かぁちゃん、ただ今 育自中

子供を育てているつもりだが、実は親が育てられているのかもしれない。
「育児は育自」 私は、今も育っています。

     
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我ら地球市民(政治経済編)
[2008年07月30日(水) ]

はじめに

日本中のあちらこちらに大きな地震が起こっています。
そして、集中豪雨で被害に合われた方がたくさんいらっしゃいます。
まだまだ、復興されていない多くの自然災害の被害者の皆様に
謹んでお見舞い申し上げます。

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「我ら地球市民(政治経済編)」

私は、とある生協組合員です。
そこのある会合で、「自覚的消費者」という言葉を知りました。

私の手元の資料より・・・ここから引用・・・・

自覚的消費者」とは、「商品を買うという行為の背景に、どのような社会構造があって、どのような政治的な意思というものがあるのかを考え、そしていま何が必要なのかがわかる」ような消費者のことです。そういう消費者は、たとえばスーパーの店頭に並ぶ商品としての食品が、なぜそのような価格であるのかを問う「判断力」を持っていると評論家の内藤克人さんは言っています。
 また河野直践(茨城大学)さんは、「食と農をめぐる問題の根本原因は、『食』の現場と『農』の現場が分断されている点にある」と言っています。「そこでは両者を結びつけているのは断片的な情報でしかないし、流通しているのも単なる商品でしかないから、消費者は少しでも安いものを買うだけで、自給率向上には結びつきにくい」。そうではなく、「消費者が生産現場と結びついた共同活動に参加することをとおしてこそ、食生活は健全になり、地域農業は再生され、自給率も向上していくのではないだろうか」とおっしゃっています。

(ある調査結果から)
・安ければ何でもいい「無関心派」23%
・農業は大事よねと言いながら店では安い外国産を買う「分裂型」52.4%
・お金は出すが安全なら外国産でもいい「健康志向型」16.5%
・多少高くとも国産を買い農業への理解もある「積極型」5.4%

・・・・・引用以上・・・・・・

この数字から読み取れることは、日本国民の94.6%の人たちの考えが「日本の自給率」を真剣に捉えてもらわなければ、世の中はどのように流れていくのかわらないということになります。
日本の自給率は、国際的にみたら第三世界と同じだそうです。
世界中の国々から、我々の『食』の面倒をみていただいているのです。
もし、その輸入が全部途絶えたとしたら、国はどのように考えているのでしょう。
農林水産省のHPに、驚くようなものを見つけました。

農林水産省ホームページより
食糧自給率の部屋>食糧自給率資料室>国内生産のみの食事のメニュー例

この中にある主食とされている「さつまいも」をどこに栽培をするかといううと、今のアスファルトをはがして植えるのだとある方から聞きました。

食は、すべて育てなければできません。
収穫まで何ヶ月もかかります。
本物の味噌醤油は何年も寝かせないとできません。
卵も畜産もすべて、時間と手間ひまがかかります。
「自給率」を上げるためには、今から少しづつ上げていかなければ、国内での食糧の争奪戦もありうるかもしれません。
配給制になる前に、我々は「自覚的消費者」にならなければいけません。

そう〜、地球市民として「フードマイレージ」「ウォターマイレージ」「遺伝子組み換え」「海への環境」などなど、「食」に関するだけでも色々な問題があります。それもこれも遠い出来事のようですが、実は私たちが行ってきた行為の結集なのだと知りました。
不安がる前に、私たちが何が一番大事にしたいのかを確信していかなければいけません。

私は、私たち世代が送ってきた豊かな生活を、少しでも子どもたちに残してあげたいです。
かけがいのない命
[2008年07月28日(月) ]

唐突に息子から「お母さんは、何が作れる?」と聞かれたました。
「あん?お母さん?何でも作れるよ。まぁ〜究極があんたとお姉ちゃんだね。」と冗談ぽく答えると、
してやったりの顔で「はん?!子どもは作るものではありません。授かるものです。」と大人をギャフンと言わせたかのように答えてきました。
なにやら、国語の教科書に載っていたらしく、農作物が畑から工場生産となり、試験管ベビーの時代から「子どもは授かるものから作るもの」と言葉が変化してきたということが書かれてあったそうです。

