英語よろずや日記(仮)

自称「英語よろずや」(願望含む)の縦横無尽自由自在傍若無人支離滅裂な雑文。

     
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"My life has changed forever." (その3)
[2007年09月28日(金) ]

こんにちは。今月はすっかり更新頻度がぬるくなってしまってすみません。
来月はもう少し定期的に書こうと思います。

さて、今月はずっと同時多発テロ事件の話を書いてきましたが、では私にとってこの事件はどういう風にchange my life foreverだったのか。
以前書いたように、私自身は「あの日あの街に住んでいた」というだけで、電話回線以外何の支障もありませんでした。それでも心がものすごくえぐられた気がしたものです。

人がいっぱい繰り出しているのに活気のない街の様子を目の当たりにして、そしてどこまでも続く尋ね人のチラシとすっかり低くなってしまった(110階建てのビルがなくなってしまったわけですからね)空を眺めていると、うわーーーーーーーー と叫び出したくなることが多々ありました。歩いていると泣きたくなってしまうこともありました。

不謹慎な話ですが、我ながらとても不思議でした。
というのも、その当時私はその街に住んで2年ほど経っていたのですが、その2年間ほぼずっと悶々としていたからです。家庭の都合で自分も納得しての渡米だったとはいえ、激務で大変だったけど好きだった仕事を辞めて、何の肩書きもない、いつ日本に帰れるか分からない自分。日本の友人たちはちょうど第1弾マイホームラッシュやベビーラッシュが始まっていた頃で、人生のステージが大幅に出遅れてしまったな、と思ったこともありました。(今にしてみれば馬鹿みたいな話ですが、もともとひがみ根性なんです私。恥)かたやわが家は夫が留学生で卒業できるかも分からない。卒業してから就職できるかも分からない。悪いこととは分かっていても夫をなじり大喧嘩したこと数知れず…。
これ以上列挙すると情けなくなるのでやめますが(苦笑)

それでも私なりに何とか頑張って暮らしていました。そんな2年間の想い出(いいことも悪いことも)の一部がえぐられてしまったような、やっと築いた「この街で生きていく自分」の一部が欠けてしまったような気がしていたのかも知れません。

ともあれ、自分も、自分の置かれている状況も、嫌で嫌でたまらず、悶々と過ごしていた私。
そんな私が助かって(テロに遭遇したわけではありませんが)、もっと真剣に仕事をして生きていた人々(ワールドトレードセンターで働いていた人々や、その他の地域で命を落とした人々や、救助に向かってそのまま殉職してしまった消防士・警察官の人々。あの年の秋は街中で毎日のように棺を載せた消防車を見かけ、そのたびに涙が止まりませんでした。消防士は殉職すると消防車を霊柩車代わりにして葬列に加わるのだそうです。)が、命を落としてしまった。こんなことって…。不条理すぎる。
でも、私が助かったのは、何か意味があるのではないだろうか。
同じく、夫がその日インターンが初めて休みになって命拾いしたのも、何か意味があるのではないだろうか。
そんなことを思うようになりました。
勿論、私たちが神様(宗教はやりませんけどね)に選ばれたとかそんなおこがましいことを思っていた訳ではなく、ただただ運が強かったことに感謝しつつ、それを無駄にしないためにはどうすればいいか、ということをずっと考えていました。

人の命は突然終わりが来てしまうことがある。
だったら、こんな悶々としている暇なんて、本当はないんじゃなかろうか。
そうでなくてもLife is short(人生はあっという間)というし、いつ起こるか分からない遠い幸せ(当時の私にとっては「いつ日本に帰れるか」)ばかり見ているより、今目の前にある小さな幸せを見つけ、それを積み重ねていった方が人生ポジティヴに生きられるし、最後に「いい人生だった」と思えるんじゃなかろうか。
そんなことに、あんな事件が起こるまで気づかないなんて、何て自分は大馬鹿者なんだろう、と思いました。でももし私があの時「助かった」ことに意味があって、それを無駄にしないで生きていくためには、「気づくこと」が必要だった。今はそう思うようにしています。

そしてあれから6年。
今でも悶々と思うことがないわけではないけれど、小さな幸せの見つけ方が少しだけ上手になったと自負しています。

【追伸】
なお、詳しくは書きませんが、私はテロ後アメリカがイラクやアフガニスタンに対して行った戦争に強く反対していることを付け加えておきます。卑劣に卑劣で返すのは賢明なことではないと思うので。
"My life has changed forever."(その2)
[2007年09月20日(木) ]

