かぁちゃん、ただ今 育自中

子供を育てているつもりだが、実は親が育てられているのかもしれない。
「育児は育自」 私は、今も育っています。

     
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高校受験生の母
[2008年06月30日(月) ]

我が家は、昨年から引き続き受験の年を迎えてます。
昨年は、娘の大学受験。
今年は、息子の高校受験です。

親として一番に願っていることは、本人が行きたい学校に入学できることです。
娘は、残念ながら第一希望の大学には入学が出来ませんでしたが、
まぁ〜それも人生です、娘の与えられた人生の試練だと思い、親として彼女の成長に関わっていきたいと思います。

さて、わが息子は姉の姿をみてきたからでしょうか、
破天荒な性格から知らず知らずのうちに物事に対して冷静かつ慎重になってきています。
(そういう意味では、娘に感謝です。ありがとよ。)

受験も2度経験すると、親の私も落ち着いてきました。
なんたって、受験をするのは『私ではなく子どもなのだ。』と思えるようになったからです。
親は、試験当日に体調を崩さない環境作りと当日の弁当だけを心配をすれば良いのです。

だからといって、子ども本人に全てを任せればいいのかと言えば、それもちょっと違います。
私の友人から「高校までは親の責任だよ」と言われたことがあります。
大学は、子どもが自分で決めるだろうけど、高校は親が導く必要がある。と言うのです。
実は、娘が高校受験の時、本当の第一希望の高校には受験が出来ませんでした。
それは「井の中の蛙」で育てていたからです。
わが県では学区撤廃で県内全域から受験生が集まります。
残念ながら娘はその土俵に立つことを許されなかったのです。
でも、結果として娘の条件に合った素晴らしい県立高校がみつかり入学が出来、最高の高校生活を送れました。

だが、わが子が本当に行きたかった学校のステージにも立たせてもらえなかったという事実に、親としては準備不足と知識が無かったことを反省するしかありません。
息子には、そのような思いをさせたくないありません、でも、親が出しゃばるとそれも面白くないのが中学生です。

そこで、娘の反省を生かし、息子には「自分から勉強をやりたい!!」という環境作りを心がけています。目的は国立大学に入るための受験ではなく、(ハッキリ言って、息子には無理)
「いやぁ〜勉強って楽しいね。」というレベルですけどね。

その点では、Z会教室の先生達には大変お世話になっております。
息子は中2までは、季節講習だけを受講して、その後本科生になりました。
ここで息子は、「学ぶ楽しさ」が身についたのです。
息子の性格は、石橋をポップステップジャンプで渡るタイプです。
何の注意も聞かず、崩れて指摘を受けても「あ、そう」と全く反省を生かせない子です。
Z会教室の保護者向けの説明会では、私は息子の成績のことより、性格(勉強に対する姿勢、集中力)を質問・お願いをしています。
ですから、そんな性格をも見ていただける先生方に本当に感謝をしています。
学校とは違う環境で、息子の立場は大きく異なります。
その点も自分を冷静に見られるチャンスだと思いました。(井の中の蛙が大河を見れるんですもの)

Z会教室では、そろそろ面談の季節が近づいています。
さぁ〜、息子の受験がそろそろ動き始めようとしています。
原因の根っこは、ここ?
[2008年06月27日(金) ]

最後のキーワードを長々と引きずってしまいましたね、ごめんなさい。

さて、先日ラジオの人生相談を車の中で聞いていました。
回答者は、私の大好きな田岡由伎さんです。
質問者は「夫婦共稼ぎで二人暮らしをしています。私はいつも些細なことでイラッとしてパートナーに当たってしまい、そんな自分に落ち込んでしまいます。」という内容でした。

この話を聞きながら、先日聞いた「最後のキーワード」を思い出していたのです。
「これも、根っこは同じかも」と。

田岡氏は、質問者にこうおっしゃっていました。
「怒り」は「恐怖」の表れの一つなんですよ。
自分が、何に対して「怖い」と思っているのか、考えてみるといいでしょう。
それは子ども時分のことなのか、今のことはわからないけれど、「怖い」と思っていた原因がわかるだけでも
気持ちが楽になれるでしょう。
「一人」になる「孤独」が怖いと感じているのかもしれません。
・・・・・その後、田岡氏は質問者の生活にあった解決策を提案されていました。
いつ聞いても、田岡氏からは元気をもらえます。