最近は、「子どもを作る。」「子どもができない」という言葉を聞いても違和感がなくなってきています。
前回の子育て講座の中で「かげないのあなた」について、貴重なお話を聞かせて頂きました。

私たち命あるものは、必ず歳を老い、そして死んでいきます。
それは自然の摂理なのです、だから、命あるものは、次につなげるために生殖器が備わっているのだそうです。
それが人類の歴史となり、未来に引き継ぐことにつながるのです。
もっと現実的な話を聞きました。
約二人のお子さんを産んだ女性の平均排卵数は450個、
男性の一回の射精が、何億匹だそうです。

我が子は、450個分の一の卵子と何億匹分の一の精子が出会った結晶だそうです。
ですから、もしかしたら、父の精子が、今の子どもを誕生させた精子ではなく、お隣にいた精子と出会っていれば、今の我が子ではない違う我が子が誕生をしていることになります。
私という人間もまた同じです。
もしかしたら、私は父と母の体の中で偶然にもあった精子と卵子ではない違う精子と違う月に排卵をした卵子が結合をすれば、私という人間は存在しなかったことになります。
偶然にも母と卵子と父の精子が何百分の一の確率で出会ったのが「私」なのです。
ですから、「私も授かりもの」なのです。
だから、「わたし」は大事な「いのち」を持っているということになります。

今、自分の命を粗末にする子供たちや「鼓動するいのち」を考えられない人達が多いような気がします。
450分の一の母の分身と何十億分の一の父の分身である自分をもう一度見つめ直すいいお話を息子に話す機会を持てました。

息子に、その事を話すと「そうなら、俺もっと、違う母さんの分身が良かったな?!」と言ってきました。
今度は、私が息子にギャフンと言わせる番です。
「ふふふ・・・そうなると、君は君では無くなるのだ。」
「・・・・・・、そういうことだね。・・・・ならいいか。」

近年は、人の細胞の研究を多くされているようですが、そこに「いのちの鼓動」が生まれてはいません。
ドックンドックンと鼓動されている私の命、我が子どもの命は、「かけがえのない命」だという事を胸に手をあてて確認しました。



野球小僧
[2008年07月25日(金) ]

中学生最後の公式戦が始まりました。
息子たちのチームには、飛び切りのスター選手はいませんでしたが、全員野球で市の3校代表になれました。
その後、地区ブロック別に試合が行われ、次の県大会へと進めます。

夏休みの初日に、息子たちは市外にある大きな野球場に向かいました。
バックネットにある電光掲示板のスコアボードには、選手の名前が掲示されていました。
場内アナウンスもあり、一球目の投球にはサイレンが鳴り響き、大きな公式戦だということが肌で感じました。

息子にとっては初めての大きな試合です。
我がチームのピッチャーの立ち上がりが悪かったため、一回に3点を取られました。
相手は、予選をすべてコールド勝ちをしてきた強豪チームです。
弱い所を見つけたら、行け行けゴーゴーとなるのは当たり前です。
我がチームも負けてはいませんでした、回が進むにつれ一点一点と点を稼いでいたのです。
リズム良く三者凡退で守っていた時、外野を守っていた2年生の▲○君が「来た来た!!風がこっちに回ってきた!!点とるぞぉ!!」とグランドを出た辺りから叫んで監督の元に猛ダッシュで戻ってきました。

彼は「野球小僧」そのものです。
おっとりした3年生達は、彼にどれだけ支えられた事でしょう。
私も彼の一言で、「野球」は楽しいゲームであることを知らされました。
そして長い間、息子と野球と関わってきて、「野球は楽しいゲーム」と育ててきていなかった事に反省をしてしまいました。今回の試合での息子の活躍は、ミスが一本ありましたが、2ベースヒットに打点が付き、応援席での歓声に小さくガッツポーズをしていました。
点を入れ点を入れられ、好ゲームは続きましたが、残念ながら息子は最後のバッターとなりました。
ヒット一本が出れば、勝利も可能の場面でした。
2ストライク、3ボール、2アウトの場面では、相手サイドや味方サイドからの応援合戦は最高潮に達していました。
それは、甲子園の高校野球の決勝戦に負けないほどのボルテージでした。
最後の一球は高めの内角カーブでした、見逃しです。
きっと、手が出なかったのでしょう。
せめて、カットしてくれれば・・・・・と言っても、それは「たら・れば」の話しです。
『俺が最後のバッターで悔いなし』と気持ちが育ってくれれば、親として嬉しいのですが、
野球小僧として、育っていない息子にとっては、辛い最終回でした。

