小学生Blog TOP  | 中学生Blog TOP  | 高校生Blog TOP  | 大学生・社会人Blog TOP
 

元中学コース編集部 繊粒庵ぽん吉

元中学コース編集部員から、日々の生活・考えたことをあなたに

     
往復書簡
[2007年06月06日(水) ]

またまたのご無沙汰。なかなか「これは書きたい!」と思って書けるネタがなくて、いつも間隔が空いてしまう。
書ける人にとってはブログってのは正直に、毎日さらさらと書けるものらしい。そのような人は、おそらく心根の素直な、よい人なのだろうと思う。

然るに、素直に書けないのは、自分の心性が悪だから、悪だと思っているからじゃないかなと考えてみる。自分の内なる悪が過剰に認識されちゃうから、素直になることを極力避けようとする。そんな悪を心の中にしまってコミュニケーションを計ってこそ、見えてくるものもまたあったりする。
つらいけど、仮面は仮面で大事なんだよな、と今は思っている。不思議なことに、例年6月という時期になると、「素直になるとはどういうことか?」「本当の自分とは何か?」という命題を突きつけられることが、なぜか多い。

じゃ、いっそ素直に自分の内面を吐露しちゃったらどうなるか……書けば書くほど自分という人間の品性が疑われるようなことばかり書いちゃいそうだよなあ、俺。
ましてこの場は会社の日記。一応は肩に力が入る。業務日報よろしく会社の日常をそのまま書きでもすれば更新も頻繁になりよろしいのかもしれないが、仕事ってのは口外できないこともたくさんあるからね。

と、ちょっと素直な(?)前置きを書きながら久々の記事を書くのは、今日は伝えたいなと思うことができたからだ。

国語教材の編集をしていた頃の話。僕は詩の出典を選ぶのが好きだった。素直に驚きや感動を得やすかったからかもしれない。「これは中学生にも読んでもらいたい!」そんなふうに思った詩があれば、今度は問題として使用できないかを検討する。
問題文として使用するためには、どこに傍線を引け、どんな問いが準備できるかを考えなくてはならない。とくに、詩の場合は一定の解釈が成立しないことも多い。詩を読んでどんな感想を持つのかは、その人の感性に任せて自由でよいはずだ、という考え方もある。だから詩の問題を作るというのは、なかなか難しい作業であると同時に、作者の方の意に反する解釈をしかねない、もっと言えば創作の意に反する存在そのものになりかねない罪な作業でもあると僕は思っている。
そして、作問と同時に、必ずしなくてはならないことがある。その作品を書いた詩人の方に、「Z会の教材で使用してもよいですか?」と了解をとらなくてはならない。いわゆる著作権の申請だ。

今から4年前のこと。中学コースの教材で、ある詩人の方の作品を使用させていただいたことがある。事情があり、この場で詩人の方のお名前・作品名は出せない。仮にお名前をKさんとしておこう。この詩を読んだとき、僕は「これは中学生に読んでもらいたい!」と思った。驚きと優しさに溢れた、ビビっとくる詩だった。
さっそくKさんに連絡をとってもらった。返事はOKだった。

その1年後くらいだったと思う。Kさんから1冊の詩集とお手紙が送られてきた。1篇の詩をこちらから使わせていただいただけなのに……なんと丁寧な方だろう。
実はこのとき、僕は最初にこの詩の存在を教えてくれたある先生と仲たがいしてしまっていた。この詩をめぐる、解釈の違いが発端だった。お詫びの意味も込めて、Kさんから送られてきた詩集を先生にお送りした。Kさんには、直筆で御礼のお返事を書いた。

Kさんから次の詩集が届いたのは、それからまた2年が経った去年のことだ。
「その時のあて先に詩集を送っても、もう、そこにはおみえにならないかなあ、と思っていますが」「無事届きますように」手紙にはそう書かれていた。
こげ茶色の上品な装丁に包まれた紙の一枚一枚に、「瑞」を感じさせるKさんらしい優しい作品が散りばめられていた。
あまりにうれしくて、国語科編集部内で詩集を回覧した。収録された詩を読んで涙ぐんだというスタッフ、お昼休みに熟読したというスタッフ。みんなKさんの詩が大好きだった。
この詩集は、僕がいただいた。会社からの帰り道、家の側のカレー屋で一読した。1篇めの作品の静寂さに、さっそく涙がたまった。
実は今日も、僕の枕もとにこの詩集がある。ごまかしながらとりあえず密度だけを埋めていく日常。そこから立ち止まって、自分を見直してみないとって思ったとき、Kさんの詩集を開き、どこか1篇を読んでみる。ときには涙をこぼす。

不義理とはこういうことを言うのだろう。
僕はこの詩集をいただいたとき、これは是が非でも読後の感想をKさんにお送りしなくては、と思っていた。手書きで、直筆で、職場ではなく自宅で、感想を書かなくてはと思った。
しかし、今に至るまで、実は一向にお返事を差し上げていないのだ。

国語の編集担当を引退して、3ヶ月以上が過ぎた。
新しい仕事は楽しい。しかし、編集とはまったく別次元の仕事をするために、あえて自分の中から懸命に捨てようとしてきた過去があるのも事実だ。国語時代に得てきた文学性や、感性。読書も一切しなくなってしまった。これらによって今の僕が形づくられていることは紛れもない事実である限り、完全に捨て切れるようなものでもないのだけれど、それでも変わらなきゃ、そんな焦燥感があったことは、否定できない。
そんな折、昨日のことだった。
なんとKさんから、3冊目の本が届いたのだ。

「しばらくは、もう、本をつくることもないと思うので、『わっ、また来た!』と怖がらないで、受けとってくださいね。」

ブルーブラックのインクにやや丸い文字。一目でKさんからだとわかる温かいお手紙。
薄い水色の上品な装丁。今回は詩集ではない。ある詩人の方との往復書簡をまとめたものだった。
Kさんは「ささやかながら発信したい、と思うことが自分にあってこの本をつくりました」とおっしゃっていた。
往復書簡という懐かしい響き。僕は中学〜大学までずっと手紙を書くのが趣味だった。大学時代、クラスのある女の子と手紙のやり取りをしていた。本やCDの貸し借りと一緒に、必ず3、4枚のお手紙をしたためた。相手も相手、僕よりもずっと筆まめで、字の丁寧な人だった。文字にしてやっと打ち明けられる懊悩もあった。手紙同士でケンカしたこともあった。そんな過去があって、口下手が文章で何とかカバーできる今の僕がいるのだろう。

「ほんとうに、いいの? あなたは捨てちゃって、いいの?」

Kさんに、そう問い掛けられているようで、何だかとても恥ずかしくなった。
昨年いただいた詩集の感想を未だに送れずにいる不義理な自分が察せられているようでもあり、ますます恥ずかしくなった。

