英語よろずや日記(仮)

自称「英語よろずや」(願望含む)の縦横無尽自由自在傍若無人支離滅裂な雑文。

     
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"Age is a matter of mind"
[2007年03月29日(木) ]

こんにちは。今週も更新が遅れてしまいましたごめんなさい。
言い訳をしますと、実は途中まで記事を書きかけていたのを消して書き直しているのです。その記事は体重に関するものだったんですが、先日念願の体脂肪計つき体重計を入手したので早速載ってみたところ、「しゃれにならない」状態であることが判明したのです…
ということでそのネタはいつかダイエットに成功したら載せようと思います。(永遠に載せないということか?)

さて、今日は夫の祖父、つまり私の義理の祖父の命日でした。
実の祖父は2人とも私が生まれるずっと前に亡くなっているので、私にとっては最初で最後の「生身のおじいさん」でした。と言っても結婚式の時と、1999年にアメリカに引っ越す前と、2度しか会うことができませんでしたが。2002年に亡くなったときもまだアメリカにいたので葬儀に参列できず…。せめてもの気持ち、ということで、毎年命日には花を買って、森○のチョコボールと一緒に飾っています。チョコボールは生前牛乳配達をしていたときのお供だったそうで、夫が幼かった頃配達に同行したときも分けてくれたそうです。今年も春らしいチューリップと、チョコボールの新製品をお供えしました(と言ってもうちには仏壇も神棚もありませんが)。

この義祖父(なんて言葉あるのか?)、「人生の楽しみ」を見つけるのが本当に上手な人でした。生活自体は決して派手なものではなく、むしろ非常に地味でした。民家と学校以外山しかないところで一生を過ごした人でした。でも「今の日本は色々な事件があるけれど、ここは“何もないから”(ものも事件も)幸せだ」と言い切る人でした。そして、70歳も半ばを過ぎた頃から大正琴をマスターしたり、手品を覚えたりして、自分もご老人なのに老人ホームに慰問に行っていたそうです。晩年はワープロやパソコンを独学で勉強していたと聞きました。結局途中で病に倒れてしまったわけですが、年齢を言い訳にしないで何かをするというのは、こんな豊かな人生を送れるということなんだなあ、ということが、内側からにじみ出てくるような人でした。

もう一人、アメリカで出会ったある女性は今年90歳。この方は早くにお母さまを亡くし、お父さまと弟さんは大病にかかってしまったので、若いときは働きづくめ。でも、子供たちが独立してから、ライターの仕事を始めました。私が出逢ったときは「世界のチョコレートを食べ歩き評論する」というなんとも羨ましい仕事をされていました。本も確か自費出版で出したはず。他にもイディッシュ語(という言語があるのです)の講師を務めたり病院でボランティアをしたり、人生相談に乗ったり…ととてもアクティヴな方です。この方も普段の生活は割と地味ですが、いつも「今はこんなことが楽しい」とメールを送ってくれます。そう、80代でパソコンを始め、世界中の人とメールでやり取りしているのです。
昨日もらったメールには、何と「9月から地元の大学に入学する」と書いてありました。人生相談に乗っているうちに心理学に興味が出てきたので、それを学びに行くのだそうです。「まあ年齢のことを考えると学位が取れるかどうかは分からないけど、万が一志半ばで逝ってしまったとしても、死んでから『名誉学士号』をもらえるかも知れないしね」と冗談めかして書いてありました。すごい。すごすぎる。

最近も新聞に「87歳で大学を卒業、春から大学院に入学」する男性の話が載っていましたが、そういう豊かな歳の重ね方をしている方に出逢えるチャンスが増えるというのは、高齢化社会のメリットかも知れませんね。

そういう方々を見ていると、「若いときしかできない」ことって実はそんなにないのかな?と思ったりもします。だからと言って今できることを先延ばしにしてもいいということではありませんが…
私はもう大学に戻る気はありませんが、大学に戻ることだけが「いい歳の重ね方」ではないだろうし(それは先述の義祖父の例を見れば言わずもがな。)、いくつになっても人生の楽しみを見つけていける人間になれればいいなぁ。

