プロフィール

毎週木曜更新の予定です

関西の中高一貫校で
国語を教えています。
Z会の模擬試験作りなどの
お手伝いをしています。
趣味は登山、読書、音楽鑑賞
その他です。

最新記事
最新コメント
name
旧暦10/30 いんきん団 (2008年11月30日)
垂渓庵
旧暦10/16 先日脱糞 (2008年11月15日)
垂渓庵
旧暦9/11 大学授業星取り表 (2008年10月13日)
垂渓庵
旧暦8/26 ハーディと源氏物語 (2008年10月01日)
垂渓庵
旧暦8/19 高校のころ (2008年09月25日)
ゴンザレス
旧暦8/19 高校のころ (2008年09月21日)
垂渓庵
旧暦6/23 後悔 (2008年08月05日)

http://www.zkaiblog.com/jr06/index1_0.rdf

「萌え」と国語力─続・少女マンガのヒロインは

[2007年03月30日(金) ]

今回のタイトルは、さすらいの編集人カワフチさんに敬意を表してつけてみました

前回紹介した秋月さんの論文を授業で読み終わってから、ふと、男の子たちの好むヒロイン像も、秋月さんの指摘する女性の変化の影響を受けているのだろうか、と気になりました。秋月さんと同じ手法を少年マンガに用いて分析すれば何かわかるかもしれないと思うのですが、わたしは最近の少年マンガの事情がわかりません。

続きを読む...

少女マンガのヒロインは

[2007年03月27日(火) ]

陸奥A子や小椋冬美など、きら星の如く並んでいた先生たちのマンガを愛好しておられたお母さん方もきっと多いと思います。わたしはお母さんではありませんが、やはり少女マンガをいくつか愛好していました。その辺の話を書きだすと長くなりますので、またの機会に譲るとして、今回は授業で取り上げたある論文をご紹介したいと思います。とは言ってもかたい話ではありませんのでご安心を。

その論文は、秋月高太郎さんの「失われた『ためらい』─少女マンガヒロインの変遷」です。岩波書店の雑誌「文学」の2006年11・12月号に掲載されました。

岩波書店と少女マンガ、一昔前の岩波書店のイメージを持っている人には意外かもしれませんが、時代の変化なのでしょう。この号には他にも、「〜だわん」のようなキャラ助詞の分析をする論文や、テレビのお笑いの分析をする論文、映画の「マイノリティ・リポート」を取り上げる論文などが収められています。お笑いの分析をする論文には「パタリロ」まで登場します…。岩波書店はどこへ向かおうとしているのでしょうか…。

本題に戻りましょう。秋月さんはいくつかの作品を分析し、少女マンガのヒロインの造形について、おおむね次のような結論を導き出しておられます。

 1970年代後半の少女漫画のヒロインの造形→自己評価が低い
                              受け身
                              男の子の告白を待つ

 1990年代以降の少女漫画のヒロインの造形→自己評価が高い
                              能動的
                              自ら男の子に告白する

そして、そのようなヒロイン像の変化を、女性と男性の関係の変化に結び付けておられます。秋月さんの考察のアウトラインは次のようになります。

  この間に、男性と女性の間の差がなくなっていった。
       ↓
  女性は、優位な男性から見た理想的な女性像を
  自己の理想像にする必要がなくなってきた。
       ↓
  その結果、女性は等身大の自己のありようを
  肯定することができるようになった。
       ↓
  それに対応する形で、少女マンガのヒロインも、
  理想的な女性像と自己とのギャップに悩む必要がなくなり、
  自信を持って自己を肯定する存在に変化していった。

二十年以上前の少女マンガは、わたしもいくつか読んでいましたから、秋月さんのおっしゃる特徴が実感として理解できる気がしました。ですから、最近の少女マンガ事情についての秋月さんの分析も、信頼できるのではないかなと思いました。で、面白いなあと思って、評論文の問題演習のウオーミングアップに、三学期の授業の最初に読んでみたのです。

近代が、自我が、言語が、というようなガチンコの評論文にはアレルギーを示す生徒たちも、けっこう面白そうに読んでいました。分析の対象が別のもので、語り口も秋月さんのように平易でなければ、きっと生徒は拒絶反応を示すことでしょう。こんなところから、さまざまな事象を分析する評論文の面白さに気づいてくれるといいと思うのですが。