この原因の根っこは、「全てここかも」と私は思いました。
それは、「相手を認める」事が大切ということです。

先の渡辺真由子氏は「承認要求を満たすことが重要だ」とおっしゃっていました。
それは「無償の愛」です。
生きている価値がある。
生きていていいんだ。
相手に、自己肯定感を満たすことが大切なのだといいます。

ラジオ人生相談の相談内容も「一人・孤独」を恐れて、相手にぶつけてしまう。
「あなたは一人ではないのよ」「私は一人じゃない」と思えたとき、お互いに愛しいと思えてくるのでしょう。
あなたの側に子どもが居る、ペットが居る、見えないけれど誰とつながっているとわかったとき「わたし」を肯定できるのだと理解できました。

そんなことを言っても・・・・・、子どもに素直に「生きていて嬉しいよ。」なんてぎょうぎょうしく言えるはずがありません。
私は、ちょっとした事から認める【肯定できる】言葉を使い始め、訓練をしています。
子どもたちとの会話で、今までなら「ふ〜〜ん」で終わらせていたのを「それ良いね〜」と認めるように言い方を変えてみたり、朝寝坊をして半分切れかかっている子に「でも、えらいジャン。起きれたんだから。」と否定するより、認める言葉掛けに変えてから、少しづつ変化しているように感じます。

近所の方やPTAの集まり、パートのおばさん達にも「いつも、お庭がキレイでここを通るのが楽しみにしているんです。」とか「忙しいのに、私達ってえらいわ〜〜」なんて言い合ったり、「おばさんが頑張って居るんだもん、私も見習わなくちゃ」なんて、身近な人を肯定する言葉掛けって多いのに気が付きました。
私達の周りから元気が生まれれば・・・・その波動が日本中に広がればいいね。

そう、キーワードは「存在を認める」=「相手の承認要求が満たされている」でした。

自分の出来ることから始めない?
花に向かって「キレイね。」とか
月に向かって「キレイね。」というだけでも、何かが変わるかもよ。
あ!!これって、気功の先生が言っていたことだわ。
やはり、全てはつながっているんだ。

原因の根っこは、どこ?
[2008年06月25日(水) ]

私には、大学生の娘と中学3年生の息子がいます。
大きな事件が起こると、わが事のように不安になります。
それは、わが子が被害に遭わないためにはどうしたらいいのか、
加害者にならないように育つにはどうしたらいいのか、と思うからです。

私は、後者のほうに関心があります。
思春期に入り、隠し事をしたいと思っている子どもが、親の死角に入り、
ポルノ・児童ポルノ・麻薬・売春買春・・・・・・・・・・万引き・いじめなどに興味を持っては困ると思っているからです。
私は、わが子が一人前の社会人になるためには、どのようにして心と体を育てれば良いのかと興味を持ったのです。

子どもたちは、どんなときに親が経験をしていない世界に興味を持つのだろう。
どうして、その世界に飛び込めるのだろう。
それはきっと、いろいろな因果が合わさった時に起こりうるべくして起こったとしかいいようがないのかもしれません。
ですから、原因は複数あり、根っこの部分が見えないほど、因果が厚い層になっているのでしょう。
一枚一枚、原因を剥がしていくと「何?こんなことが始まりだったの」という程度なのかもしれません。

先日、「ネットいじめ」の講習会で、先生がおっしゃた最後のキーワードを聞いて、私の中で「これだ!!」と思ったことがありました。
そのキーワードは、子育て講演では、どの先生もおっしゃっていた言葉です。
先生達の独自な言葉で伝えて頂いていたのですが、その当時は、私の心に入っていかなかったのです。

