[2007年08月31日(金) ]
みなさんは阪神淡路大震災を覚えていますか。
あの地震があったのは、わたしが現在の勤務校に奉職して二年目のことでした。幸いわたしの知人、友人はみんな無事でしたが、最終的には6000人を超える人たちがあの地震で命を失いました。
今年わたしが担任をしている中学一年生は1994年4月から1995年3月の間に生まれました。ということは、いわゆる早生まれの子たちの中には阪神淡路大震災の後に生まれた子がいるということになります。
去年授業を持っていた高校二年生は、当時五歳ぐらいでしたから、辛うじてあの地震の記憶を持っていました。しかしこれからはあの地震の記憶はおろか、経験すらないという子たちを相手にしていくことになります。
これまでの生徒はあの地震の記憶を共有していましたから、「あの地震すごかったよな」と言うだけでお互いに通じるものがありましたが、これからはそうはいきません。どうすごかったのか、あの地震をどう教訓として活かさねばならないか、きちんとことばで伝える必要があります。
わたし自身は被災しませんでしたが、地震の五日後に灘区に入った折に、地震の破壊力のすさまじさの一端を身を以て感じました。経験したことのない人にそれを伝えるのは難しいことですが、やっていかねばならないことであると思っています。
防災の日を機会に、あらためて地震の記憶を風化させないようにしようと肝に銘じた次第です。
先頃の新潟県中越沖地震に見舞われた地域では、記憶の継承云々ではなく、今現在のこととしてさまざまな問題が発生しているかと思います。亡くなられた方々に哀悼の意を表するとともに、被災された方々にお見舞いを申し上げます。
日常生活の回復が一日も早く実現しますように。
[2007年08月27日(月) ]
わたしは数学は得意ではありません。はっきり言うと不得意です。が、そんなわたしにも数学的才能がありました。と言い切っていいのかどうか少し心許ないですが、たぶんあったのだと思います。今日はそのわたしの数学的才能が、どのようにして伸ばされずに終わったかの顛末を書きたいと思います。
わたしの数学的才能はおそらく小学校5、6年のころにピークを迎え、以後衰退の一途をたどりました。山にたとえるなら、ないも同じのピークとだらだら続く裾野という、曰わく言い難い姿になります。大阪の天保山に変に長い尾根がくっついているようなものですね。あまりの情けなさに、ローマ帝国にたとえる気にもなれません(涙)
とにかく、そのあるかないかのピークについて説明しましょう。小学校5、6年のころ、算数の立体の授業があり、正四面体、立方体、直方体〜正十二面体(?)などなどの多面体について教わりました。そのとき配布されたプリントに印刷されているいろんな立体の絵を見ながら、わたしは何となく思ったのです。この立体というものの面や辺の数に何かきまりはないだろうか、と。
思い立ったらすぐ実行です。わたしはもらったプリントに書いてある立体の辺の数と面の数と頂点の数を数えていったのです。そうすると、面白いことがわかってきました。
辺 面 頂点
正四面体 6 4 4
正六面体 12 6 8
正八面体 12 8 6
正十二面体 30 12 20
正二十面体 22 20 12
どうですか、みなさん、わかりますか?