ついでに、90年代以降の少女マンガについて女子生徒に確認してみたところ、最近の少女マンガの傾向は、秋月さんの言うとおりだということでした。秋月さんの紹介されている作品のストーリー展開も彼女たちの読む少女マンガと同じような傾向だそうです。それを聞いて、わたしは、やはりそうだったかという気持ち半分、軽い驚き半分でした。

なぜ驚いたのかというと、秋月さんが分析の際に紹介しておられる作品のあらすじが、昔の少女マンガのイメージしかなかったわたしには意外で、「なんじゃこりゃ!」というものだったからです。次に二つほどストーリーを挙げてみます。

○ ナンパされた男の子の一人がタイプだと思った主人公が、なんとその男の子のお父さんに「この女の子を彼女として推薦する」という推薦状を書いてもらい、男の子に推薦状を手渡して、好きと告白する。(吉住渉「ランダム・ウォーク」)

○ つきあっている彼氏の親友を好きになった主人公が彼氏と別れて、喧嘩をしてはだめだと優しく声をかけて抱きしめてくれたその親友に好きだと告白する。(美森青「君に向かって走る」)

むかし少女マンガを読んでいたお母さん  そして少数のお父さん  は、どんな印象を持たれたでしょうか。わたしと同じように松田優作になっちゃわなかったですか。

わたしは、秋月さんの分析は正しいだろうと思いつつも、例として出されている作品は、分析を印象づけるために、とくに奇抜なものが選ばれているのだろうと思っていたのです。が、違ったのですね。いまの女の子はこんなのを読んでいるのかと改めて認識を新たにした次第です。彼らの読むケータイ小説その他も、どんなことになっているのか気になるところです。時代はどこへ向かおうとしているのでしょうか。

さよならだけが人生だ─別れの詩の続き

[2007年03月24日(土) ]

さて、前回に引き続き、わたしが生徒や同僚たちとの別れに際して思い出すもうひとつの詩を紹介しましょう。

井伏鱒二が「さよならだけが人生だ」と訳したのは、晩唐の詩人、于武陵の「勧酒(酒を勧む)」の結句です。「勧酒」は、「唐詩選」に収められています。平易な詩ですので、現代の注釈書ではなく、荻生徂徠(おぎゅうそらい)門下の詩人、服部南郭(なんかく)の「唐詩選国字解」を引用してみましょうか。

この本は、南郭の唐詩選講釈を門人が書き取ったノートをもとに作られています。講義録のようなものと思えばいいでしょう。古文というとどうしても堅苦しく考えがちですが、口頭語の性格が強いものは意外と理解しやすく、親しみやすいかったりします。南郭のこの本もそんな一冊です。

原文、書き下し文、通釈の順に挙げ、最後に井伏鱒二の日本語訳を紹介します。

 *平凡社の東洋文庫版「唐詩選国字解(3)」から引用しました

原文
  勧 君 金 屈 巵
  満 酌 不 須 辞
  花 発 多 風 雨
  人 生 足 別 離

書き下し文
  君に勧む 金屈巵(きんくつし)
  満酌 辞するを須(もち)いず
  花発(ひら)いて風雨多し
  人生 別離足る

南郭の通釈
〔君に……須いず〕
金屈巵は、持つ手(柄)のある(黄金の)盃なり。親しい友達に逢うて、此の方(自分の方)から一ぱいまいれとさしたを、「勧む」と云ふ。必ず辞儀(辞退)せらるるな。このやうなことはまた(二度とは)ないことぢゃ。
〔花……別離足る〕
なぜなれば、花盛りぢゃほどに見やうと思ふ間に、風雨でもすれば、落ちてしまふ。人生もその如く、大方(おほかた)別るることが多いものぢゃ(「足る」は多いの意)。しかれば、逢うた時に、酒でも試み、楽しむがよい。

親しい友人に出会って、せっかくの機会なんだから飲もうよ。もういいなんて言うなよと言っているわけですね。しょっちゅう会っている友人に「人生は云々」と言ってむりやりお酒をすすめているのだとすると、屁理屈をこねて絡んでいるわけで、ちょっと困った人です。時々いますけどねここでは、久しぶりに会った友人と楽しいひとときを楽しんでいるか、友人との別れを惜しんでいるかのどちらかととるべきでしょう。いずれにしても、酒宴の後はまた別れ別れになりそうです。