性的暴行・ポルノなどは、「性」が目的ではなく、上下関係の確認なのだという。
これは「いじめ」の加害者も同じで、自分が優位に立てる人をみつけ、自分の存在を認めさせる行為なのだそうです。
それは、誰が作り上げたかというと、決して親だけの責任ではないといいます。
社会全体、テレビ・新聞・・・・あるゆる報道やお笑い界の世界までが「性的暴行・ポルノ」「いじめ」などの原因を作っているのだといいます。(詳しく、渡辺真由子氏の講演会や著書を参考にしてください。・・・・だって、伝言ゲームになるからね。)

最後のキーワードは、また次回の日記に



原因の根っこは?
[2008年06月23日(月) ]

先日、ネットいじめに関する講座を企画参加しました。
この問題は、すでに何年も前から私達(企画委員)の間で議論になっていました。
世間の波が、「ネットいじめ」という言葉が生まれていない時期でしたので、企画倒れになっていました。
今年に入って、この問題がますます深刻となり、開催することができたのです。

第一回目は、「深刻なネットいじめの現状とその背景」を「メディア・リテラシー教育の渡辺真由子氏」からお伺いました。

大人にとって携帯電話とは、オプションがいっぱい付いている連絡道具の一つです。
それが、子どもにとっては世界最先端のおもちゃなのだと知りました。
世界の携帯電話事情は、カメラなし・動画なし・インターネットは高額なオプションなのだそうです。
世界最先端道具がいっぱい搭載している携帯電話を、我々日本人はその危険性を全く知らないでいるのです。

「いじめ」は、人が集団生活を始めた大昔からあったと私は思っています。
その「いじめ」は、その場から離れれば「安堵の地」が得られていたのですが、
携帯という道具を使えば24時間何日も続くことになるというのです。
これでは、勉強も睡眠もままならないのが現状です。
メールとネットを利用するいじめが従来のいじめと異なる点は、もっといっぱいありました。
それが、どんなに状態でどうなるか・・・・親としては心配が膨らむばかりでした。
講義中に、プロフと呼ばれているモノや携帯の書きこみなど、実際に見せていただきました。
私から見て、それらはそんなに危険性を感じることが出来ませんでした。

それは、きっと私の価値観で判断しているからでしょう。
可愛い顔と本名を出しているプロフには、本人が特定できる場所や特徴が書かれていました。
それが、本人が書いたモノなのか、その人をターゲットのしているモノなのかはわかりません。
悪い大人が、それを見て生唾を飲んでいるのかもしれないと想像できますか?

友達とのやりとりをおしゃべりするように掲示されているのを読んでも、
休み時間の延長に過ぎないと思っていたら、それは大間違いなのです。
非対面性が生みだす感情が大きく発展していく事実を知りました。

携帯電話は、私達大人が使用している生活のための道具ではなく、
とても危険なオモチャなんだということをしっかりと知った上で、子どもたちに持たせなくてはいけません。

渡辺氏は、不安だらけの母親達に「子どもを守る対応と応急処置と根本的解決」を提示してくださいました。
それは、8月頃下旬に本を出版されますので、そちらをお読みください。

私が、渡辺氏の講義を聴いて、絶対に忘れはいけない言葉がありました。
それは次回の日記で書きたいと思います。


いつの日か箱
[2008年06月20日(金) ]

読売新聞の日曜版の連載漫画がコミック誌になっています。
その「あたしンち」けらけいこ著を全巻もっています。

この漫画の本は、我が家と家族構成が似ていて、どこか我が家を見ているようなアットホームな本です。
家族みんなで回し読みをして、それぞれが家族に対して「これ、言いたかったんだよね。」と笑いながら言える、そんな機会をも与えてくれた本でもあります。

その中に主人公の高校生みかんが、いつか将来のために使うであろうモノを大事にしまっておく場面がありました。その箱の名前が「いつの日か箱」です。

実は、この「いつの日か箱」は、私も高校生の時に持っていました。
両親達がどこからか頂いた引き出物の食器、鍋、コップ・・・・・
自分がお勤めして、いつか子どもが使うであろうと、ボーナスが出る度に一個づつ揃えたピーターラビットの食器などなど、独身生活が長かったのでたくさん出来ました。

