[2007年08月10日(金) ]
文庫と言っても「文庫本」のことではありません。何の話かというのはおいおいと。
わたしは平均的な大人と比較すると本好きだと言えると思います。偏執的な書痴、蒐書狂というような域に達した方々とは比較になりませんが、本を読むという行為とともに、集めることにも関心がなくはありません。
本を集めるにはスペースが必要です。本のための家を建てる豪の者もいますが、わたしはマンションの一部屋を本の収蔵スペースにしています。が、それでも足りずに、漢籍類、外国文学関係の本は実家に送り、国語学関係の本は職場に持ち込んでいます。少女マンガも含むマンガ類も、大きな声では言えませんが、学校に疎開させています。
わたしの夢は、あちこちに分散配置している本たちを全て収めることのできるスペースを作ることですが、一家を構える身としては当分不可能なことです。そんなこんなで、わたしの本たちは、今や家人も含むあちこちの人に邪魔もの扱いされつつあります。いずれわたし自身が邪魔者扱いされないか、いささか不安がなくもありません。
やむを得ず、毎年長期休暇の時期に本を整理して、その都度古本屋さんに持っていくという作業を行っています。売ろうかどうしようか正直迷ってしまう本もあるのですが、それよりも、なんでこんな本を買ったんやろ、と不思議に思える本の方が多いのはどうしたわけでしょうか。
今回整理をしている中では、
フンボルトの言語思想 ユルゲント・トラバント著
思考と言語 ヴィゴツキー著
批評の解剖 ノースロップ・フライ
赤毛のエリク記 山室静著
あたりが売ろうかどうしようか迷っている本です。これらの本が面白くないわけじゃないですよ。フンボルトの言語思想はとても興味深いものですし、ヴィゴツキーの本も人間の発達に関して素人なりに面白く読めます。フライは唯野教授の講義にも取り上げられました。北欧神話はこれまた面白いのです。
ただ、読書に割ける時間とスペースを考えると、処分せねばならない本になってしまうというわけです。いずれ時間ができたときにはきっともう一度読み直したくなるだろうと思うのですが、それまで彼らを寝かせておくスペースがないのです(涙)
思い返せば、本を読み出した当初は全然そんな心配をする必要はありませんでした。そりゃそうです。小さなころはそもそも自分で本など買いませんし、小学校の三、四年生になって本を買い始めたとしても、親はそれを喜びこそすれ、本棚の一つや二つで文句を言うことなどないのですから。
ところで、文庫という言葉には「書庫」という意味があります。いま本に占領されている一室はそういう意味での文庫と言っていいでしょう。また、文庫という言葉には本を入れておく箱という意味もあります。いわゆる「手文庫」もその一種です。
文庫の意味をそのような手文庫的なものも含めて広く理解するならば、わたしの「文庫」第一号は、小学生のころのコイズミライダーデスクの右下の抽斗でした。文庫のささやかなスタートです。
そこには、記憶に残る限りで自分で最初に買った本である「どくとるマンボウ航海記」をはじめ、主に北杜夫と星新一と畑正憲の本をつめこんで悦に入っていたように思います。が、他にどんな本を入れていたのやら。たとえるなら、ロムルス兄弟の神話時代のようなものです。
それ以降、少しずつわたしの文庫は拡大を続けました。中学から高校にかけての一番大きな買い物が内田百間の全集(全十巻)です。たしか一冊四千円程度。一度には買えずに、お金を貯めて何度かに分けて購入しました。
買おうか買うまいか大きな葛藤があったのですが、結局思い切って買うことにしたのです。わたしの文庫の拡大はこれで弾みがついたように思います。カエサルによってローマ帝国が大きく帝政の方向に舵を切られたことが思い出されます。
文庫の拡大はそれを機にスピードを増します。いったん大きな買い物をすると、怖いものがなくなったのですね。毎月の小遣いをほとんど本の購入に充てていました。当然コイズミライダーデスクの右下の抽斗だけでは足りません。
いや、そもそも中学以降はコイズミライダーデスクなど使っていなかったのでした。いずれにしても、本棚を買い、カラーボックスを買い足して、文庫は拡大を続けていったのです。いよいよ五賢帝の時代の到来です。
トーマス・マン、ディケンズ、スタニスワフ・レム、カレル・チャペック、イタロ・カルヴィーノ、ボルヘス、マルケスなどなど。中学、高校から大学にかけてお気に入りになった作家はたくさんいます。もちろんお気に入りにならなかった作家もごまんといます。
大学、大学院では国文学を専攻していたこともあり、かなり高額の専門書なども少しずつではありますが買いそろえていきました。角川書店の新編国歌大観(全二十冊)などというとてもかさばる代物を買い込んだのもこのころのことです。
文庫が最大の版図を有したのは、仕事を始めて、一人で古アパート暮らしをしてからのことです。六畳二間と玄関に本棚がびっしりと入っていました。トラヤヌス帝の時代がやってきたのです。
この時期には、仕事をしていて比較的お金も自由にできたので、以前ご紹介したような和本などもいくつか買い込んだりしました。また、最寄り駅に古本屋さんがあったのでしょっちゅう物色しては本を買い込んでいました。
祝詞の作り方の本や愛国百人一首の評釈など、かなり毛色の変わったものまでためらいもなく買っていたのです。日本随筆大成というとても大部のシリーズ(全部でたしか100冊あまり)を買ったのもこの時期のことです。
その後、結婚を機に文庫は縮小に転じます。軍人皇帝時代の到来です。と言えば少しオーバーかもしれませんが。
一家を構えるに際して、本だらけの生活もしていられませんから、国文学関係の雑誌類を中心に蔵書の一部を処分し、さらに残りのうちの幾ばくかを実家と職場に移動させ、むりやり本をマンションの一室に押し込めることにしたのです。
それから今に至るわけですが、この期間にはさすがに大部の買い物はしていません。スペースの都合もありますから、読める範囲の本を少しずつ買って、定期的に不要なものを古本屋さんに持っていくというスタイルに落ちつきました。
ちなみに、今わたしが読み進めているのは、田川建三さんという宗教学者の本です。予想もしなかった歴史的イエス像をとても説得的な形で示しておられます。間にやわらかい本も織り交ぜてゆっくり読んでいる最中です。
さて、わたしの文庫は今後どうなっていくのでしょうか。どこまでも古代ローマの消長と軌を一にしていくのでしょうか。ひょっとして東ローマ帝国まで行っちゃうとか。いや、そもそもローマ帝国と重ね合わせてよいものなのかどうか。本の整理と原稿書きの合間のとりとめのない夢想にすぎないような気もしてきました。でも、文庫に名前をつけるとしたら、「帝国文庫」なんてどうだろうと思ったりもするのですけどね。
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