こんにちは、ミツです。
今日は、少しまとまった時間ができたときの時間の使い方についてお話ししたいと思います。
大学になると、先生の都合で急に講義が休講になったりすることがあります。こういうとき、できるだけ時間を有効に使えるといいですよね。
僕はそんなとき、たとえば、15時から2時間空くことがわかったら、午前中の授業時間などを使って、授業中に「空き時間になにをしようか」ということを考えることにしています。こう書くと、不謹慎に聞こえるかもしれませんが、なんだかんだと言って、授業中も考える時間があるものです。
あとは、ToDoリストを作ってひとつずつ消していくこともあります。ただ、これにはメリットとデメリットがあり、メリットとしてはどのくらいのタスクが自分にあるのか自覚的になれること、そして、デメリットとしてはなかなかタスク終了のチェックがつけれないことで、ストレッサーになってしまうことです。デメリットの一つの解決法としては、細かい用事をきちんと列挙していくことです。それによって、タスク終了のチェックを頻繁に付けることができ、少しストレス解消になります。
みなさんも、少しまとまって時間ができたときの使い方、考えてみてはいかがでしょうか。
こんにちは、ミツです。
突然ですが、いろいろなことをおもしろく学ぶにはどうすればいいと思いますか。
今日は、僕がいいかもしれないと感じるやり方をご紹介してみたいと思います。
学校でやることってなんだか無味乾燥で、おもしろくないと思うこと、ありませんか。僕は、授業内容を「実用性がない」とか「おもしろみがない」とかよく思っていました。
それはなぜか。理由は簡単だと思っています。学校では抽象的な論理を回転させたり、結局は個人の暗記等の努力にゆだねられていたりする、そんなことばっかり教えているから。だって、「これは何に使うんだろう」と考えてみたとき、その実利が即答できるものはわずかだと思います。そして、正直な話、専門で使うものは半分もないでしょう。
それでは、どうすればおもしろく学べるか。その答えは「自分なりに現実世界の事例に適用すること」です。たとえば、哲学。哲学って、一番現実世界から遠い学問のように思いますよね。でも、それは間違い。一番私たち自身に近い学問なのです。哲学の多くは、発展・細分化していて何がなんだかわからなくなっていますが、そもそもの問いは「私って何だろう」ということです。なんだか、自分に少し近づいた気がするでしょう?
皆さんも、つまらないと思ったとき、少しでも自分にひき付けて考えてみてはいかがでしょうか。
こんにちは、ミツです。
大学に入ってからのことを少し書いてみたいと思います。
大学に入って気付いたこと、それは人間関係の面で自分がイニシャティヴを取って付き合いの深度を決めていかなければいけないということでした。もちろん、人間関係というのは各人の恣意で決まるものではないですから、すべてを自分で選べるわけではありません。しかし、やはり可能な範囲内で選んでいかなくてはいけません。
というのが、大学に入ると接する人の数が激増します。高校までのように同じクラスでずっと授業を受けるわけではありません。正直、たぶん100人の名前を知っていても少ない方でしょう。
ただ、同じクラスで授業を受けないということは、どうしても人間関係が希薄になりがちなのです。けんかなどはいくらでもさけることができます。だって、会う時がわずかですから。しかし、やはりある程度ぶつかってみないとお互いに確固とした信頼関係ができないことも確かです。
だからこそ、やはりある程度選んで、とことん深く付き合う友達を作るべきなのです。大学時代の友達もきっととても大切な友達になっていくのだろうと思います。振り返った時にとても良い友達に囲まれていると楽しいでしょうから。
こんにちは、ミツです。
突然ですが、質問です。みなさんは時間制限についてどう思いますか?