ページはまだ開いていない。今晩ゆっくり、作品に向かってみようと思っている。Kさんが「発信したい」と思ったのは、どんなことなのだろうか。そして、「しばらくは、もう、本をつくることもないと思うので」という手紙の一節が、妙に心に引っかかっている。
そして今回こそは、お手紙を書かなくては、と思う。まだ見ぬ詩人、Kさんに――。

十島村の中学生へ!
[2007年05月22日(火) ]

いやー、またまたご無沙汰である。え、生きてたのかって? まあ、そう簡単には死にやしませんので、ご安心を。単に不精なだけですから。
何度か「今日こそ更新を!」と思ったのだが、ネタも浮かばず、忘れてそのまま帰宅を繰り返し、このザマだ。

まずは、ちょっとだけ宣伝でも。企業連合「エコネットみなまた」発行の「かづら」90号に、「水俣訪問記」という僕の文章が1Pほど掲載されてます。下記のページから甘夏なぞを注文すると、付録としてついてくる……はず。

http://homepage2.nifty.com/-kokage-/suzuran/hannouren.htm

実は上記のページに登場する水俣市の大沢さん宅で、僕は何度か農作業のお手伝いをさせてもらっています。無農薬の甘夏は、本当においしいんですよ。とくに収穫のあとの味は格別です。
過去の惨事に対して目を背けることなく、できることから地道に、正直に努力を続けていこうという水俣の農業の姿勢には、心打たれるものがあります。「見るべきところを」「きちんと見て」「行動する」、3つがきちんとできているなあと。過去を反省して行動することで、未来はよくなっていくはず。生産者のみなさんの姿勢には尊敬の念を送りたいです。

それはさておき……と。

近況でも。自宅から歩いて3分のところに、遅い時間まで営業しているスタジオを発見した。これなら遅い時間に帰っても練習できるって訳だ。そんなこんなで、先週はドラム三昧。打つべし! 打つべし! ってなテンションで、深夜の0時までドラムを叩いたりしていた。
ところが日曜日、バンドの音合わせの際に耳が「キーン」と。クラッシュシンバルの音がモロに右耳を直撃しちゃったみたいで、以来「ゴーッ」というクーラーのような音が右耳に響き続ける。今日になってだいぶよくなってきたのだが、昨日までは平衡感覚が欠如気味で、フラフラと。
しかしまあ、数年前には突発性難聴に罹ったこともあるし、耳の不具合にはもう慣れてきたな……平衡感覚がなくなっても、昼間から職場で酔っ払っているようで、何だか不思議な気分だ。この調子ならオレは「酔拳」でも使えるんじゃないかと(※ちなみに、中国の「酔拳」は実際にお酒を飲んで闘うのではないらしいです。へーっ)。あ、ハイ、仕事しますけど。

ところで、先日Z会の中学コースを受講してくれている人はどんなところに住んでいるのだろうと調査していて、驚いた。
市区町村別の比率の上位を眺めていると、そこに「鹿児島県十島村」の名前があったからだ。

うれしいな……実は僕は去年の春に、十島村を訪れている。
十島村っていうのは、実は日本で最も細長い村なのだ。それもそのはず。この村は屋久島と奄美大島の間、東シナ海に浮かぶ12の島から構成されているからだ。
この島々を「トカラ列島」と呼ぶ。12の島のうち、有人島は7つ。村民は660人余り(平成16年調査より)。最も人口の多い中ノ島で167人、最も人口の少ない小宝島では43人の島民が暮らしている。
僕が去年訪れたのはこの7つの有人島の1つ、悪石島。以前からその名前に引かれていて、死ぬまでに一度は足を運んでみたかったのだ。鹿児島から週に2便しかないフェリーに揺られること11時間余り、ようやく着いた悪石島は海に囲まれた険しい島だった。本屋はおろか、商店すら1件もない。つまり何もない。携帯電話も圏外(ただし、ドコモは電波が入る)。それでも人口わずか70人余りのこの島には、厳しくもあり、優しくもある本当の自然があったと思う。「秘境トカラ」――そのキャッチコピーのとおりだった。4日間お世話になった民宿の83歳のおばあちゃん……島のいろんな話を聞かせてくれたっけ。元気かなあ。また会いたいなあ。

そんな十島村の島々に、Z会の中学コースを受講してくれている中学生がいる! なんてうれしいんだろう、と。
郵便物だって週に2便しかないフェリーで届けるしかないのだ。そのフェリーに乗って、Z会の教材が運ばれて、島に住む中学生に届いているんだよね。そして、一生懸命解いた答案がポストに入れられて、またフェリーで運ばれて、添削されて、またフェリーに乗って島に着いて……
都会とは違って、塾がそこいらにあるわけではない。本屋すらないから参考書もなかなか買えないだろう。そんな島の中学生が、Z会の中学コースで勉強してくれている。

十島村だけではないんだよね。北海道の十勝岳の麓の小さな温泉地に住んでいる中学生もいる。日本海に面した小さな村の中学生がたくさん受講してくれていたりする。
個人情報保護法の関係で具体的なことは書けないのだけれど、僕はそんなみんなに
「○○都道府県××市区町村の中学生のみんな、Z会を受講してくれてありがとう! オレもがんばってるよ。君たちもがんばれ!」
って声をかけたくなった。

通信教育のよさって、こんなところにあるのかもしれないね。
とっても広い範囲で、自分たちの作った教材を使ってくれている人がいる。黙々とデスクで検討していた国語の問題が、日本全国の中学生のもとに飛んでいく。
そのスケールの大きさを実感するとき、編集部ってすごい仕事をしていたんだなあと、改めて過去の自分の責任の重さを痛感せざるを得ないのだった。

合格者の一言カードを見て
[2007年05月05日(土) ]

最近は珍しく更新ペースが速い。一念発起、心を入れ替えてこれからは毎日更新!……ってわけでもないのだけれど、今日はちょっと伝えたいことがあったので。

Z会中学コースでは、毎年「受験後一言カード」というものを、入試を終えた会員さんから送っていただいている。届いたカードは編集部内にも回覧されるのだが、実はこの喜びの声が、僕にとっては何よりもうれしかったりするんだよね。
会員さんが志望校に合格したという報告を目にしたとき、それまでに行なってきた仕事での苦労が少し報われたような気がするのだ。もちろん、実際に努力したのは中学生のみんな自身。でも、目標の実現に少しだけでもZ会が手助けできたのであれば、それは何よりの喜びだったりするのだ。

今年もたくさんの一言カードが届けられた。僕はすでに編集部員ではないけれど、やはり以前まで担当していた国語・作文教材に関する感謝のコメントが見つかると、素直にうれしくなってしまう。
今年は結構的中問題が多かったみたいだ。「Z会で直前にやった問題文がそのまま出題された」「Z会でみっちり練習した文がそのまま入試に出た」「私立入試でまったく同じ古文の文章が出題されていた」「作文で同じような課題が出題された」などなどの声が、例年に比べてかなり多いなあと思う。島根県では古文の問題文が的中したのかな? どの教材で使用したどの問題文が、どの高校の入試で出題されたのかまですべて調査されているわけではないのだけれど、元国語科編集部のメンバーとして、的中という事実によって中学生のみんなのお役に立てたのだったらうれしいですね。

