ、クルマは何に乗ろうと、別にかまわんでしょう。

《さっそうと車から飛び降りた父親はステテコに腹巻きという出で立ちで、職員室の扉を勢いよく開けるなり、まくしたてた。》(p11)

ただ、広い意味での国語力的に、「ステテコに腹巻き」というのは、いかがなものか。

また、職員室への入り方も、いかがなものか。

《「うちの祐也が、先生殴ったらしいな。殴るようにしむけたんは誰じゃ! よぉ! そんなことをさせた教師が悪いんと違うんか(違うのか)、ええっ! 学校が問題やろ言うとんね! 違うんか! どう責任とってくれるねん」》(p11)

すげー理屈だ。

傷害罪の容疑者が、「オレに殴らせたオマエが悪い」と言うようなもんじゃん。

この理屈が通れば、我々が通常考える加害者と被害者の立場が、すべて引っくり返る。

しかし。

なんと学校は、この理屈、飲んじゃったんですね。

問題の生徒を、退学処分にもしなかった。

もちろん、傷害罪で告訴もしなかったってことでしょう。

そりゃ、親も生徒も、何でもできると思っちゃうよな。

にしても、不思議だったのは、親が出てきたこと。

先生を殴るような生徒にとって、親が出てくるなんてことは、激しく恥ずかしいことなんじゃないか、と思うのだが。仲間に対してね。「なんだオマエ、親に泣きついたのかよ」みたいな感じで。

うーむ。不思議だ。

もしかすると、生徒も親も、同じ平面にいるってことなのか。

そんなことぐらい、先に引用した親の発言からすぐに気づけよ、ということか。なるほど。

《高校生は煙草を吸ってはいけない。なぜなら、喫煙や飲酒は二十歳までは法で禁止されているからである。しかし、社会では状況によって、その基準は揺らぐ。言い換えれば、適用される時と適用されない時があるのである。実際の生活世界では、二十歳になっていなくとも、定職につく者やフリーター、さらには大学生などが飲酒喫煙をしていても、必ずしも咎められない。いわゆる社会の中には状況によって法の適用に差があるわけで、許容範囲を含んでいるのが社会なのである。》(p39)

これは、わからなくもない。だからといって、定時制に通う高校生は未成年であっても飲酒喫煙が許容される、という話にもっていくのは、ちと違うのではないか、という気がする。

高校の生徒でも何でもないタレントさんの未成年での飲酒喫煙が、あれだけ叩かれるんだからさ。

《高校生という同世代において、社会というものをもっとも理解しているのは輩たちであるのは間違いない。社会性が身に着いているかどうかというものを、仮に社会力と称するならば、真木たちは学力というものさしではなく社会力というものさしで自己の高い位置を誇示したのである。》(p72)

仕事をしている=社会性がある……そうかなあ。

教師にタメ口をきいたり、それどころか教師を殴ったりする生徒が、社会性がある……なんか違和感あるんですけど。

大学生のとき、中学の同級生ですでに社会人の友だちがいた。社会性でいえば、自分よりはるかに上だと感じた。それは、彼の言葉遣いや立ち居振る舞いに対してではなかったか。

先ほど発言を取り上げたお父さん、こんなことも言っている。

教師に「お前はクルマに乗るとき絶対シートベルトしているか?」と尋ね、教師が「絶対にしている」と答えたのに対して。

《「そうか。ほんだら、うちの祐也に言うて、柏木高校の前で朝からビデオ、ずっと撮るぞ。ええねんな。もし、してなかったら、責任とってもらうぞ」》(p75)

「責任とれ」が好きなやあ、このお父さん。あ、言葉うつっちゃった。

えーと、ここで教師はなぜか黙ってしまう。「どうぞどうぞ」って言えばいいのに。あるいは「責任って、何の責任ですか? どうとるんですか?」とか。あ、それが理解できなくて、黙っちゃったのか。

するとお父さん。

《「そやから、でけへんことをするな、言うね」》(p76)

いやー、お父さん。お父さんも、できないことを言ってると思いますよ。

息子さんに朝からずーっとビデオ撮影、しかも一日だけってことじゃないでしょ、お父さん、息子さん仕事どうするつもりですか。

……なんて言うと、おそらく「ビデオ撮らせた教師が悪い、責任とれ」となるんでしょうね。

ああ、何をしても「オマエが悪い、責任とれ」。

……ごめんなさい。自分には、こういう親子と付き合う気力、ないような気がする。その意味で、著者は偉大なのか。そうに違いない。

そうだ、このお父さん、こんな発言もしている。

息子さんが、制服の校則違反で帰宅させられたことに対して。

《「(中略)昼(全日制)の奴も誰一人、違反の服、着とらへんと言えんねんな。ええっ!」》(p93)

《「それやったら、昼でも違反しとったら、帰すんやろなぁ。帰ってないねやったら、承知しやぁへん(しない)どぉ!」》(p93)

いかがでしょう、この理屈は。

交通違反で、大概の人が「運が悪かった」と思うところを、「違反した奴全員捕まえとるんかい、もしそうじゃなかったら、承知せんぞ(=自分も見逃すべき)」と主張するのに近いですかね。

何だろう、善悪の基準が極めて相対的なんだろうか。

自分の中に「これをやったら悪い」という動かぬ基準があるのではなく、他の人がやっていてお咎めナシであれば、それは当然自分がやっても悪いことではない、というような。

まあ、そんなこんなで、著者の高校、制服を廃止してしまうのだが、それに最も反発したのは誰だと思います?