「ウーーーーー」と終わりのサイレンが鳴ったと同時に、息子の愕然とした顔が見えました。
悔しかったのでしょう。
その悔しさが今後どのように成長をしてくれるかが楽しみです。

学校に戻り、監督から「君たちには、高校に入っても野球を続けて欲しい」と言葉をかけてくださいました。
高校野球は、甲子園に行く事だけが目的でない事がわかりました。
一つのボールに真剣に向き合う、仲間を信じて、勝利の風を呼び寄せる、そしてなにより野球ゲームを楽しむ。
小さな予選会場から、だんだんに大きな会場にステージに上がり、応援ボルテージが最高峰なのが甲子園なのです。

今回の公式戦では、我がチームは予選で敗退と下馬評を頂いていました。
監督の指導力と技術力で、息子たちは次ぎのステージに立つ事が出来たのです。
息子たちは、野球を通して大きな心の財産を蓄えさせて頂きました。
今、高校野球の予選が行われています。
選手の保護者の皆さんと同じドキドキ感を親たちにも経験させてくれた息子たちに感謝です。


追記

さぁ〜!息子たちよ。次ぎは高校受験が待っています。
気持ちを切り替えて夏期講習に行ってくれたまえ!!
おっと、その前に貯まっているZ会通信の添削を終わらせよう!!




背番号
[2008年07月23日(水) ]

息子は、小学校2年生から野球のチームに入団をしていました。
少年野球は、学年別にA・B・Cチームと分けられ、使用するボールの大きさやベースの距離が変わります。
息子は、上からボールを投げられたので、背番号一番ピッチャーのポジションを多く頂きました。

背番号は、その時々で監督の考えで変わります。
ポジションを中心に与えるケース、年功序列で与えるケース、野球の技術より野球への態度・姿勢を吟味して与えるケース・・・・と背番号は、それなりの大きな意味があるようです。

息子は中学に入り、学校の野球部に入りましたが、野球肘で手術をしましたので六ヶ月間休部をしていました。
野球部員は全員で36名、そのうち3年生の部員は10名います。

息子は休部の間、Z会の本科生になりました。
復帰後も週三回部活を早退をしてZ会に通っています。
部内でも塾に通っている同級生が多く、息子のように市外の塾に通っているという理由は早退です。
「早退は、早退です。」どんな理由があっても「早退」です。
その当時の監督(顧問)の評価は「練習にまじめではない」と取られてしまい、その時の背番号は20番台でした。
息子が中2年生の終わりごろ「明日、練習試合があるから、これ縫っておいて」と背番号とユニフォームを手渡してくれました。
「あら?良かったね。背番号がもらえて」と私がいうと、「・・・・・・。」と答えがかえってきました。

小学生の時から一ケタ台の背番号しかもらったことがない息子にとっては、それは寂しい事だったのでしょう。
だが、ポジション争いから一歩もニ歩も引いている者にとっては、当たり前の背番号です。

中3年の春の大会では、背番号が18番に上がりました。
「あら?良かったわね。いい番号じゃない。」と私が言うと「それはプロ野球の場合だよ。」と旦那にいわれる始末。
それでも、息子なりの努力が実り、夏の大会には背番号10番に上がりました。
「お〜〜一気に上がったんじゃない!!」と言うと「俺、頑張ったからね。本当は7番が欲しかったんだけれど、練習へのまじめさで、●□(同じ3年生)に取られちゃった。でも、良かったよ。」と上がった背番号を喜んでいました。

「たかが背番号、されど背番号」
息子の一喜一憂をみて、背番号がとても大きな意味のあるものと感じました。

背番号18番だった春の大会ではチームのサポーターに徹していました。
夏の大会には、予選からフル出場が出来るようになりました。
そして、まだまだ試合が続きます。
がんばれ!!息子たち!!