そうです。なんとも不思議なことに、辺の数から面の数を引いて2を足すと頂点の数になるのです。
このきまりを発見した時のわたしの興奮はいかばかりのものだったか。何とも言えない高揚感がわたしを包み込みました。世界の秘密に至る鍵をわたしは手にしている、みたいな。オーバーですか? でも、それぐらい興奮しました。あの時以来、わたしは「ユーレカ!」と叫んだアルキメデスの気持ちがよくわかるようになりました。
どうして「2」という数字が出てくるのかはわかりませんでしたが、どうやら「辺の数−面の数+2=頂点の数」という法則が成立しそうだなと思いました。そこでわたしは正多面体じゃない立体でもこのきまりが成立するのか調べてみることにしました。
方法としては単純なものです。同じく授業で習った三角柱や四角柱でも辺や面や頂点の数を数え、一つの頂点を中心に立方体などをカットした図形を作図して、それについても同じ作業をしたのです。その検証作業をする間の少し不安だけれどもわくわくする気持ちは今でも覚えています。選ばれてある者の恍惚と不安がわたしを包みます。
結果は満足すべきものでした。
辺 面 頂点
三角柱 9 5 6
四角柱 12 6 8
六角柱 18 8 12
立方体の一部をカットしたもの
辺 面 頂点
15 7 10
その他いろいろな多面体を考えたのですが、どれも成り立ちました。ただし、次のようなものは例外になるようです。
立方体に三角錐状の穴を開けたもの
辺 面 頂点
18 9 12
立方体に四角錐状の穴を空けたもの
20 10 13
こんな風にへこみのある多面体は先のようにはうまく説明できなかったのではないかと思います。何しろ三十年近く前のことなので、記憶がとても曖昧で、ひょっとしたら思い違いかもしれませんが。
いずれにしても、わたしは世界の秘密を手にしたのです。翌日、喜び勇んで先生に報告に行ったことは言うまでもありません。
わたしの説明を聞いた先生は、いとも簡単にこう言い放ちました。
「ああ、それはオイラーの定理と言うんや。」
ガーンを15乗したくらいのショックです。
「違わい。オイラーの定理じゃないやい。おいらの定理だい!」
今ならそんな風に返すことも可能ですが、あの時の落ち込んだ気分と言ったら…。
こうして、フェルマーの最終定理を10年は早く発見したに違いない未来の大数学者は、敢えなく可能性の海の中に消えてしまったのです。
わたしはあの先生に何の恨みもありませんが、せめて、
「おお、それは大数学者のオイラーがやっと発見した定理やぞ。すごいなあ、お前!」
ぐらいのことを言ってくれていたらと思わずにはいられません。そうすればわたしもゆくゆくは数学界に多大の貢献をできたのですが(笑)
創造性を伸ばす教育、やる気を引き出す教育。それはもちろん100マス計算などのメソッドによる部分もあるでしょうが、教師の側の適切なひと言、絶妙の働きかけによるところも大きいのではないかなと思う次第です。そういう意味では数学教育だけに限らず、国語やその他の教科でも同じことが言えると思いますが。
[2007年08月24日(金) ]
最近でこそ飲みに行くことはめったになくなりましたが、大学時代から仕事をしだしてしばらくの間までは、しょっちゅう飲みに行っていました。国語力研究所所長のような生活を送っていたのですね
学生の頃は安くあげるためにチェーン店の居酒屋さんなどをよく利用していましたが、時には少し毛色の変わった店に行くこともありました。
タイトルにした「地鶏やさん」もその一つです。あえて店名は書きませんが、そのお店は今では主に関西圏でチェーン展開しています。名前を聞けば、ああ、あの店かと思い出される方もいることでしょう。
でも、わたしがその店に行きだしたのは、チェーン展開するよりもかなり前のことでした。おとうさんとおかあさんと、あとは雇われた人が一人、二人でやっている、ごくこぢんまりとした店で、場末の駐車場の一角に隙を見て即席で建てたかのような作りでした。
店の構えはぱっとしませんでしたが、そこのチキンフライやせせりやももや皮やきゅうり、鶏刺しの盛り合わせなどは、安価でなおかつとてもおいしいものでした。
