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元中学コース編集部 繊粒庵ぽん吉

元中学コース編集部員から、日々の生活・考えたことをあなたに

     
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僕の中学受験
[2007年04月27日(金) ]

今月3回目の更新。相変わらず亀の歩みのように、見事な更新の遅さである。

最近は中学受験を経験した保護者の方からお話を伺うことが多かった。実は僕も中学受験経験者である。でも、話を聞いていると今の中学受験って、自分の頃よりも大変だなあと思う。
僕の頃などはクラスで中学受験組みは2、3人。まだまだ少人数で、ときには先生や周りからは変な目で見られることも多かった。しかし、今ではクラスの半数以上が中学受験をする小学校などもあるのだという。塾通いも、僕は5年生の夏前くらいからだったが、今の小学生は3年生や4年生から。さらに習い事も何かしていないと、という家庭が多い。

そんな折、ふと僕が小学校に通っていたときの塾のことを思い出した。

僕の通っていた塾は、家から自転車で5分くらいのところだった。当時から大手塾はあったのだが、通うには電車に乗らなくてはいけない。そこまでして通うのはイヤだなあ。そこで通い始めたのが小さな地元塾。商店街からちょっと路地を入ったところにある雑居ビルの2階だった。
僕が5年生で入塾したとき、クラスの生徒は7人くらいいた。全員が中学受験組。しかし、同じ小学校の友達がいたわけではない。だから最初はやたらと緊張した覚えがある。
それでも、先生方が授業でクラスの雰囲気を作っていくうちに、次第に塾の雰囲気に馴染んでいった。先生は元気で明るい人が多かった。しかし、単に元気で明るいだけではない。当時はまだ体罰も当たり前の時代だった。宿題を忘れれば竹刀が飛んでくる。クラスがうるさいと、先生が突然こめかみに青い線を浮かべて怒鳴る。投げられたチョークが耳をかすめる。それでも、当時はやりすぎだろうっていう感覚はなかったな。実は小学校の先生は往復ビンタやらケツバットやらで、もっと酷かったのだ。
今思えば、塾の先生の中には大学生もいたのだろう。でも、小学生の僕にとっては、みんな随分と年齢が上の人たちに感じたものだ。

小学校6年生になると、クラスのほとんどが大手塾へと移ってしまった。残された生徒は僕ともう1人だけ。突然授業に活気がなくなっていった。それでもこの塾をやめたいなあとは思わなかった。先生がとてもかわいがってくれたし、成績も上がっていた。中学生の先輩もよくしてくれた。なんの不満もなかった。
たまに先生に弁当やタバコを買いに行かされたこともあった。お釣りはお駄賃としてもらえるのだ。小学校にはないそんな近さも、僕にとっては小学校よりも塾のほうが好きだった原因だったと思う。
授業も室長と呼ばれる責任ある立場の先生が教えてくれた。なかなか厳しい授業で、当時から算数が苦手だった僕は四苦八苦していた。人数が少ないのに、先生は一生懸命教えてくれている。伸び悩んでいる僕を見かねて、別の先生が「一緒に勉強しよう」と正月まで教室を開けてくれた。他には誰もいない教員室。ストーブの石油の匂い。薬缶の湯気。そんな空間で、先生と僕は入試の過去問を解いていた。

先日、ある保護者の方から「勉強マシンを育成するのではなく、人間的な部分を育ててくれる塾がいいですね」という意見を伺った。なるほど、おっしゃるとおりだ。
考えてみれば、僕はこの塾で人間としてしてはいけないことも学んだと思う。
途中から入ってきた、きざな生徒にいやがらせをしたことがある。そのとき、先生は本気で僕を殴った。確か家に帰らされたような気がする。また、今となっては詳しくは思い出せないが、入試前に僕は塾のある生徒の志望校や成績をしつこく問いただそうとした覚えもある。このときも塾の先生は、僕に人間として怒った。「オマエらしくない」と連絡ノートに書かれた覚えがある。勉強以前の「してはいけないこと」に対して、断固として怒る先生が多かった。

