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元中学コース編集部 繊粒庵ぽん吉

元中学コース編集部員から、日々の生活・考えたことをあなたに

     
「シュワッチ!」考
[2007年03月09日(金) ]

中学コーススタッフの下村さんに「もしや、先生と楽しく過ごしたのでは…」なんて書かれちゃってましたね。ええ、お察しのとおり関西に出張して先生方と楽しい夜を過ごしていたぽん吉です。詳細は「国語力検定」のブログをご覧あれ。
それにしても国語力検定担当K師匠の記事、写真の使い方とかうますぎだってば。

大阪でお会いしたW先生、I先生ともに、仕事ではとてもお世話になった方。異動になり、これまでのお礼を是が非でも直接言いたかっただけに、今回大阪へ足を運べてよかった。お二人には心から感謝しています。
実はこのお二方、原稿のやり取りというつながりだけではなかったんだな。W先生・I先生、そして僕は、何を隠そう「ウルトラシリーズ」の大ファンという点で共通しているのだ。
中でもI先生は通称「ウルトラ博士」。最近では友人と「ウルトラマンメビウス」の映画版を見に行き、号泣していたそうな。素晴らしき大人の泣けるヒーローモノ。それにしても、大の大人が連れ立って「ウルトラマンメビウス」を見に行き、映画館で号泣している光景は、想像するだけで可笑しい。

僕は、シリーズのなかでもとくに「ウルトラセブン」が好きだ。
数年前、まだZ会に入社する前のこと。翌日の授業の予習が終わり、借りてきた「ウルトラセブン」のビデオを深夜の3時ごろから見始めた。最終回「史上最大の侵略(後編)」のクライマックスの場面で、主人公のモロボシ・ダンがヒロイン役のアンヌ隊員に、「僕はね、人間じゃないんだ。M78星雲から来た、ウルトラセブンなんだ」と告白する。アンヌ隊員の制止を振り切ってセブンに変身し、怪獣と戦うモロボシ・ダン。傷を負いながらも、倒れながらも地球のために必死に戦う。流れるピアノの旋律が心を打つ。
深夜、一人部屋で小の大人(?)が号泣している。滝のような涙。
……人のこと言えんやね、全然。

さて、そんな面々が大阪の串カツ屋のカウンターに並ぶ。と、W先生がこんなことをおっしゃった。

「僕はウルトラマンをリアルタイムで見られてよかったなって思うんだよ。すごく得したなー、って」

なるほど。ファンとしては大変うらやましい。僕が生まれた年代となると、すでにウルトラマンもウルトラセブンも、リアルタイムで放映されていたわけではなかったのだ。つまり僕は再放送世代。
W先生が続ける。

「今だったらウルトラマンの声を『シュワッチ!』なんて表現するけれど、あのころは何て言ってるのかわからなくてさ。だからウルトラマンごっこをしていても、みんなが思い思いの発音で真似てたんだよね。『ギュア』とか、『シャッ』とか」

この話はおもしろいな、と思う。今やすでに言語表現化した『シュワッチ!』というウルトラマンの叫びも、当時はそれを擬音語としてどう表現するのがスタンダードなのか、みんなわからなかったというわけである。そしていつのまにか、「シュワッチ!」がスタンダードなウルトラマンの声として定着した。

しかし、この「シュワッチ!」も、仮にウルトラマンをまだ知らない海外の方々に表現してもらうと、また異なった表現になるのだろう。
擬音語というのはおもしろい。同じひとつの音でも、その国によって表現が異なってくる。日本では犬の鳴き声としては「ワンワン」が一般的だが、英語になると「bow wow(バウ・ワウ)」となるし、スペイン語では「guau guau(グァウ・グァウ)」と表現される。
時を同じくしても、その地域固有の言語体系によって表現のされ方は異なるということだ。海外ではウルトラマンの叫び声が、おそまつ君のイヤミよろしく「シェー!」と訳出されてもおかしくはない。

