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元中学コース編集部 繊粒庵ぽん吉

元中学コース編集部員から、日々の生活・考えたことをあなたに

     
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ツギハカンナイ
[2007年03月31日(土) ]

昨日は横浜スタジアムでプロ野球・セ・リーグの開幕戦を観戦。横浜の下町に住んでいる自分としては、地元の球団も応援しないとなー、と。
この日を待ち望んでいた野球ファンも多かったのだろう。外野席は立ち見も出るほどの大入りだった。
最近はドーム球場が増えたけれど、僕はやはり屋外の球場が好きだ。自然の風が吹く。ナイターの観戦であれば、きちんとした影ができる。音の響き方が違う。悪天候のときは観戦する側も大変だし、スケジュールも主催者側の思ったとおりにはならない。それでも、空が見えることの開放感に、代えがたい魅力を感じるのだ。

その帰り道、ふと、浪人時代に予備校の英語の先生から聞いたこんな話を思い出した。

横浜スタジアムの最寄り駅は、JR京浜東北線・市営地下鉄線の関内(かんない)という駅である。あるとき、京浜東北線に乗っていた外国人が、関内駅の手前で突然怒り出したのだそうだ。
事情を聞けば、どうやら車掌のアナウンスに対して頭にきたのだと言う。日本の車掌は何て無責任で不親切なのだ、そんな趣旨らしい。

では、車掌はどんなアナウンスをしたのか?
電車が前の駅・桜木町駅を出発し、関内駅へと向かう。次の駅をアナウンスするのだから、車掌は当然こう言うはずである。

「次は関内です」

このセリフに対して外国人が怒ったのは何故なのか? まずはセリフをひらがなに直して考えてみよう。

「つぎはかんないです」

これでもまだ、何故怒ったのかは見えにくい。しかしここでひとつ、気がつく点があるだろう。それぞれのひらがなの発音を考えてみてほしい。「は」は助詞なので「わ」と発音することがわかる。発音どおりに直してみると……

「つぎわかんないです」

「つぎ」と「わかんないです」の間に読点を打って漢字に直してみれば……

「次、分かんないです」

つまり外国人は、乗客にアナウンスするはずの車掌が「次の駅はわかりませーん」と表明したことに対して腹を立てた、という話だ。この外国人は次の駅が「関内」という駅名であることを知らなかったのかもしれない。

日本語の助詞は、省略を見極めるのがとても難しいという。外国人に日本語を教える際に、最も苦労するのが多様な助詞の種類・使い方とその省略について説明するときだと耳にしたことがある。

日本語は古来から主語や助詞の省略が多い。古典は歴史的仮名遣いで書かれているからさらに判断が難しくなる。たとえば……

「かにはひあがる」

を何と読むか?

「かに/はひあがる」と区切れば、「ひ」は語頭以外の「はひふへほ」ということになるので「い」と読めばよいことになる。すなわち、

「蟹、這い上がる」

となる。
ところが、「は」を助詞と考え、「かには/ひあがる」と区切った場合はどうなるか? 「ひ」は語頭の「はひふへほ」ということになるから、そのまま「ひ」と発音する。これに漢字をあててみれば、

「蟹は、干上がる」

……一生懸命岩を登ろうとしていた蟹クンは、哀れにもカラカラに干からびてしまうのである。

では、このような誤った解釈をしてしまうのはなぜか。いちばん問題なのは、その1センテンス単位だけで文意を考えてしまっている点であると言うべきだろう。もちろん、文節の区切り方や助詞の省略に関する知識は大切だ。しかし、その基本を押さえた上で、前後の文脈、場面などの背景をもとに、きちんと状況に合わせた文意を解釈できるかどうかが、最も大切ということになる。
国語の読解問題でもそうである。全体を俯瞰した上で、部分を考える。ゆめゆめ、傍線部分の解釈のみを根拠に、解答を即決しないようにしたい。広い視野が大切だということになる。