現在のように高速での移動手段が発達している時代からは想像しにくいことですが、徒歩や馬などが主要な移動手段であった時代には、遠方への旅立ちは、今生の別れを意味しかねませんでした。少なくとも、頭のどこかに、もう会えないかもしれないという意識があったことだと思います。

「全唐詩」という、唐代の詩人の詩を集大成した詩集で于武陵の詩を見てみると、彼はあちこち旅をしていた人のようですから、そんな別れを何度も経験しているのでしょう。今、楽しめるだけ楽しもうよという姿勢の裏には、そんな惜別の情が隠されているのだと思います。

井伏鱒二はこの詩を次のように訳しました。

  この盃を受けてくれ
  どうぞなみなみつがしておくれ
  花に嵐のたとえもあるぞ
  さよならだけが人生だ
                (『厄除け詩集』より引用。表記を改めました。)

「人生別離足る=人生に別れは十分にある=人生に別れはつきものだ」と、「さよならだけが人生だ」とでは、意味内容が少しずれていますから、正確な訳かという点については、実は問題がなくもありません。が、翻訳であるということを離れて、「さよならだけが人生だ」というフレーズ自体を見てみると、よくできた名文句だと思います。そのため、一般に広くこのフレーズが知れ渡ることになったようです。また、口調の良さもあって、井伏鱒二の訳を好む人も多いようです。

この于武陵の詩は、お別れの酒宴で寂しさを胸に別れのひとときを惜しみながら、お酒を酌み交わしているさまを彷彿とさせます。高校生は卒業してもまだまだ未成年ですから、お酒を酌み交わすというわけにはいきませんが、卒業式後に生徒と話しているときにはこの詩が頭をよぎります。また、親しい同僚の歓送会  では、お酒も入り、まさしくこの詩にあるような気分になります。もちろん、お酒を無理強いするようなことはしませんが

「人生別離足る」、現代では教職に就いている者が最も実感する機会が多いのかもしれません。

別れの詩

[2007年03月22日(木) ]

一昨日はわたしの自宅近くの小学校の卒業式でした。卒業生が送り出される光景があちこちで見受けられたことと思います。そこここに、写真を撮るのに夢中のお父さん、お母さんがいたことでしょう

教職に就いていると毎年卒業生との別れがあります。もちろんそれだけではなく、退職する方との別れもあります。時が流れ続ける以上、それは避けられないことですが、いささか寂しい気持ちがします。

そんな別れに際してわたしがよく思い出す漢詩が二つあります。ひとつめは、陶淵明の「贈長沙公(長沙公に贈る)」という詩  正確にはその一節  です。

陶淵明は、中国の六朝期(唐の少し前の時代を言います)の詩人です。彼の「帰りなんいざ、田園まさに蕪(あ)れなんとす」という詩句や、高校の漢文の教材の定番である「桃花源記」などは、聞き覚えのある方がいるのではないでしょうか。

長沙公は陶淵明と同じ陶一族の陶延寿であろうと言われています。序によると、彼が陶淵明の住む地を通った際に、陶淵明はこの「贈長沙公」詩を贈りました。わたしがよく思い出すのは、その第四節です。原文、書き下し文、口語訳の順に挙げてみましょう。
 *原文は岩波文庫「陶淵明全集(上)」からの引用です。
 *書き下し文と口語訳は岩波文庫のものに少し手を加えました。

  何 以 写 心     貽 此 話 言

  進 簣 雖 微     終 焉 為 山

  敬 哉 離 人     臨 路 悽 然

  款 襟 或 遼     音 問 其 先

    何を以て心を写さん
    此(こ)の話言を貽(おく)る
    簣(き)を進むること微なりと雖(いえど)も
    終(つい)には山と為(な)る
    敬(つつし)めよや 離人
    路に臨んで悽然(せいぜん)たり
    款襟(かんきん) 或(ある)いは遼(はる)かなれども
    音問 其れ先にせよ
 
