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元中学コース編集部 繊粒庵ぽん吉

元中学コース編集部員から、日々の生活・考えたことをあなたに

     
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桜花雑感
[2008年04月07日(月) ]

先日会議上で、宣伝担当O嬢に言われる。
「そういや、まったく更新されませんねー、ぽん吉さんのブログ」
ああ、このブログの存在を久々に思い出した。
久しぶりにページを開ければ、未だにトップ画面の自分のリンク部分には「謹賀新年」などと書かれている。なるほど、こりゃマズいわな……
1ヶ月に1回程度という、タダでさえノロマなカメペースの更新頻度だったのだが、すでに前回の更新からはや3ヶ月が経過している。ははは。寒い冬はとっくに過ぎて、すでに桜も散りはじめているじゃあないですか。
そんなわけで、一念発起。久々にこのブログを更新してみようという気になった。

さて、何を書きましょうかねえ。最近の我が身を振り返り、ネタになりそうなことを思い浮かべてみる。
うーん、おもしろそうなネタは案外ありそうだ。放浪ネタとか、見合いネタとか、バンドネタとか。とくに見合いネタは身を削って笑いを取れそうな話ではあるのだが……ま、コイツは相手もあることなので謹んで控えておきます。
今日は時節柄、桜についての雑感でも綴ってみようかなと思う。しばしお付き合いを。

昨日は、自分の住んでいる横浜の下町でお花見だった。
冬の時期、僕は毎週月曜日にはとある馴染みのバーのカウンターで湯豆腐を食べてから帰ることにしていた。その店の常連さんたちが集まり、近所の公園で昼から酒を飲む。
全国でも有数の歓楽街のど真ん中にある小さな公園。猥雑な街に咲く桜の花というのは、妖しい魅力があるものだ。
みんなが1品ずつを持ち合い、賑やかな宴が繰り広げられる。食べきれないほどのつまみの数々。この街の住人には、料理が上手な人が本当に多い。
散り際の桜の木から、風で花片が流され、酒の中に浮かぶ。風流だ。
やがて宴も酣となる。ミュージシャンがギターをかき鳴らし、歌う。沖縄料理屋の女性が持ってきた「サンバ」と呼ばれる琉球打楽器を、ギターのメロディに合わせてみる。
夕闇が迫り、片付けに入る。宴のあとに吹く風は、いつもちょっと切ない。

桜について書かれた文章といえば、教科書に掲載されていた二つの作品を思い出す。
ひとつは大岡信さんの「言葉の力」という作品。もうひとつは工藤直子さんの「満開の桜」という作品。どちらも国語科編集時代には何度となく読んだ作品で、思い出深い。
桜というのは、花びらだけが薄いピンク色なのではない。実はあの黒い木の幹の内側で、木全体が美しいピンク色を作り出しているのだ。大岡さんの「言葉の力」にそんなことを教えられ、1本1本の桜の木を眺めるときの眼が変わった。あの美しい花は、桜全体から生み出される芸術なのだ、と。
常夏の台湾に咲く原色の花を見て育った作者が、生まれて初めて日本で目にした桜の印象は「紙くずみたい」だった。その十数年後、作者の父が突然亡くなる。火葬場の桜の大木は満開の花をつけ、それは本当に美しいものだった。工藤さんの「満開の桜」には、日本人であれば春の常と感じられる桜花を別の視点から見たときの印象、そして桜という花が人間の死と重なったときのはかなさ、切なさが語られている。しみじみとした、読んでいてすうっと心に入ってくる作品だ。

Z会に入社するまで、僕は東北に住んでいた。東北の桜も印象深い。
「冬来たりなば春遠からじ」そんな言葉がある。実はこの言葉、日本人が語り継いできたものではなく、もともとはシェリーというイギリスの詩人の『西風に寄せる歌(Ode to the West Wind)』という作品の一節なのだそうだ。原文は「If winter comes, can spring be far behind?」。これを「な+ば」という仮定表現、「じ」という打消推量を用いて日本人の感覚に馴染む形で翻訳したのは、明治から大正にかけて活躍した英文学者の上田敏。名訳である。
東北の冬は厳しい。僕の住んでいた庄内は、雪に加えて風も非常に強い地方で、冬になると地吹雪が起こる。時には車が風に流されて田んぼに落ちてしまったりするほどだ。
そんな厳しい冬の荒天が、次第に和らぎ、やがて桜が蕾をつけるようになる。4月の下旬には、公園の桜が満開になる。厳しい冬を耐えてきたからこそ、際立って美しく思える春の光景。
Z会に入社する直前、大学時代の先輩と一緒に青森県の弘前公園の桜を観に行ったことがある。弘前城の本丸、そしてまだ雪の残る岩木山を背景に、見事な桜が咲き誇る。まるで冬の間に木の中に溜めていた力を、一気に発散させたかの如くに。
そういえば、Z会に入社したときに自己紹介書なるページを作らされたのだが、そのときの写真は、弘前公園で撮ったものだったなあと思い出す。

1週間ほど前の週末、とある友人に誘われて鎌倉の街を訪れた。鎌倉の桜といえば鶴岡八幡宮への参道という印象があるが、鎌倉の街を車で移動していると、桜というのが何も特別な木ではないことが実感できる。桜の木は、鎌倉の街の到るところに生えているのだ。
考えてみれば、小学校や中学校の校庭には桜が植えられていることが多い。育った家の近所の公園にも、桜の木があったという記憶をお持ちの方は多いのではなかろうか。
そういう意味では、僕たち日本人は桜とともに育ち、生きてきたといえるのかもしれない。

桜咲くとき、僕たちはまたひとつ年を重ね、人生の歩を進めてゆく。
秘められた経験がひとつひとつの花片となり、やがて木全体で美しい春の情景を描き出すようになっていく。
みなさんは、今年の桜の花に、どんな人生を重ねたのだろうか。