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元中学コース編集部 繊粒庵ぽん吉

元中学コース編集部員から、日々の生活・考えたことをあなたに

     
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8年前、北国の4月
[2007年04月14日(土) ]

またまた久しぶりの更新となってしまった。そのうち担当のシモムラさんに怒られちゃうかな?

4月も半ばとなり、関東地方では枝に残る桜の花も少なくなった。中学生のみなさんも、新学年が始まって一週間、だいぶ肩の力が抜けてきたのではないか。
今年はあまり桜の花を愛でなかったなと思う。会社からの帰路、近所の夜桜に妖艶な美しさは感じたが、立ち止まって見上げるほどではなかった。そういえば昨年は屋形船を借りて大岡川を上った。風の強い日で、満開だった桜がいっせいに川面へと散った。あの桜吹雪の姿は、今でも印象深く脳裏に刻まれている。

そうだ、あれは今から8年前の4月のことだった。会社へと向かう地下鉄のなかで目をつぶりながら、Z会に入社する前のある事件を思い出していた。

僕はZ会に入社する前に、東北のある県で塾の先生をしていた。実はZ会に途中から入社したのも極めて偶然である(そのことについては気が向いたらそのうち書こうと思う)。前の塾を辞めてからすぐにZ会に入社したわけではない。そこに人生の空白期間とでも言うべき、3ヶ月間というブランクがある。
何をしていたのか。まず、Z会の添削指導員をしていた。LAという、今で言えば大学受験コースのスーパーハイレベルにあたる国語の添削を担当していた。東大京大の志望者の多いコースで、記述問題の割合も高い。締め切りの前日は当たり前のように徹夜である。いや、締め切り間際にならないとエンジンのかからない自分が悪かったのだが。
しかし、その他に何か働いていたのかというと、実は何もしていない。簡単に言えばブラブラしてたのだ。当時は毎日病院に行かなくちゃいけなかった。僕は体中にカサブタができるという原因不明の不思議な病気に罹っていて、午前中は病院へ行き、注射を打たなくちゃいけなかった。左腕の筋肉を、毎日注射針で刺す。慣れというのは怖いもので、最初は痛かった注射も、そのうち何も感じないほどになった。「一生治らない可能性が高い」そう医者に言われたあの病気が、今ではほとんど治ってしまったのは幸運だったと思う。
病院を出た後は、取り立ててすることもない。ブラブラとパチンコ屋を覗いてまわったり、本屋で立ち読みをしたりして、一日が過ぎていく。
北国の4月。夕暮れ時。みぞれ混じりの冷たい雨が降っていた。胸に迫る孤独の恐怖に耐えながら、あの日僕は一人、近所の大衆割烹の店に入ったのだった。

Z会ではつい最近まで「国語担当」などという肩書きになっていたけれど、塾では講習会の時を除いて英語を教えていた(ちなみに取得した教員免許は、これまたなぜか社会である)。塾を辞めた年、僕はある中3生のクラスを担当していた。公立高校のトップ校を目指すという上位クラスだったのだが、この年の生徒は例年に比べて学力が伸び悩んでいた。それでも、性格はとても素直で純朴ないいヤツが多かったのだ。人間性だけを見れば、3年の間に担当したクラスの中でいちばん優れていたと思う。ほとんどの生徒が予習も欠かさずにやってきた。黒板の板書も一生懸命ノートに写した。授業が終わってからは、ふざけすぎない程度の明るさと人懐っこさを発揮した。僕はこのクラスを担当するのが好きだった。と同時に、何とか力になってあげたいとも思っていた。
しかし、現実というのは厳しい。12月、1月、入試が近づいても成績はなかなか上がってこない。トップ校に挑戦させるのが危険、そんな生徒が多かった。「あいつらホント、バカだな」別の上位クラスから移動して講習会だけを担当したある数学の責任者が、教員室で吐き捨てた。よくそんな言葉が吐けるものだ。高い月謝を払い、予習もし、ノートもとる。そんな生徒の成績が伸びないのは、ひとえに塾の指導内容、先生の力量がないからである。最初から成績のよい生徒を預かって合格させるのは簡単だろう。あんたのクラスとはちがうが、こういう生徒に合格できる力をつけてやることこそが塾の力量、法外な月謝をいただいているということの意味ではないのか?

そんな折、クラスのWという女の子が塾を辞めていった。中3の4月から通学してきた生徒だった。Wの母親にはよく怒られたものだ。どうして成績が上がらないんだ、何のために月謝を払ってるんだ、トップ校に行けないんなら通わせてる意味がない――保護者面談では同じことを1時間ほど繰り返された。そんなWの母親が、1月になり電話をかけてきた。志望校のレベルを下げ、2番手の女子高を受験することにしたのだと母親が電話で伝えてきたという。まさにギリギリの成績の生徒だったが、Wなら何とかなるのではという思いもあったので、残念だった。

この年の入試結果は惨憺たるものだった。広告に掲載される合格者人数というのは、講習会だけを受講した生徒もカウントされたりするもので、それ自体が塾の本当の意味での指導力を表しているとは言いがたい。合格者人数自体はこの年も前年並みだった。しかし、その内実を見れば、2年、3年という長い間通っていた生徒ほど、ボロボロと受験に失敗していた。振り返れば、彼ら、彼女らはあまりに「受身になっていた」し、「機械的にやらされることに慣れていた」と思う。それはこの塾で働き始めた1年目から、実はわかっていたことでもあったのだが。
あるクラスでは合格発表後に家出をし、東京で飛び降り自殺を図ろうとした生徒までが出た。母親が狂乱した声で電話をかけてきた。どこへ行ったのか知らないかと尋ねられても、わかりませんと言うしかなかった。
生徒たちに申し訳ない。責任と罪深さを感じた。1週間後、僕はその塾を去った。

ガラガラガラ・・・・・・店の引き戸を開ける。木のカウンターに腰掛け、熱燗とマコガレイを焼きで頼んだ。黙々とカウンターで飲んでいると、騒がしい後ろの小上がりから、ある女性がこう叫んだ。
「あれ、先生? 先生じゃないですか!」
振り返ると、そこには1月に塾を辞めたWの母親の顔があった。ヤバい人に会っちゃったな……また怒られるかな。
ところが、Wの母親は笑顔でこう言ったのだ。
「うちの娘は志望校を変更してえがったんよ。新学期最初のテスト、娘は英語は学年で1番だったー。これも先生が1年間、最後まで一生懸命英語教えてくれたからだの。」
聞いて、背負っていた罪がちょっとだけ軽くなったような気がした。

あれから8年になる。そうか、あのとき中3だった生徒たちも、今では23歳。社会人としてさまざまなフィールドで活躍しているのだろう。
彼ら彼女らに、今年の桜の花は、どう映ったのだろうか。