[2008年01月28日(月) ]
耽読翫市です。
松平定信という人を知っていますか。そう聞くと、おそらく日本全国でブーイングが湧き起こることでしょう。
「ばかにするんじゃねえ。このほでなす。知らんはずないやろが。なしてそげんこつ言うかね。何とかの改革の人ばい。有名な人のごたる。にしゃももうろくしたんでねが。知らねはずあんめ」……。
う〜ん、とても全国ですね。
寛政の改革をおこなった人。田沼意次の対極にいる人。清く正しい人。えらい人。
一般的な彼のイメージとしてはそんなところでしょうか。もう少し詳しく知りたければ、たとえばウイキペディアを見てみましょう。彼の人となりについてこんな風に書かれています。
さてさて、そんな彼ですが、国語という教科的には問題作成の原典として強く意識される人なんじゃないかと思います。整っていて適度に理解しやすい文章を書く人だからです。「花月草紙」あたりは原典としての採用率がかなり高いのではないでしょうか。
今回はそんな定信の記録する怪異(?)、リヨクトポンプについてのお話です。
[2007年12月17日(月) ]
垂渓庵です。
明治期にジャーナリストとして活躍した成島柳北は、幕末期の幕臣でした。彼は、やはり幕末期の幕臣で明治期にジャーナリストとして活躍した福地桜痴に、「これはさて世はさかさまとなりにけり乗った人より馬は丸顔」とひやかされたほどの面長でした。確かにその写真を見ると明らさまに面長です。
この面長はよほど人に強烈な印象を与えるらしく、いずれご紹介する内田百閧ノも「馬は丸顔」という随筆で枕に使われています。その他にもネット上でいくつも彼の面長をネタにした文章が書かれているようです。が、今回の話は彼の面長とは全く関係ありません。
いえ、面長が関係ないどころか、柳北自身、ベニスにも商売にもあまり関係ありません。彼はベニスに行ったこともないはずですし、商人でも、まして金貸しでもありませんでした。もちろん、シェイクスピアと知り合いという事実も、シェイクスピアの作品を翻訳したこともありません。
え? じゃあ、その成島柳北とかいうのがどうベニスの商人とつながるのかですって? まあ、あわてないで下さい。彼には次のようなエピソードがあるのです。
[2007年12月10日(月) ]
垂渓庵です。
二十世紀の中国を代表する歴史家に顧頡剛という人がいます。中国版ウイキペディアには、こんな風な説明がなされています。
国文学関係の人には、史記をはじめとする中国の正史の点校本でおなじみなのではないでしょうか。一般の読書好きの方には、「ある歴史家の生い立ち」(岩波文庫)という自伝で知られているのではないかと思います。
この自伝は、著者の学問や研究に向かう真摯な姿勢や、自由な発想の重要性などを教えてくれます。時代や取り組む分野の違いを超えて、著者の生き方は、わたしたちに自分の人生をいかに生きるべきかを考えさせてくれます。
もちろん、彼は一個の天才と言っていいと思いますから、わたしたちが彼の真似をしようと思っても無理な部分はあります。彼の真似をするのではなく、彼の生き方から自分の生き方を振り返るだけでも、十分有益だと思います。
詳しくは「ある歴史家の生い立ち」そのものを読んでいただくとして、ここでは彼の天才ぶりをうかがえる挿話をひとつだけご紹介しましょう。彼の天才ぶりを彷彿とさせる記述はいくつもありますが、中でもこの挿話には目を見張ります。何歳の時のエピソードなのか考えながら読んでみて下さい。
[2007年11月19日(月) ]
垂渓庵です。
高校生向けの推薦図書を選び、毎月一冊で一年間、計十二作品の紹介文を書くという機会がありました。選書の段階では、編集さんのアドバイスを受けたので、それなりに妥当なリストができたのではないかと思っています。
その完成版のリストについてはいずれ機会あがれば触れることにして、ここでは完成版に至る過程で日の目を見なかったリストをご紹介したいと思います。題してマニアック・バージョンです。
普通、推薦図書の選書というと、一般性が高く、かつ読み応えがあるものが中心になるのですが、このマニアック・バージョンでは、一般性という基準はかなぐり捨てました。基準は、わたしが高校生だったとして、面白がるかどうかです。
「わたしが高校生だったら、これぐらいは探し出してきて読むよ。世の読書好きの高校生の諸君、君たちはただの読書好きか? それとも知的好奇心を持った読書好きか?」という問いかけというか、挑発をしてみたくて作ったリストです。
実際の書目は以下の通りです。
[2007年11月12日(月) ]
垂渓庵です。
遅れに遅れまくりましたが、ようやっとクイズの解説です。
まずクイズのおさらいをしておきましょう。
母には二たび会ひたれども父には一度も会はず
さてさてそれはいったい何でしょう?