別れに際してわたしの気持ちをどう表現したらいいでしょう。今はこのことばを贈ります。「もっこで運ぶ土はわずかであっても、ついには山を築き上げる」。どうか御身を大切に、旅立つ人。別れに臨んで寂しい気持ちでいっぱいです。またこのようにうちとけて語り合えるのは、いつになるか分かりませんが、折々に音信だけでも寄せて下さい。

相手に対する惜別の情とこれからへの期待が感じられるのではないでしょうか。わたしは天の邪鬼ですので、卒業していく生徒に「音問其れ先にせよ」と言ったりはしませんが、たまに学校に遊びに来てくれるとやはり嬉しいものです。卒業する生徒を送り出す教師の心情を代弁するような詩句だと思っています。

もうひとつの詩は、次回にご紹介しましょう。井伏鱒二がその詩を訳し、「さよならだけが人生だ」という名フレーズを生みだしたことで有名な詩です。

ひろあきくん

[2007年03月20日(火) ]

中学や高校の教員は教科に関わる研究会に参加することがあります。地方の大会でも、興味のある研究発表が行われるときには、泊まりがけで出かけたりもします。
これは四年ほど前にわたしが出雲・松江方面の大会に出かけたときの話です。

わたしは夕食を食べる場所を探していました。旅行ガイドに載るようなしゃれた店は苦手で、ごく当たり前の居酒屋さんのような店の方が落ちつきます。結局、選んだのは盛り場の端っこにある居酒屋でした。五十代と思しいおかあさんが一人でやっている小さな店です。

お客はわたしも含めて三、四人。カウンターで近くの飲み屋のマスターが飲んでいました。少し話をした後、マスターは店を開けなきゃと言って出て行きました。おかあさんを相手に何やかやと話しているうちに、だれもいなくなりました。

さあ、帰るかと思っていると、小学校二〜三年ぐらいの男の子が奥から出てきて、おかあさんと二言三言ことばを交わした後、トイレに入っていきました。

「お子さんですか」なんとなく聞いてみました。
「娘の子なんですよ。働いている間預かっているんです」
「ああ、そうですか。おかあさん若いから、てっきりおかあさんの子ぉかと思いましたわ」
(こういうのを「てんご」といいます。関西弁ビギナーの人は覚えておいて下さい。)
「またご冗談ばっかり」
「いやいや、お若いですよ。へーそうですか。お孫さんですか。いくつですか」
「八歳なんですよ」
「利発そうな子ですねえ」
「ありがとうございます」
「ほんとにかわいい感じの子ですね」
「どうもぉ」
お互いにこやかに進む実にいい会話です

そうこうしているうちにその子がトイレから出てきました。
「こんばんは」とりあえずあいさつしてみました。
「こんばんは」明るい、いい返事です。物怖じしない愛嬌のある男の子でした。
「名前はなんて言うんや?」
「ひろあきだよ」
「へえ、ひろあきか。どんな字書くねん。ちょっと教えてえや」
「広いの広と日が三つだよ」
「広いの広にひが三つなあ。火て燃える火ぃかいな? そんなん三つの漢字なんてあるか?」またまた関西人のお約束です。とりあえずぼけてみました。
「違うよ!火じゃないよ。太陽の日だよ」ムキになっています
「ああ、そうか。太陽かいな。そやろなあ。火が三つなんて漢字知らんもんなあ。でも、太陽が三つてえらい難しい漢字やな。太陽太陽太陽て三つも重ねるんかあ」(ぼけるなら必ずぼけを重ねなければなりません。ここ、ポイントです。)
「違うってば!」ちょっと声が裏返っています。
「太陽の日だよ。わからないの?教えてあげるよ」
カウンターの方にまわってくるひろあきくん。おかあさんはにこにこしています。

ひろあきくんは横に座って店の伝票に字を書いて説明してくれます。
「ああ、その晶か。やっとわかったわ。そうか、広晶か。はよそう言うたらええのに。ええ名前やなあ。いまいくつや?」……。

その後、店のおかあさんを交えながら小一時間ほど話したでしょうか。カービーが好きなこと。カービーのマンガを見ながらの解説。カービーのゲームの実演。学校が楽しいこと。算数が好きなこと。今度友達と遊びに行くこと……。もう寝る時間だよと店のおかあさんが声をかけなければもっと話し込んでいたでしょう。広晶くんは「おやすみ」を言ってから素直に奥に入っていきました。店のおかあさんとしばらく話した後、わたしも店を出ることにしました。