でも、「的中」という事実は、僕たちZ会のスタッフが「読んでもらいたいな」と思って教材で出題した文章について、学校の先生方も同じく「読んでもらいたい」と思ったから入試に出たという結果として、引き起こされるものでありたいなと思う。僕たちは別に、入試問題を「的中させる」ために問題を作っているのではない。Z会の中学国語科の編集部員っていうのは、正直すぎるくらい「中学生に読んでもらいたいからこの文章を出題したい」という思いが強い。そしてそれは、中学・高校の先生方でも同じだと思うんだよね。中学生のみんなが、読んで何かを考えさせられる可能性があるから、大事な何かを発見できるかもしれないから、つまりは人間的な成長を考えた結果、起こされる事実なのだと思う。僕は8年間、毎年公立高校の国語入試問題の分析をしてきたのだけれど、入試の問題文っておもしろいんだよね。入試というのは通過儀礼に過ぎないけれど、でもせっかくの通過儀礼でもあるんだ。だったらいい作品・いい文章を紹介したいよね。「そういや入試であんな文章が出たっけ」とふと思い出して、本屋さんで文庫本を手にとってみたっていいじゃないか。
もちろん、これは高校入試に限ったことじゃない。一貫校生対象のコースで出題している問題文も思いは変わらない。学校で実施されている模擬試験だって、思いは変わりません。

今年中学3年生のみんなも、来年のはじめには高校入試を迎える。ぜひ志望校に合格して、喜びのコメントをZ会のスタッフに送ってもらいたいなって思います。その感動の一言を楽しみに、僕たちは仕事をしているのだから。合格って、いいもんだよ。

ホスト、デイトレ、そしていま
[2007年05月02日(水) ]

世の中はゴールデンウィーク中。昨日・今日と会社をお休みして、海外などへ足を運んでいる人も多いのだろう。
Z会はゴールデンウィークでも営業している。ゴールデンウィークだからといって、会員さんからの質問を受け付けないわけにはいかないからね。職場は今日も社員で溢れている。せっかくなので、質問の電話でもかけてくださいな。

バンドメンバーと、さらに新しい曲をコピーしてみることになった。MR.BIGの「Green-tinted Sixties Mind」。コレも懐かしい曲だなあ……MTV世代、この曲のビデオクリップもよく見たっけ。当時はあまりMR.BIGって好きじゃなかったんだけど、実際に叩いてみる側となった今、もう一度聴いてみたらまた違う感覚が味わえるかもしれないなと思う。読書も同じかもしれない。中学生のときに学校の課題図書で読まされて途中で挫折した有島武郎の「生れ出づる悩み」を、大学生のときにもう一度読んでみたら、えらく感動した憶えがある。
しかし、最近ドラムの練習サボリがちなんだよね……ヤバいな、早くスタジオ入らないと。

以前一緒のクラスでドラムのレッスンを受けていたYくんという友達がいる。
僕より干支で1回り下の22歳。そんな彼から久しぶりに電話をもらったのは、2週間前の夜のことだった。
「今度F社のコールセンターで働くことになったんですよ」
そうか、それはよかったね。おめでとう。会社で社員として働くのは、彼にとって初めての経験。面接で僕を採用してくれた人に感謝しながら働きたい、そう彼は言う。

22歳という年齢を見て、ああ、ちょっと前まで大学生だった新卒さんなのねと思った人もいるかもしれない。しかし、彼の場合はこれまでに歩んできた道が、そんな新卒さんとはちょっとちがう。
18歳、大学に入学してからホスト稼業に就いた。1年半のホスト稼業の間に、大学を中退している。最終的に店をやらないかと言う話もあったというのだから、だいぶ稼いでいたようだ。毎晩交わす客との杯の傍らで、昼間はスタジオにこもりドラムの練習に没頭した。実は彼から初めてそんな話を聞いたときに、ちょっと驚いた。なぜか。腰が低く物腰の柔らかい話し方、温和な表情は、ギラギラとしたホストという職のイメージとは相反していたからだ。彼はそんな好青年だった。

ホスト稼業から身をひいて、株のデイトレーダーの道へ。レッスンを辞めた彼と最後に話をしたのはこの頃だった。「親父を助けてあげたいんです」彼はそう語っていた。菓子メーカーに勤める彼の父親は、会社で格下げ人事にあっていた。元気なく家に帰ってくる父親の口からは、愚痴ばかりが出てきた。給料もかなり減らされ、生活も厳しくなったという。住宅ローンもまだ残っている。何不自由なく高校・大学まで行かせてくれた家族、自由にさせてくれていた家族に、恩返しをしたい。だから、稼がないと。

最初は夢に溢れていたデイトレーダーの道も、次第に辛さを増していったという。一人暮らしで生計を立ててきたくらいだ。それなりに株では勝っていた。家にもきちんとお金を入れていたという。しかし、パソコンから一瞬目を離せば、+100万円が-100万円へと変動している世界。毎日の結果に一喜一憂し、それが生活に直結する。次第に心がおかしくなってきた。身体も壊した。人との接触を取らなくなり、実は半分引きこもりになっていたという。
これじゃヤバい、そう思って深夜コンビニのバイトで働き始めた。定収があるということがどんなに素晴らしいことか。そして本格的に仕事を探し始めた。

久しぶりに電話をくれたとき、彼は僕にこんなことを言った。
「定収もない僕がぽん吉さんに連絡取るのは、失礼だって思ってたんです。でも、今回やっとちゃんと仕事が決まったから」

新横浜の立ち飲み屋で、2年ぶりの再会。彼は相変わらず、親思いで礼儀正しい好青年だった。親父さんの近況も久しぶりに聞かせてくれた。適度に距離をとりながら、うまくやってますよ。会社は相変わらずみたいですね……いつか喜ばせてあげたいです。そう語った。
新しい職場はどうなの?
「自分が入社したその日、一人で昼ご飯を食べてたら、責任者の人がわざわざ僕の席まで挨拶に来てくれたんです。君か、期待してるよ、と声をかけてもらいました。それが何だかうれしくて。」
今は会社に行ってお金をもらえる。収入は今までよりも少ないのかもしれない。
でも、そんな安心感のほうが、今の彼にとっては貴重なのだ。
「もうああいう暮らしは、ゴメンですね。堅く生きます」

将来的には経理の仕事に就きたいと彼は言う。株の取引で学んだ知識を生かして、企業財務にかかわる仕事をしたい。そのために、今は簿記の勉強もしている。
「今は僕のほうがドラム、すっかり叩いてないですよ。バンドも解散しちゃったし」彼は笑った。
彼には高校時代から6年間交際している彼女がいる。
「結婚してほしいって、向こうの両親にも言われてるんですけどね。まあ、しばらく経ったら落ち着きます」
34歳にしていまだ独身の僕に比べれば、何と立派で親孝行なことか……