というものでした。答えは、そう、「唇(くちびる)」です。
このクイズを解くためには、日本語の発音の変化──とくにハ行音の変化──を考える必要があります。
[2007年11月08日(木) ]
垂渓庵です。
表題からジャック・モノーの本を連想された方、残念ですが全然関係ありません
岩波文庫の『朝鮮童謡選』(金素運 編訳)に次のような一篇が収められています。
曲り媼(ばあ)さん 曲り杖ついて
曲り山に行き 曲り糞垂れりゃ
曲り犬奴(め) 曲り糞なめて
曲り杖に打(ぶ)たれ 曲りキャンキャン
あまり上品とは言いかねる童謡ですね
でも、ここではそれを指摘したいのではありません。次の英詩と較べてもらいたいのです。
[2007年09月20日(木) ]
わたしは大学在学時から論理学に興味を持つようになりました。大学一回生の時、一般教養の科目として開講されていた「論理学」の授業に出席したことがきっかけです。大学時代にはそれ以後も折に触れて論理学の入門書めいたものを読んでいました。
と言っても、アリストテレスのような古典的な本を読むことはありませんでした。読んだのは主に記号論理学関係の本です。命題論理や述語論理と言われるものですね。今となっては記号の意味もはっきりとは覚えていませんが。
今回はその論理学の話です、と言いたいところですが、とても無理です。ここではそんな興味からはじまっていくつかの著作を読んだことのある哲学者、沢田允茂のことばを紹介したいと思うのです。
沢田允茂は、去年の四月に亡くなりました。戦後日本における科学哲学の第一人者だった人です。その沢田允茂の『論理と思想構造』(講談社学術文庫)に次のようなことばがあります。
○科学的という言葉は、複雑な実験の装置のものものしさをバックに、素人に対して数学的な表現の知識の真理をおしつけることではありません。むしろ反対に、自己の理論の誤りをすべての人にためしてもらえるような形で提出すること即ち反証可能であるような形で理論を作り出すという謙虚さにあるといえるでしょう。(107ページ)
また、次のようなことばも見られます。
○したがって、すべてを説明し、自己の全ての主張は絶対に間違いではないのだということを言いくるめる理論は、実は科学的ではないといわねばなりません。どんな説明不可能な現象が起こっても、それをうまく説明しうるように理論を再解釈せずに、むしろ理論の方が誤りうるのだ、と考えること、これが科学的ということのほんとうの意味であると考えねばなりません。(108ページ)
これらのことばは、カール・ポパーの科学の定義を踏まえたもので、科学とはなんであるかという問いに対する答えの一面を構成します。が、科学研究を志すかどうかに関わらず、わたし達が日常生活を送る上でも聞くべきものが含まれているように思います。
わたしたちはともすれば他人を批判するのに急で、自分をふりかえることを忘れてしまうことがあります。時には自己の主張をあくまでも通そうと強弁することも。わたしはそんな自分に気づいたときに、これらの沢田允茂のことばを思い出すようにしています。
それはそれとして、彼のこれらのことばを読むと、自分とは別世界のように思える科学の営みが、やはり人間性というか、人間の存在のありようと無関係ではなく、日常の生きた人間の世界とのつながりを感じることができて、とても面白く感じられます。
わたしの読む限りでは、沢田允茂という哲学者は、難解な哲学的概念に走ることなく、常識的な感覚を大事にして哲学的考察を深めてきた人であるように思えます。彼の著作は、論理学の入門書であっても、そんな彼の人柄を伝えてくれるものであったと記憶しています。古典的な哲学書は恐れ多くて近づく気になれない人も、彼の著作であれば親しみやすいと思います。これから読書の秋を迎えるにあたって、彼の本を手にとってみてはいかがでしょうか。
[2007年08月07日(火) ]
先日ヴォネガットという作家についてご紹介しました。1960年代以降、主にSFの分野で活動を続け、一時期はアメリカの大学生を中心にカルト的な人気を誇った作家で、最近では爆笑問題の太田光さんが彼のファンだということが話題になっていて…、というような話を書いたように思います。
今回はそのヴォネガットの作品の一節と奇妙に符合する斎藤緑雨の寸言を紹介したいと思います。
ヴォネガットはいくつかの作品で特定の語句を頻用しています。たとえば、「チャンピオンたちの朝食」では「さよなら、ブルー・マンデー」を、「スラップスティック」では「ハイホー」をというように、短いフレーズをしばしば繰り返し使用するのです。
これらのフレーズは、その時々のヴォネガットの気分 多かれ少なかれ悲しみの色がつきまとうのですが を込められることばだということなのでしょう。
「スローターハウス5」での頻出語は、「そういうものだ」です。この作品では、ヴォネガットが第二次世界大戦中にドイツ軍の捕虜であったときに経験した、ドレスデンの無差別爆撃が取り上げられています。作者はそこで悲惨な死、無意味な死、徹底的な破壊を目にしたようです。それは彼の一生に影を落とすことになりました。