まだ時間が早かったので、店を出る時お母さんに場所を聞いておいた、さっきのマスターの店に行くことにしました。そこで二人で浴びるほどお酒を飲むことになるのですが…その話は今は置いておきましょう。

その時に聞いた話では、広晶くんは、ふだんはあんまり店に出て話すことはないそうです。仕事のじゃまをしてはいけないと思っているのか、一人でおとなしくママの帰ってくるのを待っているみたいです。

あの日は他にお客さんもいなかったので、店で長い時間を過ごせたのだと思います。からかい気味に話す酔っぱらいとの会話の方が、一人でいるよりはよかったのかもしれません。

彼は今年中学生のはずです。元気かな? ひろあきくん。

「立ち上げる」の謎解き

[2007年03月17日(土) ]

前回とりあげた、ボランティア団体を「立ち上げる」という言い方について、わたしは次のように考えています。

「あのピッチャーは立ち上がりがいい」などのような言い方が存在。
    ↓
そこからの類推で、「boot」などの訳語として
「パソコンが立ち上がる」「パソコンの立ち上がりが早い」という言い方が成立した。
    ↓
「パソコンが立ち上がるような状態にさせる」という、
他動詞的な意味内容を表す表現が求められた。
    ↓
「パソコンが立ち上がる」の「上がる」を「上げる」に変化させ、
「立ち上げる」という他動詞形が作られた。
    ↓
パソコン関連で用いられる「立ち上げる」がある程度一般化し、
そこからの類推として会社などの団体の設立を表す表現として転用された。

わたしが右のように考えるきっかけになったのは、「売り切る」―「売り切れる」というセットの存在です。
「売り切れる」は、「売る」+「切れる」で、「他動詞」+「自動詞」の形になっています。「立ち上げる」とはちょうど逆ですね。
この「売り切れる」も、「撃ち殺す」などとは違うタイプのように思えます。

  売ることが切れる

変ですよね。おまけに、具体的な例文を考えると、たとえば「はんぺん売り切れる」というように、「売る」という動詞の主語に売られる「はんぺん」がきています。その点でも、「立つ」という動詞が目的語をとるかのような「会社を立ち上げる」と同じく、やはりちょっと違和感が残ります。つまり、「立ち上げる」と自他の順番こそ逆ですが、語の成り立ちも、構文的な振る舞いも、同じように違和感をもたらす形になっているということなのです。

この「売り切れる」には「売り切る」という他動詞形が存在します。こちらは自然な表現です。まずはじめに不自然なものがあったとは考えにくいですから、自然な「売り切る」がもともと存在していたのじゃないかと推測できます。そして、「商品が、売り切った状態になって全部なくなってしまった」という意味を表す表現が求められた。そこで、「切る→切れる」という変化によって、落ちついて考えると違和感の生まれる「売り切れる」が生みだされた、と考えると「売り切れる」ということばの存在が無理なく説明できます。

同じことが自他の順が逆になっている「立ち上げる」でも起こったのじゃないかと思ったわけです。「立ち上げる」は、さらにその後、「ボランティア団体を立ち上げる」のように意味が拡張して用いられたという点が、「売り切れる」とは異なっていますが。

これはあくまでも予想です。この予想が妥当かどうかを確認するためには、「立ち上がる」「立ち上げる」の使用例を広く求めて、両者の使用時期に差があるかどうかを確認してみなければなりません。できれば、「売り切れる」「売り切れ」─「売り切る」「売り切り」についても同じ検証が必要です。

ですが、「立ち上がる」と「立ち上げる」の成立時期の差も、「売り切る」と「売り切れる」の成立時期の差も、そんなに大きくないかもしれないという気もしています。それぞれIT関連、日常の商品売買の分野で基本的な用語です。日々の必要の中でほぼ同時期に使われ出した可能性が大きいと思うのです。

実はそれも検証してみなければわからないのですが、例を広く求めるのはちょっとわたしの手には余ります。わたしの考察の妥当性も含めて、みなさんのご意見をうかがいたいなと思います。

「立ち上げる」

[2007年03月15日(木) ]