私が留学時代アメリカでしゃれで買ったTシャツに、こんな言葉が書いてありました。
"Age is a matter of mind. If you don't mind, it doesn't matter."
まあ言葉遊びなんですけど、40代から数えるほうが早い歳になってきた今日この頃、「年齢(老い)というものは心がけ次第。気に留めなければ関係ないものである」(かなり意訳ですが)、どんな状態で40代を迎えたいか、を考えることが多くなってきました。そんなときに、20代でこのシャツを買ったときは「ただのダジャレじゃん」と思っていたこの言葉が、すごく心に響いてくるんですよね。
今後の人生において座右の銘の一つになりそうなこの言葉。偉大な先輩たちに少しでも近づけるような、豊かな歳の取り方をしていきたいなと思っています。
英語のずっこけ
[2007年03月19日(月) ]

こんにちは。
今日は天気がよかったので、最近市内にできたショッピングセンターまで自転車で行ってきました。片道35分くらいかかりましたが、風を切って走るのは気持ちよかった〜!これからどんどん暖かくなってくるので、また行こうと思います。道中に無人の野菜直売店も見つけたし。
しかし私の頭より大きな超特大白菜&キャベツと大量のにんじんを〆て250円で調達できたのはいいとして、2人暮らしではどうやって食べきろう…。

さてさて本題。
今でこそ“自称”英語よろずやとして英語関係の色々な仕事をさせていただいている私ですが、英語関係の失敗エピソードは数知れず。というか今も試行錯誤の毎日です。最近は年のせいか、「何度辞書で引いても覚えられない単語」が増えてしまって困っています。
今日はその中でも中学英語レベルのずっこけ(これって死語?)をご紹介します。

YesとNoの使い方
これは「付加疑問文」の項目で習うと思います。

You did it, didn't you?(あなたがやったんですよね?)
Yes, I did.(はい、やりました) / No, I didn't.(いいえ、やりませんでした)

↑何だかいきなり「ネタは上がってるんだ」と息巻く刑事さんと犯人の会話みたいな感じの会話文ですが、これはまぁ普通の付加疑問文ですよね。

あれは私が欧州某国でインターナショナルスクールに通っていた小学生の頃。確か私は8〜9歳だったと思います。
教室の棚が壊れてしまって先生がかんかんになってしまいました。「誰が壊したの!名乗りなさい」と言ったのですが、みんな先生の憤りように萎縮してしまって誰も名乗らなかったのです。そこで先生は下を向いている子供たち一人一人の席を回って尋問したのでした。質問の言葉はひとつひとつ違っていました。そして私の番に…。

"You didn't do it, did you?"(あなたはやらなかったわよね?)

これに対して私は"Yes"と答えてしまったのです。
そして犯人は私に決定し、怒られました。
まだ英語がまともに話せない状態だったので、どういうお説教をされたのか、またその後真犯人が名乗り出たかどうかは不明です。
(でも怒らないときはすごく優しい先生だったことを付け加えておきます。)

まだ習っていない方のために種明かしをすると、
英語では「はい、やりませんでした」という表現は存在しないのです。
Yesという言葉は、必ず「やった」などの肯定的な言葉にくっつきます。
なので、この場合はNo(, I didn't).と答えるべきだったのです。
それをYesと答えてしまったので、先生はYes, I did.だと思ったわけですね〜。
日本語の答え方だと相手の言ったことを軸として考えるので(つまりこの場合は、「先生は私が犯人じゃないと思っている」ということ)、それが正しいなら「はい」と答えればよいのですが、英語の答え方はあくまでも「事実」が軸となる(つまりこの場合は「私はやって『ない』」)のでNoになるんです。ちょっと難しいですよね。私もいまだにこんがらがることがあります。

なお、会話では、この手の疑問文に迷ったときに"Right."という便利な答え方があります。("That's right."でも可)これは日本語の答え方とおおむね同じ使い方ができるので、迷ったときは使ってみましょう。ただし学校のテストで使ったら×になる可能性大ですが。

「熱いもの」
これは大学時代交換留学でアメリカにいた頃のこと。
私は熱いものを飲み食いするのが苦手なので、それを友人に伝えようとして
"I have a cat's tongue."
と言ったら全く通じませんでした。そりゃそーだ。「猫舌」をそのまま英訳しただけですからね(しかし猫って本当に熱いもの苦手なんでしょうかね?)
この場合は"I can't eat(またはdrinkかtake)hot things."というしかないみたいです。
ちなみに英語では"hot"を辛いものにも使います。辛いとひーーーって熱くなるからでしょうか(笑)辛いものが苦手な方は上記の英文を使うか、または"I can't eat/drink/take spicy food."と言えばよいでしょう。