そう、制服の校則違反をしていた生徒たちです。

笑うところではありませんよ。

さて、前半は割と理解ある教師という感じだったのだが、後半、ちょっとトーンが変わってくる。さすがに疲れてきたのだろうか。

《教育を受けようとする二十歳を過ぎた青年が「殺すぞ!」と教師に迫ったにもかかわらず、なお学校がその青年を受け入れなければならないとは私には思えなかった。そのようなことがまかり通れば、教育という名のもとに、学校というところはどのようなことをしても許し、受け入れていくことになるのではないか。もし、社会が学校に対してそのような無限の寛容を求めるならば、それは神に仕える聖者の振る舞いを教師に求めることを意味すると思えた。》(p140)

「殺すぞ!」という言葉だけは、許せなかったようです。

確かに国語力的には、この言葉、よくない。

しかし一方、言葉の意味のインフレ、という側面も考えねばならない。

つまり、この「殺すぞ!」は、文字通りの「殺すぞ!」ではなく、怒りを伝えるためだけのもの、あるいはせいぜい「殴るぞ」程度の意味ではないか、とも思える。

最近の若者言葉でいうと、「死んじゃえば」ってやつですね。

著者自身、前半で「威圧的な言動の背後にある真意をつかまねばならぬ」旨、書いているわけだしなあ。なんだかここは、それまでの生徒への対応と比較すると、過剰反応のようにも思えた。

第7章の成績評価についての話も興味深かったが、割愛。いずれ大学も近い状態になるんだろうな、そして大卒という資格も意味がなくなっていくんだろうな、もうなりつつあるのか、いや半分なっているのか、という感想をもった。

学校とは何のためにあるんだろう、ということを考えるには、いい本だと思います。

それにしても、この本で取り上げられた状況、ウチダタツル先生なら、なんとコメントするんだろう、と思いながら読んでいると、なんと「あとがき」にこうあった。

《本書を世に送り出す機会をとりまとめていただきました神戸女学院大学文学部教授内田樹先生には、心より感謝いたします。》(p220)

ふーむ、ますますコメントをお聞きしたくなった。

……と思ったら、ブログにコメントがありました。

オビに推薦文も書いてらしたんですね。

では、先生のコメントを引用。

《ひさしく本学の非常勤で社会学を教えてくださっている岩本茂樹先生の本が出ました。/夜間定時制高校における〈輩〉たちとのタフでホットな闘いと和解の物語です。/あの温厚な笑顔の背後では、こんなダイハードな人生を送ってらしたんですね。読んでびっくり。 》
(ブログ「内田樹の研究室」より)

ダイハードな人生……なるほど。

昨夜は「オクイ君を囲む会」なるものに参加する。



オクイ君。ちょっと痩せすぎじゃねーか、おい。しっかりメシ食えよ。

……と、思っていたら、実は「オーイシさんを囲む会」らしい。

いや、オーイシさん本人がそう主張されていたんでね。どんなに偉い人がメンツに含まれていても、そこにオーイシさんがいる限り「オーイシさんを囲む会」になるらしい。



オーイシさん。ちょっと……いや、何でもありません。

おお、何と同期のクニタニもいるではないか。



同期クニタニ。今では数少ない、ワタクシを「君」付けで呼んでくれる人である。

このトシになって「君」付けで呼ばれると、何だかちょっと嬉しい。

さて、場所は新装なったヤキトリの「三楽」である。三島広小路駅近く。



外観。「三楽」とは思えぬ小奇麗さである。

店内もまた、「三楽」とは思えぬ小奇麗さであった。



芋焼酎をロックでガブガブガブガブ飲む。



冷やしトマト。いい塩使ってるね。



ヤキトリ。そうそうここは、白ネギじゃなくてタマネギだった。



ヤキトリ。流行りの表現を使えば、「普通に美味い」。

お店は小奇麗になったが、お値段は昔のとおり、何でも安い。

おお、ここを「漁場」代わりにすればいいのか。

御徒町に近い雰囲気あるしね。



望田幸男『二つの戦後・二つの近代――日本とドイツ――』(ミネルヴァ書房)読了。



これは、評価が難しい。

学者さんの書いた本なのだが、専門書ほど力が入っているわけではないし、かといって、すっかり力を抜いて書かれているわけでもない。

ドイツでは中等教育におけるラテン語の重視が1970年代まで続いていた、というのは、「へぇー」でした。

日本も、そんなに簡単に漢文漢学をうっちゃってはいけなかったんではないか。

本文から、一箇所だけ引用。

《比較(史)を効果的に行なうには、結局のところ共同研究をいかに行なうか――いかなるテーマを、どのように設定し、いかなる共同研究者を組織するか――にかかっている、といっても過言ではなかろう。》(p200)