2/1、第一志望校の入試があった。入試が終わり、塾へと向かった。先生と一緒に採点してみる。算数を除く3教科は8、9割得点できている。しかし、やはり苦手な算数は半分できているかどうか。微妙なところだな……先生たちの表情に、不安の色が浮かんでいた。あとは結果を待つしかないか。
2/3、第二志望校の入試。この日の試験中に第一志望校の合格発表があった。合格発表は両親が見に行くことになっていた。
試験が終わり、両親と待ち合わせした。結果は、合格だった。よかった。その足で塾へと向かい、報告をした。僕の顔を見るや、塾長は受付の廊下で大泣きした。
家に帰ると、一通の電報が届いていた。正月に教室を開け、授業料も取らずに教えてくれたあの先生からだった。
「ゴウカクオメデトウ コレカラモガンバレ」そう記されていた。
送信された時間を見ると、まさに合格発表の直後だった。あとから聞けば、いてもたってもいられずに、直接掲示板を確認しに行ったのだという。

中学校になってからも、たまに塾へ遊びに行った。中学生の先輩がかわいがってくれた。しかし、結局公立には進まなかった僕は、やはり生意気なヤツに映るのだろう。そんな理由から、次第に思い出の詰まった塾から、足が遠のいていった。
あれは確か中3のときだ。学校からの帰り道、久しぶりに先生達に会いたくなり、僕は塾へと足を運んでみた。商店街から路地を曲がる。そこで見た光景に……僕は愕然とした。

「カラオケ トマトクラブ」

そう書かれた赤い看板が、入り口に立っていた。
僕の通っていた塾は、もうそこにはなかったのだ。
小さな塾だった。名前だけはでっかく「開成予備校」だったが、実際に開成中学に入学できる生徒など、誰もいなかった。近所の評判も決してよくなかった。それでも僕は……この塾が好きだった。

あの先生方は、その後どうしたのだろうか。
大学3年、就職活動をこれからするという段になり、オレって何をしたいんだろうなあと考えた。就職ガイドをめくるだけはめくった。
美辞麗句ばっか並べやがって、どこもツマラなそうだなあ。マジメくさってサラリーマンかあ、何かいやだねえ。
あ、そういえばオレ、昔は塾の先生好きだったよなあ。だったら塾の会社でも受けてみるか。いちおうZ会が第一志望だけど。

卒業して3年間、僕が塾の教室で生徒を教えることになったのは、間違いなくあの先生方がいたからなのである。

8年前、北国の4月
[2007年04月14日(土) ]

またまた久しぶりの更新となってしまった。そのうち担当のシモムラさんに怒られちゃうかな?

4月も半ばとなり、関東地方では枝に残る桜の花も少なくなった。中学生のみなさんも、新学年が始まって一週間、だいぶ肩の力が抜けてきたのではないか。
今年はあまり桜の花を愛でなかったなと思う。会社からの帰路、近所の夜桜に妖艶な美しさは感じたが、立ち止まって見上げるほどではなかった。そういえば昨年は屋形船を借りて大岡川を上った。風の強い日で、満開だった桜がいっせいに川面へと散った。あの桜吹雪の姿は、今でも印象深く脳裏に刻まれている。

