[2007年03月30日(金) ]
今回のタイトルは、さすらいの編集人カワフチさんに敬意を表してつけてみました
前回紹介した秋月さんの論文を授業で読み終わってから、ふと、男の子たちの好むヒロイン像も、秋月さんの指摘する女性の変化の影響を受けているのだろうか、と気になりました。秋月さんと同じ手法を少年マンガに用いて分析すれば何かわかるかもしれないと思うのですが、わたしは最近の少年マンガの事情がわかりません。
[2007年03月24日(土) ]
さて、前回に引き続き、わたしが生徒や同僚たちとの別れに際して思い出すもうひとつの詩を紹介しましょう。
井伏鱒二が「さよならだけが人生だ」と訳したのは、晩唐の詩人、于武陵の「勧酒(酒を勧む)」の結句です。「勧酒」は、「唐詩選」に収められています。平易な詩ですので、現代の注釈書ではなく、荻生徂徠(おぎゅうそらい)門下の詩人、服部南郭(なんかく)の「唐詩選国字解」を引用してみましょうか。
この本は、南郭の唐詩選講釈を門人が書き取ったノートをもとに作られています。講義録のようなものと思えばいいでしょう。古文というとどうしても堅苦しく考えがちですが、口頭語の性格が強いものは意外と理解しやすく、親しみやすいかったりします。南郭のこの本もそんな一冊です。
原文、書き下し文、通釈の順に挙げ、最後に井伏鱒二の日本語訳を紹介します。
*平凡社の東洋文庫版「唐詩選国字解(3)」から引用しました
原文
勧 君 金 屈 巵
満 酌 不 須 辞
花 発 多 風 雨
人 生 足 別 離
書き下し文
君に勧む 金屈巵(きんくつし)
満酌 辞するを須(もち)いず
花発(ひら)いて風雨多し
人生 別離足る
南郭の通釈
〔君に……須いず〕
金屈巵は、持つ手(柄)のある(黄金の)盃なり。親しい友達に逢うて、此の方(自分の方)から一ぱいまいれとさしたを、「勧む」と云ふ。必ず辞儀(辞退)せらるるな。このやうなことはまた(二度とは)ないことぢゃ。
〔花……別離足る〕
なぜなれば、花盛りぢゃほどに見やうと思ふ間に、風雨でもすれば、落ちてしまふ。人生もその如く、大方(おほかた)別るることが多いものぢゃ(「足る」は多いの意)。しかれば、逢うた時に、酒でも試み、楽しむがよい。
親しい友人に出会って、せっかくの機会なんだから飲もうよ。もういいなんて言うなよと言っているわけですね。しょっちゅう会っている友人に「人生は云々」と言ってむりやりお酒をすすめているのだとすると、屁理屈をこねて絡んでいるわけで、ちょっと困った人です。時々いますけどね
ここでは、久しぶりに会った友人と楽しいひとときを楽しんでいるか、友人との別れを惜しんでいるかのどちらかととるべきでしょう。いずれにしても、酒宴の後はまた別れ別れになりそうです。
現在のように高速での移動手段が発達している時代からは想像しにくいことですが、徒歩や馬などが主要な移動手段であった時代には、遠方への旅立ちは、今生の別れを意味しかねませんでした。少なくとも、頭のどこかに、もう会えないかもしれないという意識があったことだと思います。
「全唐詩」という、唐代の詩人の詩を集大成した詩集で于武陵の詩を見てみると、彼はあちこち旅をしていた人のようですから、そんな別れを何度も経験しているのでしょう。今、楽しめるだけ楽しもうよという姿勢の裏には、そんな惜別の情が隠されているのだと思います。
井伏鱒二はこの詩を次のように訳しました。
この盃を受けてくれ
どうぞなみなみつがしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
(『厄除け詩集』より引用。表記を改めました。)
「人生別離足る=人生に別れは十分にある=人生に別れはつきものだ」と、「さよならだけが人生だ」とでは、意味内容が少しずれていますから、正確な訳かという点については、実は問題がなくもありません。が、翻訳であるということを離れて、「さよならだけが人生だ」というフレーズ自体を見てみると、よくできた名文句だと思います。そのため、一般に広くこのフレーズが知れ渡ることになったようです。また、口調の良さもあって、井伏鱒二の訳を好む人も多いようです。
