[2007年09月27日(木) ]
セマウル号は、韓国の特急列車です。
20年前、まだ大学院の学生だった頃、大学の先輩たちと韓国に行きました。韓国からの留学生だった「さんが案内をして下さいました。もともとは指導教官である増田先生の研究室一同で行くはずだったのですが、先生だけご都合でいらっしゃれませんでした。
新幹線、フェリー、セマウル号、在来線、バスその他を乗り継いでの旅行でした。記憶を頼りに行程を記すと、
フェリーで釜山へ→セマウル号でソウルへ→景福宮などソウル市内見学→
ソウル泊→急行でテジョンへ→「さんの先輩にケリョン山などを案内してもらう→
テジョン泊→バスでプヨへ→テジョンへ戻り、急行でキョンジュへ→
キョンジュ見学→キョンジュ泊→釜山へ→飛行機で日本へ
キョンジュでは二泊したようにも思うのですが、当時のメモがないのではっきりしません。見学場所も忘却の彼方です
行きのセマウル号で乗り合わせたおばさんが印象に残る話をしておられました。
(わたしは辛うじてハングルを読めるかという程度で会話などは全くできません。以下の話は「さんの通訳して下さった内容です。)
戦前、そのおばさんの家の隣には、とても仲のよかった日本人の女の子がいました。本当に仲がよくていつも一緒に遊んでいました。でも日本の敗戦時のどさくさの中、その女の子の一家は、知らぬ間に日本に引き上げていきました。いえ、無事に引き上げることができたのかどうかも、実ははっきりわかりません。当時幼かったおばさんにはその辺の事情は結局よくわからないままでした。そのまま年月が経っていきました。
そのおばさんがしみじみと言っていました。「今まで誰にも言ったことはないけれども、実は心の底でずっと思っていた。あの子に会いたい。彼女と別れてから四十年間ずっとそう思っていた。今になってはじめて人に言えるようになってきたんだ」と。
わたしが韓国を旅行した1980年代半ば、日韓関係は比較的良好に進んでいたのではなかったでしょうか。おそらくそれまでは、日本の女の子の安否を気遣う素直な気持ちを表に出すことも、憚られるような雰囲気があったのだと思います。
あれから二十年近く経ちました。いま、日本と韓国の関係は必ずしも良好とは言えません。あのおばさんは今ではおばあさんになっておられるはずです。小さな日本人の女の子の話を周りの人に屈託なくしゃべれるようにしてあげること、それは日本と韓国の今を生きるわたしたちの責任である、とわたしは思います。
[2007年09月25日(火) ]
わたしは大阪の新世界というところが好きです。垢抜けてもいず、上品でもありませんが、学生のころから幾度となく訪れました。
わたしが大学生だった二十年前には、地下鉄御堂筋線動物園前駅から通天閣方面に続くじゃんじゃん町という筋に、弓を引いて遊ぶところがありました。いろいろな強さの和弓や洋弓があって、五本いくらとかで矢を借りて射るのです。おばさんが切り盛りしていて、簡単に弓の弾き方をレクチャーしてくれていました。
普通の的が横に五つぐらい並んでいたでしょうか。その間には別に金色の小さな的がありました。そちらには火薬が仕込まれていて、もしも射抜くとパーンと音がします。文字通りの金的だったわけです(笑)
某私立校で非常勤講師をしていたころは、授業のある日は新世界に行って、串カツを食べたり、じゃんじゃん町のジュースやさんでジュースを飲んで弓を引いたり、変に派手なおじいさんが将棋を指しているのを覗いたり、ゲームセンターでスマートボールをしたりする、というのが定番になっていました。
その頃は新世界も今ほど整備されておらず、そこここで駅のトイレのような臭いがしていましたっけ。今のように観光客が大挙して押し寄せ、店の造作をこぎれいにした串カツ屋さんが何軒も見られる、ということもありませんでした。
と、なぜこんなことを書き連ねているかと言いますと、この連休中にとても久しぶりに新世界で串カツを食べて帰ろうと思って行ったのですが、こんなことになっていたのです。