比較研究について書かれた章は、いろいろと参考になりました。

現在、比較研究に取り組もうと考えているゆえ。

しかしながら、そういう学術的なトレーニングは、ほとんど受けていないに等しいゆえ。

すべての面ではなく、貢献できる面で貢献すればよいのか……と、ちょっと気がラクになる。

「あとがき」から、一箇所引用。

《本書執筆のきっかけは、編集部の後藤郁夫氏が「先生は、自分が発した問いにまだ答えていませんね」といった言葉である。(中略)一種の「知的刺激剤」だと心得つつも、ついついむきになって反論や弁明をくり返しているうちに、本書の原構想にあたるものが点滅してきた。そうしたなかで、練達の編集者との対論のまにまに、自己告白めいたものをさらけ出していく自分の「おかしさ」に思わず苦笑してしまった。》(p205)

書き手と編集者との関係として、なかなかステキだなあ、と思って取り上げてみました。

いかがでしょう、編集者のみなさん。て、誰に向かって書いてんだか。

先週土曜日は、「言語力検定」なるものの講演会?に参加する。

「講演会?」と書いたのは、おそらくこれは講演会だろうな、と思ったからである。

主催者側による正式名称は「ワークショップ」である。

しかし、「ワークショップ」というカタカナ語は国語力的にいかがなものか、読み手にはそれが何なのか伝わらないのではないか、ということで言い換えてみたわけである。



受付は、そんなに派手派手しくなく、好感が持てる。

司会などスタッフの皆さんも、派手派手しくなく、むしろ素人っぽくて好感が持てた。



会議室の窓から見た景色である。

どこかわかります?

Z会横浜事業所にいたことのある人であれば、わかるだろう。

そう、パシフィコ横浜である。

へぇー、こんなところでも岸壁から釣りをしている人がいるんだ、でも釣れても食う気しねーな……などと、ヨソ見ばかりをしていたわけではない。

「言語力検定」なるものが何をしようとしているのか、じっくりとお伺いする。

どうやら、わが国語力検定とは、目指すものがだいぶ異なるようである。

「言語力」とは、言語の種類を問わないらしい。

その人の知識・経験・教養レベルは不問とし、とにかく相手に自分の意見を伝えられる、ということを重視するらしい。

したがって、「自由記述問題」が目玉らしいが、その自由記述において、テニヲハなどの文法の誤り、誤字や表現の誤りなどは不問とするらしい。そんなんで大丈夫なのか?

もっとも、「自由記述問題」も配点が1点だから、やむをえない面もあるのだろうが。

しかし、自由記述問題で配点1点か。

自分も同じ業界に長く身を置いているが、配点1点の記述問題ってのは、滅多にないな。

「選抜」を目的とした試験であれば、それもアリだろうが、「言語力検定」は「選抜」が目的ではあるまい。

○か×か、オールオアナッシングの基準で、到達度を測ることができるんだろうか。

あ。この検定、産業界も結構絡んでいるようだから、実はウラに「選抜」があったりして。中高生段階からエリートにツバつけとく、といった感じか。

講演の最後に、では「言語力検定」のために、どんな取り組みをすべきか、という話があり、そこでまず挙げられたのが「読書」であった。

主催する財団法人の設立趣旨からして、非常によくわかるのだが、言語の種類を問わない「言語力」をつけるために「読書」せよ、というのは、今イチすっきりとはつながらない気がするのだが。

講師の先生は、「読書によって書き言葉が習得できる」とおっしゃっていたが、うーん、これも言語の種類を問わない「言語力」と、ストレートには結びつかないような……。

「言語力」、総じてビジネス本などに出てくる一種の「スキル」のような印象を受けました。

おお、だから産業界が絡んでいるのか。

ま、でも、それ以前に、日本人であれば国語力でしょう。稚拙な文章を書かれたり、ロジカルだけど中味のない主張をされたりしても、困るでしょ。

さて、その国語力だが、講演の最中、国語力的におもしろい出来事が起きた。

「起きた」というよりは、「起こしてしまった」か。

いや、そういう場で、ワタクシ、珍しく手をあげて質問なんぞをしてしまったわけです。

講演の中で、「言語力検定」の例題を解かされたんですが、その自由記述問題の解説のとき、講師の先生が「ほかに、こういう答えの場合はどうなんだろう、というのはありますか?」とおっしゃった。