この于武陵の詩は、お別れの酒宴で寂しさを胸に別れのひとときを惜しみながら、お酒を酌み交わしているさまを彷彿とさせます。高校生は卒業してもまだまだ未成年ですから、お酒を酌み交わすというわけにはいきませんが、卒業式後に生徒と話しているときにはこの詩が頭をよぎります。また、親しい同僚の歓送会 では、お酒も入り、まさしくこの詩にあるような気分になります。もちろん、お酒を無理強いするようなことはしませんが
「人生別離足る」、現代では教職に就いている者が最も実感する機会が多いのかもしれません。
[2007年03月22日(木) ]
一昨日はわたしの自宅近くの小学校の卒業式でした。卒業生が送り出される光景があちこちで見受けられたことと思います。そこここに、写真を撮るのに夢中のお父さん、お母さんがいたことでしょう
教職に就いていると毎年卒業生との別れがあります。もちろんそれだけではなく、退職する方との別れもあります。時が流れ続ける以上、それは避けられないことですが、いささか寂しい気持ちがします。
そんな別れに際してわたしがよく思い出す漢詩が二つあります。ひとつめは、陶淵明の「贈長沙公(長沙公に贈る)」という詩 正確にはその一節 です。
陶淵明は、中国の六朝期(唐の少し前の時代を言います)の詩人です。彼の「帰りなんいざ、田園まさに蕪(あ)れなんとす」という詩句や、高校の漢文の教材の定番である「桃花源記」などは、聞き覚えのある方がいるのではないでしょうか。
長沙公は陶淵明と同じ陶一族の陶延寿であろうと言われています。序によると、彼が陶淵明の住む地を通った際に、陶淵明はこの「贈長沙公」詩を贈りました。わたしがよく思い出すのは、その第四節です。原文、書き下し文、口語訳の順に挙げてみましょう。
*原文は岩波文庫「陶淵明全集(上)」からの引用です。
*書き下し文と口語訳は岩波文庫のものに少し手を加えました。
何 以 写 心 貽 此 話 言
進 簣 雖 微 終 焉 為 山
敬 哉 離 人 臨 路 悽 然
款 襟 或 遼 音 問 其 先
何を以て心を写さん
此(こ)の話言を貽(おく)る
簣(き)を進むること微なりと雖(いえど)も
終(つい)には山と為(な)る
敬(つつし)めよや 離人
路に臨んで悽然(せいぜん)たり
款襟(かんきん) 或(ある)いは遼(はる)かなれども
音問 其れ先にせよ
別れに際してわたしの気持ちをどう表現したらいいでしょう。今はこのことばを贈ります。「もっこで運ぶ土はわずかであっても、ついには山を築き上げる」。どうか御身を大切に、旅立つ人。別れに臨んで寂しい気持ちでいっぱいです。またこのようにうちとけて語り合えるのは、いつになるか分かりませんが、折々に音信だけでも寄せて下さい。
相手に対する惜別の情とこれからへの期待が感じられるのではないでしょうか。わたしは天の邪鬼ですので、卒業していく生徒に「音問其れ先にせよ」と言ったりはしませんが、たまに学校に遊びに来てくれるとやはり嬉しいものです。卒業する生徒を送り出す教師の心情を代弁するような詩句だと思っています。
もうひとつの詩は、次回にご紹介しましょう。井伏鱒二がその詩を訳し、「さよならだけが人生だ」という名フレーズを生みだしたことで有名な詩です。
[2007年03月17日(土) ]
前回とりあげた、ボランティア団体を「立ち上げる」という言い方について、わたしは次のように考えています。
「あのピッチャーは立ち上がりがいい」などのような言い方が存在。
↓
そこからの類推で、「boot」などの訳語として
「パソコンが立ち上がる」「パソコンの立ち上がりが早い」という言い方が成立した。
↓
「パソコンが立ち上がるような状態にさせる」という、
他動詞的な意味内容を表す表現が求められた。
↓
「パソコンが立ち上がる」の「上がる」を「上げる」に変化させ、
「立ち上げる」という他動詞形が作られた。
↓
パソコン関連で用いられる「立ち上げる」がある程度一般化し、
そこからの類推として会社などの団体の設立を表す表現として転用された。
わたしが右のように考えるきっかけになったのは、「売り切る」―「売り切れる」というセットの存在です。
「売り切れる」は、「売る」+「切れる」で、「他動詞」+「自動詞」の形になっています。「立ち上げる」とはちょうど逆ですね。
この「売り切れる」も、「撃ち殺す」などとは違うタイプのように思えます。
売ることが切れる
