垂渓庵です。
先々週木曜の本欄で紹介した和達清夫について、実はわたしはそれほど多くを知っているわけではない。が、『青い太陽』を読めば、とても良心的で、なおかつ優れた学者さんだったということがわかる。先々週の引用箇所からもそれが感じ取れるのではないだろうか。
おそらく生前の和達は、自己の知見を元に、できることとできないことを明らかにしつつ専門家として全力を尽くし、結果としてその時点では「想定外」の要素から的確な行動をとれなかったとしても、妙な言い訳をしない人だったのではないだろうか。あくまでも想像だけれども、当たらずといえども遠からずなのではないかと思う。
翻って今般の福島第一原発事故への対応をした当路の方たちはどうだろう。現場に踏みとどまって原発を制御しようと懸命の努力を続けた方たちは措く。原子炉の運用を既定路線として、まず原子炉ありきという形で原子力行政に携わってきた人たちの対応は実に情けない限りではないだろうか。想定できること、想定すべきことを想定せず、挙げ句の果てに責任逃れともとれる「想定外」という言葉しか口にできないのだとしたら、それはすでに一人前の専門家とは言えないだろう。
わたしの職業で言うなら、先輩教師や保護者のことばに耳を貸すことなく、訳の分からぬ教授法で教え続けた挙げ句に、生徒の国語力が壊滅的なものになってしまったことを非難されて、「想定外」でしたと言うようなものだ。そんなばかな教師がいるだろうか。とてもいるとは思えない。もしいたとしても、わたしは軽蔑しか感じない。
念のために言っておくが、わたしは原子力発電をただちに全廃すべきだとは思っていない。十分な安全策を講じ、なおかつコストの問題もクリアできるなら、原子力発電もオプションの一つとして考えてもいいと思う。が、今のような水を漏らすことを前提とした対策しか立てられないのなら、危なくて仕方がない。全廃してくれて結構だ。
考えてみれば鬼っ子のように扱われる原子炉もかわいそうだと言えるかもしれない。和達のような真摯な専門家が原子力行政関係者の多数派を占めていれば、状況はまた違っていたことだろうに。