浅田次郎『角筈にて』
[2007年03月26日(月) ]

最近の休日はプロ野球のオープン戦やラグビーの観戦で、スポーツ三昧といったところだ。
プロ野球はパ・リーグが先週土曜日に開幕、阪神甲子園球場ではセンバツ高校野球が行なわれており、日々熱戦が繰り広げられている。球春到来。今年も春が来たんだなあと、実感せざるを得ない。
そういえば気候もここ数日ですっかり温かくなり、桜の蕾もここ数日でだいぶ大きくなってきた。

今回は国語科編集の話も絡めながら、ある作家の紹介でもしてみようかなと思う。

国語科編集部に属する人間というのは、中学国語に関する知識について、当然ひと通り理解していなくてはならないということになる。
しかしそれでも、個々人によってとくに優れたジャンルというのはあったりするものだ。
論説文が得意なスタッフ、文学的な小説や随筆を得意とするスタッフ、古文や漢文といった古典分野を得意とするスタッフ……
もちろん、大学で専攻してきた内容も得意なジャンルには関係してくるものだが、では大学の専攻が問題作りの適性に直結するかというと、必ずしもそうではないような気がする。近現代の文学を専攻していたから小説が得意、中世文学を専攻していたから古文が得意などと、スッパリ決まるわけではない。
ちなみに、僕は哲学科の出身だ。哲学科ならば論説文に適性があるのでは? と考えそうなものだが、どちらかというと文学的文章のほうに適性があると、自分では勝手に思っている。

編集時代、今度はどんな文章を中学生に読んでもらおうかと考え、いろいろな作家の作品を読んできた。
文学というのは難しい。人間の本質に迫る内容というのは、ときにまだ発達過程にある中学生にとっては不適切なものであったりもする。だからまず考えなくてはいけないのは、中学生にとってふさわしい内容かというところだ。
その上で、この話を実際に中学生が読んだらどう感じるだろう、と思えるような問題文を選ぶ。実は僕自身、大学受験に際して読んだ国語の問題文から、自分の世界が広がってきた経験を持つ。大学進学後に濫読した宮本輝の小説だって、藤原新也の批評だって、大学受験対策の問題文として読んだ経験がなかったら、未だに手を伸ばしていなかったかもしれない。
だから、作り手として、今の中学生にとって、問題文からはじまるステキな作品との出会いがあればいいな、という気持ちが強かったのだと思う。

しかし、個人で読書をしている時は、最初から「問題文で使えるところ、ないかな?」という気持ちで作品に接しているわけではない。そもそも僕の個人的な趣向がすべて中学生の学習に適切かといわれれば、それは大違いである。
それでも、個人的な読書の場面で、時として「これは中学生に読んでもらいたい!」と思える作品に出会うことがあるのは事実。
そんな作品が見つかった翌日は、嬉々として会社にその本を持参する。設問を考える。いける。これはいける!
編集時代にいちばんうれしかったのは、実はこんなときだったりした。あの「ハマった!」という快感。

数年前、模擬試験の問題文をある作品に決めたときは、まさにこの「ハマった!」感を味わった。
使った問題文は浅田次郎の『角筈にて』。父親が子どもを置き去りにしてしまう話なのだが、子どもは自分がこれから父親と別れなくてはいけないんじゃないかと、心のなかで薄々気づいているのだ。そして、父親が去ってしまったあとも、少年は一人、父親が帰ってくると信じて、夕暮れのバス停の前で待ちつづける。舗道に蝋石で、ゼロ戦や戦艦大和を描きながら――。
この少年の心理描写、会話の端々に見られる父親への思い、比喩表現が非常に巧い作品で、何度読んでも胸が詰まってしまう作品だった。