こんにちは。
すみません、本当はもっと早いタイミングで続編を書こうと思っていたのですが、すっかり出遅れてしまいました
この事件は文字通りchanged my life foreverの出来事で、6年経った今でも考えているととりとめもなくいろんな思いが溢れてきます。それを順序だてて書こうと思っていたのですが、私の筆力ではどうも難しい…。よって順番は前後しますが、もうしばらくお付き合い下さい。

あの事件から2ヶ月ほど経ったある日。
街は以前の活気を取り戻しつつはあったものの、一抹の重さが空気に感じられる日々でした。
街で一番大きな駅の構内を通ったら、名店街の通路の真ん中に、テロの行方不明者を捜索するための張り紙が沢山貼ってあるついたてが立っていました。(一緒に、犠牲者を慰めるメッセージや子供達の絵も貼ってありました。)
真っ先に目についたのは、私と同年代らしき日本人男性の写真。
名前を見ると、夫の友人のお友達でした。事件直後我々も情報を探しに行ったのですが、お名前しか知らなかったので(ご本人の証拠になるものを持っていなかった)何の役にも立てなかったんですよね。「この人だったのか…」と何とも言えない気持ちでチラシをよく見てみると、日本語の手書きのメッセージが。
「○○がんばれ、お父さんは待ってるぞ」
「○○今まで本当にありがとう、お母さんは幸せでした」
「いつも一緒で楽しかったよ、ありがとう」
最後のは多分、奥様だったのではと思います。
何だか胸がいっぱいになって、その場を後にしました。夜帰宅してから、在米邦人仲間の知人と電話した時にその話をしたら、半分も話し終わらないうちに「あ、それって、『お父さんは待ってる』」って書いてあったものよね?」と言われました。別の駅で同じ張り紙を見たのだそうです。彼女は息子を持つお母さんなのでその言葉が尚更胸にずしんと響き、張り紙を見た途端涙がぼろぼろ出た、と言っていました。

ご両親と奥様は、どんな思いであの言葉をしたためられたのでしょうか。ご両親はどんな思いで日本から駆けつけて、息子さんの情報を探し回られたのでしょうか。そういう話をしていたら、駅では何とかこらえた涙がぼろぼろ出てしまい、受話器の向こうで知人も泣いていました。

やっぱりテロなんて卑劣なことはしちゃいけないんだ、やっぱり戦争なんてしちゃいけないんだ、と思いました。矛盾するかも知れませんが、無実の人が犠牲になる、という意味では繋がっていると思います。
その張り紙の方ですが、その後ご家族は遺体が見つからないまま死亡届を出されたと聞きました。
改めまして、ご冥福をお祈りいたします。
"My life has changed forever."(その1)
[2007年09月10日(月) ]

こんにちは。
今日のお題"My life has changed forever"は、私がアメリカに住んでいたときに覚えた表現で一番印象深かったものです。
文法的には現在完了になるのかな?
「私の人生は永遠に変わってしまった」
つまり、何かを悟ったり、ショッキングな出来事があったりしたことによって、自分の気の持ちようがそれ以前と全く変わってしまったことを意味します。(ポジティヴな意味にもネガティヴな意味にも使われます。)

この言葉がアメリカで一番よく飛び交っていたとき。
それは勿論、6年前の「あの日」でした。
この表現を知るきっかけになったのも…。

その日は秋晴れの美しい朝を迎え、私は妹と久々に国際電話で話しておりました。
ずっとよもやま話をしていたのですが、突如妹が「ねえねえ、ワールドトレードセンターに飛行機がぶつかったとかってニュースで言ってるけど本当?」
慌ててテレビのニュースチャンネルを付けると、ワールドトレードセンターのビルのてっぺんから煙がくすぶっていました。その場所はよくテレビ局のヘリコプターが飛び交っているところだったので、ああ風に煽られてビルにぶつかったんだな、と判断した私は、まあそんなに燃えてないみたいだし大丈夫でしょ、と思い、ろくにニュースを聞かずテレビを消してしまったのです。妹も「大丈夫だといいけどねえ」と言いつつ、普段の会話に戻り、しばらく話を続けると電話を切りました。
切った途端にまた電話が鳴りました。受話器を取ると私の名を叫ぶ妹。え、30秒前まで話してたじゃん…と思いきや、電話の主はもう一人の妹でした。(私たちは全員声が似ています。)いつもは冷静な妹が何をそんなに…と思い、「どうしたの?何かあったの?」と訊いたところ、「ああよかった電話が繋がって。ワールドトレードセンターが片っぽなくなって、日本でもそればっかり報道してるんだよ」