先月、お向かいに住むお嬢さんが結婚され、新婚旅行のお土産を頂きました。
彼女達は、ハワイで式を行いました。
披露宴のために作成したお手製のDVDを見せてもらい、つい私も「祝福」の涙を流してしまいました。そんな素敵な若夫婦から、ハワイアン〜なキッチン用品を頂いたのです。(お福分けです)

早速、娘に見せると「わぁ〜いいなぁ〜欲しい!!」というので、「いつ、使えることやら」と娘に差し出すと、娘は「いいの!!いつか使うの」と嬉しそうに受け取りました。
また、娘の「いつの日か箱」にモノが一つ増えました。

「いつの日か箱」って素敵なネーミングです。
いつか使う、いつか使う日まで取っておきたい私の宝物です。

私が娘時代に思い描いていた「いつの日か使うもの」は、そのいくつかはゴミ箱へ行きました。そんな事実を娘は知りません、そして、それを教えたくもありません。
だって、「いつか使う」将来のための「夢」を壊したくないからです。
私の娘時代に描いていた大人の世界は、それはそれは素敵な世界が広がっていました。
わが娘は、どのように描いているかわかりませんが、「いつの日か箱」と一緒に「いつかかなう日」も見守っていきたいと思います。

私の「いつの日か箱」に後生大事に仕舞い込んでいた物がありました。
先日、その中から一つ活躍する日が来たのです。
その話は、また今度。
心のこもったペッタン
[2008年06月18日(水) ]

先日、「消しゴムはんこ」の講習会に参加をしてきました。
講師は同じ生協の組合員さんです。

彼女は「消しゴムはんこ」をはじめ「絵手紙(若い人が喜びそうな)」それに「料理」が得意な多才な方です。
彼女が発行している通信便りには、季節に合わせた素敵な文章と日々を豊かに過ごせるメッセージが書かれていました。

「消しゴムハンコ」を楽しもう!!・・・・・これより引用・・・・

消しゴムはんこって・・・・
特別な道具もいらなくて、カッター一本で作ります。
作り方も簡単。繰り返し作るほどに、上手になります。
自分だけの「オリジナル消しゴムはんこ」はぺたぺた・・何度でも繰り返し押せます!
楽しんで作って、使ってくださいね!絵手紙やメモにももちろん!
慣れると布にも押せます!!
・・・・引用以上・・・・・

まず、基本を練習しました。
慣れてきたならば簡単な絵柄を彫り、すこしづつ複雑な絵柄に挑戦していきました。
いつしか、会場は静かになっていきました。
私は、長靴とカタツムリ・雨のしずく・ニコニコ顔の雲を彫りました。

出来上がったハンコをペッタンと押してみます・・・そっ〜と上げてみると、消しゴムはんこ独特な可愛らしさが現れました。
教え上手な先生は、私を上手に褒めてくださり、もっと上達するようにポイントを教えてくださいました。
先生のアドバイスの所を手直しして、またまた、ペッタン。
「ん〜〜なかなか、いいんじゃな〜い」と一人悦に入ります。

参加者みんな、同じようで同じじゃない、それぞれの消しゴムはんこが出来あがりました。
ペッタンペッタン・・・・・・
作品をいくつか押しているうちに、私はフッと子ども時分に返りました。
壁にたくさんのシールを貼る、いたずら書きをする、意味無く同じことを繰り返す、
そんな面白さを思い出してしまったのです。

私は、大人になって「意味のない行動」は卒業をしましたが、
子ども頃にやったあの楽しさをもう一度やってみたくなりました。
今度は、意味のない行動ではなく、暮らしをより豊かになるような行動に変えて、
ペッタンと。
そして、ペッタンを誰かに送りたいなぁ〜と思いました。
心を込めて『ぺったん』と押した『私の消しゴムハンコ』をあなたに


集合時間は、始まりの時間
[2008年06月16日(月) ]