浅田次郎という作家は、本当に“泣かせの短編”が巧い。
この『角筈にて』という作品は、映画にもなった表題作を含む『鉄道員(ぽっぽや)』(集英社文庫)という短編集に含まれている。短編集『鉄道員』にはその他にも『ラブ・レター』という泣かせの名短編が含まれていて、これ一冊で何度涙が浮かんでくるかという本だった。
もう一冊、『姫椿』(文春文庫)も読んでいてボロボロ泣いた。この作品集は内容がちょっと大人向けなのだが、「生きる」とはどういうことかということを痛切に考えさせられる短編集だ。1話目に『あじさい心中』という作品がある。この話にはすっかりやられた。今までに読んできた短編のなかでも、5本の指に入る作品で、ときについ、読み直してしまう。

不思議なのは、浅田次郎の短編を読んでいて、不意に涙を流してしまったときには、妙に自分の心がきれいになったかのような錯覚を覚えること。
それが何故なのか。日々の生活で罪意識をどこかに抱えながら、僕という「大人」が生きていることの証なのかもしれない。いや、そんなものではなく、単に厚かましい同情心が掻き立てられて流す偽善的な涙なのかもしれない。
もちろん、読む人によって、涙の意味も変わってくるにちがいない。人はそれぞれ、さまざまな経験を経ながら、年を重ねていくのだから。
いずれにしても言えるのは、その人にとってのよい作品というのは、きちんとその人の心に響く。心に楔打たれたような経験をするということなのだろう。

アイヌ語(Aynu itak)
[2007年03月19日(月) ]

久々の更新になってしまった。
部署が異動してもうすぐ3週間。出張が多くなった。いろいろな人と話をして、いろいろと考えさせられることがある、そんな日々。
快く、かつ真剣に話を聞いてくれ、意見を述べてくださる皆さんに、感謝です。

大学のとき、ちょっとだけアイヌ語を勉強したことがある。
もともと北海道の地名に興味があった。北海道には「別」や「内」「幌」が最後に付く地名が非常に多い。何故だろうと思っていたのだが、中学生くらいのときだったろうか、もともとはアイヌ語の発音に漢字を当てたものなのだと、本を読んでわかった。
そこからアイヌ語独特の発音におもしろさを感じた。北海道の文化にも興味を持つようになった。

大学生のころ、たまたま通った大学に語学研究所があり、そこでアイヌ語の講座があったので受講してみたことがある。怠け者の僕は、課題とレポートの多さゆえ、結局途中で挫折してしまったのだけれど、授業中にアイヌの踊りを踊ってみたりと、なかなか楽しい授業だった。

アイヌ語のいちばんの特徴は、文字がないことなのだ。日本語には漢字・ひらがな・カタカナという3種類の文字があり、それらを用いて紙に書けば、相手に意味を伝えることができる。
でも、アイヌ語は口承で伝えられてきた言語であるがゆえ、文字を持たない。だから、アイヌ語の発音をローマ字で表したテキストが配られることになる。僕らにとって、見た目は英語に近いということになるのだが、文の構造はむしろ日本語に近い。つまり述語が後ろに来ることになる。このあたり、英語を読むクセがあると、最初は文の意味を取るのに違和感があったりする。

どんな言語を学習するときにもそうなのかもしれないが、まず最初に学ぶのは自己紹介。英語で言うなら「My name is 〜.」だ。これをアイヌ語で表現すると、どうなるか? せっかくなのでちょっと紹介してみよう。

Kani anakne Ponkichi ku=ne.
(私はぽん吉です)

「Kani(カニ)=私」、「anakne(アナネ)=……は」、「ku=ne(ク・ネ)=です」の意味で、発音は「カニ アナネ ポンキチ クネ」となる。

あるいは、「私の名前は」で文を開始すると、

Ku=rehe anakne Ponkichi ku=ne.
(私の名前はぽん吉です)