チキンフライを浸ける甘酢の味とタルタルソースのようなマヨネーズの味が絶妙に調和しています。キュウリはさっぱりとしていて少しピリ辛で量もたっぷり。ずり、こころ、せせりの焼き物はタレや塩の味加減が絶妙です。鶏刺しのレバーは風味豊かに、ささみは甘く、ずりやこころは独特の食感が楽しめました。要はどれもおいしかったのです。嗚呼、書きながら唾が湧いてきます。
その味はもちろん今のチェーン店にも引き継がれています。とは言え、鶏刺しはO157の事件以後ほぼ姿を消してしまいました。定番メニューは少し工夫が加えられて種類が増えています。そこここにあのころとの変化が見受けられます。
今のチェーン店の方があれこれ選ぶ楽しみが増え、お店の構えもおしゃれになっていますから、それはそれでいいのですが、わたしとしては、あの店で、シンプルだけれどもお父さんが額に汗しながら焼いていた昔の定番メニューの方に愛着があります。
あの当時あそこは、お父さんとお母さんの人柄も相まって、近所の人のたまり場のようにもなっていました。工場帰りのおっちゃんが奥さんと落ち合ったり、家族連れで来る人がいたりと、常連さんらしき人たちがいつもわいわいとにぎやかでした。
その中に混じってお酒や料理を食べるのは理屈抜きに楽しいものでした。店が狭いので、生ビールの注文があると、サーバー近くで飲んでいる人が入れます。ビール入れマイスターが入れるのではありませんから時には泡が異常に多かったり、逆に泡がほとんどなかったりすることもあります。そんな時はお父さんの宮崎なまりの注意が飛びます。料理はお客さんが順送りで渡していきます。変な話ですが、みんなの店という感じでした。
そうそう、どういうわけかカウンターに松の実がでんと置いてあり、適当に取って食べられました。あれのお勘定を払った記憶はないのですが、いったいどういうことになっていたのでしょうか。
閉店時間はあってないようなものです。大学時代や大学出たてのわたしたちは飲んで遅くまで何くれとなく話していたものですが、お父さんもお母さんも嫌な顔ひとつせずに最後までつきあってくれました。今から思えば大変だったろうなと思いますが。
そんなお父さんとお母さんがいつごろからか店に現れなくなりました。聞いてみると店を人に譲ったのだとか。それから気がついてみるとチェーン店がそこここに現れるようになりました。今から思えば新たなオーナーの経営方針だったのでしょう。
あの店も本店と呼ばれるようになり、今ではずいぶんきれいに改装されています。店の従業員さんも勢いがあって、それはそれで気持ちの良い店になっています。でも、ごくたまにその店に料理の持ち帰りを頼みに行くとき、当時あの店で見かけたお父さん、お母さん、おっちゃんおばちゃんの顔がないことに妙な物足りなさを覚えます。
今となってはとても懐かしい思い出です。
[2007年08月17日(金) ]
きのう、列島中がうだるような暑さの中にあるとは思いもよらず、六甲山を歩いてきました。
六甲山は標高千メートル足らずの山です。下界の暑熱から逃げることはできません。
ひたすら汗を流しながらの山行となりました
コースは芦屋〜六甲最高峰〜有馬。
六甲山系の中では最もポピュラーなコースの一つです。
ほんとうは、芦屋〜六甲最高峰〜宝塚というコースを歩きたかったのですが、
暑さにやられてしまったので、やや短めのコースに変更したのです。
最近の運動不足もたたったみたいです。
芦屋から有馬までなら普段は休憩も含めて四時間ぐらいです。
宝塚までなら六時間というところでしょうか。
今回は途中で大休止をとったこともあり、結局有馬までで五時間かかってしまいました。
日本アルプスを歩いていたころはこんなことはなかったのですが、
やはりトレーニング不足による体力の衰えは隠せませんでした。
それはさておき、六甲山がどんな様子か写真を交えてご紹介しましょう。
写真をクリックしていただければ大きい画像が別ウインドウで表示されます。
まずは登り口の高座の滝です。どうですか、何やら深山幽谷の気をたたえていませんか?