[2007年09月20日(木) ]
わたしは大学在学時から論理学に興味を持つようになりました。大学一回生の時、一般教養の科目として開講されていた「論理学」の授業に出席したことがきっかけです。大学時代にはそれ以後も折に触れて論理学の入門書めいたものを読んでいました。
と言っても、アリストテレスのような古典的な本を読むことはありませんでした。読んだのは主に記号論理学関係の本です。命題論理や述語論理と言われるものですね。今となっては記号の意味もはっきりとは覚えていませんが。
今回はその論理学の話です、と言いたいところですが、とても無理です。ここではそんな興味からはじまっていくつかの著作を読んだことのある哲学者、沢田允茂のことばを紹介したいと思うのです。
沢田允茂は、去年の四月に亡くなりました。戦後日本における科学哲学の第一人者だった人です。その沢田允茂の『論理と思想構造』(講談社学術文庫)に次のようなことばがあります。
○科学的という言葉は、複雑な実験の装置のものものしさをバックに、素人に対して数学的な表現の知識の真理をおしつけることではありません。むしろ反対に、自己の理論の誤りをすべての人にためしてもらえるような形で提出すること即ち反証可能であるような形で理論を作り出すという謙虚さにあるといえるでしょう。(107ページ)
また、次のようなことばも見られます。
○したがって、すべてを説明し、自己の全ての主張は絶対に間違いではないのだということを言いくるめる理論は、実は科学的ではないといわねばなりません。どんな説明不可能な現象が起こっても、それをうまく説明しうるように理論を再解釈せずに、むしろ理論の方が誤りうるのだ、と考えること、これが科学的ということのほんとうの意味であると考えねばなりません。(108ページ)
これらのことばは、カール・ポパーの科学の定義を踏まえたもので、科学とはなんであるかという問いに対する答えの一面を構成します。が、科学研究を志すかどうかに関わらず、わたし達が日常生活を送る上でも聞くべきものが含まれているように思います。
わたしたちはともすれば他人を批判するのに急で、自分をふりかえることを忘れてしまうことがあります。時には自己の主張をあくまでも通そうと強弁することも。わたしはそんな自分に気づいたときに、これらの沢田允茂のことばを思い出すようにしています。
それはそれとして、彼のこれらのことばを読むと、自分とは別世界のように思える科学の営みが、やはり人間性というか、人間の存在のありようと無関係ではなく、日常の生きた人間の世界とのつながりを感じることができて、とても面白く感じられます。
わたしの読む限りでは、沢田允茂という哲学者は、難解な哲学的概念に走ることなく、常識的な感覚を大事にして哲学的考察を深めてきた人であるように思えます。彼の著作は、論理学の入門書であっても、そんな彼の人柄を伝えてくれるものであったと記憶しています。古典的な哲学書は恐れ多くて近づく気になれない人も、彼の著作であれば親しみやすいと思います。これから読書の秋を迎えるにあたって、彼の本を手にとってみてはいかがでしょうか。
[2007年09月14日(金) ]
先日、とある機会があり、信貴山朝護孫子寺に行ってきました。
信貴山は大阪府と奈良県の境にあり、信貴山縁起絵巻で有名です。絵巻には托鉢の鉢が強欲な長者の蔵や米俵を運ぶ様子が描かれています。この話は『宇治拾遺物語』などにも採られている有名な話ですので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
今回はその信貴山を歩いていて気になったものをご紹介しましょう。
まずは信貴山の遠景を。


[2007年09月12日(水) ]
わたしは通勤にバスを利用しています。
バスに乗ると、「危険ですのでバスが止まるまでお立ちにならないで下さい」
というようなステッカーが貼られていることに気づきます。
同様の放送が流れることもあります。