ほかにも失敗談は色々ありますが、書きながらとほほ気分になってしまうので今回は割愛します(苦笑)。またおいおいと…。
大相撲の魅力
[2007年03月15日(木) ]

こんにちは。今週はブログを書くタイミングが遅れてしまいました
「大相撲春場所にうつつを抜かしていたんだろう」と言われそうですね。はいそうです。
(身も蓋もない…確かに相撲中継も見てますけど実際は仕事のスケジュールの関係です。来週はもっと早く更新します)

とこじつけの前ふり(笑)はこのくらいにして…
私が相撲ファンになったのは実は結構最近で、2年ほど前。テレビでたまたま名古屋場所を見たらはまってしまったのです。今では相撲雑誌を定期購読し、テレビ中継を録画し、東京で本場所があるときには観戦にも行っています。そして「甥に化粧まわしを縫う」と言って妹に嫌がられています(笑)こんなにはまるとは自分でも思っていませんでした。

なぜこんなにはまってしまったのか。
一言で言うと、「日本が凝縮されているから」と私は分析しています。
日本の国技だということもそうですし、ビジュアル的にもお相撲さんがちょんまげ結っていたり、行司さんが美しい装束を着ていたりするので、いかにも日本だという感じがするのですが、それ以外にも「日本だなあ」と思うことがあります。

1)シンプルであること。
日本のものはシンプルであることを美とするものが多いと思います。寺社や懐石料理などのたたずまいや、「禅」などもそうですよね(詳しくありませんが)。相撲はルールが比較的シンプルで分かりやすく、取り組みもすぐ終わります。一つの取り組みは平均数秒レベルじゃないかな。外見的にもまわし一丁でシンプルですよね。

2)色んな二面性を含んでいること。日本文化はよくも悪くも「本音と建前」が両立しているといいますよね。これは相撲にも当てはまると思います。(もちろん悪い意味じゃなくて)
スポーツなのに文化。だからこそ「勝つだけじゃだめ、いい勝ち方をしないと」ということになります。
文化なのにスポーツ。だからこそ強いものだけが上に上がれます。
様式美なのにユニーク。取り組みの前に各力士が見せる気合入れが毎回楽しみです。高々と脚を上げる美しい四股とか、大量の塩撒きとか、まわしをばんっと叩くとか。
個人競技なのに団体生活。
シンプルな競技なのに奥が深い。
土俵の上では身長も体重もキャリアも年齢も全く関係なく無差別なのに、普段の生活は完全にヒエラルキー。番付が違うと服装から何から全然違うそうです。
そして国技なのにインターナショナル。昔はハワイ出身の力士たちが人気を博していました。現在の横綱はごぞんじモンゴル出身の朝青龍関です。私が一番応援している安馬(あま)関もモンゴル出身です。あとはブルガリア出身の琴欧洲関も有名ですよね。

外国人力士の台頭については賛否両論あると思いますが、私は土俵に上がったら日本人も外国人も関係なく「力士」という人しかいないと思っているので、個人的には全く気になりません。もっとも、自分は海外生活が長いので、異国でがんばっている彼らに感情移入することがあるのは否定しません。日本人でさえ大変だろうという厳しい世界に言葉も分からないまま通訳もなく飛び込んでいって、私の海外在住当時より想像もつかないくらい大変な思いをしてがんばっている訳ですからね〜。

私には日本在住の外国人の友人知人が何人かいるのですが、全員相撲ファンだったりします(しかも私なんかよりうんと詳しい)。インターネットで検索すると海外の相撲マニアが集うサイトがいっぱいあって、世界中の人々が「今日の取り組みはああだったこうだった」(私が海外在住のときは知りませんでしたが、相撲は世界中に衛星中継されているのだそうです。)と熱く語り合っています。日本在住の方の中には、相撲部屋の稽古見学に足しげく通う方も多いそうです。その人たち全員がそうとは思いませんが、恐らく、単なる「(スポーツ+文化)÷2」以上のものを感じているのではないか、と思います。