でもここからがまた暑いのです



[2007年08月15日(水) ]
今はわたしの勤務校も短い夏休みの期間に入っています。
もう少しすると夏期講習の後半戦が始まります。
今はしばしの憩いの期間といったところです。
授業中に教材の説明をしたり、テストの解説をしたりする時に、
思わぬ勘違いをしていることがあります。
たとえば、小説の作中人物の心情を説明する際に、
うっかり別人の行動やセリフを基に説明してしまったり、
論説文の論旨をたどって説明している際に、
よく似た表現で始まる別の段落と取り違えてむりやりつなげたり…、
ということがたまにあるのですね。
あ、ごめん。勘違いしていたと言えば一番いいのですが、
変だなあと思いながらも強引に解説を続けてから気づくと、
なかなかすんなりと勘違いしていたと言いにくくなります。
そんな時はどうすれば一番いいでしょうか。
わたしの答えは、それでもやっぱりごめんと誤って解説をしなおす、です。
そのままごまかしていっちゃえと思うこともないではありませんし、
そうすることもゼロではありませんが、必ず説明がしんどくなります。
おまけに自責の念に小さい胸を痛めることにもなります。
生徒も馬鹿ではありませんから、こちらの説明では納得できず、
釈然としない気分でいるはずです。
中にはよくわからないと質問するものも出てきます。
そうなると、おれは嘘をついていると思いながらも、
生徒に「ああそうか」と思わせねばならなくなります。
その後味の悪さといったらありません。
理数系の教科であれば、数式の変形や、
厳密に抽象化されたモデルの説明が中心ですから、
そんな誤りはあまり起こりえないんじゃないかなと思いますが、
国語ではそういう取り違えが起こっちゃうんですね。
英語や社会でもありうるのかな。
普通に教師をやっていれば、教室では一番偉い立場に立ってしまうものです。
普通にやっていないと、大変な立場に立ってしまうわけですが
いずれにしても、教師稼業が身についていればいるほど、
そんな勘違いの正当化をやってしまいがちになるのではないかなと思います。
おごりが出ちゃって謝れなくなるんですね。
それではいかんのではないかと思うわけです。
おごらないように、でも自分の教えていることには自信を持って教壇に立つ、
それを常に忘れないようにしたいと思っています。
これがなかなか難しいのですが
自戒の念も新たにもうすぐ始まる講習、新学期に備えたいと思います。
[2007年08月10日(金) ]
文庫と言っても「文庫本」のことではありません。何の話かというのはおいおいと。
わたしは平均的な大人と比較すると本好きだと言えると思います。偏執的な書痴、蒐書狂というような域に達した方々とは比較になりませんが、本を読むという行為とともに、集めることにも関心がなくはありません。
本を集めるにはスペースが必要です。本のための家を建てる豪の者もいますが、わたしはマンションの一部屋を本の収蔵スペースにしています。が、それでも足りずに、漢籍類、外国文学関係の本は実家に送り、国語学関係の本は職場に持ち込んでいます。少女マンガも含むマンガ類も、大きな声では言えませんが、学校に疎開させています。
わたしの夢は、あちこちに分散配置している本たちを全て収めることのできるスペースを作ることですが、一家を構える身としては当分不可能なことです。そんなこんなで、わたしの本たちは、今や家人も含むあちこちの人に邪魔もの扱いされつつあります。いずれわたし自身が邪魔者扱いされないか、いささか不安がなくもありません。
やむを得ず、毎年長期休暇の時期に本を整理して、その都度古本屋さんに持っていくという作業を行っています。売ろうかどうしようか正直迷ってしまう本もあるのですが、それよりも、なんでこんな本を買ったんやろ、と不思議に思える本の方が多いのはどうしたわけでしょうか。
今回整理をしている中では、
フンボルトの言語思想 ユルゲント・トラバント著
思考と言語 ヴィゴツキー著
批評の解剖 ノースロップ・フライ
赤毛のエリク記 山室静著