はじめに

宮城県に大きな地震が起こりました。
私が住む場所でも長い時間揺れを感じました。
大きな被害がなければと願っておりましたが、
多くの犠牲者が出たもようで、明日は我が身だと案じております。
被害につきまして、 謹んでお見舞い申し上げます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「集合時間は、始まりの時間」

実は、私は遅刻の常習犯です。
先日、ある診療室の待合室で耳の痛い話を聞かされました。

その待合室には、私と遠くから通院している年配のおばさんの二人しかいませんでした。
どちらともなく話しかけて話が進み、話題は時間に余裕のないおばさまの姪っ子さんの話になりました。
その内容は、待ち合わせの時間にいつもいつもギリギリに来る姪っ子さんの大失敗のエピソードの数々でした。
ある日、姪っ子さんはいつものように余裕のない時間を集合時間にしてしまい、その後の行動で右往左往しているうちに関係者の皆々様に多大なご迷惑をお掛けしたという話には、同行者のおばさまに同情してしまいました。
でも、私は姪っ子さんに気持ちもよくわかるのです。
姪っ子さんの数々の話を聞いているうちに、自分のことのように聞こえ、穴があったら入りたくなりました。

遅刻常習犯の私でも、集合時間の5分前には到着するように心がけています。
でも、道中アクシデントがあればアウトです。

時間の感覚も人それぞれで違うでしょうが、私は「出かける予定30分前でしたら、あと30分間もある。」と動ける人です。
同居の父は、私とは全く逆で「30分しかない」と考え、出発の時間まで静かに待つ人です。
どちらが良いとか、悪いとは別にして、私はゆとりのない時間の過ごし方をしてきました。
ですから、「何かあった時」を考えずにいたのです。
「何かあっても」対処できる用事ならば許されるでしょうが、時として社会の非常識と指を指される場面に発展しては困ります。
おばさまの姪っ子さんは私と同じような時間を過ごしているタイプのようで、おばさまの話を聞きながら、つい姪っ子さんの弁護をしてしまいました。
でも、おばさまは言うのです。
「『何かあったら時』を考えないとダメなのよ。あの子は本当に何度言ってもわからないのよ。」と・・・・・・。
おばさまは決して私を非難をしたわけではなく、姪っ子さんの行動に不安を感じているだけなのです。

主婦達が集まる場所は、「全員がまだお揃いではないので、もうしばらくお待ちください」というアナウンスをよく耳にします。
そんな環境になれてしまった私は、いつもギリギリ到着組になってしまいました。

子どもたちは・・・・・私似です。
息子もギリギリの時間の使い方をしています。
ところがです。
息子の部活(野球)の顧問が、この春から正式に代わりました。
この顧問は、野球道を地でいく先生です。
何事にもまっすぐに事を進める、野球で人を育てられる方です。
この先生が顧問に就任されてから、部活の運営と雰囲気が大幅に変わりました。
『雨が降っても集合』
『集合時間は、始まりの時間』
集合時間1分前に到着しても、それについて注意は受けないが、荷物を置き、
息を整える時間が欲しければ、それなりの余裕を作らなくてはいけません。

家庭によって、集合時間の考え方が違いますが、
「集合時間は行動時間」と指導していただき、息子と私は時間の使い方が少し変わりはじめました。
そして、中学生には「全員、同じように行動させる。」その必要性も感じました。
私流、テレビコマーシャルの見方
[2008年06月13日(金) ]

私は子どもの時から、テレビコマーシャルが大好きでした。
番組の間に流れるわずかな時間に、起承転結がしっかりなされ、
消費者に購買意欲をあげる構成に興味をもったのです。

コマーシャルにも時代があるようで、商品重視、イメージ先行、連載ドラマ仕立て・・・
時には、推進的であったり、啓蒙的であったり、コマーシャルはその時代とともに変化しているように感じます。

小さいときからコマーシャルを見ていた私は、かなり影響を受けました。
たばこをスマートに吸っているシーンや髪の毛がサラサラとなびいている映像、
ナイフを格好良く扱っている姿などを見て、子どもながら羨望の眼差しを持っていったのです。
テレビコマーシャルを見て「あ〜なりたい」「こ〜なりたい」「あれが食べたい」「それを持ちたい」「あそこに行きたい」と憧れていたわけです。

