[2008年01月07日(月) ]
垂渓庵です。
新年明けましておめでとうございます。
年が改まったのを機に、タイトルに旧暦表示を入れてみることにしました。今日は旧暦では11月29日で、実はまだ新年ではありません。江戸時代の人にしてみれば、今頃新年おめでとうと言う人は「オランダ正月」を祝っているということになるのでしょう。
それはともかくとして、ますますレトロになっていく予感をはらむ耽読翫市を今年もよろしくお願いします。
旧暦は月の満ち欠けを基準に作られています。毎月一日(ついたち=月立ち)が新月。十五日が満月。十五夜お月さんですね。三日月は毎月三日頃の月。旧暦なんて今の生活には関係ないと思っていた方もいるでしょうが、実はこんなにわたしたちの生活と関係があるのです。
そんな旧暦にわたし自身も馴染もうと思い、旧暦表示を思い立ちました。いつまで続くか心許ない限りですが、当面は旧暦表示を行っていこうと考えています。
旧暦に関してのお話はまた追い追いしていくとして、とりあえず今日は吉例にしたがいまして、年頭にあたり今年の抱負を述べてみたいと思います。
[2007年12月03日(月) ]
垂渓庵です。
「名詮自性」ということばがあります。
いや、わたしが自慢げに胸を張って「あります」などと言わなくても、
一般的なことばとして存在するわけですが。
「名は体を表す」というような意味のことばでした。
「名は体を表す」。それはそれである種の真理を突いているように思います。
ジャイアン、ジャイ子。いかにも彼らにピッタリです。
バイキンマン、食パンマン。それ以外にはありえません。
シャア・アズナブル、ミハル。ガンダム世代にはたまりません。
……。
しかし、逆の場合もあるのではないかと思ったりもするわけです。
「名は体を規定する」とでも言えばいいでしょうか。
名前がそのものの本性・性質を形作る、というような場合です。
「名詮自性」をもじって言うなら、「名先自性」とでも言えるでしょうか。
「名は自らの性に先だつ」というわけですね。
何のことやらわかりにくいですね。これも例をあげましょう。
[2007年10月01日(月) ]
今回はこれまで以上にどうでもいい話です。
時間を無駄にしたくない人は読まずにスルーすることをお奨めします
頭を洗っているとき、みなさんは目をつむりますか?
シャンプーハットを使っていないわたしは当然つむります。
でも、つむりっぱなしというわけにはいきません。
時にはカランの位置を確認するために、
時にはシャンプーを追加するのに、
しばしば背後に異界の者がいないかを確認するために、
ちょっと目を開ける必要に迫られることがあります。
でも、へたに目を開くとシャンプーがしみてたまらないことになりかねません。
顔をざっとでも洗ってから目を開けばいいわけですが、
そのためにはカランを手探りで探さねばなりません。
でも、そうするぐらいなら、そもそも目を開ける必要はなわけです。
シャンプーを使うために手の泡を落とすのも業腹ですし、
異界の者がいるかどうかの確認のたびにいちいち顔を洗うのも面倒です。
それに、異界の者はいません。たぶん。
わざわざカランを探してお湯を出してシャンプーまみれの手を洗って顔を洗う。
ついでにカランについた泡も落とす。いずれにしても、何ともめんどくさい話です。
そこでわたしは次のような方法をとることにしています。
片方の目の上の泡やシャンプー液を片手でざっとぬぐって、
素早く片目だけで用件を済ます。
こうすると、大抵の場合、最も簡単に所期の目的が達成できます。
が、何回かに一回ぐらいは、開けている目は何ともないのに、
つむっている目がしみて痛くなることがあります。
どういう理屈になっているのか分からないのですが、
そうなってしまうのです。
片目を開ける前にそのことを思い出して、
つむっている目をこれでもかというぐらいぎゅっとつむっても、
やはりそちらの目が痛くなってくる、という経験もあります。
本当にどういうわけなんでしょうか。
物心がついてから、わたしがずっと不思議に思っていることの一つです。
[2007年09月25日(火) ]
わたしは大阪の新世界というところが好きです。垢抜けてもいず、上品でもありませんが、学生のころから幾度となく訪れました。
わたしが大学生だった二十年前には、地下鉄御堂筋線動物園前駅から通天閣方面に続くじゃんじゃん町という筋に、弓を引いて遊ぶところがありました。いろいろな強さの和弓や洋弓があって、五本いくらとかで矢を借りて射るのです。おばさんが切り盛りしていて、簡単に弓の弾き方をレクチャーしてくれていました。
普通の的が横に五つぐらい並んでいたでしょうか。その間には別に金色の小さな的がありました。そちらには火薬が仕込まれていて、もしも射抜くとパーンと音がします。文字通りの金的だったわけです(笑)
某私立校で非常勤講師をしていたころは、授業のある日は新世界に行って、串カツを食べたり、じゃんじゃん町のジュースやさんでジュースを飲んで弓を引いたり、変に派手なおじいさんが将棋を指しているのを覗いたり、ゲームセンターでスマートボールをしたりする、というのが定番になっていました。
その頃は新世界も今ほど整備されておらず、そこここで駅のトイレのような臭いがしていましたっけ。今のように観光客が大挙して押し寄せ、店の造作をこぎれいにした串カツ屋さんが何軒も見られる、ということもありませんでした。
と、なぜこんなことを書き連ねているかと言いますと、この連休中にとても久しぶりに新世界で串カツを食べて帰ろうと思って行ったのですが、こんなことになっていたのです。
[2007年09月12日(水) ]
わたしは通勤にバスを利用しています。
バスに乗ると、「危険ですのでバスが止まるまでお立ちにならないで下さい」
というようなステッカーが貼られていることに気づきます。
同様の放送が流れることもあります。
なるほど、バスは揺れたり急ブレーキをかけることもありますから、
その注意はもっともなことです。
しかし、そのステッカーはいったい何のためにあるのだろうか、
そのアナウンスは生きたものになっているのだろうかと、
激しく疑問に思うことがあります。
わたしが乗る路線バスの運転手さんは、乗車した人が座るか、
しっかりつり革を持つかするのを待たずに発車することが多いのです。
高齢の方がバスに乗り込む際はそれでけっこう危なかったりします。
乗客の安全を本気で気遣うのであれば、降車時の注意を
乗客に求めるだけでは不十分なはずです。
安全運転を心がけるのはもちろんのことですが、発車時にも、
お客さんがきちんと座るなり、しっかり立つなりするのを
確認して発車すべきではないかなと思うのです。
わたしの実家の近くを走るバスでは
そんなひやっとする経験をほとんどしません。
両者は違うバス会社ですので、
会社によって意識が違うということなのでしょう。
わたしが通勤に使う路線バスの会社は、
会社の側も配慮をした上で、なおかつ念には念を入れて
あのステッカーを貼っているというのではないように思います。
とにかく形だけ整えてみました感が濃厚です。
それでも、そのバスを利用せざるを得ない人は利用し続けますので、
商売として成り立っていくのでしょうね。
自分の仕事をふり返って、同じように形だけ整えているけれども、
実は学校や教師の側の都合を優先しているだけにすぎない
ということはないだろうかと考えてみたりもします。