そこで、思わず「はい」と手を挙げてしまったわけである。

講演後の質疑応答の時間ならね、

「えー、○○のナニガシです、今日は勉強になるお話をありがとうございました。ところで……」

といったように、まずは所属姓名を名乗り、講演のお礼も言い、というのが国語力的には正しいだろう。

しかし、質疑応答の時間ではないので、ハテどうしたものか、と一瞬悩んでしまったのである。

悩んだ結果、所属姓名・講演へのお礼はすっ飛ばして、いきなり、

「これこれこういう方向の解答はどうでしょう?」

と言ってしまったのである。

ああ! せめて所属姓名ぐらいは「Z会国語力検定を担当しておりますカワフチです」と名乗るべきであった!

おれも国語力的にまだまだだなあ……と痛感してしまったわけである。

もしかしたら、そのせいかもしれない。

講演後の質疑応答の時間で質問に立った人、誰も所属姓名を名乗らなかった。

そのせいかもしれない、「この問いの出題意図が理解できない」と、えらく講師の先生にからむ人もいた。

講師の先生、申し訳ありませんでしたー!

でも、質問したおかげで、非常におもしろいこともわかった。

自由記述問題においては、ロジカルでさえあれば、ネガティブな解答内容でもオッケーらしい。

たとえば、○○という職業について書かれた課題文で、○○に必要な資質が挙げられていたとする。

自由記述問題で、その職業を選択しない理由を問われたとする。

「これまでの経験に照らせば、自分には○○に必要な資質がない」、つまり「自分はダメな人間だから」という方向性の解答であっても、オッケーだそうである。

これは、学校という場においては、かなり新鮮なのではないか。

この点をアピールすれば、いわゆる「できる子」にはウケると思う。と、親切にもアドバイス。

いわゆる「できる子」ほど、オトナにウケるよう、自分を偽ってでもポジティブなことしか書いていないような気がするので。

おお、抑圧からの解放。この支配からの卒業。

これで子どもも生き生きするでしょう。

今週のベランダ菜園。

先週のゴーヤが、



これ。

今週のゴーヤは、



これ。

ずいぶんな成長である。



雌花第一号も咲く。受粉も完了。

しかし。



葉っぱにこんな症状が出てるんだよね。

これ、去年ミニトマトがやられたやつ。

うどんこ病でもないみたいだし、何だろうこれは。

小学生コース会員センターに電話して聞いてみようか……冗談です。

詳しい人、教えていただけるとありがたいっす。



ミニトマト1号は元気だが。



ミニトマト2号の葉っぱにも同じ症状が出ている。

2号は、土もまったく新しいのを使ってるのにな。



エダマメは、順調。



ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー『がんこなハマーシュタイン ヒトラーに屈しなかった将軍』(晶文社)読了。



これが系統的読書ってやつである……てこともないか。

感じたのは、同じ時代のソ連とはやっぱ違うな、ということ。

「スターリンに屈しなかった将軍」て、いないよな。ていうか、いたとしても粛清されたよな。

ハマーシュタインさん、1934年に実質的に軍を解任されますが、その後短期間現役に復帰したりして、1943年に病没されています。

反ナチ・反ヒトラーだと、ヒトラー自身に思われていたにもかかわらず、身柄を拘束されるようなことは一切なし。

《用心もせず、恐れもせず、あんなにはっきりあの政権を拒否した人を、私はほとんど知らない。驚くべきことに、ハマーシュタインは一度も逮捕されなかった。聞きたいという人には誰にでも、ドイツはロシアには絶対に勝てないという話をした。1939年にはもう、ドイツは戦争に負けるだろうと予言していた。》(p328)

ふーん。

ほかにも、いくつか引用。

《ハマーシュタインは、最高司令官の仕事の仕方をこんなふうに説明した。「小さな仕事はしない。そのためには利口な人間を数人、用意しておく。だが、しっかり考えて、目の前がクリアになるまで、たっぷり時間をかける。そうやったときだけ、まともなリーダーになれるのさ」》(p98)

おお。何だかビジネス本でよく見かける内容だな。ひょっとしてハマーシュタインさんのパクリか?