なるほど、バスは揺れたり急ブレーキをかけることもありますから、
その注意はもっともなことです。
しかし、そのステッカーはいったい何のためにあるのだろうか、
そのアナウンスは生きたものになっているのだろうかと、
激しく疑問に思うことがあります。
わたしが乗る路線バスの運転手さんは、乗車した人が座るか、
しっかりつり革を持つかするのを待たずに発車することが多いのです。
高齢の方がバスに乗り込む際はそれでけっこう危なかったりします。
乗客の安全を本気で気遣うのであれば、降車時の注意を
乗客に求めるだけでは不十分なはずです。
安全運転を心がけるのはもちろんのことですが、発車時にも、
お客さんがきちんと座るなり、しっかり立つなりするのを
確認して発車すべきではないかなと思うのです。
わたしの実家の近くを走るバスでは
そんなひやっとする経験をほとんどしません。
両者は違うバス会社ですので、
会社によって意識が違うということなのでしょう。
わたしが通勤に使う路線バスの会社は、
会社の側も配慮をした上で、なおかつ念には念を入れて
あのステッカーを貼っているというのではないように思います。
とにかく形だけ整えてみました感が濃厚です。
それでも、そのバスを利用せざるを得ない人は利用し続けますので、
商売として成り立っていくのでしょうね。
自分の仕事をふり返って、同じように形だけ整えているけれども、
実は学校や教師の側の都合を優先しているだけにすぎない
ということはないだろうかと考えてみたりもします。
[2007年09月07日(金) ]
神戸で地震があったのは1995年1月17日火曜日のこと。
被害の大きかった灘区に友人の音楽仲間がいました。ヤタニ君とコバヤシ君と言います。わたしも個人的に知っていましたので安否が気になっていましたが、数日間連絡が取れないままでした。そこでその週の土曜日深夜、友人と一緒に車で見舞いに行くことにしました。
その日は勤務校の耐寒登山があったので、引率の疲れでわたしはいきなり寝入ってしまいました。友人は何度もドアのチャイムを鳴らし、うちに電話をかけたそうです。でも全く気づきませんでした。どれぐらい時間が経ったのでしょうか。何とか気づいたわたしは平謝りに謝りました。それから出発です。
途中で食料などを少し買いこんでからルートを検討した結果、国道2号線や43号線はどうせ通れないか渋滞で大変だということで、裏六甲からトンネルを越えることにしました。宝塚から有馬方面へ入っていきました。幹線は大変かも知れないので、できるだけ裏道を行くようにしました。道順は今でははっきり覚えていません。
裏道を行ったためもあり、ある程度順調に進んだあるとき、笑えない事態が生じました。中山寺のあたりだったでしょうか、新興住宅地内に入り込んでしまい、出る道がわからなくなったのです。道順を聞こうにも誰も人がいません。困りました
ふと気づくと、道ばに黄色いテープが続いていて、ガス漏れ危険との表示があります。どうやらわたしたちは立ち入り禁止区域に迷い込んだようです。どうりで人影がないはず、なんて落ちついている場合ではありません。普段はあまり考えませんでしたが、車はガソリンを燃やして動いているのでした。
大あわてで脱出しようとするのですが、この住宅地はどういう構造になっているのか、どうしても抜けられません。まるで蟻地獄です。何度か試みても同じ場所に戻ってしまいます。教師二名ガス漏れ地区に車で進入、爆死、新聞的にはおいしいかもしれない見出しが脳裏をよぎります。しゃれになりません。まるで空き巣狙いを試みようとしたみたいじゃないですか。車の中で二人でわあわあ言いあいながら迷うこと10〜20分。やっと脱出することができました。
いよいよトンネルに続く道に入ったときには、ウインドウが割れ、土埃をかぶった対向車が何台も通り過ぎていきます。普通ならありえない光景です。少し重苦しい気分で車を前に進めていきました。トンネル前から渋滞が続き、トンネル内で車列がしばらく止まってしまいました。いま余震が来るとどうなるんだろうと緊張感に背中がひりひりします。