いいじゃないね、紆余曲折があって。
若いときなんて、遊んでたっていいと思う。遊んでないヤツより、いろんな人の気持ちがわかる。さもわかったような顔をして、人について偉そうにモノを言っているヤツのほうが、よほど厄介だ。
紆余曲折の間に得た知識だって、馬鹿にはならないさ。酸いも甘いも噛み締めてきた強さ。それが謙虚さというひとつの形に結実したとき、彼のような表情になるのかもしれない。
穏やかな口ぶりの彼なら、いざとなれば営業だってできるだろう。ホスト時代の経験だって、決して無駄にはなっていないさ。

別れ際、彼は僕に手を差し出した。
「前にぽん吉さんと飲みに行ったとき、最後にこうして握手したのをよく覚えてるんですよ」
そうだっけな……オレ、すでに忘れてるな。でも、彼が言うんだからそうなんだろう。
手と手を通じて伝わる2年間の重み。彼の生きてきた、証。
「おう。お互いに、がんばろうな」
そう声をかけて、夜の地下鉄への階段を降りていった。

僕の中学受験
[2007年04月27日(金) ]

今月3回目の更新。相変わらず亀の歩みのように、見事な更新の遅さである。

最近は中学受験を経験した保護者の方からお話を伺うことが多かった。実は僕も中学受験経験者である。でも、話を聞いていると今の中学受験って、自分の頃よりも大変だなあと思う。
僕の頃などはクラスで中学受験組みは2、3人。まだまだ少人数で、ときには先生や周りからは変な目で見られることも多かった。しかし、今ではクラスの半数以上が中学受験をする小学校などもあるのだという。塾通いも、僕は5年生の夏前くらいからだったが、今の小学生は3年生や4年生から。さらに習い事も何かしていないと、という家庭が多い。

そんな折、ふと僕が小学校に通っていたときの塾のことを思い出した。

僕の通っていた塾は、家から自転車で5分くらいのところだった。当時から大手塾はあったのだが、通うには電車に乗らなくてはいけない。そこまでして通うのはイヤだなあ。そこで通い始めたのが小さな地元塾。商店街からちょっと路地を入ったところにある雑居ビルの2階だった。
僕が5年生で入塾したとき、クラスの生徒は7人くらいいた。全員が中学受験組。しかし、同じ小学校の友達がいたわけではない。だから最初はやたらと緊張した覚えがある。
それでも、先生方が授業でクラスの雰囲気を作っていくうちに、次第に塾の雰囲気に馴染んでいった。先生は元気で明るい人が多かった。しかし、単に元気で明るいだけではない。当時はまだ体罰も当たり前の時代だった。宿題を忘れれば竹刀が飛んでくる。クラスがうるさいと、先生が突然こめかみに青い線を浮かべて怒鳴る。投げられたチョークが耳をかすめる。それでも、当時はやりすぎだろうっていう感覚はなかったな。実は小学校の先生は往復ビンタやらケツバットやらで、もっと酷かったのだ。
今思えば、塾の先生の中には大学生もいたのだろう。でも、小学生の僕にとっては、みんな随分と年齢が上の人たちに感じたものだ。

小学校6年生になると、クラスのほとんどが大手塾へと移ってしまった。残された生徒は僕ともう1人だけ。突然授業に活気がなくなっていった。それでもこの塾をやめたいなあとは思わなかった。先生がとてもかわいがってくれたし、成績も上がっていた。中学生の先輩もよくしてくれた。なんの不満もなかった。
たまに先生に弁当やタバコを買いに行かされたこともあった。お釣りはお駄賃としてもらえるのだ。小学校にはないそんな近さも、僕にとっては小学校よりも塾のほうが好きだった原因だったと思う。
授業も室長と呼ばれる責任ある立場の先生が教えてくれた。なかなか厳しい授業で、当時から算数が苦手だった僕は四苦八苦していた。人数が少ないのに、先生は一生懸命教えてくれている。伸び悩んでいる僕を見かねて、別の先生が「一緒に勉強しよう」と正月まで教室を開けてくれた。他には誰もいない教員室。ストーブの石油の匂い。薬缶の湯気。そんな空間で、先生と僕は入試の過去問を解いていた。

先日、ある保護者の方から「勉強マシンを育成するのではなく、人間的な部分を育ててくれる塾がいいですね」という意見を伺った。なるほど、おっしゃるとおりだ。
考えてみれば、僕はこの塾で人間としてしてはいけないことも学んだと思う。
途中から入ってきた、きざな生徒にいやがらせをしたことがある。そのとき、先生は本気で僕を殴った。確か家に帰らされたような気がする。また、今となっては詳しくは思い出せないが、入試前に僕は塾のある生徒の志望校や成績をしつこく問いただそうとした覚えもある。このときも塾の先生は、僕に人間として怒った。「オマエらしくない」と連絡ノートに書かれた覚えがある。勉強以前の「してはいけないこと」に対して、断固として怒る先生が多かった。

2/1、第一志望校の入試があった。入試が終わり、塾へと向かった。先生と一緒に採点してみる。算数を除く3教科は8、9割得点できている。しかし、やはり苦手な算数は半分できているかどうか。微妙なところだな……先生たちの表情に、不安の色が浮かんでいた。あとは結果を待つしかないか。
2/3、第二志望校の入試。この日の試験中に第一志望校の合格発表があった。合格発表は両親が見に行くことになっていた。
試験が終わり、両親と待ち合わせした。結果は、合格だった。よかった。その足で塾へと向かい、報告をした。僕の顔を見るや、塾長は受付の廊下で大泣きした。
家に帰ると、一通の電報が届いていた。正月に教室を開け、授業料も取らずに教えてくれたあの先生からだった。
「ゴウカクオメデトウ コレカラモガンバレ」そう記されていた。
送信された時間を見ると、まさに合格発表の直後だった。あとから聞けば、いてもたってもいられずに、直接掲示板を確認しに行ったのだという。

中学校になってからも、たまに塾へ遊びに行った。中学生の先輩がかわいがってくれた。しかし、結局公立には進まなかった僕は、やはり生意気なヤツに映るのだろう。そんな理由から、次第に思い出の詰まった塾から、足が遠のいていった。
あれは確か中3のときだ。学校からの帰り道、久しぶりに先生達に会いたくなり、僕は塾へと足を運んでみた。商店街から路地を曲がる。そこで見た光景に……僕は愕然とした。

「カラオケ トマトクラブ」

そう書かれた赤い看板が、入り口に立っていた。
僕の通っていた塾は、もうそこにはなかったのだ。
小さな塾だった。名前だけはでっかく「開成予備校」だったが、実際に開成中学に入学できる生徒など、誰もいなかった。近所の評判も決してよくなかった。それでも僕は……この塾が好きだった。

あの先生方は、その後どうしたのだろうか。
大学3年、就職活動をこれからするという段になり、オレって何をしたいんだろうなあと考えた。就職ガイドをめくるだけはめくった。
美辞麗句ばっか並べやがって、どこもツマラなそうだなあ。マジメくさってサラリーマンかあ、何かいやだねえ。
あ、そういえばオレ、昔は塾の先生好きだったよなあ。だったら塾の会社でも受けてみるか。いちおうZ会が第一志望だけど。

卒業して3年間、僕が塾の教室で生徒を教えることになったのは、間違いなくあの先生方がいたからなのである。

8年前、北国の4月
[2007年04月14日(土) ]

またまた久しぶりの更新となってしまった。そのうち担当のシモムラさんに怒られちゃうかな?