また、時代によって擬音語の表現は変わってくる。とくに古典作品を読んでいると、昔と今とで擬音語が異なる点におもしろさを感じる。今では使わない擬音語も多数登場する。そこで今日は、これまで教材を作ってきた経験から、古典作品に見られるおもしろい擬音語をいくつか挙げてみよう。

@与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束三伏、弓はつよし、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要ぎは一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。かぶらは海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。(『平家物語』巻十一「那須与一」)

A入道相国やまひつき給ひし日よりして、水をだにのどへも入れ給はず。身の内のあつき事、火をたくが如し。ふし給へる所四五間が内へ入る者は、あつさたへがたし。ただ宣ふ事とては、あたあたとばかりなり。(『平家物語』巻第六「入道死去」)

B前駆を追ひののしれば、晴澄、馬より下りてゐたるを、「弓はづして、かい臥して候へ」「かやかや」、と言ひければ、手迷ひをして弓どもみなはづしつ。(『今昔物語集』本朝世俗部巻二十九第二十一)

@は中学校2年生の教科書にも登場するので有名。『平家物語』はもともと語り物であった影響もあるのだろう、擬音語や擬態語が豊富に使われている。「ひやうど」は弓を射るときの音を表した語で、『平家物語』にはよく見られる。現代語で言うならば「ひゅっ」とでもなるだろうか。
「ひいふつと」は弓が刺さったときの音。同様の音を表す言葉として、「ふつつと」という擬音語も見られる。

Aもうひとつ『平家物語』から。これはなかなかおもしろい。入道すなわち平清盛が高熱にうなされている場面なのだが、このとき清盛が発する声が「あたあた」である。周りが近づけないほどの高熱に苦しむ平清盛の姿が、どうしても『北斗の拳』のケンシロウのイメージに重なってしまう。「あたあた」はおそらく「熱い熱い」の意で発せられたのだと思うが。

Bこれは『今昔物語集』からの引用。坂上晴澄という武士が貴人の一向と思しき集団に出会うのだが、この集団の先払い、つまり先頭で通行人をどかせる役目をする一団のあげた声が「かやかや」である。「かやかや」って言えば、前を歩く人々はどいてくれたのか……? 文字面通りにとらえると、何とも不思議な感覚に襲われる。古典では濁音が省略されることが多かったから、実際には「がやがや」と騒ぐ声だったのだろう。

こう考えてくると、ウルトラマンの「シュワッチ!」も、もし千年前の日本人が表現したらきっとおもしろかったにちがいない。「ひうわち!」とか、「ひやうち!」とか。
また、千年後の日本人が現代の「シュワッチ!」という表現を目にしたら、きっと大きな違和感を覚えることになるのだろう。

ちなみに、平安時代の犬は「ワンワン」ではなく、「びよ」と鳴いていたとか。これについては、山口仲美さんが『犬は「びよ」と鳴いていた』(光文社新書)という名著を残していらっしゃる。とてもおもしろい本なので、ぜひご一読をオススメしたい。
時代により、住んでいる場所により、擬音表現は大きく変わってくる。擬音表現の違いに注目しながら読書や旅行を楽しんでみると、よりおもしろいものになるのではないかと思う。

最後に、大阪でお会いしたI先生もZ会ブログをはじめてくれました。その名も「耽読翫市」。博識で、いつも編集担当を「なるほどー!」と唸らせる原稿を書いてくれているI先生のこと、きっとおもしろい内容になると思います。これからに期待。必見ですよ!

さらば国語科編集部……
[2007年03月03日(土) ]

タイトルを見てお分かりのとおり、実は2/28をもって、入社以来8年間務めてきた国語科編集部の仕事にピリオドを打ちました。
会社ですからね、異動はつきもの。新しい仕事もがんばりたいと思います。

入社して8年間、ホントにいろいろなことがあった。
2002年、中学教科書改訂のタイミングで中学コースの教材を全面改訂。これまでの教材とはまったく異なったシステムの導入。2006年には2回目の教科書改訂。時には徹夜もした。くじけそうにもなった。大きな開発のときはいつも体力勝負だったな。
2004年には「受験勉強スタートシリーズ」を企画、そして製作。国語の教材にしてはけっこう売れてくれて、うれしかった。企画のときから密かに内容に自信はあったんだけどね。
あのときはテキストに使う文章そのものを自分で考えたりもしたっけ。さながら作家の気分だった。