最近、インターンシップのウェブテストなどを受けていて思うのですが、時間制限って正にも負にも働くものだなと。
まず、時間制限の正の側面について。
たぶん4月終わりごろだったと思いますが、「時間の有限性」と題した記事に書きましたが、「ひまなおばあさんが一日中ずっと手紙を書くのに費やしてしまう」という時間制限は人間にとって効率的な業務執行をもたらしてくれる場合があります。
しかし、やはり時間制限は人を焦らせてしまう部分もあります。比較的僕はこの傾向が強いのですが、どうしてもカウントダウンが始まると焦ってしまうことがあります。
先日、ニュースだったか忘れましたが、どこかで「最近の子どもは小学校でドリルのやらせすぎで、即答力はあるが、思考力が落ちている」という話を聞きました。
確かにこれは実感としてわかる話しで、ロジカルに考えられない人が増えているんですね。やはりロジカルに考えるということは最初は時間がかかることですし、時間がないときには大変ですが、将来的には「ロジカル・シンキング」が重要になることを考えると嘆かざるを得ない事態だと思います。
みなさんも日ごろから、いろいろなものを考えてみる習慣をつけてみてはいかがでしょうか。
今日は原書を読むたのしみについてお話したいと思います。
みなさんは、本屋さんの洋書コーナーに行かれることはありますか?
僕も洋書は読むのが遅い方なので、そんなにしょっちゅうは読みませんが、たまに必要に迫られて、あるいは個人的興味から洋書を読むことがあります。
洋書って海外の作家が書いたことをことばの肌理そのままに読むことができますので、読めるようになるととても楽しいものですよ。
たとえば、Antoine de Saint-Exupéry, Le petit prince, Paris : Édition Gallimard, 1946、つまり言わずと知れた『星の王子さま』(邦訳多数ありますが、おすすめは石井洋二郎訳『星の王子さま』ちくま文庫、二〇〇五年です)を挙げてみたいと思います。この本の中で一番有名というフレーズは、
いちばん大事なことは、目には見えない。(石井訳、一一九頁)
ですが、これは原書では
L’essentiel est invisible pour les yeux. (Collection Folio, p 76)
となっています。フランス語だけれど、英語をやっているとだいたいわかりますよね。「いちばん大事なこと」の原語は、「essentiel」になっています。「essentiel」の変化前の名詞は「essence」で、これは「〜のエッセンスを話す」とかいうときの「エッセンス」と一緒の意味です。僕はフランス語の方が、言葉の感じはよくわかる気がします。
みなさんも、英語の勉強がある程度までいったら、洋書を読んでみてはいかがでしょうか。
こんにちは、ミツです。
今日は、伝統文化の「型」、第4回です。
昨日はアングルらアカデミスム絵画に「型」にはまった表現様式が見られるというお話をしました。
昨日今日の話は、横浜美術館で開かれている「フランス絵画の19世紀」に取材したところが大きいです。なかなかいい展覧会だったので、おすすめです。
さて、アカデミスム絵画というのは、アカデミーを中心とした画壇における画家の再生産体制から生まれたものです。国立美術学校で学び、ローマ賞を目指す中である程度の規格にはまったこともやらなければいけなくなります。それで、似たような性質を持つ画風が広まるわけです。
ただ、ここで学ぶ「基本の型」というものは、大成した後の独創的な創作に大きな貢献を果たしていると言って過言ではないでしょう。
このようなことは、いろいろな分野に妥当する考えだと思います。
勉強でもそうです。たとえば受験等で詰め込み教育をされるのはすごく不快なものです。
しかし、そのことによって基礎知識が頭に入って、その後の勉強・研究に大きく貢献することも少なくありません。例外なく、自分が特に学びたいことでもない詰め込み教育は嫌なものですが、後のためと思ってがんばってみてはいかがですか。
こんにちは、ミツです。
今日も昨日に引き続き、伝統文化の「型」についてお話したいと思います。
昨日は日本の伝統文化における「型」を歌舞伎と長唄を例に取り上げてみてみました。
今日は西洋の伝統文化における「型」を見てみたいと思います。
みなさんは、19世紀のフランス絵画と言われて思いつくのはどんな画家でしょうか。
たぶん、モネとかルノワールとかおっしゃる方が多くて、ドラクロワとかおっしゃる方もけっこういて、アングルとかトマ・クチュールとかおっしゃる方は少ないかもしれません。
いきなり画家の話なんかして、どうしたんだと思われる方もいらっしゃると思いますが、しばしお待ちください(笑)ここで挙げた画家は、モネやルノワールが印象派、アングルやトマ・クチュールがアカデミスムということを言おうと思ってあげたのです。