追記
あ〜〜、Z会の夏期講習が近づいてきます。
やるなら、県内で一番大きな大会まで進んで欲しいものです。

野まわり
[2008年07月18日(金) ]

何ヶ月か前の書き物に「野まわり」という言葉を見つけました。
今ごろになって、その言葉が気になって仕方がありません。
(書き物はすでに資源ごみに出してしまったで、読み返すことができません

野まわり
「畑や田んぼを2〜3日間おきに見回りに行き、前回との違いを観察をするのが目的。」

という内容だった記憶があります。

「畑・田んぼ」を見まわるということは、とても大切な作業だったのですね。
植物の成長は、種をまいたら翌日に発芽して、次に日に収穫はできません。
種をまき、少しづつ少しづつ止まらずに一刻一刻と成長をしています。
何日か間をおく事で、その変化に気が付くことが何よりも大切なのでしょう。

そういえは、近所の年配の方たちに「祭っ子ちゃんのお子さん、いくつになったの?この前見たら見違えるように大人の顔になって、びっくりしたわ〜、これだもの、私が歳を取るのも間違いないわ〜」なんて言葉をかけていただけます。
私は「あらぁ〜そう?!毎日見ているから、子どもたちが大きくなっている実感がないわ〜」なんていつも返しています。
これも考えれば「野まわり」と同じですよね。

畑や田んぼの観察にもいろいろあるでしょう。
病気になっていないか、倒されていないか(風、雨、嵐、ヒョウ・・・)、外敵にやられていないか(野生の昆虫・動物、頭の黒い泥棒などなど)「あれ?いつもと違う」と変化を探し出し、その対策をとる事が目的なんでしょう。

私たちの子育てや家族育ても同じ事が言えるのかもしれません。
毎日、顔をつき合わしているのにもかかわらず、変化に気が付かない事が多いこと多い事。
私が美容室に行った日、よほど髪型を変えないと髪を切った事さえも気が付いてくれません。
そういう私も早朝、旦那の後ろの髪の毛が立っているの知らないで「いってらっしゃ〜い」って平気で見送った後、慌てたことがありました。
毎日毎日、一緒にいても顔をまともに見ないで、それぞれが行動している事さえあります。
子どもも大きくなり、過干渉が嫌がる歳頃になって、「子→個」を望むようになり、つい放任になりそうになりますが、
「野まわり」という言葉を知り、「子(個)まわり」は必要なのかと思いました。
ボク、2番目ですか。
[2008年07月16日(水) ]

 近所に息子の一つ下の男の子(中2年生の△君)が住んでいます。
彼は幼稚園頃に、この地に新しく家を建てて入居した家族です。
一人っ子の彼が小学校1年生の時、大雨の日、母の不在で玄関前で大泣きしていたことがありました。
異常な泣き声に驚いた私は、彼の母が帰ってくるまで我が家でお留守番をしていた出来事がありました。
そのためか、彼は私にきちんと挨拶をしてくれます。
彼の母は、残念ながら私とは合わないタイプらしく、学年が違う理由なのか挨拶程度の付き合いしか進展していません。

ある夕方、私は友人宅の帰り道中で、久しぶりに△君に会いました。
少し薄暗くなっていたのに「こんばんわ〜」と声をかけてくれたのです。
「お〜〜、久しぶりだね。どう?足は治ったの。」
実は彼は、春に骨折をして松葉杖姿を一度見ていたからです。