「そういうものだ」とは、主人公のビリー・ピルグリムが時間旅行者として何度も自分の人生を生きねばならないことへの諦念を表すとともに、ドレスデン空爆という悲惨な出来事に向き合わねばならなかった作者の絶望と諦念を表していると考えられます。むかしSFマガジンに載っていたインタビューからうかがえる彼の誠実な人柄からすると、自己の経験を真正面から受け止めてしまったのだろうなと想像されます。
さて、そんな現代のアメリカの作家に配するに、斎藤緑雨とは何とミスマッチなとお思いになる方もおられることでしょう。彼は小説家でもあり、森鴎外らと小説時評などを手がける論客でもあったと言えば、およそいつ頃の作家か見当がつくでしょう。そう、緑雨は明治時代の作家なのです。
十年近く前に彼の全集が完結したと思いますが、文庫などで手軽に読むのは難しい作家の一人です。小説では辛うじて「油地獄」「かくれんぼ」が岩波文庫のラインナップに入っています。が、注や十分な解題もついていません。
「油地獄」などは異様な情念のありようがそれなりに面白い作品なのですが、語彙などの面で、気軽に人に勧められそうもありません。第一、復刊フェアでたまに若干部数が増刷されるだけなので、いつでも手に入るというものでもないのです。あと、彼のものした寸言集成が、岩波文庫(「あられ酒」)と冨山房(「緑雨警語」)から出ています。冨山房版には中野三敏さんの注とコメントがついていますから、緑雨の寸言、箴言、警句を見てみようと思われる方にはおすすめです。
さて、彼の寸言に次のようなものがあります。
○どうせ世の中は其様(そん)なものだ。この一語は、なける者をも慰むべく、怒れる者をも慰むべし。斯くして人口は年々増加すとも、減少することなし、めでたからずや。(冨山房版「緑雨警語」より)
どうでしょう。ヴォネガットの「そういうものだ」へのみごとな注釈になっていると思いませんか? ヴォネガットとは性質は違いますが、斎藤緑雨も彼なりの鬱屈の持ち主でした。それが関係しているのかどうかはわかりませんが、期せずして洋の東西で発想の一致が見られるのは興味深い限りです。わたしはこんな偶然の一致を見つけると何か楽しくなるのです。
ついでですから、緑雨の寸言、警語を「緑雨警語」からいくつか紹介しておきましょう。文語ですがあえて注はつけません。夏休みの自由研究として口語訳をしてみて下さい(笑)
○褒するに辞は限り有れども、貶するに限りなし。例せば利口といへるただ一つのほめ言葉に対し、馬鹿、阿房、間抜け、抜け作、とんま、とんちきなど、悪口は数ある如し。世とて人とて、到底そしられで果つまじきことは、これにて知るべし。
○相見ば恋は止むべきか、相逢はば恋は止むべきか、相語らば恋は止むべきか。切に求めて止むことなきものは恋なり。
○まこと世に忘らるるを得ば、こよなき幸ひなり。すくなくとも債権者の前には幸ひなり。名声の失墜、さばかり恐ろしきことかは。失墜するに足るべき名声のありけるを思へば、われもその一人として数へらるるにつけて、ひとり密かに慰むる所なくばあらず。願はくは長く今の地に墜ちて、再び揚がらざることを。
○無邪気は愛すべく、無責任は憎むべし。されども無邪気は、無責任の一種なり。
[2007年05月04日(金) ]
前々回に、明治時代のアダムとイブの挿絵などを紹介しながら、和本 日本で和紙を用いて作られていた本のことです を巡る話題をお届けしました。
今回はその続きで、明治時代に西洋の技術を導入して作られた洋装本 今の文庫本や単行本の形を想像してください を中心に、本の歴史の一端に触れてもらいましょう。前と同じように、画像で紹介するのはわたしの持っている本たちです。
まずひとつ目。
それはともかく、どの部分が違うかわかりますか?
図書館のブラックリストに載せられて本を借りられなくなるかもしれませんよ

そういえば……。う〜ん、耽読眼市の看板に偽りがあるということになるのでしょうか
[2007年04月17日(火) ]
耽読翫市というブログ名を標榜しておきながら、考えてみれば、あまり、というかほとんど本の話を書いていません。まさに看板に偽りあり状態です。
それではあんまりなので、今回はわたしの持っている本を紹介していきながら、和本の話をしましょう。
和本というのは、今わたしたちが単行本や文庫本として目にしている本ではなく、日本で古くから作られていた伝統的な本のことを言います。和紙と墨と糸と少量の布で作られます。例をあげましょう。こんな感じのものですね。
この「先哲叢談」は、江戸時代の有名な儒学者の逸話を集めたものです。新井白石や林羅山なども登場します。漢字を読み解くことを面倒がらなければ面白い本です。
「西洋夜話」に載っています。「西洋夜話」は、聖書時代からの西洋の歴史の概説書だと思ってください。純粋な翻訳ではないので、アダムとイブの説明部分にはイザナキ、イザナミの二神が飛びだしたりします。西洋の知識を日本風にアレンジした内容で、本の作りも和本なのですね。上の絵の載っているページの見開きはこんな感じになっています。