いちばん楽しかったのは、やっぱり原稿を作ってるときだったかな。先生方とあーでもない、こーでもないと意見をぶつけながら、問題を作っていく。それがZ会中学コース流。耳の痛い意見もたくさん聞いた。時には自分の思考の浅さも実感した。でも、現場がきちんと頭を使って、苦労して作ったものだったから、Z会の教材は力がつくはずだって自信も持てたりしていた。
まだまだ企画途中だった仕事もあったのだけれど、これからは残った優秀な編集部員たちが、引き続きいいモノ作ってくれると思っています。
お世話になった先生方、スタッフ、その他たくさんの仕事で関わってきた人に、本当に感謝しています。どうもありがとうございました。

さてこのページ、どうしましょうかねえ……
これまでの国語科編集部の経験はやはり大きいわけで、やはり国語や編集に関する徒然を中心に、引き続き気ままに綴っていくことにしようかなと思っています。
いつもいつも更新が遅いんだけど、ま、のんびり気長にやっていこうかな、と。

涙の国語科編集部?
[2007年02月24日(土) ]

3万人もの参加者を集めて東京マラソンが行なわれた先週末、世間の話題とは逆行するように九州は熊本県で行なわれたマラソンに出場してきたぽん吉です。
マラソンといっても、フルマラソンではなく、ハーフでもなく、10kmのマラソン。
たかだか10kmと笑うなかれ。こんなに長い距離はもう十数年も前、高校生のとき以来、走ったことがない。
そんなわけで完走できるかどうか、とても不安だったんだけど、地元の皆さんの温かい声援の助けもあって、何とか無事に完走。苦しかったけど、最後にゴールしたときの爽快感は、なかなか味わえないものでした。
来年以降も出場したいなと密かに思ってます。

国語の問題を作る仕事をしていると、こんな経験をすることがある。
それは……

「仕事中に、涙がこらえきれなくなる」

涙がじわじわと湧き出してくる。ヤバイ。こぼれる。あわててトイレに駆け込んで、嗚咽を漏らしたりする。
そんなに仕事がつらいのかって? いやいや、そんなときもなかったわけじゃないけど、今回の話題は仕事でのつらい涙ではない。
「感動の涙」です。大袈裟ではなく、マジで。

国語の問題を作るときには、まずは問題文の候補となる素材文を探さなくてはならない。
そして、使われている語彙は中学生にとって適切なレベルか、中学生が読む文章としてふさわしい内容か、出題して意味のある設問が作れそうか、字数は適切かなど、多くのことを考えながら候補となる素材文を検討していくことになる。
しかし、出題するにあたりいちばん大事なことは何か?
それは、中学生がその文章を読んで何かを感じてくれそうか、何かを得られるかどうかだと、僕は個人的に思っていたりする。それをきっかけにして中学生のみなさんが、その著者の別の作品を読んでみて、世界を広げていってくれれば素晴らしい。たかが問題文。でも、きっかけにはなりうるのだ。
人によって好みは異なる。全員が「刺激になった」と思えるような問題文などは存在しないだろう。でも、多くの人の心に響く問題文というのは、存在してしかるべきだと思っている。
もちろん、教科書に掲載されている文章から問題を作る場合には、まずは文章ありきなので、素材文を吟味する余地はないのだけれど。

そんな素材文を検討する仕事をしていると、ときには中学生の皆さんがどう感じるか以前に、自分が感動して涙してしまう文章が登場しちゃったりするんだな。

今の仕事を続けてもうすぐ8年。松方弘樹並み(?)に涙もろい自分である。これまでに何度も、仕事中に素材文を読んでいて、泣けてきた。
そんな「泣けた作品」の一つを紹介してみよう。三浦哲郎の「おおるり」という作品(講談社文芸文庫『拳銃と十五の短編』所収)。これは切ない作品だった。