あたりが売ろうかどうしようか迷っている本です。これらの本が面白くないわけじゃないですよ。フンボルトの言語思想はとても興味深いものですし、ヴィゴツキーの本も人間の発達に関して素人なりに面白く読めます。フライは唯野教授の講義にも取り上げられました。北欧神話はこれまた面白いのです。
ただ、読書に割ける時間とスペースを考えると、処分せねばならない本になってしまうというわけです。いずれ時間ができたときにはきっともう一度読み直したくなるだろうと思うのですが、それまで彼らを寝かせておくスペースがないのです(涙)
思い返せば、本を読み出した当初は全然そんな心配をする必要はありませんでした。そりゃそうです。小さなころはそもそも自分で本など買いませんし、小学校の三、四年生になって本を買い始めたとしても、親はそれを喜びこそすれ、本棚の一つや二つで文句を言うことなどないのですから。
ところで、文庫という言葉には「書庫」という意味があります。いま本に占領されている一室はそういう意味での文庫と言っていいでしょう。また、文庫という言葉には本を入れておく箱という意味もあります。いわゆる「手文庫」もその一種です。
文庫の意味をそのような手文庫的なものも含めて広く理解するならば、わたしの「文庫」第一号は、小学生のころのコイズミライダーデスクの右下の抽斗でした。文庫のささやかなスタートです。
そこには、記憶に残る限りで自分で最初に買った本である「どくとるマンボウ航海記」をはじめ、主に北杜夫と星新一と畑正憲の本をつめこんで悦に入っていたように思います。が、他にどんな本を入れていたのやら。たとえるなら、ロムルス兄弟の神話時代のようなものです。
それ以降、少しずつわたしの文庫は拡大を続けました。中学から高校にかけての一番大きな買い物が内田百間の全集(全十巻)です。たしか一冊四千円程度。一度には買えずに、お金を貯めて何度かに分けて購入しました。
買おうか買うまいか大きな葛藤があったのですが、結局思い切って買うことにしたのです。わたしの文庫の拡大はこれで弾みがついたように思います。カエサルによってローマ帝国が大きく帝政の方向に舵を切られたことが思い出されます。
文庫の拡大はそれを機にスピードを増します。いったん大きな買い物をすると、怖いものがなくなったのですね。毎月の小遣いをほとんど本の購入に充てていました。当然コイズミライダーデスクの右下の抽斗だけでは足りません。
いや、そもそも中学以降はコイズミライダーデスクなど使っていなかったのでした。いずれにしても、本棚を買い、カラーボックスを買い足して、文庫は拡大を続けていったのです。いよいよ五賢帝の時代の到来です。
トーマス・マン、ディケンズ、スタニスワフ・レム、カレル・チャペック、イタロ・カルヴィーノ、ボルヘス、マルケスなどなど。中学、高校から大学にかけてお気に入りになった作家はたくさんいます。もちろんお気に入りにならなかった作家もごまんといます。
大学、大学院では国文学を専攻していたこともあり、かなり高額の専門書なども少しずつではありますが買いそろえていきました。角川書店の新編国歌大観(全二十冊)などというとてもかさばる代物を買い込んだのもこのころのことです。
文庫が最大の版図を有したのは、仕事を始めて、一人で古アパート暮らしをしてからのことです。六畳二間と玄関に本棚がびっしりと入っていました。トラヤヌス帝の時代がやってきたのです。
この時期には、仕事をしていて比較的お金も自由にできたので、以前ご紹介したような和本などもいくつか買い込んだりしました。また、最寄り駅に古本屋さんがあったのでしょっちゅう物色しては本を買い込んでいました。
祝詞の作り方の本や愛国百人一首の評釈など、かなり毛色の変わったものまでためらいもなく買っていたのです。日本随筆大成というとても大部のシリーズ(全部でたしか100冊あまり)を買ったのもこの時期のことです。
その後、結婚を機に文庫は縮小に転じます。軍人皇帝時代の到来です。と言えば少しオーバーかもしれませんが。