Ku=rehe(=私の名前)で、あとは上の例文と同じ。発音は「クレヘ アナネ ポンキチ クネ」となる。

上の「ぽん吉」の部分を自分の名前にして口ずさんでみよう。そうすればアイヌ語を用いた自己紹介ができるってわけだ。佐藤ツヨシくんなら、「カニ アナネ ツヨシ サトウ クネ」のように。
ただし、1点だけ注意。上の傍線を引っ張ったところの「ク」は、強く発音せず鼻に抜けるような感じで発音するのがポイント(これを閉音節と言う。ホントは小さな「ク」を入力したかったんだけど、文字が出ないんだな……)。この強く発音しない閉音節が頻繁に登場するのも、実はアイヌ語の特徴だったりする。

先住のアイヌ民族が用いていた言語、アイヌ語。そのアイヌ語の発音に、日本人が漢字を当てて、日本の地名とした。先に紹介した「別」はアイヌ語では「pet」で「川」、「内」は「nay」で「小さな川・沢」、「幌」は「poro」で「大きい」の意味だったわけだ。
ちなみに「札幌」は「sat poro pet」(ひからびた大きい川)が語源で、「pet」が省略されて「サッポロ」となり、「札幌」という漢字が当てられたということになる。
つまり、アイヌ語の知識があり、語源がわかれば、その場所でアイヌ民族が生活していたころの地形や自然が見えてくる、ということになる。

しかしそこはもともと発音の異なる言語。これに日本の漢字を当てて表したのだから、今でも北海道には難読地名が多い。いくつかあげてみよう。全部読めますか?

@長万部
A音威子府
B倶知安
C妹背牛
D秩父別
E占冠
F興部
G足寄
H留辺蘂
I女満別

答えはこの記事の最後に。

このアイヌ語、実は現在では母語話者が10人を下回ったと言われていて、ほぼ消滅に近い言語となってしまっている。
いや、アイヌ語だけではない。世界にはその他にも、話者が減りほぼ消滅状態にある言語が、ほかにもたくさんあるのだ。
言葉はその土地の歴史・文化・自然に対する考え方や変化を反映しながら続いてきたもの。現代のグローバル・スタンダードの波のなかで、その土地固有の貴重な「多様な文化」を守ることも忘れてはいけないな、と僕は思うのだが。




























地名クイズの答え
@おしゃまんべ Aおといねっぷ Bくっちゃん Cもせうし Dちっぷべつ
Eしむかっぷ Fおこっぺ Gあしよろ Hるべしべ Iめまんべつ
※満点の人は……すごいです!!

「シュワッチ!」考
[2007年03月09日(金) ]

中学コーススタッフの下村さんに「もしや、先生と楽しく過ごしたのでは…」なんて書かれちゃってましたね。ええ、お察しのとおり関西に出張して先生方と楽しい夜を過ごしていたぽん吉です。詳細は「国語力検定」のブログをご覧あれ。
それにしても国語力検定担当K師匠の記事、写真の使い方とかうますぎだってば。

大阪でお会いしたW先生、I先生ともに、仕事ではとてもお世話になった方。異動になり、これまでのお礼を是が非でも直接言いたかっただけに、今回大阪へ足を運べてよかった。お二人には心から感謝しています。
実はこのお二方、原稿のやり取りというつながりだけではなかったんだな。W先生・I先生、そして僕は、何を隠そう「ウルトラシリーズ」の大ファンという点で共通しているのだ。
中でもI先生は通称「ウルトラ博士」。最近では友人と「ウルトラマンメビウス」の映画版を見に行き、号泣していたそうな。素晴らしき大人の泣けるヒーローモノ。それにしても、大の大人が連れ立って「ウルトラマンメビウス」を見に行き、映画館で号泣している光景は、想像するだけで可笑しい。