「??????」

慌ててもう一度テレビをつけると、今度はすっくと聳え立つ「もう片方」のビルが映っていました。しかも煙がもくもくしています。
しかしあの110階建て(うろ覚え)のビルが「なくなった」ことが信じられなかった私は、てっきりテレビカメラのアングルの関係で「2つ建っているのが1つに見えているだけ」と思ったのです。だけど、カメラがゆっくり旋回すると、そこには1つしか建っていませんでした。

なんということだ。

「○○くん(うちの夫)は大丈夫なの?今どこにいるの?」
「え、今寝てるけど…」

当時夫は留学生で、ワールドトレードセンターの近くでインターンをしておりました。夏休みが終わってからはビザの関係で週5日行くことができなくなり、前日に「じゃあ明日は休んでいいから」と言われ、初めて休んだ日が、9月11日だったのです。

なんということだ。

とりあえず夫婦揃って無事だということを伝えると電話を切り、前日夜ペンシルバニア州から遊びに来ていた友人をたたき起こしました。
(余談ですが、彼女の住んでいたペンシルバニアでもこのテロで飛行機が墜落。それを知った彼女のご両親が実家のアジア某国から電話すると、ルームメイトが「今ニューヨークに行ってます」…パニック状態になられたそうです。)
本当はこの日から観光に連れ出すことになっていましたが、勿論却下。
3人で食い入るようにテレビの画面を見つめていました。

気が付いたら、もう1つのビルもなくなっていました。

画面に映っているのは、同じ街の風景とは思えませんでした。飛行機がビルに衝突して炎上した風景が繰り返し流されていました。そしてその下で逃げ惑う人々は砂塵を頭から被っています。こんな風景は映画の中だけだと思っていたのに。よその国の出来事だと高を括っていたのに。私は同じ街とはいえ現場からはかなり離れたところに住んでおり、アパート界隈はまったくいつもどおりの朝だったので、どうしても信じられませんでした。

友人の提案で、とりあえず食料の買出しに行こうということになり、夫を留守番させて家を出ました。
外は嘘みたいにいい天気。うちの界隈はいつも通りの雰囲気で、いつも通りの井戸端会議が繰り広げられていました。おいおいのんきな人たちだなあ…と思いながら歩いていると、電気屋の前で人だかりが。ビル炎上の画面に見入っているのでした。
そしてどんどん歩いていくと、今日というこの日が
いつもの火曜日の様に見えて、実は一生忘れられない日」であることがだんだんと身に迫ってきました。北行きのバスは全部満杯で、NEXT BUS PLEASE(次のバスをご利用ください)の表示が。行き場を失った人々がバス停に鈴なりになっています。地下鉄は勿論止まっています。どうやら臨時休校になったらしい学校からは山ほど学生が出てきました。
友人が気を利かせて、ファーストフードでごはんを買ってくれました。それを家に持ち帰りみんなで食事。でも、彼女には申し訳ないけれど、味なんて感じられなかった。普段だったら大好きなメニューだったのに。

その間もテレビは繰り返しビル崩壊の瞬間を映していました。そして電話もひっきりなしにやってきました。何故かこちらから掛けることはできなかったのですが(回線が一時的に故障していたらしい)みんなの気遣いがありがたいと思うと同時に、ことの重大さがひしひしと身に染みてくるのでした。

相変わらず繰り返し同じ映像を映しているテレビを見ながら、一生懸命自分の気持ちをまとめようとしました。
これが同じ島で、しかも普段行くような場所で起こっているなんて。
自分の住む街で起こっているなんて。
なんだか信じられなかったけど、これはどうやら事実らしい…。
こんなこと、今まで中東とか、自分とは全く縁のない場所でしか起こったことがなかったのに。
…中東ではこれが毎日なんだ。
毎日身の危険にさらされて、今日一日生きることだけが救いなんだ。
その気持ちがやっとこの日分かった気がします。
私が悩んだりしていることなんて、命のことを考えれば屁みたいなもんだ。
「今日この日を生きている」ということを絶対に当たり前だと思っちゃいけないんだ、そう強く思いました。

ああでもやっぱり信じられない。でもあれは私がよく歩く場所。夫がインターンに行っている場所の近く。決して遠くの場所の出来事ではなくて…。
テレビの歴史番組などを見ていると白黒で戦争の様子が映っていて、戦争やテロと言うものは曇り空の下で起こるもの のような錯覚がしてしまいがちですが、こんな炎天下の快晴の空の下でも起こるものなんだ…。
そして今はたまたま犠牲者に友達がいないようだけど、私や夫や友達が犠牲者になっていたかも知れない。

つくづく自分たちの「運の強さ」を感じながら、夜は更けていきました。

(以下、次回に続く)