一家を構えるに際して、本だらけの生活もしていられませんから、国文学関係の雑誌類を中心に蔵書の一部を処分し、さらに残りのうちの幾ばくかを実家と職場に移動させ、むりやり本をマンションの一室に押し込めることにしたのです。
それから今に至るわけですが、この期間にはさすがに大部の買い物はしていません。スペースの都合もありますから、読める範囲の本を少しずつ買って、定期的に不要なものを古本屋さんに持っていくというスタイルに落ちつきました。
ちなみに、今わたしが読み進めているのは、田川建三さんという宗教学者の本です。予想もしなかった歴史的イエス像をとても説得的な形で示しておられます。間にやわらかい本も織り交ぜてゆっくり読んでいる最中です。
さて、わたしの文庫は今後どうなっていくのでしょうか。どこまでも古代ローマの消長と軌を一にしていくのでしょうか。ひょっとして東ローマ帝国まで行っちゃうとか。いや、そもそもローマ帝国と重ね合わせてよいものなのかどうか。本の整理と原稿書きの合間のとりとめのない夢想にすぎないような気もしてきました。でも、文庫に名前をつけるとしたら、「帝国文庫」なんてどうだろうと思ったりもするのですけどね。
[2007年08月07日(火) ]
先日ヴォネガットという作家についてご紹介しました。1960年代以降、主にSFの分野で活動を続け、一時期はアメリカの大学生を中心にカルト的な人気を誇った作家で、最近では爆笑問題の太田光さんが彼のファンだということが話題になっていて…、というような話を書いたように思います。
今回はそのヴォネガットの作品の一節と奇妙に符合する斎藤緑雨の寸言を紹介したいと思います。
ヴォネガットはいくつかの作品で特定の語句を頻用しています。たとえば、「チャンピオンたちの朝食」では「さよなら、ブルー・マンデー」を、「スラップスティック」では「ハイホー」をというように、短いフレーズをしばしば繰り返し使用するのです。
これらのフレーズは、その時々のヴォネガットの気分 多かれ少なかれ悲しみの色がつきまとうのですが を込められることばだということなのでしょう。
「スローターハウス5」での頻出語は、「そういうものだ」です。この作品では、ヴォネガットが第二次世界大戦中にドイツ軍の捕虜であったときに経験した、ドレスデンの無差別爆撃が取り上げられています。作者はそこで悲惨な死、無意味な死、徹底的な破壊を目にしたようです。それは彼の一生に影を落とすことになりました。
「そういうものだ」とは、主人公のビリー・ピルグリムが時間旅行者として何度も自分の人生を生きねばならないことへの諦念を表すとともに、ドレスデン空爆という悲惨な出来事に向き合わねばならなかった作者の絶望と諦念を表していると考えられます。むかしSFマガジンに載っていたインタビューからうかがえる彼の誠実な人柄からすると、自己の経験を真正面から受け止めてしまったのだろうなと想像されます。
さて、そんな現代のアメリカの作家に配するに、斎藤緑雨とは何とミスマッチなとお思いになる方もおられることでしょう。彼は小説家でもあり、森鴎外らと小説時評などを手がける論客でもあったと言えば、およそいつ頃の作家か見当がつくでしょう。そう、緑雨は明治時代の作家なのです。
十年近く前に彼の全集が完結したと思いますが、文庫などで手軽に読むのは難しい作家の一人です。小説では辛うじて「油地獄」「かくれんぼ」が岩波文庫のラインナップに入っています。が、注や十分な解題もついていません。
「油地獄」などは異様な情念のありようがそれなりに面白い作品なのですが、語彙などの面で、気軽に人に勧められそうもありません。第一、復刊フェアでたまに若干部数が増刷されるだけなので、いつでも手に入るというものでもないのです。あと、彼のものした寸言集成が、岩波文庫(「あられ酒」)と冨山房(「緑雨警語」)から出ています。冨山房版には中野三敏さんの注とコメントがついていますから、緑雨の寸言、箴言、警句を見てみようと思われる方にはおすすめです。
さて、彼の寸言に次のようなものがあります。
○どうせ世の中は其様(そん)なものだ。この一語は、なける者をも慰むべく、怒れる者をも慰むべし。斯くして人口は年々増加すとも、減少することなし、めでたからずや。(冨山房版「緑雨警語」より)