市民病院の3階の病室に毎朝きこえてくる「おおるり」という鳥の鳴き声。入院患者たちはその鳴き声を楽しみにしている。ただ、もう少し近くであの美しい鳴き声をきけないものか。そこで患者の付添婦だという女性が「おおるり」の飼い主の男を探し当て、訪ねてくる。話を聞き、悪くないと思った彼。しかし、さすがに病院の中に生き物を持ち込むわけにはいかない。彼は考える。「おおるり」の鳴き声がよく通るように、餌に仕掛けを施せばいい。さらに滑車を使って鳥籠を鉄塔の上に揚げ、高いところでもよくきこえるようにすればいい。そんな計画を女性に饒舌に語る彼。翌朝から彼はこの計画を実行するのだが……

この作品の切ないところは、明示はされていないながらも、「おおるり」の飼い主である「彼」が、この「付添婦の女性」に淡い恋心をもっていると思われる点。対して女性は、自分の置かれたある境遇を彼に明かしていない。だからこそ微妙に解釈がすれ違う二人の会話。そして最後に訪れる悲しい事実。そんな事実をよそに、相変わらずの美しい声で鳴く「おおるり」が、切なさを二乗倍にさせる。

この話を初めて読んだときは……ええ、読み終わってからトイレに直行しました。

自分に限らず、周りの国語科スタッフにも、「仕事中に涙が……」という経験をもつ人は多いらしい。
複数の人から「あれは泣けた」という話を聞いたのは、現在も東京書籍の1年生の教科書に掲載されている「碑(いしぶみ)」という作品(制作:広島テレビ放送・構成:松山善三)。
国語力検定」のブログを書いている国語科の大先輩・Kさんも、「『碑』は読んでてツラかった……」なんて言ってたっけ。
「碑」は広島に原爆が投下されたときの模様を描いたドキュメンタリー。残された人たちの証言や記録をもとに、当時の広島の惨状がリアルに、かつ淡々と述べられていく。この書き口がまた涙を誘うのだという。
(それにしてもこの作品、今の教科書では「読書を楽しもう」っていう単元の一部として掲載されているんだよなあ。悲惨な話ゆえ、「楽しもう」っていうのは何だかしっくりこないような気がするのだが……)

これから問題を作っていくなかで、どんな作品との出会いが待っているのか。そして中学生のみなさんに、どんな文章を読んでもらうことができるのか。
それが国語科編集部の仕事の楽しみであったりもする。

「編集」とは?
[2007年02月15日(木) ]

「何でボウリングのピン、着てるんスか?」
そんな質問があったので、まず釈明しておこう。

別にボウリングに深い思い入れがあるわけではないのだ。だいいち僕はボウリングが下手である。ゲーム時間が経つにつれ、手首の向きが変わってくる。そして球はあらぬ方向へと転がりはじめる。軌道修正不能……
確か去年の10月くらいだったと思う。友人連中でチーム対抗のボウリング勝負をやったのだ。
チームが見事に負けた結果、足を引っ張った僕が罰ゲームとして着ぐるみをつけることになった。そこで撮られたのがこの写真だ。

日記を初めるにあたり、できれば本人の写真も掲載してほしいというので自分の携帯の中から写真を漁ってみたのだが、見つかったのはたったの4枚。ま、そもそも自分が一人だけで写ってる写真を何枚も持っているヤツなど、相当なナルシストでもない限りいないわな。
しかも、コレが日記にはまったく使えそうにないシロモノばかり。観光地で撮った顔ハメ看板だの、サングラスに坊主頭で額の血管が浮いてる写真だの……
いちばんまともだったのがカツラをつけて撮ったモノクロの写真だったのだが、「カッコよすぎて別人。真実を表していない」という周囲の声により却下。
消去法の結果、選ばれたのはこの着ぐるみ写真だったというわけだ。
いつかまともなカツラ写真にこっそり更新してやる。ささやかな野望。

ところで、僕は現在教材の「編集」という仕事に就いている。
しかし、そもそも「編集」とはどんな仕事のことなのだろうか? 今日はちょっと考えてみたい。
手元の『旺文社国語辞典』で「編集」を引いてみると、こんな説明がある。