4月も半ばとなり、関東地方では枝に残る桜の花も少なくなった。中学生のみなさんも、新学年が始まって一週間、だいぶ肩の力が抜けてきたのではないか。
今年はあまり桜の花を愛でなかったなと思う。会社からの帰路、近所の夜桜に妖艶な美しさは感じたが、立ち止まって見上げるほどではなかった。そういえば昨年は屋形船を借りて大岡川を上った。風の強い日で、満開だった桜がいっせいに川面へと散った。あの桜吹雪の姿は、今でも印象深く脳裏に刻まれている。

そうだ、あれは今から8年前の4月のことだった。会社へと向かう地下鉄のなかで目をつぶりながら、Z会に入社する前のある事件を思い出していた。

僕はZ会に入社する前に、東北のある県で塾の先生をしていた。実はZ会に途中から入社したのも極めて偶然である(そのことについては気が向いたらそのうち書こうと思う)。前の塾を辞めてからすぐにZ会に入社したわけではない。そこに人生の空白期間とでも言うべき、3ヶ月間というブランクがある。
何をしていたのか。まず、Z会の添削指導員をしていた。LAという、今で言えば大学受験コースのスーパーハイレベルにあたる国語の添削を担当していた。東大京大の志望者の多いコースで、記述問題の割合も高い。締め切りの前日は当たり前のように徹夜である。いや、締め切り間際にならないとエンジンのかからない自分が悪かったのだが。
しかし、その他に何か働いていたのかというと、実は何もしていない。簡単に言えばブラブラしてたのだ。当時は毎日病院に行かなくちゃいけなかった。僕は体中にカサブタができるという原因不明の不思議な病気に罹っていて、午前中は病院へ行き、注射を打たなくちゃいけなかった。左腕の筋肉を、毎日注射針で刺す。慣れというのは怖いもので、最初は痛かった注射も、そのうち何も感じないほどになった。「一生治らない可能性が高い」そう医者に言われたあの病気が、今ではほとんど治ってしまったのは幸運だったと思う。
病院を出た後は、取り立ててすることもない。ブラブラとパチンコ屋を覗いてまわったり、本屋で立ち読みをしたりして、一日が過ぎていく。
北国の4月。夕暮れ時。みぞれ混じりの冷たい雨が降っていた。胸に迫る孤独の恐怖に耐えながら、あの日僕は一人、近所の大衆割烹の店に入ったのだった。

Z会ではつい最近まで「国語担当」などという肩書きになっていたけれど、塾では講習会の時を除いて英語を教えていた(ちなみに取得した教員免許は、これまたなぜか社会である)。塾を辞めた年、僕はある中3生のクラスを担当していた。公立高校のトップ校を目指すという上位クラスだったのだが、この年の生徒は例年に比べて学力が伸び悩んでいた。それでも、性格はとても素直で純朴ないいヤツが多かったのだ。人間性だけを見れば、3年の間に担当したクラスの中でいちばん優れていたと思う。ほとんどの生徒が予習も欠かさずにやってきた。黒板の板書も一生懸命ノートに写した。授業が終わってからは、ふざけすぎない程度の明るさと人懐っこさを発揮した。僕はこのクラスを担当するのが好きだった。と同時に、何とか力になってあげたいとも思っていた。
しかし、現実というのは厳しい。12月、1月、入試が近づいても成績はなかなか上がってこない。トップ校に挑戦させるのが危険、そんな生徒が多かった。「あいつらホント、バカだな」別の上位クラスから移動して講習会だけを担当したある数学の責任者が、教員室で吐き捨てた。よくそんな言葉が吐けるものだ。高い月謝を払い、予習もし、ノートもとる。そんな生徒の成績が伸びないのは、ひとえに塾の指導内容、先生の力量がないからである。最初から成績のよい生徒を預かって合格させるのは簡単だろう。あんたのクラスとはちがうが、こういう生徒に合格できる力をつけてやることこそが塾の力量、法外な月謝をいただいているということの意味ではないのか?

そんな折、クラスのWという女の子が塾を辞めていった。中3の4月から通学してきた生徒だった。Wの母親にはよく怒られたものだ。どうして成績が上がらないんだ、何のために月謝を払ってるんだ、トップ校に行けないんなら通わせてる意味がない――保護者面談では同じことを1時間ほど繰り返された。そんなWの母親が、1月になり電話をかけてきた。志望校のレベルを下げ、2番手の女子高を受験することにしたのだと母親が電話で伝えてきたという。まさにギリギリの成績の生徒だったが、Wなら何とかなるのではという思いもあったので、残念だった。

この年の入試結果は惨憺たるものだった。広告に掲載される合格者人数というのは、講習会だけを受講した生徒もカウントされたりするもので、それ自体が塾の本当の意味での指導力を表しているとは言いがたい。合格者人数自体はこの年も前年並みだった。しかし、その内実を見れば、2年、3年という長い間通っていた生徒ほど、ボロボロと受験に失敗していた。振り返れば、彼ら、彼女らはあまりに「受身になっていた」し、「機械的にやらされることに慣れていた」と思う。それはこの塾で働き始めた1年目から、実はわかっていたことでもあったのだが。
あるクラスでは合格発表後に家出をし、東京で飛び降り自殺を図ろうとした生徒までが出た。母親が狂乱した声で電話をかけてきた。どこへ行ったのか知らないかと尋ねられても、わかりませんと言うしかなかった。
生徒たちに申し訳ない。責任と罪深さを感じた。1週間後、僕はその塾を去った。

ガラガラガラ・・・・・・店の引き戸を開ける。木のカウンターに腰掛け、熱燗とマコガレイを焼きで頼んだ。黙々とカウンターで飲んでいると、騒がしい後ろの小上がりから、ある女性がこう叫んだ。
「あれ、先生? 先生じゃないですか!」
振り返ると、そこには1月に塾を辞めたWの母親の顔があった。ヤバい人に会っちゃったな……また怒られるかな。
ところが、Wの母親は笑顔でこう言ったのだ。
「うちの娘は志望校を変更してえがったんよ。新学期最初のテスト、娘は英語は学年で1番だったー。これも先生が1年間、最後まで一生懸命英語教えてくれたからだの。」
聞いて、背負っていた罪がちょっとだけ軽くなったような気がした。