ある程度の大きさの組織になれば、リーダーは判断だけ、というのが正解でしょう。

しかしだな。わが国語力研究所の場合は、そんな悠長なことを言ってられないわけですよ。

ああ、今月中に次回検定問題の素案を作って、今回の出題結果も見ながら難易度調整して、来月はイベントやら営業やら回って……ま、小さな仕事ではないか。大きな仕事なのである。

部下の将校をどう判断するか問われたときの、ハマーシュタインさんの答え。

《「私はね、部下を4つのタイプに分けるんだ。利口な将校、勤勉な将校、馬鹿な将校、怠け者の将校、にね。たいていの場合、ふたつのタイプが組み合わさっている。まず、利口で勤勉なやつ。これは参謀本部に必要だ。つぎは、馬鹿で怠け者。こいつが、どんな軍隊にも9割いて、決まりきった仕事にむいている。利口で怠け者というのが、トップのリーダーとして仕事をする資格がある。むずかしい決定をするとき、クリアな精神と強い神経をもっているからね。用心しなきゃならんのが、馬鹿で勤勉なやつだ。責任ある仕事をまかせてはならない。どう転んでも災いしか引き起こさないだろうから」》(p98)

あれ? これも、ビジネス本で見かける内容だよな。ひょっとしてハマーシュタインさんのパクリ?……と思ったのだが、「訳者あとがき」によると、これはモルトケという軍人の言葉を下書きにしているらしい。

ところで、この言葉のとおりだとすると、勤勉なやつさえいなければ、とりあえず組織に災いはないようにも思える。

なるほど、新しいオフィスのあるビルが第3・第4土曜日休館となったのは、トップマネジメントのそういう思惑もあってのことか……冗談ですよ冗談。

もう1つ、ハマーシュタインさんの言葉から引用。

《怠惰というのは、理性を育てることができるし、行動を慎重にさせるわけだから、いい特性なんだよ。(中略)人間には考える時間というものがある。勤勉さはその邪魔になるだけだ》(p238)

なるほど! やっぱ週休3日にするか!……半分冗談です。

ハマーシュタインさん、反ヒトラーではあったけど、ヒトラーに対する武力行動には慎重であったらしい。

《「ヒトラーのせいで、どんな奈落の底に突き落とされたのか、ドイツ人の最後のひとりが理解しないうちに(中略)もしも誰かが、思い切ってヒトラーを殺したりすれば[ドイツが第1次世界大戦で敗れたのは、国内のユダヤ人や共産主義者の策動によるものだとする]『背後からのひと突き』の嘘が、この戦争が終わってからヒトラーのプラスに働くだろう。大勢の人が『亡きわれらの奇蹟の男だけが、それを阻止することができただろう。背後から突かれるのは、これで二度目だ!』と言って、昔の毒をまたまき散らすことになるだろう」》(p322)

この考え方は、理解できなくもない。

でも、もしそうだとすると、ドイツは徹底的に痛い目にあわなければ「ならなかった」ことになる。

それもまた、何だか救いのない話ではある。

最後に、「訳者あとがき」から引用。

《2008年1月、ドイツ語の原書は初版10万部でスタート。》(p439)

じゅ、じゅ、10万部? 初版が?

すげーな、村上春樹ばりじゃん。

エンツェンスベルガーって人は、そこまで売れっ子なのか。

あるいは、我が国とは出版事情が異なるのかもしれない。

今日の朝日新聞朝刊から。

静岡・伊豆岳南という地方向けのページに、こんな誤植が。

《観光協会と漁協支所でつくる実行委員会は毎年8月、「ワクワク体験村」と題して、漁船ナイトサファリやスシュノーケリング教室を開いている。》

スシュノーケリング。

スノーケリングにしようかシュノーケリングにしようか、迷ったんでしょうね。

で、「ス」「シュ」のいずれかを記者さんレベルで削除し忘れたと。

そして、チェックする人は、スノーケリング(シュノーケリング)自体を知らなかったんだろう。

それはさておき、いいな、漁船ナイトサファリ。タモでトビウオやカンパチもすくえるんだって。

シュノーケリングも、ちゃんと教えてもらいたい気もするし。

西伊豆町安良里漁港周辺。

体験村は8月17〜28日。それ以外の日でも、4人以上の団体なら実施。

9月19〜22日は「トビウオすくい」を特別開催。

問合せは実行委員会まで。電話番号は万一間違えて載せちゃうと大変なことになるので自粛。

www.arari.co.jp/wakuwaku.html

こんなページもありました。西伊豆に泊まっていれば、漁船ナイトサファリ・シュノーケリング教室とも、2100円らしいっす。行きてー。

おお、最後は美しく地元(一応)のPRになったな。



同じく今日の朝日新聞朝刊、政治面から。

7月2日に衆議院解散か?というニュースの関連記事。

《ただ、組織票頼みの公明党にとって、都議選の投票率が上昇して当選ラインが上がるのは不利だ。》

当事者、つまり政党や政治家が「投票率が上がると不利だ(=投票率は低いほうがいい)」なんてことを言うと、メディアは「ケシカラン!」と叩くのに、当事者以外の人がそれを言うのは問題ナシ、というのも、何だか不思議な話だなあ、と思った次第です。