そうだ、あれは今から8年前の4月のことだった。会社へと向かう地下鉄のなかで目をつぶりながら、Z会に入社する前のある事件を思い出していた。

僕はZ会に入社する前に、東北のある県で塾の先生をしていた。実はZ会に途中から入社したのも極めて偶然である(そのことについては気が向いたらそのうち書こうと思う)。前の塾を辞めてからすぐにZ会に入社したわけではない。そこに人生の空白期間とでも言うべき、3ヶ月間というブランクがある。
何をしていたのか。まず、Z会の添削指導員をしていた。LAという、今で言えば大学受験コースのスーパーハイレベルにあたる国語の添削を担当していた。東大京大の志望者の多いコースで、記述問題の割合も高い。締め切りの前日は当たり前のように徹夜である。いや、締め切り間際にならないとエンジンのかからない自分が悪かったのだが。
しかし、その他に何か働いていたのかというと、実は何もしていない。簡単に言えばブラブラしてたのだ。当時は毎日病院に行かなくちゃいけなかった。僕は体中にカサブタができるという原因不明の不思議な病気に罹っていて、午前中は病院へ行き、注射を打たなくちゃいけなかった。左腕の筋肉を、毎日注射針で刺す。慣れというのは怖いもので、最初は痛かった注射も、そのうち何も感じないほどになった。「一生治らない可能性が高い」そう医者に言われたあの病気が、今ではほとんど治ってしまったのは幸運だったと思う。
病院を出た後は、取り立ててすることもない。ブラブラとパチンコ屋を覗いてまわったり、本屋で立ち読みをしたりして、一日が過ぎていく。
北国の4月。夕暮れ時。みぞれ混じりの冷たい雨が降っていた。胸に迫る孤独の恐怖に耐えながら、あの日僕は一人、近所の大衆割烹の店に入ったのだった。

Z会ではつい最近まで「国語担当」などという肩書きになっていたけれど、塾では講習会の時を除いて英語を教えていた(ちなみに取得した教員免許は、これまたなぜか社会である)。塾を辞めた年、僕はある中3生のクラスを担当していた。公立高校のトップ校を目指すという上位クラスだったのだが、この年の生徒は例年に比べて学力が伸び悩んでいた。それでも、性格はとても素直で純朴ないいヤツが多かったのだ。人間性だけを見れば、3年の間に担当したクラスの中でいちばん優れていたと思う。ほとんどの生徒が予習も欠かさずにやってきた。黒板の板書も一生懸命ノートに写した。授業が終わってからは、ふざけすぎない程度の明るさと人懐っこさを発揮した。僕はこのクラスを担当するのが好きだった。と同時に、何とか力になってあげたいとも思っていた。
しかし、現実というのは厳しい。12月、1月、入試が近づいても成績はなかなか上がってこない。トップ校に挑戦させるのが危険、そんな生徒が多かった。「あいつらホント、バカだな」別の上位クラスから移動して講習会だけを担当したある数学の責任者が、教員室で吐き捨てた。よくそんな言葉が吐けるものだ。高い月謝を払い、予習もし、ノートもとる。そんな生徒の成績が伸びないのは、ひとえに塾の指導内容、先生の力量がないからである。最初から成績のよい生徒を預かって合格させるのは簡単だろう。あんたのクラスとはちがうが、こういう生徒に合格できる力をつけてやることこそが塾の力量、法外な月謝をいただいているということの意味ではないのか?

そんな折、クラスのWという女の子が塾を辞めていった。中3の4月から通学してきた生徒だった。Wの母親にはよく怒られたものだ。どうして成績が上がらないんだ、何のために月謝を払ってるんだ、トップ校に行けないんなら通わせてる意味がない――保護者面談では同じことを1時間ほど繰り返された。そんなWの母親が、1月になり電話をかけてきた。志望校のレベルを下げ、2番手の女子高を受験することにしたのだと母親が電話で伝えてきたという。まさにギリギリの成績の生徒だったが、Wなら何とかなるのではという思いもあったので、残念だった。

この年の入試結果は惨憺たるものだった。広告に掲載される合格者人数というのは、講習会だけを受講した生徒もカウントされたりするもので、それ自体が塾の本当の意味での指導力を表しているとは言いがたい。合格者人数自体はこの年も前年並みだった。しかし、その内実を見れば、2年、3年という長い間通っていた生徒ほど、ボロボロと受験に失敗していた。振り返れば、彼ら、彼女らはあまりに「受身になっていた」し、「機械的にやらされることに慣れていた」と思う。それはこの塾で働き始めた1年目から、実はわかっていたことでもあったのだが。
あるクラスでは合格発表後に家出をし、東京で飛び降り自殺を図ろうとした生徒までが出た。母親が狂乱した声で電話をかけてきた。どこへ行ったのか知らないかと尋ねられても、わかりませんと言うしかなかった。
生徒たちに申し訳ない。責任と罪深さを感じた。1週間後、僕はその塾を去った。