あれから8年になる。そうか、あのとき中3だった生徒たちも、今では23歳。社会人としてさまざまなフィールドで活躍しているのだろう。
彼ら彼女らに、今年の桜の花は、どう映ったのだろうか。

恐怖のヘビメタ力
[2007年04月05日(木) ]

日曜日はバンドの音合わせ。そのせいもあって、先週は仕事後に終電までスタジオにこもり練習をする日が多く、なかなかハードであった。
そのせいもあって、疲れがたまっているのかもしれない。今週はいつもに増して寝起きが悪い。ま、春だってこともあるのかもしれないけれど。

ドラムをはじめて3年が過ぎた。
それまで楽器を本格的に習った経験など皆無だったのだが、30歳を過ぎてからドラムをはじめた。昔から音楽を聴いていると、メロディよりもリズムに耳が向くのは何となくわかっていたので、やるならドラムかなあなどと思っていた。
いざはじめてみれば、これがなかなか難しい。言うまでもなく、ドラムの目的というのは、一定のリズムをキープすることにある。そのうえで、4本の手足を動かさなきゃいけない。最初はリズムのキープだけで四苦八苦だった。それがまあまあ形になってきて、ギターやベースのメンバーと合わせてみるようになり、気づいたらバンドを組んでいたというわけだ。その間、当然仕事とも両立しなくちゃいけなかったわけで、我ながらバンドを組めるまで続くとは思ってなかったよなーと実感する。

そうは言っても、他のメンバーは3年などという生半可なキャリアではない。ボーカル・ベース・ギターみんなが20年近くのキャリアを持っていたりする。時間がたっぷりあった頃に音楽に熱中していたメンバーたちに囲まれ、僕はついていくのに精一杯だったりする。課題曲のレベルの高さに四苦八苦……ま、その分、上達も早いにちがいないと勝手に解釈しているのだが。

日曜日の練習のあと、次はどんな曲をカバーしようか? などとメンバーと話をしていた。歳が近いこともあるのだが、音楽の趣向も極めて近かったりする。BON JOVI、GUNS N' ROSES、AEROSMITH……そうなんだよなー、国語担当なんて仕事をしていたけれど、実は高校生〜大学生の頃は洋楽ばかり聴いていたのだ。しかもハードロックやヘヴィーメタルといった「激しい曲」ばっかり。
英語が得意だったなどとは口が裂けても言えない。むしろ中学の頃からすでに通知表の英語の欄には赤い花が咲いているような成績だった。高校2年生の時点ですら、「S」が何で、「V」が何で、「C」や「O」が何を意味しているのかサッパリわからなかったほどだ。
ただ、言葉がわからなくとも音楽は聴けてしまうのである。詞がわからないからこそ、むしろリズムやメロディに集中できる。クサいと思える日本語の歌詞があると妙に醒めてしまうというヒネた性格の少年だった自分は、歌詞のわからないリズムやメロディによって作り出される、ギラギラしたエネルギッシュな雰囲気の世界に酔った。
それでも、耳に残る曲があると、そこから歌詞の意味を調べたくなって、英和辞典なんぞをせっせと引いてみることになる。すると……へー、こんな不謹慎な歌詞だったんだ―! と妙にうれしくなってくる(笑)ま、そりゃハードロックやヘヴィーメタルだからねえ。
たとえば僕の大好きな曲にGUNS N' ROSESの「PARADISE CITY」があるのだが、この曲のサビを日本語に直訳すれば、「連れて行ってよ楽園へ そこは草木は緑で女の子はすべてかわいい」である。楽園(PARADISE CITY)ってそんなところなのか、そりゃ素晴らしい、と(笑)

ハードロック・ヘヴィーメタルはバンド名からしてなかなか過激だ。とくにヘビメタ(ヘヴィーメタル)のほうは、ジャケットもバンド名もおどろおどろしいモノが多い。
あまりに不謹慎すぎて、おどろおどろしさを越えて失笑してしまったジャケットがあった。浪人時代、下北沢の中古CD屋で見つけた、CANCERというバンドの「TO THE GORY END」というアルバムのジャケット。これは酷かった。チープな絵で、男性の頭が後ろからカチ割られているというシロモノ。さすがにクレームがついたのだろう。しばらくして中古CD屋を見たら、ジャケットは大変おとなしいものに変わっていた。このアルバムの「TO THE GORY END」、邦訳するならば「血祭りの終焉」とでもなろうか。収録された曲もジャケットやタイトル同様に酷いものだったらしい。某雑誌の評価では、100点満点中の4点がつけられていた(つまり、「死」ってことですかね?)。バンド名の「CANCER」、邦訳すれば「癌」である。日本人のバンドで「胃ガン」とか「肺ガン」なんてバンドはいない。いても到底売れるとは思えんよなあ(笑)それでもこのCANCERなるバンド、その後に発表したアルバムはそこそこ売れたようで、「デスメタル」というコアな音楽ジャンルにおいては、なかなかの成功を収めていたようである。

そこそこメジャーなバンドでも、バンド名の語彙を調べてみれば十分に禁忌的である。4大メタルバンドと言われたバンドのうち、ANTHRAXは「炭疽菌」だし、SLAYERは「殺し屋」だ。歌詞などはもう大変である。平和主義者は目をつぶりたくなるに違いない。「disease」だの「corpse」だの「carcass」だの……いつの間にやら、ドキドキしながら英和辞典を引く習慣がついている自分がちょっとコワい。そんな地道な作業(?)のおかげで、不謹慎な英単語の知識だけは、そんじょそこいらの受験生には負けないレベルにまでキッチリ仕上がった。

ところが、ヘビメタから得たそんな英単語の知識が、振り返れば大学入試の役に立ってしまったのだから、世の中ってのはわからない。結局入学することになった某大学・某学部の入試問題では、僕がヘビメタを聴いていなかったら答えられなかったであろう問題が、2つも出題されていたのだ。1つは忘れてしまったのだが、もう1つは今でも覚えている。それは「lightning」という単語を書かせる問題だった。これ、ヘビメタの大御所で、その後アメリカでは超メジャーになってしまったMETALLICAというバンドの初期のアルバムに、「RIDE THE LIGHTNING」というアルバムがあったからこそ、意味も綴りも知っていたのだ。「RIDE THE LIGHTNING」、邦訳すれば「稲妻に乗れ」、つまり「lightning」は「稲妻・稲光」って意味なんだな。ドクロのパッチが胸に付けられたGジャンを着て試験を受けていた僕は、ニヤニヤと笑いがこみ上げてくるのを止めるのに必死だった。
かくして予備校の模試の合格可能性に「D」やら「E」やらという評価がつけられていた大学に、僕は「怒涛の英語力」でも「脅威の速読力」でもない、「恐怖のヘビメタ力」でもって合格してしまったのであった。