「はい、もう大丈夫です。」
「大変だったね〜、痛かったでしょう」
「学校の授業中で、やったんですよ。それが・・・」
彼の話を要約をすると、体育の授業中に、こんなんで骨折をするか?という体勢で折ってしまったらしいのです。
自分は痛くて一歩も動けなかったのに、友人たちは悪ふざけをしているとしか受け取ってもらえなく笑ってばかりで、骨折をしていると信じてくれなかったのが辛かったそうです。
やっと、信じてくれて病院に運ばれ、複雑な骨を骨折をしてしまい、松葉杖から卒業するのに時間がかかったそうです。
彼が病院に運び込まれ、大急ぎで駆けつけた母の心配の顔は今でも忘れなかったといいます。
「こうやって頭を抱えていたんだよ。あの顔は一生忘れないよ。」と彼は、その時の印象を教えてくれました。
「でもね。・・・・・・・」母に対して心配をかけて申し訳なかったと思う気持ちがあったのに、次ぎの一言で彼は逆に辛い思いをしたようでした。
「でもね。頭を抱えながら言った言葉が『学校はどうするの、勉強はどうするの』だったんだよ、ボクは2番目ですか!!」彼は、笑い話のように伝えてくれていたけれど、その言葉はものすごく重い意味を私に教えてくれました。
同じ母親として反省をしてしまいました。
彼は、正直です。近所のおばさんに自分の正直な気持ちを教えてくれたのです。

私は別れ際に「そうかぁ〜、僕の体の事よりも勉強の事を心配したんだ。がっかりしちゃったね。きっと、お母さん気が動転しちゃったんだよ。いつか言ってやりな『ボクの体の事を一番に心配して』って!」
彼は「ははは・・・・・・、もういいです。」なんて言いながら、治りきっていない足をかばいながら家路に向かいました。

彼の一言は、「子ども代表」として痛いパンチでした。
あの一言が、どんなに子どもの心に傷つけたのだろう。
あの一言が、大人になっても彼の心の根っこに残るのだろうか。
あの一言が、・・・・・・・・
ただ、裏を返せばあの場で「何よりも「あなた」は大切な存在。」が伝える事ができていれば、
どんなに子どもの心が満たされ、成長していけたんだろうとも思いました。
そんな日々の積み重ねのズレが、子どもの心の成長に大きく影響をしてくるのかと考えさせてくれた出来事でした。

追記
私は、彼の言葉を彼の母に伝えようかとどうしようかと悩んでいました。
答えは、やめました。
それは、挨拶程度しかできない関係では、彼にとってマイナスになるだろうと心配をしたからです。
「地域で子どもを育てる」それも大人の社会人として大切な役割だと考えました。

どうして、やめられないの(子どもたちの携帯メール)
[2008年07月14日(月) ]

子どもたちの「ネット問題」に関心の高い保護者の方も多いと思います。
今回の「ネットいじめ」に関する講演を聞いた後に、こんな事を耳にしました。

先日、電車の中でもおばあちゃんとおかぁさんが「ネットいじめ」の話をしていました。
聞き耳を立てていてすみません。(でも、公共の場で話をしているんで、聞いてくださっても結構です。と私は受け取っています)
話の内容は、自分の悪口が書かれていると聞いた小学校高学年の娘さんが、その悪口の内容を知りたいと親に相談をしたそうです。
その親子は一緒にその内容を見て、話し合い、しばらく様子を見ることにしたそうです。
そして、その経緯を学校に相談を入れたのですが、ネット問題は学校でも問題になっていて、学校にできる範囲で対策はとってあるらしい。という内容でした。
その悪口という内容が「●○ちゃんって、顔が濃いよね。」(まぁ〜言い方を変えるとエクゾチック的な顔立ち)というものだったらしいのです。結果、誰かが「でも、可愛いよ。」という話で終わったということで、親もホッとしたと言っていました。

この話は、前回書いた数学の集合で表したメディア・親密圏(親・家族・友達)・公共圏(学校・地域・パブリック)の三つの円を思い出して見ると、どこが問題かがよくわかります。
親密圏の話をネット(メール)で不特定多数の人に知られてしまう恐怖を、送る側も受け取る側も知らないのです。
そして、何よりも怖いのが見ず知らずの人が「無防備のわたし」を全国の知らない人達に知られてしまうことなのではないでしょうか。