どうでしょう。ヴォネガットの「そういうものだ」へのみごとな注釈になっていると思いませんか? ヴォネガットとは性質は違いますが、斎藤緑雨も彼なりの鬱屈の持ち主でした。それが関係しているのかどうかはわかりませんが、期せずして洋の東西で発想の一致が見られるのは興味深い限りです。わたしはこんな偶然の一致を見つけると何か楽しくなるのです。
ついでですから、緑雨の寸言、警語を「緑雨警語」からいくつか紹介しておきましょう。文語ですがあえて注はつけません。夏休みの自由研究として口語訳をしてみて下さい(笑)
○褒するに辞は限り有れども、貶するに限りなし。例せば利口といへるただ一つのほめ言葉に対し、馬鹿、阿房、間抜け、抜け作、とんま、とんちきなど、悪口は数ある如し。世とて人とて、到底そしられで果つまじきことは、これにて知るべし。
○相見ば恋は止むべきか、相逢はば恋は止むべきか、相語らば恋は止むべきか。切に求めて止むことなきものは恋なり。
○まこと世に忘らるるを得ば、こよなき幸ひなり。すくなくとも債権者の前には幸ひなり。名声の失墜、さばかり恐ろしきことかは。失墜するに足るべき名声のありけるを思へば、われもその一人として数へらるるにつけて、ひとり密かに慰むる所なくばあらず。願はくは長く今の地に墜ちて、再び揚がらざることを。
○無邪気は愛すべく、無責任は憎むべし。されども無邪気は、無責任の一種なり。
[2007年08月04日(土) ]
小学生の頃、自転車で遠くまで行き、帰りの道がよく分からない状態になることが好きでした。冒険気分で自転車の遠乗りをして、帰りがけにわざと知らない道へ入っていき自分がどこにいるのか全くわからない状態に追い込むのです。
そうやって迷子の状態になりながら自転車をこぐのが、なぜか好きだったのです。夕暮れ時にそんな状態になると当然半泣き状態になってしまいます。でも、なぜでしょうか、一方で何かわくわくするような感じがしてきて、妙に高揚した気分にもなってきます。
所詮自転車で移動できる範囲でのプチ迷子だとたかをくくっていたのかもしれません。あるいは、自分なりに手加減していて、全く位置がわからなくなるような迷い方をしていなかったのか。いずれにしても、あの泣きたいようなひりつくような感じは今でも覚えています。
いや、その性癖は大人になっても残っています。全く見知らぬところを見当もつかないままに歩くのがやはり好きです。旅行に行くとついつい知らないところを適当に歩いてしまいます。
大学院生のころ、東京の国文学研究資料館に行った帰り、来た道を戻らずにこっちからでも帰れるだろうとたかをくくり、変な道に入り込んで完全に迷子になったことがあります。帰りの新幹線の時間もあり、どこともしれない街中をえんえんとうろうろし、大変焦ったのですが、何やら面白くもあり、あたりをきょろきょろと見回しながら彷徨を続けました。
最終的にはおばさんに最寄り駅への道を尋ねて事なきを得ましたが、当然駅の名前もわかりませんから、おばさんへの質問も「一番近くの駅は何という名前ですか。そこへはどう行ったらいいですか」というような変なものになってしまい、多少怪訝な顔をされました。何やら不案内な外国人のように思われたようです。
現在の勤務先ではじめて修学旅行の引率に行ったときにもその性癖を出してしまい、やはりえらい目に遭ってしまいました。
旅行先の沖縄では班別の自由行動の時間がありました。教員は二人一組で自由行動の区域内を巡回するのですが、終了時間が来た際、わたしは少しだけ一人であたりをぶらついてから帰ることにしました。初めての町です。迷ってみたい気持ちが抑えきれません。当然迷いました。何やら飲み屋街らしい町並みの中を通り、いかにも古い家並みですというような家の間を通り抜けい、気づけばどこがどこやら全くわからなくなっていました。
その時わたしは自分の宿泊先のホテルの名前を覚えていないことに気づきました。ついでにしおりは巡回の相方の先生が持っています。ピンチです。どうしようどうしようどうしようどうしよう、と思ったもののどうしようもありません。今から考えればうかつなことに、学校に電話をして宿泊先を聞くという手段を全く思い浮かべることができませんでした。