「ボランティア団体を立ち上げる」という言い方があります。
普段何気なく使っていますが、変な感じがしませんか?
ドロロンえん魔くんのエンディングの歌が聞こえてきそうです。

「立ち上げる」は言うまでもなく複合動詞です。「立つ+上げる」ですね。
ちょっと複合動詞の例を思い浮かべてみましょう。

  つけ狙う
  撃ち殺す
  あきれ果てる
  引き回す
  はり付ける

……。
どうもぶっそうな例ばかりになってしまいました
誰かを「つけ狙って」「撃ち殺す」なんて、「あきれ果てた」ふるまいです。あげくに市中「引き回し」の上、獄門に「はりつけられる」…。わたしはマイナス指向なんでしょうか…

いえ、そんなことはどうでもいいのです。見ればわかるように、どれも「他動詞+他動詞」の形か、「自動詞+自動詞」の形になっています。

さて、「立ち上げる」はどうでしょうか。

  立つ=自動詞 上げる=他動詞

変だなあというわたしの気持ちがわかっていただけたでしょうか。ドロロンえん魔くんの…、いや、もうやめておきましょう。

似たような例を考えて、ひねり出したのが次の例です。

  走りとおす(走る+とおす)
  寝つづける(寝る+つづける)

どうです。「自動詞」+「他動詞」になっているでしょう
でも、よく考えてみると、どうも「立ち上げる」とはタイプが違うような気がします
だって、右の二つはどう見ても、

  走ることを最後までやりとおす
  寝ることをつづける

というような意味で、下の「とおす」や「つづける」が、上の動作をどんな風にやるか補足的に説明しているでしょう? 立ち上げるを同じように理解すると…、

  立つことを上げる

だいじょうぶですかといいたくなりますよね。立ち上げるをあえて説明するなら、

  立ち上がることを助ける
  自力で立つところまでもっていく

となりそうです。単純に二つの語の意味を足しているんじゃないみたいです。こんな複合動詞の例は他にあるんでしょうか?

この不思議なことばの成り立ちについて、皆さんはどのようにお考えになりますか。
次回にわたしなりの考えを書きたいと思いますが、自信を持っているわけではありません。みなさんのお知恵を拝借できればと思います

次回の更新は土曜になります

可口可楽の答え

[2007年03月14日(水) ]

はじめてこの日記に来られた方は、昨日の日記を読んで下さいね。昨日はクイズを出題しました

昨日の記事に、Z会ブログでブログをやっておられる野中すみれさん(野中さんのブログ)からコメントを寄せていただき、このブログをお読みいただいている方の中に、SF者がいるということがわかりました。心強い限りです野中さん、コメントを返しておきました

ちなみに野中さんのお好きなグィンの漢字表記は「娥蘇拉;勒瑰恩」です

さて、前回の問題の答えを書いておきましょう。

  1 儒勒・凡尓納→ ジュール・ヴェルヌ
  2 威尓斯     → ウェルズ
  3 阿西莫夫   → アシモフ
  4 海因来因   → ハインライン
  5 克拉克    → クラーク
  6 別利亜耶夫 → ベリャーエフ
 
できましたか?
国語力検定にも、Z会の模試にも出てくることは絶対ありませんが、SF者のみなさんは覚えておきましょうね。これらの漢字表記でネットで検索をかけると、中国のSFサイトが出てきますよ。漢字ばっかりの検索結果が表示されます

こんな感じです。儒勒・凡尓納
          阿西莫夫

簡体字、繁体字が入り乱れていますね。

野中さんというSF者もいらっしゃることですし、せっかくですから、阿西莫夫の「機器人三定律(ロボット三原則)」を挙げておきましょう。”I, Robot”に出てきましたよね。

   第一法則、機器人不得傷害人類、或袖手旁觀坐視人類受到傷害。

   第二法則、除非違背第一法則、機器人必須服從人類的命令。

   第三法則、在不違背第一及第二法則下、機器人必須保護自己。

「中外科幻故事」にもひかれているのですが、ぱっと見てわかりにくいので、中国版Wikipedia「維基百科」から引用しました。日本語訳はこちら。英語の原文もついています。が、高校生のみなさんは、まずは漢文風に読み下してみましょう

可口可楽

[2007年03月13日(火) ]