モネはジヴェルニーの日本風庭園を描いた、「睡蓮」があまりにも有名で、印象派は日本でとても人気がある故にフランス19世紀を代表する絵画と見られがちですが、実は19世紀フランスの画壇では印象派はある種異端だったのです。正統派はフランス芸術アカデミーを中心とする「アカデミスム」絵画でした。アングルなどはその代表選手ですが、彼らはほとんど定型的ともいえる絵画を描いてきたのです。
さて、明日はもう少し西洋絵画における「型」について見たうえで、まとめに入りましょう。
こんにちは、ミツです。
今日は昨日に引き続き、伝統文化の「型」についてお話したいと思います。
昨日は「型」は「楽に何かをするための行為類型なのだ」という話をしました。そして、西洋の文化にも「型」があるのだ、というお話をしたと思います。
今日は、どのような「型」があるのか、具体的に見ていきたいと思います。
まず、「型」といって思いつく方も多いであろう日本の伝統文化における「型」についてお話します。
僕は歌舞伎を観るのがとても好きなのですが、歌舞伎はまさに「型」で成り立った芸能です。たとえば、舞台上で「クローズアップ」の効果を持たせる「見得」という所作がありますが、これは「型」の真骨頂と言ってもよいようなものです。「見得」の美しさは、ぴたっと止まることによって作りだすしぐさの形の美しさなのです。
さらに、歌舞伎の背景音楽である「長唄」も「型」の音楽です。いろいろな情景を表現する定型的フレーズを組み合わせることで、音楽によって物語を編んでいきます。近年は伝統的な定型を無視して曲を作る人も増えてきましたが、やはり演奏している側に無理があるフレーズが多いですし、定型の無視によって西洋音楽と競合してしまい、結局ギターかバイオリンでやった方がいいのではないかという意見まで出てくるのです。
西洋における「型」については、明日見てみたいと思います。
こんにちは、ミツです。
今日は伝統文化の「型」についてお話したいと思います。
「型」について書くのは、それがある意味でいろんなところにつながってくると考えるからなのです。
さて、「型」と聞いてみなさんはどのようなことをお考えになるでしょうか。けっこう堅苦しいとかそんなイメージを持たれる方も多いかもしれませんね。
確かに「型」というのは、他人に対するある行為類型の押し付けになります。だから、押し付けられた当人が不快を感じるのは当然です。しかし、その人はずっと不快なままなのでしょうか。
いえ、そんなことはありません。それは表現のための「楽な姿勢」なのです。あるいは組み合わせればある種の表現になる「ツール」だと言ってもいいかもしれません。たとえば、今いきなり「何でもいいから踊れ」と言われたとしても困りますよね。ただ、そんなとき「ツール」があったり、どうやったら「楽に踊れるか」を知っていたりすれば、ずいぶん簡単に踊ることができます。だから、「型」を学ぶことには意義があるのです。
また、「型」というと日本の伝統芸能のことを思い浮かべてしまいがちですが、実は西洋の伝統芸能にも存在するんです。
明日は実際に型がどのようなものかについてみていきたいと思います。
こんにちは、ミツです。
今日は英単語の増やし方についてお話したいと思います。
みなさんは、英単語の暗記課題が出たとき、どうしていますか?
なかなか、おぼえられないときもありますし、何度やっても覚えられない単語もどうしても出てきますよね。そんなとき、役立つのが語源から学んでいく方法です。
昨日の最後に「bookworm」は硬い表現で「bibliophile」と呼ぶと言いました。この「bibliophile」という表現、分けて考えればいいわけです。Biblio-というのは本に関する言葉につくパーツです。このパーツ、もともとはイタリア語の「libro(本)」などと同じ語源で、今の「bible」とかとも語源をともにしています。また、-phileというのは〜好きという意味のパーツで、たとえば「xenophile」といったら外国人とか外国のものを好む人ですし、videophileと言えばビデオとかテレビ番組が好きな人のことを指します。あと、国名をつけたものでは、Italophile(イタリア人びいき)とかFrancophile(フランス人びいき)とかがあります。ちなみに、フランス人びいきにはGallophileという表現もあって、これは現在フランスと呼ばれている地域が、もとは「ガリア」と呼ばれていたことに由来します。今でもフランス国立図書館のウェブサービスに「Gallica」というのがあるくらい人口に膾炙しています。
みなさんも、単語で行き詰ったら、語源に立ち戻ってみてはいかがでしょうか?