私は大人になって、コマーシャルを冷静に見ることができるようになりました。
季節ものや行事もの、視聴者の年齢とか職業とか・・・、時間帯で流れるコマーシャルの種類が違ってきます。
風邪の流行の時期に薬の宣伝、引っ越しが多い季節には引っ越し業者の宣伝。
受験前には、塾の宣伝。合否発表が近づくと予備校の宣伝。
朝には爽やかな宣伝が流れ、お酒が欲しくなる時間帯には、そのような商品が流れます。

コマーシャルは、景気にも変わっていくようです。それは、
10年前に友人が「世の中が不景気になると、○○系の宣伝が多くなるんだって」と聞いたからでした。
不景気だからこそ、テレビを通して消費者に消費をあおっていると気が付いたのです。
景気が右肩上がりの時は、高額商品や大型商品の宣伝が多く見られます。

最近のコマーシャル傾向は、どう考えたらいいのでしょうか、
商品+付加価値がついてきたり、(購入をしながらボランティア活動の一環になるとか、エコに結びつくとか)
また最近は、どちらかというと啓蒙的な作りが多いと感じています。

毎朝見ている情報番組に、金融業者のコマーシャルが立て続けに流れたのを見たときは驚いてしまいました。
返済を呼びかける作り、目的を持って使うように勧める作り、
とどめが「そのお金、本当に必要ですか?」というセリフ。
サラリーマン世帯が多く見る情報番組のこの枠に、連発して流れるコマーシャルを見て、どう考えたらいいのでしょう。
対象者は誰?
お金の使い方は何?
返済能力があるの?
返済者が返済をしない場合は、どうなるの?

考えただけでも、暗くなりました。(こんな社会に誰がした!!・・・・私達です、反省です)
我慢、ガマン、がまん、何に対して我慢が必要なんでしょう。
考えついたのは、お金がなくても豊かに生活ができる何かを探すことでした。
そして、子どもたちには、改めて「お金」ってなに?を伝える必要があると気がつきました。

こんな日本に誰がした!!と攻める気持ちはあるけれど、
子どもたちに「お金のこと」を一緒に考えるチャンスだと思えば良いんだわ。
だけど・・・・・説得力がないんだぁ〜、私のお金の使い方は自転車操業だから。
同じ釜の飯を食う
[2008年06月11日(水) ]

我が家では、母(義母)が亡くなる前までは完全2世帯所帯でした。
一階と二階にそれぞれに自分たちに背丈に合う台所を持ち、食事の支度をしていました。

父は、母が亡くなるまで三食の食事を作っていました。
母が亡くなり、三度の食事をどうするか父と話し合いをしました。
父は、生きる基本は『食』と考えている人です。
自分の好きなものを好きな時間に食べれることを望んでいましたので、
朝食は自分で作り、昼食と夕食だけ私が作ることにしました。
食事時に、父が二階まで足を運んでもらうのが大変なので、私は一階にあるちょっと低い台所で支度するようにしました。ですから、今後は文字通り、「同じ釜の飯を食う」ことになったのです。

私は時々、外出をします。
12:00ジャストに昼食が欲しい父のために、ワンプレートにおかずを用意をすることにしました。
といっても、子どものお弁当と同じおかずです。
息子の学校が休校の時にも、同じように息子の分も用意をして外出をします。

ある日のことです。
家に帰ると、息子の分が手つかずのままになっていました。
「あれ?どうしたんだろう〜●●(息子の名前)は家にいると思ったんだけど、食べてないね。」と父に言うと
ややご機嫌斜めに「●●はどうした?!」と私に聞いてきたのです。
「昨日、修学旅行から帰ってきて、今朝は朝練で朝早く出て帰ってきてそのまま寝ていたから・・・まだ寝ているのかもね」と私は答えてから2階へ上がりました。
息子の部屋に行くと案の定、息子はウトウトしていました。
私が「おいおい、朝から何も食べていないんじゃいの?何か食べなさいよ。」と言うと「うぃ〜ス」と言いながらも全く起きる気配なしです。
反抗期ですので、それ以上は言わず、あとは本人に任せて様子をみることにしました。
しばらくして、父が二階に上がって来る気配を感じました。
その後、静かに息子が下に降りていきました。