さらにうろうろすること10〜20分。うまいぐあいにタクシーが通る道に出ました。とりあえずやって来たタクシーに乗りました。が、行く先を言えません。困りました。ホテルの名前を忘れてしまったことや、ホテルの特徴を伝えます。運転手さんはいい人で、あそこかな、ここかなといろいろと考えてくれます。相談すること5分あまり。とにかく運転手さんが一番可能性が高いと思うホテルに行ってもらうことになりました。
タクシーは快調に進みます。わたしの気分はあまり快調ではありません。でも、運転手さんが一番可能性があると判断したホテルに近づくにつれてわたしの気分も軽やかになってきました。まさしくわたしが泊まっているホテルが近づいてきたのです。思わず身を乗り出して「ここです! ここです!」と叫んでしまいました。運転手さんはもっともらしくうなずいています。
やれやれとホテルに戻ったときには生徒たちはとっくに戻っていました。わたしは副担任でしたので、その日は直接生徒の点呼をとったりする必要はありませんでしたので、特に差し支えることもありませんでした。その後夕食時に何食わぬ顔で生徒の前に現れましたが、内心ではこんなことはやっちゃいかんよなと反省することしきりでした。
そんなわたしがまた別の機会に道に迷ってえらいめに遭ってしまうことになるのですが、それはまたの話ということにしましょう。
[2007年08月02日(木) ]
中学一年生は時に予想も付かないとっぴなことをしでかします。これはわたしが以前教えていた中学一年生をの話です。
ある日の授業中のことです。ある生徒 仮にKと呼ぶことにします。 の机の横のフックに半透明のビニール袋がぶら下がっていました。それだけなら、わたしも気にも留めなかったと思います。しかし、その袋の中では何かが動いています。
ちょっと気になったので、「何やそれ」と声をかけると、「カマキリです」という答えが返ってきました。当時の一年生の教室のベランダの向こうは芝生でしたから、虫を採ってくる生徒もいます。「そうか。カマキリか。」と言い、そのまま授業を続けました。
教室を出るときふと思い出して、Kにカマキリを机の横で飼っているのか聞いてみました。すると、意外なことに答えは、「ロッカーで飼っています。」でした……。
「そっか。ロッカーか。見せてくれるか。」
ロッカーを開けると確かにカマキリが何匹かいます。机の横の袋に入っていたのはその中の一匹だったというわけです。新たに捕獲したものだったのでしょうか。それともお気に入りの一匹だったのでしょうか。今では定かではありません。
ふと、エサはどうしているのかと思い、聞いてみました。すると、「バッタを捕まえてます」との返事です。
「エサをやるたびに捕まえるのは大変やろ。どうしてるんや。」
「大丈夫です。一度にいっぱい捕っておくんです。」
「ほお、そうか。でもそんなにたくさんどこに置いておくねん。」
彼は、「ロッカーです。」と言いながら、隣のロッカーを開けてくれました。
なるほど、バッタがたくさん入ってるな……。しかし、ロッカーでカマキリを飼うとはな。よくそんなことを考えつくもんや。ちゃんとエサにまで気を配ってる。大したもんや。
本来なら空いたロッカーを勝手に使っているのを注意しなきゃいけなかったのですが、意外やら感心するやらであまりそんな気にはなれません。むしろ、どこまで飼い続けられるか見てみたいという気がしてきました。
結局わたしは、「そっか。バッタもロッカーか。ちゃんと世話しいや。」と言って教室を後にしました。
その後、しばらく世話をしていたはずですが、最後はどうなったのだったかな。卵を産むところまでいったという記憶はありません。どこかの時点で担任が撤去させたのかもしれません。わたしとしては、ロッカーまわりに生まれたてのカマキリが大量発生することを期待していたのですが(笑)
今年の中学一年生も何くれとなくしでかしてくれていますが、その話はまた折を見てということにしましょう。