表題の文字が読めますか?
有名なので読める人も多いでしょうね。答えはコカコーラ。
他にも、「麦当労(マクドナルド)」「肯徳基(ケンタッキー)」のように、中国では漢字を組み合わせて外来語の音を表すことがあります。

また、「微軟(マイクロソフト)」「視窓(ウィンドウズ)」のように意訳をする場合もあります。
ただし、人名は前の方法で表記されるようです。

確かに、「カーペンター」さんが「大工」さんなどと表記されたりすると変ですよね
カーペンターさんはカーペンターさんじゃなくっちゃいけません。
カーペンターさんがパン屋さんだったら、「パン屋さんのカーペンターさん」が、
「パン屋さんの大工さん」になっちゃいますからね

というところで本題です。
去年中国に行った際に、「中外科幻故事精講」(安徽文芸出版社刊)という、海外SFのアンソロジーを買ってきました。



そこにはけっこう有名なSF作家の名前も記されています。もちろん漢字表記で。
みなさんは、次に挙げた作家が誰かわかりますか?

 1 儒勒・凡尓納
 2 威尓斯
 3 阿西莫夫
 4 海因来因。
 5 克拉克。
 6 別利亜耶夫。

ちょっとわかりにくいかな。ヒントをあげましょう。

1は、フランス人で、SFの創始者のひとりです。
2は、イギリス人で、この人もやはりSF草創期の人です。1も2も超有名人ですよ。
3は、アメリカの作家です。科学エッセーでもおなじみです。
4は、アメリカの作家です。50年代SFの代表選手ですね。
5は、イギリスの作家です。やはりSF界の巨匠です。「2001年宇宙の旅」の原作者です。
6は、ロシアの作家です。誰も知らないかな。もしも「ドウエル教授の首」と言われて分かる人がいれば、コメント下さいね。

音読みしてみると見当が付くかもしれません。
答えは次回ということにしましょう。

ちなみに日本からは星新一のショート・ショートが三編採られています。

 没有欠点的槍
 黄金星球
 推銷員

槍は「銃」のこと。推銷員は「セールスマン」です。それぞれ

 完全な銃
 黄金の星
 セールスマン

とでも訳せそうですね。斜め読みした限りでは、星新一らしい話で、記憶があるような気もしますが、はっきりしません。原題や収録書名などは不明です。おわかりになる人はまたコメントをお寄せ下さい。

※ 中国では簡体字が用いられていますので、本当は若干表記が違うのですが、うまく表示できないので、通行の字体で書いてあります。

面接

[2007年03月12日(月) ]

十年以上前になるでしょうか。中学入試の面接でこんなことがありました。

私の担当も半ばを過ぎた頃、受験生と保護者が部屋に入ってきました。男の子です。
いくつか質問をした後、次のような質問をしました。
「中学に入ったら何をやってみたいですか」
男の子の答えは、なんと、「ゆっくりしたいです」でした
まさかそんな答えが返ってくるとは思いません。一瞬ことばを失ってしまいました。
本人にとくに悪びれた様子はありません。
私の相棒の先生も予想外だったようで無言です。沈黙が広がります
とにかく質問を続けねばと思い、質疑を続けました。

「体調が悪いのですか?」
「いえ〜」
「どうしました?」
「勉強ばっかりしてたんで…」
「…。そうですか…。えっと、一生懸命受験勉強をしたんですね」
「はいぃ」素直そうな子です。
「ちょっと疲れてしまいましたか」
はにかみながらうなずいています。
どうも変な方向に話が進んでいきます。これではいけないと思い、
「あと少しで受験も終わりですよ。春休みにうんと休養をとって、四月から元気に中学生活を続けてください」とまとめると、にっこりと頷いていました。
お母さんは、あいたたたという感じで顔をしかめていました

最近はみなさん多かれ少なかれ練習をして面接に臨まれるようですから、こんな経験をすることはなくなりました。
でも、暗記してきた答えをつっかえながら言っているっぽい子を見ると、自然な受け答えでいいんだよと声をかけてやりたくなります。そして、彼らの本音を聞いてみたい気になるのです。

そうそう、彼は無事に合格し、四月から私の勤務先に通い、その後も幸いそんなにゆっくりすることなく勉強を続け、希望する大学に合格しました

| 次へ