「一定の方針の下に種々の材料を集めて、書籍・雑誌・新聞などに作り上げること。編纂。」

「一定の方針」というのは、編集者の所属する会社や団体が作ろうとしているモノの方向性を指すのだろう。Z会中学コースの国語科であれば、中学コースの国語教材を作る、という大きな「一定の方針」がある。このような、置かれた集団によって定義された目的を遂行すべく、「種々の材料を集め」、出版物を「作り上げる」こと、辞書的な意味に従うならば、それが「編集」という仕事ということになる。

しかし、実際には「編集」という言葉は曖昧な意味で用いられることが多い。
たとえばパソコンで「記事を編集しますか?」と聞かれれば、直接文字や文章を修正する行為を指す。もちろんこのような作業も「編集」には含まれるのだが、あくまで「編集」という実務の一作業であって、これ即ち「編集」の仕事とイコールいうわけではない。
さらにいえば、現代の「編集」作業というのは、何も「書籍・雑誌・新聞など」の活字媒体に限られたことではない。楽曲をデジタルマシンで「編集」する人もいれば、コンピューターのプログラムそのものを「編集」する人もいる。
このように、一概に「編集」といっても、実はさまざまな場面で、さまざまな意味合いで用いられる。「編集」とは、幅の広い意味の領域をカバーする言葉なのだ。

では「Z会中学コース」の国語科編集部は、一体どんな仕事をするところなのか?
編集部というと机の上に原稿がドサっと積まれていて、席に座った人間が額に汗を浮かべながらひたすら読んでいく、そんな光景を思い浮かべる人もいるのかもしれない。もちろん、編集部の仕事としてそのような一面があるのは確かである。事実、僕の机の上には常に原稿が積まれているのだから。
あるいは、先日の日記にもちょっと書いたが、問題を作るのが編集部というイメージを持つ人もいるかもしれない。いや、確かにそういう仕事もある。自分で文章を選んできて問題を作り、解説を書くことももちろんある。あるいは、先生方に書いていただいた原稿が教材となって中学生のもとに届くまでの作業を行なう、それもまた編集部の人間の仕事である。
しかし、それだけではない。編集部には先生方によって添削された答案をチェックしているスタッフもいる。ときには、編集部員が中学生の皆さんと直接話をするために足を運ぶこともある。ときには、教材システムを制御するパラメーターをコントロールすることもある。ときには、お客様からの電話でのお問い合わせに対応することもある……

つまり、「Z会中学コース」の国語科編集者の仕事というのは、大きく言えばこれらのさまざまな業務から得られた「種々の材料」をもとにして、今後の国語教材に活かしていく仕事、となる。
カッコイイ言葉を使うならば、得られた原稿やさまざまな情報から、次の方向を模索し、企画し、統括し、生み出していく、そんな総合的なプロデューサーということにでもなろうか。

これはよく後輩スタッフに話すことなのだが、「編集」という熟語は、昔は「編輯」と書いた。
「輯」という字はおもしろいなあと思う。車輪の真ん中に細い棒が集まっている様子を表した漢字なのだそうだが、よく見ると「車」「口」「耳」という三つの漢字が使われているのがわかるだろう。
人間の身体に車輪が付いているわけではないから、「車」は「足」ということになる。「口」は話をすること、「耳」は話を聞くことと考えれば、〈足を使って動き、いろいろな人と話をして材料を集める〉という解釈が成立するだろう。
そうして集まった材料をもとにして、次なるモノを「編む」、それが編集者の仕事ということになるだろうか。
個人的には「編む」をさらに「紡ぐ」と考えて、関係する方々と一緒に何かを紡いでいけるような仕事ができるようになれば理想だなあと、考えていたりするのだが。

「Z会」の「編集部」??
[2007年02月10日(土) ]

Z会」という名前は、ときにコアな印象を与えるのだと思う。

アルファベットのいちばん最後、26文字目にあたる「Z」には、〈究極〉とか〈超越〉といったイメージをもつ人が多いのだろう。
たとえば日産が30年以上も昔から販売している人気車に「フェアレディZ」というのがある。
なんで「Z」というアルファベットを車名につけたのか。調べてみれば、「Z」に〈最終到達点〉という意味をこめてつけたのだとか。へえ。

ときに、我が社は「車名」どころではない。「社名」そのものが「Z会」である。「Z会の通信教育」という名で語られることの多い会社である(本当は出版も塾も、社会人教育までやっているんだけど)。
しかし、「Z」という1文字を戴冠しているがゆえ、老若問わず「オニのように難しい通信教育」というイメージをお持ちの方が多いのではないだろうか?