ガラガラガラ・・・・・・店の引き戸を開ける。木のカウンターに腰掛け、熱燗とマコガレイを焼きで頼んだ。黙々とカウンターで飲んでいると、騒がしい後ろの小上がりから、ある女性がこう叫んだ。
「あれ、先生? 先生じゃないですか!」
振り返ると、そこには1月に塾を辞めたWの母親の顔があった。ヤバい人に会っちゃったな……また怒られるかな。
ところが、Wの母親は笑顔でこう言ったのだ。
「うちの娘は志望校を変更してえがったんよ。新学期最初のテスト、娘は英語は学年で1番だったー。これも先生が1年間、最後まで一生懸命英語教えてくれたからだの。」
聞いて、背負っていた罪がちょっとだけ軽くなったような気がした。

あれから8年になる。そうか、あのとき中3だった生徒たちも、今では23歳。社会人としてさまざまなフィールドで活躍しているのだろう。
彼ら彼女らに、今年の桜の花は、どう映ったのだろうか。

恐怖のヘビメタ力
[2007年04月05日(木) ]

日曜日はバンドの音合わせ。そのせいもあって、先週は仕事後に終電までスタジオにこもり練習をする日が多く、なかなかハードであった。
そのせいもあって、疲れがたまっているのかもしれない。今週はいつもに増して寝起きが悪い。ま、春だってこともあるのかもしれないけれど。

ドラムをはじめて3年が過ぎた。
それまで楽器を本格的に習った経験など皆無だったのだが、30歳を過ぎてからドラムをはじめた。昔から音楽を聴いていると、メロディよりもリズムに耳が向くのは何となくわかっていたので、やるならドラムかなあなどと思っていた。
いざはじめてみれば、これがなかなか難しい。言うまでもなく、ドラムの目的というのは、一定のリズムをキープすることにある。そのうえで、4本の手足を動かさなきゃいけない。最初はリズムのキープだけで四苦八苦だった。それがまあまあ形になってきて、ギターやベースのメンバーと合わせてみるようになり、気づいたらバンドを組んでいたというわけだ。その間、当然仕事とも両立しなくちゃいけなかったわけで、我ながらバンドを組めるまで続くとは思ってなかったよなーと実感する。

そうは言っても、他のメンバーは3年などという生半可なキャリアではない。ボーカル・ベース・ギターみんなが20年近くのキャリアを持っていたりする。時間がたっぷりあった頃に音楽に熱中していたメンバーたちに囲まれ、僕はついていくのに精一杯だったりする。課題曲のレベルの高さに四苦八苦……ま、その分、上達も早いにちがいないと勝手に解釈しているのだが。

日曜日の練習のあと、次はどんな曲をカバーしようか? などとメンバーと話をしていた。歳が近いこともあるのだが、音楽の趣向も極めて近かったりする。BON JOVI、GUNS N' ROSES、AEROSMITH……そうなんだよなー、国語担当なんて仕事をしていたけれど、実は高校生〜大学生の頃は洋楽ばかり聴いていたのだ。しかもハードロックやヘヴィーメタルといった「激しい曲」ばっかり。
英語が得意だったなどとは口が裂けても言えない。むしろ中学の頃からすでに通知表の英語の欄には赤い花が咲いているような成績だった。高校2年生の時点ですら、「S」が何で、「V」が何で、「C」や「O」が何を意味しているのかサッパリわからなかったほどだ。
ただ、言葉がわからなくとも音楽は聴けてしまうのである。詞がわからないからこそ、むしろリズムやメロディに集中できる。クサいと思える日本語の歌詞があると妙に醒めてしまうというヒネた性格の少年だった自分は、歌詞のわからないリズムやメロディによって作り出される、ギラギラしたエネルギッシュな雰囲気の世界に酔った。
それでも、耳に残る曲があると、そこから歌詞の意味を調べたくなって、英和辞典なんぞをせっせと引いてみることになる。すると……へー、こんな不謹慎な歌詞だったんだ―! と妙にうれしくなってくる(笑)ま、そりゃハードロックやヘヴィーメタルだからねえ。
たとえば僕の大好きな曲にGUNS N' ROSESの「PARADISE CITY」があるのだが、この曲のサビを日本語に直訳すれば、「連れて行ってよ楽園へ そこは草木は緑で女の子はすべてかわいい」である。楽園(PARADISE CITY)ってそんなところなのか、そりゃ素晴らしい、と(笑)