ではどうして、親密圏のことをネット・メールで送るのでしょう。
小学生中学年から高学年に始まる、女の子同士の三角関係問題となにか関係があるのでしょうか。
「誰かとつながっていたい」という感情です。
子どものメール・ネットは、大人の用事と違い「用件・内容」が重要ではないといいます。
用件・内容ではなく「つながっていること」が大事なのだと知りました。
つながっていないと「不安」なのだといいます。
だから、「メール」を片時も離せられないのだと知りました。
子どもの世界でも「序列」があるのだそうです。
声が大きい人(自分に自信がある人・力のある人・・・・)が自然に上に立っているのではないでしょうか。
社会的に、自他共に認める(認められている)「自己容認要求」が満たされている子は、揺るがない何かを持っているのでしょう。
そうではない、「自分を認めて欲しい」=「自己容認要求が満たされていない子」は、どうしたらいいのでしょう。
ある先生がアドバイスをくださいました。
それは、「『自己容認要求』は、具体的な体験をさせるしか満たせない。」と言われたのです。
満足できる学校生活・満足できる家庭生活を送る必要があるのだそうです。
少しづつ、少しづつでもいから、小さい成功や小さい満足を共有することで充分だといいます。
「つながっていないと不安」で使うメールやネットから、「用件・内容」重視の使い方に移行できるように、親は、その子自身との「つながり」を大切に考える事が必要なのかもしれません。
そう〜やはり最初のキーワード(「原因の根っこはここ?」)に戻るのです。

追記

ただね、その満足が、違う意味に捉える親たちが「モンスターペアレント」「ヘリコプターペアレント」になっているんですけどね。
ここは、大人の育自なんだと思いました。
自分の子育てが満足なものだったのか、どうなのかは「孫の代」でないとわからないといいます。
「モンスターペアレント」「ヘリコプターペアレント」が満足するものは、その子の成長に本当に役立つものなのか、
じっくり考える必要がありそうです。
答えは、いつの日か子どもが出してくれます。

どうでもいい話のすすめ
[2008年07月11日(金) ]

私は、一人で外食に行ける人です。
この日もZ会の保護者会の帰りに、行列のできる中華屋で一人ランチをしてきました。
私の前には小学生の高学年の男の子と父親が並んでいました。
男の子「この店、こんなに繁盛をしているなら、もっとお店を広げたらいいのに・・・」
父親「いいかぁ〜、この店のラーメンは一杯●50円だ、それがお店を広げたら・・・・・」といきなり経済学の話に発展していきました。
いやぁ〜知的な父親の会話は、横で聞いている私にもわかりやすく大変勉強になりました。
都会では、安くて旨くて混んでいるお店は、相席は当たり前です。
先に席についた親子のそばに私の席が用意をされました。
先の親子は、ビールに餃子・チャーハンに野菜ラーメンを注文をしていました。
私は、サンマ−麺と餃子を注文、いやぁ〜手作り餃子の熱くてうまい事。
ハフハフ言いながら、口には運んでいると、またまた親子の会話が聞こえてきました。
父親「あの部屋にはってある歴史の年表いいねぁ〜・・・・歴史がよく良くわかるよ。」
息子「あれいいでしょう〜、あれね。」
父親「あれ、わかるか?・・・・・・・と歴史の話が続く・・・・」
「う〜〜ん・・・」と息子さんは父親の話を尊敬をしながら聞いていました。(若干、聞き役っぽかったけど)

私、3個目の餃子を口に入れながら、すごいなぁ〜と尊敬しながら聞き耳を立てていました。
でもね、家路に向かう電車に乗って、しばし考えていたのです。
なんか、おかしいなぁ〜と。
あの親子の関係はなんだろう。・・・・・またまた祭っ子の一人妄想が始まります。
あの父親は、長期単身赴任をしているのかしら?
それとも、親子ともども目標は有名中学のお受験志願者かしら?
時として、教育的な話はしたいと思います。でも、あの場ではどうなんだろう。
そんな、なんともいえない違和感のある親子の会話を考えていたのです。

前回の話の続きです。「親子のコミュニケーション」は、どのように育てていけばいいのでしょう。
それは、どうでもいい話を15秒ぐらいでもいいから、子どもにもさせることだと言われました。
そうです。
教育的なジャッジをつける会話ではなく、どうでもいい世間話でいいのだといいます。