日本が海外に誇れるものは、歌舞伎や相撲などの伝統文化からアニメやゲームなどの現代文化までたくさんあります。
事実上の国際語である英語を上達させたい、世界各国の人々と交流したい、と思う方は、自分が好きな日本のものについて英語で語れることを当面の目標にするのはいかがでしょうか?自分の好きなものに関して学ぶのって楽しいですし、外国人が日本人と交流するときに一番訊かれるのは日本のことですからね。(^-^)
"I was born"
[2007年03月05日(月) ]

こんにちは。
突然ですが、「私は○月○日に生まれた」を英語で何と言うでしょうか?
そう、I was born on 〜ですね。
例えば私だったら5月25日生まれなので、I was born on May 25.となります。(西暦までは質問しないように。)

ここで、中学英語の後半まで学習した人には気づいてほしいことがあります。
「生まれる」という英語は受動態なんですね。bornという単語はbear(この場合「熊」ではありません。「子を産む」「実をつける」ほかたくさんの意味があります。詳しくは辞書を。)という動詞の過去分詞形なのです。つまり、I was born on May 25.は、直訳すると「私は5月25日に産み落とされた」ということになります。

話がとびますが…
私にはまだ子供がいませんが(いてもおかしくない歳ですけどね・汗)、甥が一人います。去年の暮れに生まれました。
甥のかわいさについてはスペースが足りないので割愛します(伯母ばか・笑)が、妹のきゃしゃな体型の割に甥が大きかったので、出産にはものすごい時間がかかりました。
病院に待機している義理の弟からの連絡を待っている間、私は買い物に行きました。そうしたら、途中通る駅に電車が着いたみたいで、いっぱい人が出てきたんですよね。
そのときふと思ったんです。
「この世にいる人は全員、誰かが頑張って産んだんだ」って。
出産には色んな方法があるそうですが、誰かが頑張って産んだことには変わりありません。それがなければこの世にいないのだから、だからこそI was bornなんだな、と目からウロコが落ちたような気がしました。(それまでの私は、どうして英語だと受動態なんだろう?とずっと思っていたのです。)

(とあるキリスト教式のお葬式に出席する機会があったときに、「(故人は)神様の使いとして地上に降りてきて、その役割を終えて天に帰った」的な話を牧師さんがしていらしたので、ひょっとしたら「生まれる」の英語が受動態なのはそういう価値観も理由なのかも知れませんけどね。)

今まで友人たちの「子供が生まれました」報告を何気なく受け取っていた私ですが、その6文字の中には壮大なドラマがあるんだな、と初めてダイレクトに感じ、何だかじーんときてしまいました。そして人ごみの中ぼーっと立っている私。(→迷惑)

そして私自身も、母が何時間も頑張って(これまたものすごい難産だったそうです。最初からエラく手のかかる子供だったらしい…)、父が何時間も応援して(出張だったらしいですが、安産を願ってくれていたと思うので)生まれてきたんだなと。それをもう少し自覚しないといけないなと思いました。そんなに頑張って産んでもらった自分のことをもう少し大事にして、不必要な自己卑下はやめて(もちろん向上心を持つことや自己反省は大事ですけどね。その兼ね合いが、この歳になっても難しい)大切に人生生きて行かなくちゃな、と強く思ったのでした。

そういう思いを一人一人が持つことって、すごく大切だと思うんです。
親を大切にすることにつながることももちろんですが、世の中の人が、産んでくれた人の頑張りをもっともっと認識して暮らすことができたら、自分自身のことをもっと大切にできるだろうし、誰かが頑張って産んだ他人にももっと優しくなれて、いじめとかそういう他人を傷つける行為も減るだろうなあ、と思うからです。
そういうことに気づかせてくれたことについても、甥の誕生に感謝している、精神年齢の低い伯母であります。(^-^;)(もっと早く気づけよ!と自分に言いたい。)

最後に甥よ。私の二の腕をママのおっぱいと間違えて吸うのはやめてくれ。そりゃ私の二の腕はアイドルの太ももより太いし、ぜい肉だらけだから柔らかいけどさ…(苦笑)
でも大真面目な顔して吸うのがかわいいのよね♪(結局それかい。)