いや、確かに「Z会」は難しかった、と思う。といえるのも、実は僕は中学生のときから「Z会」の通信教育を受講していた(ただし、提出は……できなかった:笑)からだ。
Z会」? 最初に耳にしたときには宗教的な集団かと思った。いや、夜になると暗躍しはじめる怪盗集団じゃないか。あるいは、思想的に極端に左右にフレた秘密結社じゃないかしらん、とか。
そして、問題を解いてみると……何コレ、難しすぎる。助けてくれ。ええい、逃げてしまえ。挫折。机の中に繁殖していく白い悪魔。ダメだ、オレにZレベルは遠すぎる……となってしまったのである。

いや、実際に「Z会」は、僕が子どものころよりもっと前から、「難しい」とか「スパルタ」というイメージがあったにちがいない。
何せ昭和40年台の雑誌広告のコピーは「月明下の猛ノック」だったそうである。目に浮かぶのはこんなシーンか。

「ぜ、Z監督、オレにガンガンノックしてきてください!!」
「そうか。ではいくぞ! 英国数社理うりゃうりゃカーンカーンカーン!!」
「バキッ!……ま、まだまだ……ウッ!」
「何だ何だそのザマは! 貴様は国語も取れんのか! ばかもん!」
「も、もっとお願いします、監と、く……(バタッ)」

うーむ……想像するだに恐ろしい。
これじゃまるで『巨人の星』の飛雄馬と一徹じゃあないの。

そんなイメージをもたれがちな「Z会」の、こともあろうに「編集部」なのである。一体どんなおっかない人が教材作ってるのさ? となるわけだ。
たとえば、何かの折に僕が「Z会中学コース国語担当」と書かれた名刺を差し出す。そこに書かれた肩書きを見て、過去の「Z会」を知る方は一瞬ひきつった顔をなさることがある。

「あなたが……本当にあのZ会の問題を作ってるんですか?」
「ええ、まあ……そうなりますかねえ」

では、本当のところ、中学コースの編集部は、いったいどんな雰囲気なのだろうか?
縁あって「Z会」に入社してから、もうすぐ8年の歳月が流れようとしている。その間、僕はずっと中学国語教材の編集部に在籍している。
8年間を思い返して結論を出すと、次のようになる。

「ふつう」である。

いや、僕も「Z会」の国語科に配属が決まったときは、国語マシンのような御大がガシガシと軋みをたてながら徘徊していて、「何じゃ! 貴様そんなこともわからんのかボケ!」などと怒鳴り散らすようなイメージを編集部に持っていた。
「あのZ会の国語科編集部」――うれしさの一方で、怖さもあった。
でも、いざ配属されてみたら、少なくともちゃんと人間が仕事してました。
存外明るい雰囲気である。笑いもちゃんと起きる。もちろん、仕事はちゃんとやる。
強いて特徴を挙げるとすれば、女性が多いことくらいかなあ。現在の中学コース編集部の国語科で、男は実は僕だけである。
みなさんが「Z」から抱くようなおっかないイメージは、ない。

ちなみに、「Z会」という名称は、旧社名が「増進会出版社」であることに由来する。
「増進会」、英語で書けば、「ZOSHINKAI」。
その頭文字「Z」を取って、会員さんが自然発生的に「Z会」と呼び始め、定着したのだそうな。
そんな「Z会中学コース編集部」の、あまりコワくない日常の片すみを、これから綴っていければいいかなあなどと、思っています。どうぞよろしく。

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