前回の今川焼きの話と同じ話をすれば、
子どもが味噌汁をこぼしただけでも、「それは集中力がないからよ。だから点数が悪いのよ。」と会話に変化するのではなく、味噌汁こぼした事の話をすればいいのです。

テレビ・ラジオ・本(漫画の本)・読み聞かせ・学校・ゲーム・・それは家庭の中の言語力につやを与えるだけのものでいいというのです。
夫婦ケンカも人間らしい会話だと言われました。
「人間の真に迫った台詞を言うことを子どもに見せるべき」だというのです。
家庭の中で自分の考えを伝える土壌をつくれるようになればいいのです。
それは、大きくなったお子さんでも可能なのです。
「うぜぇ」=「って、どういう意味?」「お母さんは、○○と理解してもいいかな?」
と子どもの言っている主語と述語をまとめるだけでも、充分に「うぜぇ」から進化するといわれました。

以前、「“デート”に学ぶ、子どもとの接し方」でも同じよう事を教えて頂きました。
どうでもいい話、親子でいっぱいいっぱいしましょうよ
大きなマス目
[2008年07月09日(水) ]

親子のコミュニケーションの話の続きです。
今回、子育て講演のサブテーマに『「親に言えない」子どもの本音』という題をつけました。
講師の先生には「親に言えない」のではなく「親に言わない」と言い直されました。

親子の関係は、ある意味「生殺与奪権」なのだそうです。
「生かすこと殺すこと奪うこと考えることも思うままにできる。他人の運命を操ること」という意味だそうです。
その中で、子どもは本当の事を言えなくなってきているというのです。

子どもは「お母さんにお話をしても、いつも最後は同じ事しか言わないんだ。『勉強しなさい』と言われるだけなんだ。」
一体どういう事なんでしょう。
私も、ちょっと反省をしています。(アルアルだからです。)
講師の安達倭雅子氏は、面白おかしく教えてくださいました。

例をあげて頂きました。
子どもが、A君の家でご馳走になった今川焼きが美味しかった−−−
子ども「お母さん、A君の家でご馳走になった今川焼き・・・」
今川焼きをご馳走してくれたA君はお出来になる(学校の成績が良い)と−−−
母親「あなた、勉強しなさい。」
と話が変化していくのだというのです。

「早く寝なさい。」「早くしなさい。」「早く食べちゃいなさい。」・・・・・すべての会話の結末が、ここで収まってしまうことって、私にも経験があります。

何も言えなくなった子どもたちは、言語力が育たなくなっていると聞きました。
「別に」「うぜぇ」「びみょう〜」は、作文用紙でいえば表題にしかすぎないといいます。
大きなマス目に「うぜぇ」「別に」「びみょう〜」と書いて、表現の回避をしていると知ると、納得がいきました。
表題には、中身がいっぱい伝えたい事があるのに、どう表現していいかわかっていないというのです。

「ありがとうございます」という一言にもいろいろなシュチュエーションの「ありがとうございます」があるのだといいます。
言語力が育っている人は、それはどんな風に言われた(言った)「ありがとうございます」なのかがわかりますが、
今のネット社会では、「ありがとうございます」の一文で、その感情が見えない(読めない)だといいます。
酸いも甘いも承知している大人は、相手の性格や行動パターンを知っているので、その一言でも想像が付きます。
ですから、例えば「・・・・遅れそうです。」とメールが入ってきて、
「バ〜カ」と返信しても「へへへ・・」と受け取ってもらえるのです。

「頭にきた」=頭
「うぇ!」むかつく=腹
と言語力の育っていない子は、話すことが体感的になってきているというのです。
そして何より「言語力のなさ=暴力につながる」と事実に驚いてしまいました。
小さい子どもが癇癪を起こす。
物静かな大人が、「グーの音」がでないほど追い詰めるとテーブルをバンとたたいてどこかに行ってしまう。
それも、同じだといいます。
ロス・コミュケーションという言葉も知りました。
子ども自身が、緊急性があるのに、それを上手に伝えられないというのです。
もちろん、それは受け手も育っていないということにもなります。
この子が、こんな事を言うのは何かがあるぞ、とか身体に変化があるぞ、とか・・・それを見破るすべが育ってないということなんでしょう。