昨夜のマイケル・ジャクソン特番でオグラさんが、

「黒人でプロモーションビデオを作るなんて、マイケルが初めてだったんですよ。アメリカはまだそんな時代だったんですよ」

と言っていた。

それが事実かどうかは知らないが、となりに座るデーブ・スペクターさん、居心地悪かっただろうな。



昨夜は「必殺仕事人2009」の最終回であった。

藤田まことのモンドは、やっぱいい。

悪者「町方なんぞに、何も頼んでおらん!」

モンド「(あくまで腰低く)はい、仕事がすんだら、すぐに帰りますので」

悪者「仕事ぉ?」

悪者、一瞬考えたあと、ピンとくる。

刀を抜こうとする悪者。

モンド、その手をおさえ、同時に脇差でズブリ。

最終回だけあって、ヒガシの立ち回りは、仕事人にはないようなものであった。

数十人を相手に、大立ち回り。

暴れん坊将軍か桃太郎侍か、といった感じ。

そんな仕事をする仕事人は、おらんでしょう。



フルタチさんのニュースは、相変わらずおもしろいな。

これもマイケル・ジャクソン関連ニュースのときだったのだが、フルタチさんの背後にアメリカからの中継画面がパッと映し出される。

画面の中では、おそらくアメリカ駐在記者さんだろう、マイクを持って立っている。

早速その記者さんに話を振るのかと思っていたら、そのままフルタチさん、しばらく自分の話を続けておられた。

後ろに映った記者さん、しばらく「オレなんで映ってんだ?」状態。

そして、アメリカの記者さんとの会話が終わった後、フルタチさん、となりに座るコメンテーターさんに、マイケル・ジャクソンのニュースを「日本人のあり方、日本という国のあり方」との関連でどう考えますか、といった質問をされていた。(マイケルのニュースのときじゃなかったかもしれない。だいぶ酔ってたんで。でも、「何でここで日本人と日本国が?」というニュースのとき。)

これは、いわゆるムチャ振りってやつだろう。

さすがにコメンテーターさん、一瞬答えに詰まったようであった。結局、当たり障りなく答えてはいらっしゃったが。

フルタチさんて、何でも「日本人のあり方、日本という国のあり方」と結びつける傾向をお持ちのような気がする。

昨日書いた「肝心のオオゴト」、現在進行中と言えばいいだろうか。

うまい方向に転がればいいのだが。

もしそうなれば、これは全国紙経済面のネタになる。

うまくいかなくても、顛末は報告します。

あれだけ大きな企業の人と話をしたのは、初めてかも。



7月2日発刊の「国語力検定 分野別問題集」4冊の見本が、今日納品された。



ステキ。これも濃いっすよ。北海道特濃4.2牛乳。

1冊630円(税込)です、ぜひお買い求めください。

結構苦労したもんな、これ。

わが研究所スタッフ総動員。

さてと。打ち上げに行きますか。



シモン・ラックス/ルネ・クーディー『アウシュヴィッツの音楽隊』(音楽之友社)読了。



他の、よく知られている強制収容所体験記とは、少し趣きが異なる。

書き手が、収容所内の楽隊員、つまり生き延びられる可能性が相対的に高かったというのもある。

しかし、それ以上に、書き手が作家や学者ではなかったということのほうが、大きいような気がする。

素朴というか率直というか。見方感じ方がね。

興味深かったところを引用。

《カポ長ラインホルドの暮らしぶりは皆の驚異の的だった。彼は朝食に卵とハムを食べ、本物のコーヒーにまじり気なしの牛乳をいれて飲んでいた。彼の食卓は収容所長のそれよりよほど豪勢だという評判だった。彼の部屋の床下は秘密の地下倉になっており、そこに彼はドイツ産およびフランス産の最上のブドウ酒、上等のリキュール、十何リットルに達する純良アルコール等を貯えていた。それで親衛隊員にとっても彼から食事の招待をうけるということは大変な喜びだった。》(p122)

カポ長っていうのは、カポの長。カポってのは、収容者の中から選ばれた看守。つまりカポ長とはいっても、収容者には違いないわけです。収容したほうではなく、収容されたほう。

なんで収容者が、収容所の中で、そんなリッチな暮らしができたのか。

《死人がでるやいなやその隣人たちが本能的に開始する第一のこと、それは死人の持物をあらいざらい剥ぎとるということだった。(中略)/アウシュヴィッツでは死人に事欠かない。それでこういう死人たちから剥ぎとってきた品物でやがて市場が開かれるようになった。/そこにはさらにいろいろな配属先から収容者のかすめとってきた“商品”も加わっていた。(中略)/これらすべてに、まっすぐガス室に送りこまれる何万という人間からとってきた品物を加えると、最後には、巨大な経済市場ができあがった。そしてそれと同時に特権階級や無産階級、商品価値、経済変動、相場なども生まれた。》(p116〜117)

