「何でボウリングのピン、着てるんスか?」
そんな質問があったので、まず釈明しておこう。
別にボウリングに深い思い入れがあるわけではないのだ。だいいち僕はボウリングが下手である。ゲーム時間が経つにつれ、手首の向きが変わってくる。そして球はあらぬ方向へと転がりはじめる。軌道修正不能……
確か去年の10月くらいだったと思う。友人連中でチーム対抗のボウリング勝負をやったのだ。
チームが見事に負けた結果、足を引っ張った僕が罰ゲームとして着ぐるみをつけることになった。そこで撮られたのがこの写真だ。
日記を初めるにあたり、できれば本人の写真も掲載してほしいというので自分の携帯の中から写真を漁ってみたのだが、見つかったのはたったの4枚。ま、そもそも自分が一人だけで写ってる写真を何枚も持っているヤツなど、相当なナルシストでもない限りいないわな。
しかも、コレが日記にはまったく使えそうにないシロモノばかり。観光地で撮った顔ハメ看板だの、サングラスに坊主頭で額の血管が浮いてる写真だの……
いちばんまともだったのがカツラをつけて撮ったモノクロの写真だったのだが、「カッコよすぎて別人。真実を表していない」という周囲の声により却下。
消去法の結果、選ばれたのはこの着ぐるみ写真だったというわけだ。
いつかまともなカツラ写真にこっそり更新してやる。ささやかな野望。
ところで、僕は現在教材の「編集」という仕事に就いている。
しかし、そもそも「編集」とはどんな仕事のことなのだろうか? 今日はちょっと考えてみたい。
手元の『旺文社国語辞典』で「編集」を引いてみると、こんな説明がある。
「一定の方針の下に種々の材料を集めて、書籍・雑誌・新聞などに作り上げること。編纂。」
「一定の方針」というのは、編集者の所属する会社や団体が作ろうとしているモノの方向性を指すのだろう。
Z会中学コースの国語科であれば、中学コースの国語教材を作る、という大きな「一定の方針」がある。このような、置かれた集団によって定義された目的を遂行すべく、「種々の材料を集め」、出版物を「作り上げる」こと、辞書的な意味に従うならば、それが「編集」という仕事ということになる。
しかし、実際には「編集」という言葉は曖昧な意味で用いられることが多い。
たとえばパソコンで「記事を編集しますか?」と聞かれれば、直接文字や文章を修正する行為を指す。もちろんこのような作業も「編集」には含まれるのだが、あくまで「編集」という実務の一作業であって、これ即ち「編集」の仕事とイコールいうわけではない。
さらにいえば、現代の「編集」作業というのは、何も「書籍・雑誌・新聞など」の活字媒体に限られたことではない。楽曲をデジタルマシンで「編集」する人もいれば、コンピューターのプログラムそのものを「編集」する人もいる。
このように、一概に「編集」といっても、実はさまざまな場面で、さまざまな意味合いで用いられる。「編集」とは、幅の広い意味の領域をカバーする言葉なのだ。
では「
Z会中学コース」の国語科編集部は、一体どんな仕事をするところなのか?
編集部というと机の上に原稿がドサっと積まれていて、席に座った人間が額に汗を浮かべながらひたすら読んでいく、そんな光景を思い浮かべる人もいるのかもしれない。もちろん、編集部の仕事としてそのような一面があるのは確かである。事実、僕の机の上には常に原稿が積まれているのだから。
あるいは、先日の日記にもちょっと書いたが、問題を作るのが編集部というイメージを持つ人もいるかもしれない。いや、確かにそういう仕事もある。自分で文章を選んできて問題を作り、解説を書くことももちろんある。あるいは、先生方に書いていただいた原稿が教材となって中学生のもとに届くまでの作業を行なう、それもまた編集部の人間の仕事である。
しかし、それだけではない。編集部には先生方によって添削された答案をチェックしているスタッフもいる。ときには、編集部員が中学生の皆さんと直接話をするために足を運ぶこともある。ときには、教材システムを制御するパラメーターをコントロールすることもある。ときには、お客様からの電話でのお問い合わせに対応することもある……
つまり、「
Z会中学コース」の国語科編集者の仕事というのは、大きく言えばこれらのさまざまな業務から得られた「種々の材料」をもとにして、今後の国語教材に活かしていく仕事、となる。
カッコイイ言葉を使うならば、得られた原稿やさまざまな情報から、次の方向を模索し、企画し、統括し、生み出していく、そんな総合的なプロデューサーということにでもなろうか。
これはよく後輩スタッフに話すことなのだが、「編集」という熟語は、昔は「編輯」と書いた。
「輯」という字はおもしろいなあと思う。車輪の真ん中に細い棒が集まっている様子を表した漢字なのだそうだが、よく見ると「車」「口」「耳」という三つの漢字が使われているのがわかるだろう。
人間の身体に車輪が付いているわけではないから、「車」は「足」ということになる。「口」は話をすること、「耳」は話を聞くことと考えれば、〈足を使って動き、いろいろな人と話をして材料を集める〉という解釈が成立するだろう。
そうして集まった材料をもとにして、次なるモノを「編む」、それが編集者の仕事ということになるだろうか。
個人的には「編む」をさらに「紡ぐ」と考えて、関係する方々と一緒に何かを紡いでいけるような仕事ができるようになれば理想だなあと、考えていたりするのだが。