そうそう、トンネルにたどりつくまでの途中で、ラブホテルが満員になっていました。こんな時にラブホテルかい!と思っていたのですが、あるいは被災した人が一時の休息を求めて避難していたのかもしれないと、後で気づきました。
いよいよ六甲のトンネルを越え、灘区に入りました。道を下るにつれて被害の大きさが実感されます。壊れた家やビル、土埃で白っぽくなった道路、消えた信号…。友人たちは無事なのか、不安が増してきます。
最初にコバヤシ君のマンションに行ってみました。亀裂は走っているものの、建っています。幸いコバヤシ君は無事でした。が、マンションは取り壊されることになったのでしたか。
次にヤタニ君のマンションに行ってみました。マンションは無事です。呼びかけてみると、ヤタニ君もヤタニ君のご両親も無事でした。神戸全体の被害の大きさを思うと、あまり喜んでもいられませんが、とりあえずひと安心です。彼らはひょっこり現れたわれわれをとても歓迎してくれました。
ヤタニ君たちの話によると、地震で水などは止まったものの、マンションにはそのまま住むことができているとのことでした。コバヤシ君も臨時にこちらに移っていたように思いますが、どうでしたか。このあたりは記憶が定かではありません。
ひとしきり話した後、近所の様子を見て回りました。ヤタニ君のお父さんは、どういうわけかとてもハイになっておられ、饒舌でにこやかでした。ヤタニ家のパーマ屋さんの店舗まで行くと、お父さんがハイになる理由もわかった気がします。一階部分がぺしゃんこになっているのです。全壊、だったように思います。もしも営業中だったらと想像したくもありません。
さらに辺りを回ると、壊れた町、町、町、家、家、家…。商店街は店舗がつぶれてしまっています。二階建ての家の屋根が目の高さとほとんど同じ高さにあります。あたりに小学生のものと思しい年賀状が散乱しているところもありました。
ヤタニ君のお父さんは、せっかく来てくれたのだから壊れたヤタニ家の店舗の前で記念写真を撮ろうとおっしゃいます。何とも言えない気持ちでカメラに収まりました。笑顔がひきつりました。
ちなみに、後で聞いたところによると、お父さんに最も喜ばれたのは吉○屋の牛丼だったそうです。非常食的なものが多いだろうからきっといいのではないか、というわたしの友人の読みが当たったわけですね。
あまり長居して帰れなくなっても困りますので、早々に帰路につきました。が、案の定、帰りは大渋滞に巻き込まれました。車列がなかなか前に進みません。途中、あたり一帯が停電していたのはどこだったでしょうか。回りの家が息をjひそめているような感じでした。
家に帰り着いのはその日の深夜です。友人と握手をして別れました。
町なかでとても頼もしかったのは、他府県ナンバーをつけた警察車両や消防車両の存在です。「山」「松江」などなど、遠くからよくぞここまで来てくれたと感激ものでした。自衛隊の戦闘車両もやはり頼もしかったです。とにかく役に立つのならばどんどん神戸に来てほしい、ついでに米軍も来てくれればいいのに、と話しながら帰ったのを覚えています。
神戸沖に物資を満載した輸送船団を派遣し、上陸用舟艇でもヘリでも何でも使って迅速に車両や物資を陸揚げする。わたしたちの考えついた救援策です。平時にそんなことを言ったら物議を醸すに違いないアイデアですが、あの時は、この状況が少しでもよくなるなら是非そうしてほしい、という感じでした。結局はそんなことは現実には起こらなかったわけですが(笑)
ことわっておきますが、わたしも友人も軍国主義的な考えの持ち主ではありませんよ。ただ、あの現実の中に身を置くと、そんなことを言っていられる場合ではないなという気持ちが強くなったのです。
地震から四日目に灘区へ入ったわたしたちは、あの時のとんでもない状況を多少は身を以て感じました。あの地震を知らない生徒たちにそれをいかにして伝えるか、難しい課題ですが、なんとか満足のいく答えを見つけたいと思います。