僕は、シリーズのなかでもとくに「ウルトラセブン」が好きだ。
数年前、まだZ会に入社する前のこと。翌日の授業の予習が終わり、借りてきた「ウルトラセブン」のビデオを深夜の3時ごろから見始めた。最終回「史上最大の侵略(後編)」のクライマックスの場面で、主人公のモロボシ・ダンがヒロイン役のアンヌ隊員に、「僕はね、人間じゃないんだ。M78星雲から来た、ウルトラセブンなんだ」と告白する。アンヌ隊員の制止を振り切ってセブンに変身し、怪獣と戦うモロボシ・ダン。傷を負いながらも、倒れながらも地球のために必死に戦う。流れるピアノの旋律が心を打つ。
深夜、一人部屋で小の大人(?)が号泣している。滝のような涙。
……人のこと言えんやね、全然。

さて、そんな面々が大阪の串カツ屋のカウンターに並ぶ。と、W先生がこんなことをおっしゃった。

「僕はウルトラマンをリアルタイムで見られてよかったなって思うんだよ。すごく得したなー、って」

なるほど。ファンとしては大変うらやましい。僕が生まれた年代となると、すでにウルトラマンもウルトラセブンも、リアルタイムで放映されていたわけではなかったのだ。つまり僕は再放送世代。
W先生が続ける。

「今だったらウルトラマンの声を『シュワッチ!』なんて表現するけれど、あのころは何て言ってるのかわからなくてさ。だからウルトラマンごっこをしていても、みんなが思い思いの発音で真似てたんだよね。『ギュア』とか、『シャッ』とか」

この話はおもしろいな、と思う。今やすでに言語表現化した『シュワッチ!』というウルトラマンの叫びも、当時はそれを擬音語としてどう表現するのがスタンダードなのか、みんなわからなかったというわけである。そしていつのまにか、「シュワッチ!」がスタンダードなウルトラマンの声として定着した。

しかし、この「シュワッチ!」も、仮にウルトラマンをまだ知らない海外の方々に表現してもらうと、また異なった表現になるのだろう。
擬音語というのはおもしろい。同じひとつの音でも、その国によって表現が異なってくる。日本では犬の鳴き声としては「ワンワン」が一般的だが、英語になると「bow wow(バウ・ワウ)」となるし、スペイン語では「guau guau(グァウ・グァウ)」と表現される。
時を同じくしても、その地域固有の言語体系によって表現のされ方は異なるということだ。海外ではウルトラマンの叫び声が、おそまつ君のイヤミよろしく「シェー!」と訳出されてもおかしくはない。

また、時代によって擬音語の表現は変わってくる。とくに古典作品を読んでいると、昔と今とで擬音語が異なる点におもしろさを感じる。今では使わない擬音語も多数登場する。そこで今日は、これまで教材を作ってきた経験から、古典作品に見られるおもしろい擬音語をいくつか挙げてみよう。

@与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束三伏、弓はつよし、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要ぎは一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。かぶらは海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。(『平家物語』巻十一「那須与一」)

A入道相国やまひつき給ひし日よりして、水をだにのどへも入れ給はず。身の内のあつき事、火をたくが如し。ふし給へる所四五間が内へ入る者は、あつさたへがたし。ただ宣ふ事とては、あたあたとばかりなり。(『平家物語』巻第六「入道死去」)

B前駆を追ひののしれば、晴澄、馬より下りてゐたるを、「弓はづして、かい臥して候へ」「かやかや」、と言ひければ、手迷ひをして弓どもみなはづしつ。(『今昔物語集』本朝世俗部巻二十九第二十一)

@は中学校2年生の教科書にも登場するので有名。『平家物語』はもともと語り物であった影響もあるのだろう、擬音語や擬態語が豊富に使われている。「ひやうど」は弓を射るときの音を表した語で、『平家物語』にはよく見られる。現代語で言うならば「ひゅっ」とでもなるだろうか。
「ひいふつと」は弓が刺さったときの音。同様の音を表す言葉として、「ふつつと」という擬音語も見られる。