とまあ、こういうわけです。

すごいな。

ソ連から連れて来られた収容者もいたそうだけど、これを見て「ああ、共産主義はアカンかも……」と思わなかっただろうか。

ダッハウの収容所を見学したとき、収容所内部で収容者の作ったラジオが展示してあって、「よくこんなものまで作れたな」と思ったものだが、なるほどそういうことだったか。

昨日は東京で飲む。

某新聞社の人たちと密談。大声でしゃべってたけどね。



お店の人に、たくみにすすめられた焼酎。「3500円がキャンペーン中で3000円!」とか言って、うまいねどうも。



九州の焼酎であるからして、九州っぽいものを食う。さつま揚げ。



明太子。



カラシレンコン。うわ、こんな辛いとは思わなかったぜ。

初対面の人(女性)がいたので、名刺を渡そうとすると、

「すみません、名刺を切らしてまして……」

と言われる。

その場のみんなで、「それは国語力的に考えて、あなたには名刺を渡したくありません、という意味だね」と言って、大いに盛り上がる。

うむ、だいぶ流行ってきたな、オトナの国語力遊び。

泥酔して東京泊。



うー、頭いてえ、と思っていると、カミサンから電話が。

「同僚ホリーケさんから電話あったよ。アンタ、予定は朝からオフィスにいることになってたんじゃない?」

う。そうだ。

カミサンは、おれが昨夜は東京泊で、今朝はオフィスにいなくて当然と思っている。

同僚ホリーケは、おれが朝からオフィスにいるもんだと思っていたが、いないので、多分自宅にいるんだろうと思っている。

そこで、同僚ホリーケは、我が家に電話する。

おれはいない。

一瞬、「ありゃ。この電話は、マズかったか?」とドキドキしたことであろう。

一方、カミサンは、おれが自宅にいるもんだと思っている同僚ホリーケからの電話を受ける。

おれはいない。

一瞬、「ありゃ。ここは、国語力的にどう答えたもんだろう」とドキドキしたことであろう。

はからずも、国語力的になかなか興味深いシチュエーションを作り出してしまったわけである。

……ゴメンなさい、ワタクシの連絡不十分でした。申し訳ありません。

早速同僚ホリーケに電話を入れる。

「ふむふむ。それはオオゴトだ。直帰しようかと思ってたけど、オフィスに酔って、じゃなくて寄って帰ります」

と、この件は一応無事に終了。

しかし、肝心の「オオゴト」に、まだ進展が見られない。

「日本語検定 解答」という検索ワードでこのブログにいらっしゃる方、申し訳ありません。

今年は日本語検定、受けてないんですよ。どうせ何回受けても1級とれるし……冗談です。いや、1級はとれますけどね。6000円を何回も受けるのは、さすがにもったいない。6000円あれば、豪華な飲み会に1回いける。

しかし、せっかくですから、アドバイスを。

7月2日発売の「国語力検定 分野別問題集」のうち、「@読む力」「B話す力」「C書く力」(各630円)あたりをやっておくと、2級まではカタいと思いますよ。

あとは、そうですねえ、岩波新書の「赤版」てやつが、1938〜1946年までの間に101冊出ているそうですから、これらに出てくる言葉をすべて身につければ、1級合格は間違いないでしょう。

おお、なんて具体的なアドバイスなんだ。

ところで、日本語検定、今年から主催が東京書籍さんではなく、NPO法人(特定非営利法人)になっている。

といっても、実質的に東京書籍さんが仕切っているなんてことは、みなさんよーくご承知のことでしょう。

設立されたNPO法人、理事長はその方面では有名な大学の先生だけど、副理事長が東京書籍の社長さん、専務理事が東京書籍の100%子会社(テスト事業を主に手がける)の社長さん、常務理事が東京書籍取締役検定事業部長さんだからね。

設立日が2月5日。なんとも微妙な時期である。

設立準備は、そのずっと前から進めていらっしゃったんだろう。

今さら、「やーめた」とは、できなかったんだろう。

しかし、漢検協会とその関連会社の問題がメディアで大々的に報じられるのを見て、「あちゃー」と思ったんではないか。

NPO法人が大儲けできないのは当然としても、NPO法人経由で関連会社が大儲けするのも、これで難しくなったな、と。

おお、しかし、だとすると、このNPO法人、東京書籍(とその関連会社)以外にも仕事を発注するようになるのではないか。

わが研究所、検定問題作成請負もやってますよ。リーズナブルなお値段で。よろしければ、どうぞお問い合わせください。



宮崎県の東国原知事が、ちょっとだけ話題になっている。

自民党から、衆議院選挙に立候補してくれ、と頼まれた話。

「自民党総裁にしてくれるんなら、出てやらんでもない」と答えた由。

大阪府の橋下知事は「出たくない、という意味なんじゃないですか」とコメントしていた。

なかなか国語力的な解釈である。

もう1つ、それに関して国語力的におもしろい記事が今日の朝日新聞朝刊にあった。

《東国原氏が「次期総裁候補」を条件に掲げたことについて、大島理森国対委員長は23日、「国政におけるさまざまな経験、見識を踏まえた上で、そういう発言をするべきだ」と不快感を示した。》