「話すが基本」「言葉の力」は大事と知りました。
では、どのようにしたら、言葉が育つのでしょう。
国語の先生?
読み聞かせ?
一番大事な根を育てるには、実は家庭が一番だと言われました。
人間らしい対話を聞いている、側聞(言わなくても聞いている)だけでもいいのだそうです。
家庭の中で「本当の話をしている」「本当の話を聞いている」そんな人が二人いれば、それだけ充分に育つのだと言います。
たとえ、学校や友達関係で悪い言葉を覚えても、その言葉は身に付かないとのことです。
では、どうやって、育てるのか・・・・一緒に考えてみましょうよ。
「携帯電話・ゲームはやめられない」親はどうしてる?
[2008年07月07日(月) ]

またまた、最新式携帯電話は発売されます。すごいですね〜。
将来は、携帯電話が体の一部に埋め込めるようになり、両手を使わなくても
通話ができたり、バーチャルなゲームが体験できたり、そんな時代がくるかもしれませんね。
あ〜〜、これは、あくまでも祭っ子の想像です。鉄腕アトムの世界です。

さて、日々進化しているネット世界に完全に乗り遅れている親は、口をあんぐりするばかりです。
いくらフィルタリングをかけても、有害情報はどこからでもつながるといいます。
そんなネット社会に野放し(子守り)をさせている私達親に何ができるのでしょうか。

・子どもにインターネットをさせない。
・子どもが見るインターネットが安全がどうか調べる
・子どもに携帯電話を持たせない。
・子どもにゲームを夢中になせない。


そんなことはできるはずがありません。
ある先生は、こう言いました。「子どもはいつか大人になります。彼ら(彼女ら)が大人になって暴力表現・性表現をどう受けってもらうかが大事なのではないでしょうか、同じ暴力表現・性表現を見て親と価値観を一緒にして欲しい。」と言われました。

前出の坂本旬氏も「親子間のコミュニケーション」が大事だと言っていました。
昔から有害番組があります。見たいと思っている子どもたちに「これはダメです。」と言える家庭と
仕方がないと嫌々見せる家庭とがあると思います。
そこでシブシブ見せているご家庭の中には「あの番組が悪い。あの番組を見せてうちの子どもはお下品になった。」「あのインターネットがあるから、うちの子は人生が狂った。」と言いがちになります。

それでは、一体どうしたらいいのでしょう。
坂本旬氏は、こういいます。
・メディア環境をコミュニケーション環境に変えること。
・メディア(テレビやインターネット・ゲーム)に子守りをさせない。
・新しいメディアを親子や世代間コミュニケーションの活性化をさせる


それ具体的に言い換えるとどうなるかといいますと。
・パソコンはリビング(親の目の届く場所)に置く。
・利用ルールを決める(これは、親子の信頼関係がなければルールは作れない)
・世代間でも楽しめる遊べるゲームをする(歴史系など)
・テレビを見ながら、番組の感想を言い合う、「本当?」「うそ?」などを入れる。
・日ごろから子どもとインターネットの事を話し合う


結論を申し上げると、「話す」が基本ということです。

そんな・・・「うぜぇ」「別に」「びみょ〜」しか答えられない子どもに「話す」ことが基本って言われても・・・・・。
「ねぇ〜、できる?」って考えちゃいますよね。
いえいえ、子どもも大人も日々成長しているんですよ。
次回は、親子のコミュニケーションの話を書きたいと思います。
いやぁ〜、私、今回は「育自」アップしました。

追記

携帯電話やインターネットゲームを経営する会社は、完全に経済発展のために経営をしているといいます。
倫理観が育っていない社会に規制も何もありません。悪い言い方をすれば、子どもから小銭巻き上げていると見られても仕方がないのではないでしょうか。そのためにも、「家庭」=「親」がしっかり社会全体を見据える必要があるのかもしれません。
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