変ですよね。おまけに、具体的な例文を考えると、たとえば「はんぺんが売り切れる」というように、「売る」という動詞の主語に売られる「はんぺん」がきています。その点でも、「立つ」という動詞が目的語をとるかのような「会社を立ち上げる」と同じく、やはりちょっと違和感が残ります。つまり、「立ち上げる」と自他の順番こそ逆ですが、語の成り立ちも、構文的な振る舞いも、同じように違和感をもたらす形になっているということなのです。
この「売り切れる」には「売り切る」という他動詞形が存在します。こちらは自然な表現です。まずはじめに不自然なものがあったとは考えにくいですから、自然な「売り切る」がもともと存在していたのじゃないかと推測できます。そして、「商品が、売り切った状態になって全部なくなってしまった」という意味を表す表現が求められた。そこで、「切る→切れる」という変化によって、落ちついて考えると違和感の生まれる「売り切れる」が生みだされた、と考えると「売り切れる」ということばの存在が無理なく説明できます。
同じことが自他の順が逆になっている「立ち上げる」でも起こったのじゃないかと思ったわけです。「立ち上げる」は、さらにその後、「ボランティア団体を立ち上げる」のように意味が拡張して用いられたという点が、「売り切れる」とは異なっていますが。
これはあくまでも予想です。この予想が妥当かどうかを確認するためには、「立ち上がる」「立ち上げる」の使用例を広く求めて、両者の使用時期に差があるかどうかを確認してみなければなりません。できれば、「売り切れる」「売り切れ」─「売り切る」「売り切り」についても同じ検証が必要です。
ですが、「立ち上がる」と「立ち上げる」の成立時期の差も、「売り切る」と「売り切れる」の成立時期の差も、そんなに大きくないかもしれないという気もしています。それぞれIT関連、日常の商品売買の分野で基本的な用語です。日々の必要の中でほぼ同時期に使われ出した可能性が大きいと思うのです。
実はそれも検証してみなければわからないのですが、例を広く求めるのはちょっとわたしの手には余ります。わたしの考察の妥当性も含めて、みなさんのご意見をうかがいたいなと思います。
[2007年03月15日(木) ]
「ボランティア団体を立ち上げる」という言い方があります。
普段何気なく使っていますが、変な感じがしませんか?
ドロロンえん魔くんのエンディングの歌が聞こえてきそうです。
「立ち上げる」は言うまでもなく複合動詞です。「立つ+上げる」ですね。
ちょっと複合動詞の例を思い浮かべてみましょう。
つけ狙う
撃ち殺す
あきれ果てる
引き回す
はり付ける
……。
どうもぶっそうな例ばかりになってしまいました
誰かを「つけ狙って」「撃ち殺す」なんて、「あきれ果てた」ふるまいです。あげくに市中「引き回し」の上、獄門に「はりつけられる」…。わたしはマイナス指向なんでしょうか…
いえ、そんなことはどうでもいいのです。見ればわかるように、どれも「他動詞+他動詞」の形か、「自動詞+自動詞」の形になっています。
さて、「立ち上げる」はどうでしょうか。
立つ=自動詞 上げる=他動詞
変だなあというわたしの気持ちがわかっていただけたでしょうか。ドロロンえん魔くんの…、いや、もうやめておきましょう。
似たような例を考えて、ひねり出したのが次の例です。
走りとおす(走る+とおす)
寝つづける(寝る+つづける)
どうです。「自動詞」+「他動詞」になっているでしょう
でも、よく考えてみると、どうも「立ち上げる」とはタイプが違うような気がします
だって、右の二つはどう見ても、
走ることを最後までやりとおす
寝ることをつづける
というような意味で、下の「とおす」や「つづける」が、上の動作をどんな風にやるか補足的に説明しているでしょう? 立ち上げるを同じように理解すると…、
立つことを上げる
だいじょうぶですかといいたくなりますよね。立ち上げるをあえて説明するなら、
立ち上がることを助ける
自力で立つところまでもっていく
となりそうです。単純に二つの語の意味を足しているんじゃないみたいです。こんな複合動詞の例は他にあるんでしょうか?
この不思議なことばの成り立ちについて、皆さんはどのようにお考えになりますか。
次回にわたしなりの考えを書きたいと思いますが、自信を持っているわけではありません。みなさんのお知恵を拝借できればと思います
次回の更新は土曜になります