「国政におけるさまざまな経験、見識を踏まえた上で、そういう発言をするべきだ」。

これを国語力的に解釈すると、

「国政における経験も、見識もないんだから、そういう発言はするな」

となる。

「経験がない」はともかく、「見識がない」なんて、他人に向かってよく言えるなあ。



半沢隆実『銃に恋して 武装するアメリカ市民』(集英社新書)読了。



アメリカ人だけが銃好きってことでもないとは思いますけどね。

子どもは鉄砲のオモチャ好きだし。

日本人もグアムへ行けば射撃体験するって言うし。

銃好きは、本能と結びついていると思わなくもない。

国民性も多少はあるのかもしれないが、それだけに銃所持の根拠というか、「しょうがないか」的理由を求めるのは、ちっと無理があるんじゃないかな。

やはり、規制されていないから銃を持っている、というのが本当のところだろう。

規制に対する反発があるのは、国民性が大きいとは思うが。

このあたり、因果関係がなかなかヤヤコシイ。

ハイウェイ・パトロールの、ある現職隊員の言葉から引用。

《怪しいやつは撃ってから、そいつが本当に悪いやつかどうかを考える(中略)考えてから撃ったり、職務質問してから必要があれば撃とう、なんて紳士的に振舞う警官は、元警官(殉職警官)が多い》(p67)

全然関係ありませんが、「よい日本人は死んだ日本人だ」という言葉を思い出しました。ダワーの「人種偏見」で読んだんだっけか。ウロ覚え。

今日は、6月22日9時40分配信 琉球新報のニュースから。

《23日の「慰霊の日」を前に琉球新報社は16日から4日間、県内4年制総合5大学の学生(1129人)を対象に沖縄戦について知識や意識を問うアンケートを実施した。その結果、沖縄戦を学ぶことは99・4%が「大切」と答えた一方、牛島満司令官が自決した日として定められた「慰霊の日」の由来を「知らない」と答えた学生が29・4%に上ったほか、今年は沖縄戦終結から何年かとの質問で「64年」と正しく回答できたのは61・6%にとどまった。》

「64年」と正しく回答できなかった大学生は、61年or62年or63年or65年と答えている。その割合が、38.4%。

この数字を見ると、「慰霊の日」の由来を「知っている」と答えた70.4%が、ホントにすべて正しく「知っている」のか、疑問なしとしない。

それはさておき、沖縄戦終結から何年か、という問いに対して、正しく答えられなかった原因を考えてみる。

先の戦争が終わった年を知らない。

普通はこう考えるだろうが、実はそうでもないのではないか、と思わなくもない。

むしろ、2009マイナス1945という引き算が正しくできなかったのではないか……というのは言いすぎですね。

ただ、平成21年マイナス昭和20年、あるいは2009年マイナス昭和20年という引き算を間違えた、という可能性はあると思う。

西暦と昭和・平成との置き換えの過程で間違えた、ということです。

これについては、みなさんも混乱すること、あるんじゃないでしょうか。



昨日の朝日新聞夕刊から。

《小中学校などで携帯電話を規制する動きが広がるなか、私立須磨学園中学・高校(中略)は来年度から、学校指定の携帯電話を導入する方針を決めた。制服や制帽にちなみ「制携帯」と名付け、有害サイトに接続できない設定にした上で、生徒に配布する。(中略)制携帯を用いた生徒間、生徒と教師間の通話料金は無料となる見通しだ。》

制携帯。ちっと語呂がよくないね。

それはともかく、(おそらく)端末は無料配布、生徒と先生相手なら通話料も無料。

これに、中高生が飛びつくだろうか。

まあ、ご家庭の方針で現在携帯を持っていない子だけでしょうね、飛びつくのは。

《生徒の緊急時には、学園が設置したサーバーの記録を確認し、制携帯のメール履歴などを閲覧可能にする。》

たとえば、会社支給あるいは貸与の携帯がこういう条件付きだったら、使いますか、社会人のみなさん。

《全地球測位システム(GPS)機能も生かし、生徒がどこにいるか把握できるようにもする。》

たとえば、会社支給あるいは貸与の携帯がこういう条件付きだったら、使いますか、社会人のみなさん。

さて、生徒会が全校生徒を対象にアンケートをとった。

その結果。

《「制携帯は使いたくない」が31%に上った。》

現在すでに携帯を持っている割合が31%……ということはあるまい。もっと高いだろう。でも、中高生ぐらいになると、「当たり障りのないよう答えとくか」ぐらいの知恵は働くわけで。

教科書と同じように、ほとんどの制携帯が机の中に置いたままにされると思いますよ。

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