Aもうひとつ『平家物語』から。これはなかなかおもしろい。入道すなわち平清盛が高熱にうなされている場面なのだが、このとき清盛が発する声が「あたあた」である。周りが近づけないほどの高熱に苦しむ平清盛の姿が、どうしても『北斗の拳』のケンシロウのイメージに重なってしまう。「あたあた」はおそらく「熱い熱い」の意で発せられたのだと思うが。

Bこれは『今昔物語集』からの引用。坂上晴澄という武士が貴人の一向と思しき集団に出会うのだが、この集団の先払い、つまり先頭で通行人をどかせる役目をする一団のあげた声が「かやかや」である。「かやかや」って言えば、前を歩く人々はどいてくれたのか……? 文字面通りにとらえると、何とも不思議な感覚に襲われる。古典では濁音が省略されることが多かったから、実際には「がやがや」と騒ぐ声だったのだろう。

こう考えてくると、ウルトラマンの「シュワッチ!」も、もし千年前の日本人が表現したらきっとおもしろかったにちがいない。「ひうわち!」とか、「ひやうち!」とか。
また、千年後の日本人が現代の「シュワッチ!」という表現を目にしたら、きっと大きな違和感を覚えることになるのだろう。

ちなみに、平安時代の犬は「ワンワン」ではなく、「びよ」と鳴いていたとか。これについては、山口仲美さんが『犬は「びよ」と鳴いていた』(光文社新書)という名著を残していらっしゃる。とてもおもしろい本なので、ぜひご一読をオススメしたい。
時代により、住んでいる場所により、擬音表現は大きく変わってくる。擬音表現の違いに注目しながら読書や旅行を楽しんでみると、よりおもしろいものになるのではないかと思う。

最後に、大阪でお会いしたI先生もZ会ブログをはじめてくれました。その名も「耽読翫市」。博識で、いつも編集担当を「なるほどー!」と唸らせる原稿を書いてくれているI先生のこと、きっとおもしろい内容になると思います。これからに期待。必見ですよ!

さらば国語科編集部……
[2007年03月03日(土) ]

タイトルを見てお分かりのとおり、実は2/28をもって、入社以来8年間務めてきた国語科編集部の仕事にピリオドを打ちました。
会社ですからね、異動はつきもの。新しい仕事もがんばりたいと思います。

入社して8年間、ホントにいろいろなことがあった。
2002年、中学教科書改訂のタイミングで中学コースの教材を全面改訂。これまでの教材とはまったく異なったシステムの導入。2006年には2回目の教科書改訂。時には徹夜もした。くじけそうにもなった。大きな開発のときはいつも体力勝負だったな。
2004年には「受験勉強スタートシリーズ」を企画、そして製作。国語の教材にしてはけっこう売れてくれて、うれしかった。企画のときから密かに内容に自信はあったんだけどね。
あのときはテキストに使う文章そのものを自分で考えたりもしたっけ。さながら作家の気分だった。

いちばん楽しかったのは、やっぱり原稿を作ってるときだったかな。先生方とあーでもない、こーでもないと意見をぶつけながら、問題を作っていく。それがZ会中学コース流。耳の痛い意見もたくさん聞いた。時には自分の思考の浅さも実感した。でも、現場がきちんと頭を使って、苦労して作ったものだったから、Z会の教材は力がつくはずだって自信も持てたりしていた。
まだまだ企画途中だった仕事もあったのだけれど、これからは残った優秀な編集部員たちが、引き続きいいモノ作ってくれると思っています。
お世話になった先生方、スタッフ、その他たくさんの仕事で関わってきた人に、本当に感謝しています。どうもありがとうございました。

さてこのページ、どうしましょうかねえ……
これまでの国語科編集部の経験はやはり大きいわけで、やはり国語や編集に関する徒然を中心に、引き続き気ままに綴っていくことにしようかなと思っています。
いつもいつも更新が遅いんだけど、ま、のんびり気長にやっていこうかな、と。