ハードロック・ヘヴィーメタルはバンド名からしてなかなか過激だ。とくにヘビメタ(ヘヴィーメタル)のほうは、ジャケットもバンド名もおどろおどろしいモノが多い。
あまりに不謹慎すぎて、おどろおどろしさを越えて失笑してしまったジャケットがあった。浪人時代、下北沢の中古CD屋で見つけた、CANCERというバンドの「TO THE GORY END」というアルバムのジャケット。これは酷かった。チープな絵で、男性の頭が後ろからカチ割られているというシロモノ。さすがにクレームがついたのだろう。しばらくして中古CD屋を見たら、ジャケットは大変おとなしいものに変わっていた。このアルバムの「TO THE GORY END」、邦訳するならば「血祭りの終焉」とでもなろうか。収録された曲もジャケットやタイトル同様に酷いものだったらしい。某雑誌の評価では、100点満点中の4点がつけられていた(つまり、「死」ってことですかね?)。バンド名の「CANCER」、邦訳すれば「癌」である。日本人のバンドで「胃ガン」とか「肺ガン」なんてバンドはいない。いても到底売れるとは思えんよなあ(笑)それでもこのCANCERなるバンド、その後に発表したアルバムはそこそこ売れたようで、「デスメタル」というコアな音楽ジャンルにおいては、なかなかの成功を収めていたようである。

そこそこメジャーなバンドでも、バンド名の語彙を調べてみれば十分に禁忌的である。4大メタルバンドと言われたバンドのうち、ANTHRAXは「炭疽菌」だし、SLAYERは「殺し屋」だ。歌詞などはもう大変である。平和主義者は目をつぶりたくなるに違いない。「disease」だの「corpse」だの「carcass」だの……いつの間にやら、ドキドキしながら英和辞典を引く習慣がついている自分がちょっとコワい。そんな地道な作業(?)のおかげで、不謹慎な英単語の知識だけは、そんじょそこいらの受験生には負けないレベルにまでキッチリ仕上がった。

ところが、ヘビメタから得たそんな英単語の知識が、振り返れば大学入試の役に立ってしまったのだから、世の中ってのはわからない。結局入学することになった某大学・某学部の入試問題では、僕がヘビメタを聴いていなかったら答えられなかったであろう問題が、2つも出題されていたのだ。1つは忘れてしまったのだが、もう1つは今でも覚えている。それは「lightning」という単語を書かせる問題だった。これ、ヘビメタの大御所で、その後アメリカでは超メジャーになってしまったMETALLICAというバンドの初期のアルバムに、「RIDE THE LIGHTNING」というアルバムがあったからこそ、意味も綴りも知っていたのだ。「RIDE THE LIGHTNING」、邦訳すれば「稲妻に乗れ」、つまり「lightning」は「稲妻・稲光」って意味なんだな。ドクロのパッチが胸に付けられたGジャンを着て試験を受けていた僕は、ニヤニヤと笑いがこみ上げてくるのを止めるのに必死だった。
かくして予備校の模試の合格可能性に「D」やら「E」やらという評価がつけられていた大学に、僕は「怒涛の英語力」でも「脅威の速読力」でもない、「恐怖のヘビメタ力」でもって合格してしまったのであった。