ツギハカンナイ
[2007年03月31日(土) ]

昨日は横浜スタジアムでプロ野球・セ・リーグの開幕戦を観戦。横浜の下町に住んでいる自分としては、地元の球団も応援しないとなー、と。
この日を待ち望んでいた野球ファンも多かったのだろう。外野席は立ち見も出るほどの大入りだった。
最近はドーム球場が増えたけれど、僕はやはり屋外の球場が好きだ。自然の風が吹く。ナイターの観戦であれば、きちんとした影ができる。音の響き方が違う。悪天候のときは観戦する側も大変だし、スケジュールも主催者側の思ったとおりにはならない。それでも、空が見えることの開放感に、代えがたい魅力を感じるのだ。

その帰り道、ふと、浪人時代に予備校の英語の先生から聞いたこんな話を思い出した。

横浜スタジアムの最寄り駅は、JR京浜東北線・市営地下鉄線の関内(かんない)という駅である。あるとき、京浜東北線に乗っていた外国人が、関内駅の手前で突然怒り出したのだそうだ。
事情を聞けば、どうやら車掌のアナウンスに対して頭にきたのだと言う。日本の車掌は何て無責任で不親切なのだ、そんな趣旨らしい。

では、車掌はどんなアナウンスをしたのか?
電車が前の駅・桜木町駅を出発し、関内駅へと向かう。次の駅をアナウンスするのだから、車掌は当然こう言うはずである。

「次は関内です」

このセリフに対して外国人が怒ったのは何故なのか? まずはセリフをひらがなに直して考えてみよう。

「つぎはかんないです」

これでもまだ、何故怒ったのかは見えにくい。しかしここでひとつ、気がつく点があるだろう。それぞれのひらがなの発音を考えてみてほしい。「は」は助詞なので「わ」と発音することがわかる。発音どおりに直してみると……

「つぎわかんないです」

「つぎ」と「わかんないです」の間に読点を打って漢字に直してみれば……

「次、分かんないです」

つまり外国人は、乗客にアナウンスするはずの車掌が「次の駅はわかりませーん」と表明したことに対して腹を立てた、という話だ。この外国人は次の駅が「関内」という駅名であることを知らなかったのかもしれない。

日本語の助詞は、省略を見極めるのがとても難しいという。外国人に日本語を教える際に、最も苦労するのが多様な助詞の種類・使い方とその省略について説明するときだと耳にしたことがある。

日本語は古来から主語や助詞の省略が多い。古典は歴史的仮名遣いで書かれているからさらに判断が難しくなる。たとえば……

「かにはひあがる」

を何と読むか?

「かに/はひあがる」と区切れば、「ひ」は語頭以外の「はひふへほ」ということになるので「い」と読めばよいことになる。すなわち、

「蟹、這い上がる」

となる。
ところが、「は」を助詞と考え、「かには/ひあがる」と区切った場合はどうなるか? 「ひ」は語頭の「はひふへほ」ということになるから、そのまま「ひ」と発音する。これに漢字をあててみれば、

「蟹は、干上がる」

……一生懸命岩を登ろうとしていた蟹クンは、哀れにもカラカラに干からびてしまうのである。

では、このような誤った解釈をしてしまうのはなぜか。いちばん問題なのは、その1センテンス単位だけで文意を考えてしまっている点であると言うべきだろう。もちろん、文節の区切り方や助詞の省略に関する知識は大切だ。しかし、その基本を押さえた上で、前後の文脈、場面などの背景をもとに、きちんと状況に合わせた文意を解釈できるかどうかが、最も大切ということになる。
国語の読解問題でもそうである。全体を俯瞰した上で、部分を考える。ゆめゆめ、傍線部分の解釈のみを根拠に、解答を即決しないようにしたい。広い視野が大切だということになる。

浅田次郎『角筈にて』
[2007年03月26日(月) ]

最近の休日はプロ野球のオープン戦やラグビーの観戦で、スポーツ三昧といったところだ。
プロ野球はパ・リーグが先週土曜日に開幕、阪神甲子園球場ではセンバツ高校野球が行なわれており、日々熱戦が繰り広げられている。球春到来。今年も春が来たんだなあと、実感せざるを得ない。
そういえば気候もここ数日ですっかり温かくなり、桜の蕾もここ数日でだいぶ大きくなってきた。

今回は国語科編集の話も絡めながら、ある作家の紹介でもしてみようかなと思う。

国語科編集部に属する人間というのは、中学国語に関する知識について、当然ひと通り理解していなくてはならないということになる。
しかしそれでも、個々人によってとくに優れたジャンルというのはあったりするものだ。
論説文が得意なスタッフ、文学的な小説や随筆を得意とするスタッフ、古文や漢文といった古典分野を得意とするスタッフ……
もちろん、大学で専攻してきた内容も得意なジャンルには関係してくるものだが、では大学の専攻が問題作りの適性に直結するかというと、必ずしもそうではないような気がする。近現代の文学を専攻していたから小説が得意、中世文学を専攻していたから古文が得意などと、スッパリ決まるわけではない。
ちなみに、僕は哲学科の出身だ。哲学科ならば論説文に適性があるのでは? と考えそうなものだが、どちらかというと文学的文章のほうに適性があると、自分では勝手に思っている。

編集時代、今度はどんな文章を中学生に読んでもらおうかと考え、いろいろな作家の作品を読んできた。
文学というのは難しい。人間の本質に迫る内容というのは、ときにまだ発達過程にある中学生にとっては不適切なものであったりもする。だからまず考えなくてはいけないのは、中学生にとってふさわしい内容かというところだ。
その上で、この話を実際に中学生が読んだらどう感じるだろう、と思えるような問題文を選ぶ。実は僕自身、大学受験に際して読んだ国語の問題文から、自分の世界が広がってきた経験を持つ。大学進学後に濫読した宮本輝の小説だって、藤原新也の批評だって、大学受験対策の問題文として読んだ経験がなかったら、未だに手を伸ばしていなかったかもしれない。
だから、作り手として、今の中学生にとって、問題文からはじまるステキな作品との出会いがあればいいな、という気持ちが強かったのだと思う。

しかし、個人で読書をしている時は、最初から「問題文で使えるところ、ないかな?」という気持ちで作品に接しているわけではない。そもそも僕の個人的な趣向がすべて中学生の学習に適切かといわれれば、それは大違いである。
それでも、個人的な読書の場面で、時として「これは中学生に読んでもらいたい!」と思える作品に出会うことがあるのは事実。
そんな作品が見つかった翌日は、嬉々として会社にその本を持参する。設問を考える。いける。これはいける!
編集時代にいちばんうれしかったのは、実はこんなときだったりした。あの「ハマった!」という快感。