しばらくして、下の台所に行くと息子の昼食のおかずがありませんでした。どうも食べたようです。
たっぷり睡眠をとってスッキリした息子に「食べたの?」と聞いたら「おじいちゃんが、『食べろ』ってきたんだ。」

『なるほどね。』と私の心でつぶやきました。

私は、おじいちゃんに何と言っていいか考えていました。
「母親として、昼食も食べないように躾けた私を責めるかしら?」・・・そんな気持ちもよぎりました。
でも、同じ釜の飯を食っているのです。
家族として、父なりの行動をとってくれたことに感謝をしようと思い直しました。

夕食の時、私はおかずをテーブルに用意をしながら「おじいちゃん、さっきは●●に『ご飯をたべろ』って言ってくれてありがとう。私も言ったんだけど、今、反抗期だから素直に聞いてくれないのよ。おじいちゃんが言ってくれたからこそ素直に食べてくれたのよ。助かったわ〜。これからも頼りにしています。」と私の正直な気持ちを父に伝えました。
実は、この言葉を言うのに勇気がいりました。
それでも「そんなことじゃ〜ダメだよ。」と言われるのが怖かったからです。
でも、父はニッコリと笑ってくれました。
そして、なんとなく父(おじいちゃん)の威厳が保たれたのかなと感じました。

「同じ釜の飯を食う」は、家族で育ち合うことにつながるのかなぁ〜などど感じた日でした。
「みんな」って何人?
[2008年06月09日(月) ]

昔、私の友人が中学校の時に父親に言われた言葉です。
友人の住んでいた場所は、繁華街に近く流行に敏感な家庭が多く住んでいる地区でした。
友人の周りの友達は、いつも最新流行のものを持っていたので、友人は父親に「あれが欲しい、みんなが持っているんだよ。持っていない人は私だけだよ。だから買って買って!!」とせがんだそうです。(お願いをしたそうです。)
ですが、友人の父親は子どもの交友関係を知っていたので「みんなって、誰?何人いるんだ。学校の全員が持っているのか?」と言われてしまい、結局買ってもらえなかった思い出を話してくれました。

耳が痛い話です。
子どもが「みんなが持っているんだよ〜〜、持っていないのはオレだけだよ!!」と言われ、つい根負けしちゃいそうだからです。
そういう場面になると、私は「みんなって何人?」という言葉を思い出しています。

昨年の話ですが、ある情報番組で、子どもの携帯電話の所持率が、「4人に1人は持っている計算になります。」と言っていました。これを聞いて、「4人に一人とは」かなりの所持率だと思う人も多いでしょうが、
持っていない所持率を考えると「4人に3人は持っていないということです。」
友人の「みんなが持っている」というのは、名前が挙げられる数人なだけで、「みんな」ではないのです。

そんなことより、みんなで考えなくてはいけない問題があります。それは日本の自給率です。
今の日本では、食料輸入が止まれば、今のような豊かな食事を「10人に4人しか食べられないのです」
言い方を変えれば「10人に6人は食べれない」のです。
かの有名なマリー・アントワネットの名台詞で「パンがなければケーキを食べればいい」と同じ考えを持っている人が大勢いては大変です。
食べ物は全て生きものです。
作らなくては出来ないのです。成長には時間がかかります。一つの歯車が欠け落ちると回らなくなるのです。
戦後すぐの食事になる前に、すこしづつ自給率をあげる生活をしていかなくてはいけません。
それこそ、「みんなで」です。
せめて「10人に7人が食べれるように」国産自給率をあげましょう。
それが、子どもたちの未来につながり、国内の労働の確保になるのかなと最近考えられるようになりました。
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