数年前、模擬試験の問題文をある作品に決めたときは、まさにこの「ハマった!」感を味わった。
使った問題文は浅田次郎の『角筈にて』。父親が子どもを置き去りにしてしまう話なのだが、子どもは自分がこれから父親と別れなくてはいけないんじゃないかと、心のなかで薄々気づいているのだ。そして、父親が去ってしまったあとも、少年は一人、父親が帰ってくると信じて、夕暮れのバス停の前で待ちつづける。舗道に蝋石で、ゼロ戦や戦艦大和を描きながら――。
この少年の心理描写、会話の端々に見られる父親への思い、比喩表現が非常に巧い作品で、何度読んでも胸が詰まってしまう作品だった。

浅田次郎という作家は、本当に“泣かせの短編”が巧い。
この『角筈にて』という作品は、映画にもなった表題作を含む『鉄道員(ぽっぽや)』(集英社文庫)という短編集に含まれている。短編集『鉄道員』にはその他にも『ラブ・レター』という泣かせの名短編が含まれていて、これ一冊で何度涙が浮かんでくるかという本だった。
もう一冊、『姫椿』(文春文庫)も読んでいてボロボロ泣いた。この作品集は内容がちょっと大人向けなのだが、「生きる」とはどういうことかということを痛切に考えさせられる短編集だ。1話目に『あじさい心中』という作品がある。この話にはすっかりやられた。今までに読んできた短編のなかでも、5本の指に入る作品で、ときについ、読み直してしまう。

不思議なのは、浅田次郎の短編を読んでいて、不意に涙を流してしまったときには、妙に自分の心がきれいになったかのような錯覚を覚えること。
それが何故なのか。日々の生活で罪意識をどこかに抱えながら、僕という「大人」が生きていることの証なのかもしれない。いや、そんなものではなく、単に厚かましい同情心が掻き立てられて流す偽善的な涙なのかもしれない。
もちろん、読む人によって、涙の意味も変わってくるにちがいない。人はそれぞれ、さまざまな経験を経ながら、年を重ねていくのだから。
いずれにしても言えるのは、その人にとってのよい作品というのは、きちんとその人の心に響く。心に楔打たれたような経験をするということなのだろう。

アイヌ語(Aynu itak)
[2007年03月19日(月) ]

久々の更新になってしまった。
部署が異動してもうすぐ3週間。出張が多くなった。いろいろな人と話をして、いろいろと考えさせられることがある、そんな日々。
快く、かつ真剣に話を聞いてくれ、意見を述べてくださる皆さんに、感謝です。

大学のとき、ちょっとだけアイヌ語を勉強したことがある。
もともと北海道の地名に興味があった。北海道には「別」や「内」「幌」が最後に付く地名が非常に多い。何故だろうと思っていたのだが、中学生くらいのときだったろうか、もともとはアイヌ語の発音に漢字を当てたものなのだと、本を読んでわかった。
そこからアイヌ語独特の発音におもしろさを感じた。北海道の文化にも興味を持つようになった。

大学生のころ、たまたま通った大学に語学研究所があり、そこでアイヌ語の講座があったので受講してみたことがある。怠け者の僕は、課題とレポートの多さゆえ、結局途中で挫折してしまったのだけれど、授業中にアイヌの踊りを踊ってみたりと、なかなか楽しい授業だった。

アイヌ語のいちばんの特徴は、文字がないことなのだ。日本語には漢字・ひらがな・カタカナという3種類の文字があり、それらを用いて紙に書けば、相手に意味を伝えることができる。
でも、アイヌ語は口承で伝えられてきた言語であるがゆえ、文字を持たない。だから、アイヌ語の発音をローマ字で表したテキストが配られることになる。僕らにとって、見た目は英語に近いということになるのだが、文の構造はむしろ日本語に近い。つまり述語が後ろに来ることになる。このあたり、英語を読むクセがあると、最初は文の意味を取るのに違和感があったりする。

どんな言語を学習するときにもそうなのかもしれないが、まず最初に学ぶのは自己紹介。英語で言うなら「My name is 〜.」だ。これをアイヌ語で表現すると、どうなるか? せっかくなのでちょっと紹介してみよう。

Kani anakne Ponkichi ku=ne.
(私はぽん吉です)

「Kani(カニ)=私」、「anakne(アナネ)=……は」、「ku=ne(ク・ネ)=です」の意味で、発音は「カニ アナネ ポンキチ クネ」となる。

あるいは、「私の名前は」で文を開始すると、

Ku=rehe anakne Ponkichi ku=ne.
(私の名前はぽん吉です)

Ku=rehe(=私の名前)で、あとは上の例文と同じ。発音は「クレヘ アナネ ポンキチ クネ」となる。

上の「ぽん吉」の部分を自分の名前にして口ずさんでみよう。そうすればアイヌ語を用いた自己紹介ができるってわけだ。佐藤ツヨシくんなら、「カニ アナネ ツヨシ サトウ クネ」のように。
ただし、1点だけ注意。上の傍線を引っ張ったところの「ク」は、強く発音せず鼻に抜けるような感じで発音するのがポイント(これを閉音節と言う。ホントは小さな「ク」を入力したかったんだけど、文字が出ないんだな……)。この強く発音しない閉音節が頻繁に登場するのも、実はアイヌ語の特徴だったりする。

先住のアイヌ民族が用いていた言語、アイヌ語。そのアイヌ語の発音に、日本人が漢字を当てて、日本の地名とした。先に紹介した「別」はアイヌ語では「pet」で「川」、「内」は「nay」で「小さな川・沢」、「幌」は「poro」で「大きい」の意味だったわけだ。
ちなみに「札幌」は「sat poro pet」(ひからびた大きい川)が語源で、「pet」が省略されて「サッポロ」となり、「札幌」という漢字が当てられたということになる。
つまり、アイヌ語の知識があり、語源がわかれば、その場所でアイヌ民族が生活していたころの地形や自然が見えてくる、ということになる。

しかしそこはもともと発音の異なる言語。これに日本の漢字を当てて表したのだから、今でも北海道には難読地名が多い。いくつかあげてみよう。全部読めますか?

@長万部
A音威子府
B倶知安
C妹背牛
D秩父別
E占冠
F興部
G足寄
H留辺蘂
I女満別

答えはこの記事の最後に。

このアイヌ語、実は現在では母語話者が10人を下回ったと言われていて、ほぼ消滅に近い言語となってしまっている。
いや、アイヌ語だけではない。世界にはその他にも、話者が減りほぼ消滅状態にある言語が、ほかにもたくさんあるのだ。
言葉はその土地の歴史・文化・自然に対する考え方や変化を反映しながら続いてきたもの。現代のグローバル・スタンダードの波のなかで、その土地固有の貴重な「多様な文化」を守ることも忘れてはいけないな、と僕は思うのだが。




























地名クイズの答え
@おしゃまんべ Aおといねっぷ Bくっちゃん Cもせうし Dちっぷべつ
Eしむかっぷ Fおこっぺ Gあしよろ Hるべしべ Iめまんべつ
※満点の人は……すごいです!!

前へ | 次へ