かぁちゃん、ただ今 育自中

子供を育てているつもりだが、実は親が育てられているのかもしれない。
「育児は育自」 私は、今も育っています。

     
« 2008年01月 | Main | 2008年03月 »
それぞれの荼毘
[2008年02月29日(金) ]

母の葬儀は、大勢の方が弔問に来てくださいました。
遠方から父や母の親戚が駆け寄ってくださいました。

私が住む地域では通夜を夕方に行い、翌日の午前中に告別式を行い、そのまま荼毘に向かいます。
母との最後の別れを終え、私達は別室で昼食を取りました。
母との別れは辛いけれど、ご飯は美味しい。
久しぶりにあった親戚達と近況話に話が弾みます。

旦那が「母方の親戚と父方の親戚が揃っているのですが、こんな時にしか顔が会わないというのも、何とも残念ですが、誰がどこの親族なのかわからないでしょうから、自己紹介なぞ・・・」と一番年長者の父のお兄さんに振ると「おじさんは、ただ今2回目の食事に入っているようなので(薬)、隣の○○ちゃんへ(従兄弟)」と進め、それぞれが母との思い出や父と母と結婚式の思い出話へとタイムスリップしていきました。
時には笑いが起こり、拍手が起こり、母と過ごした時間を思い語らい、父への気遣いの言葉をいただきました。

母が、亡骸になった頃には、親戚が一丸となり、母の骨を骨壺に収める事ができました。

父が位牌を持ち、旦那が遺骨を持ちました。
「あたたかいよ。」と遺骨のぬくもりを旦那が感じていました。

うちの親族を乗せたバスの向こうに一台のタクシーが止まっていました。
中から職員の女性と、リックサックを背負った中年の利発そうな一人の男性が白い遺骨を抱いて出てきました。
しばらく、二人は話をしていました。
そういえば、同じ会場の最上階で「家族葬」をしている葬儀がありました。
荼毘の順番も同じくらいでした。
たった一人のお見送り、そういう荼毘もあるのだと知りました。

会場に戻った母は、親戚を送る番です。
「まだ、遺骨が温かいよ。」という言葉に旦那の従兄弟が近寄ってきました。
「ちょっと、触っていい?」
「はい、母も喜びますよ。」と私は、子どもたちにも触るように勧めました。
従兄弟は、少し涙ぐみながら「ありがとう、自分の父が早くに亡くなって、子どもだった私が長男で持ったんですよ。重いし、落とさないように気をつけて・・・・・・この温かさです。思い出しました。ありがとう・・・・・・。」と一礼をされました。
「いえ、こちらこそ、母の思い出をまた一つ増やすことができました。」とあのぬくもりは、持った人だけの大事な大事な感覚です。
旦那は、しっかり感じたことでしょう。
そして、子どもたちも、あの場に居た人達も、またの機会にあのぬくもりを触れた時、きっと母のことも思い出してくれることでしょう。


乗り越えました、其の二
[2008年02月27日(水) ]

母が亡くなっても、普段と変わらない生活を送っていました。
それは、いつもと同じように食事を作り、お話をして・・・静かな静かな一時でした。

別れの式が近づき、あちらこちらの親戚が泊まりに来ることになりました。
嫁の私は、しっかりと仕切り、食事・床の準備に忙しく動いていました。
テレビの好きな両親は、四六時中番組を流していました。
それが、母が亡くなって一切テレビを見なくなりました。

何を見ても面白くないのです。
何を見てもくだらないのです。
何を見ても「あ、そうですか」という気持ちになるのです。
・・・・・・・・・空しさだけがわき上がってくるのです。

宿泊の準備のために、私は一人で大型スーパーに行きました。
ちょうど、バーゲンだったらしく、店内はお客さんであふれかえっていました。
品物を吟味している人、バーゲンを漁る人、時間をつぶしている人、子どもを連れ回している人、
お年寄りと仲良く買い物をしている人・・・・・・それは、日常の光景なのに、素直に受け入れられない自分がいました。
この大勢の中で、私と同じような気持ちを持っている人が何人いるのかしら?
『いるはずがないでしょう!!』
エスカレーターを上がりながら、人の群れを見てそう考えていました。

母の元に友人や知人、旧友などが訪ねて下さいました。
それは家族同様に、母との思い出を持っている人達です。
一人の人が居なくなると、こんなにも寂しくさせるのかと思いました。
母との思い出話を聞きながら、家族はその方の悲しみも受け取らなくてはいけないのだと、思いました。
きっと、人の悲しみを受け取り、互いに共感し合うことで、家族は強くなることが出来るのかもしれない。
あの人の群れの中にも、同じような気持ちを乗り越えた人が、いるにちがいない。

テレビ番組のバカバカしさも、バーゲンのチラシも、『こちらの世界に戻っておいでよ』と
誘ってくれているのかもしれない、と思えてきました。

乗り越えました、其の一
[2008年02月25日(月) ]

母の通夜と告別式の日取りを家族全員で話し合をしました。
遠方の親戚への配慮と娘の大学受験とぶつかっていたからです。

母との最後の別れには、家族が全員揃って欲しいと願っていました。
そのために式の前後で二つの大学を受験をすることにしました。
娘は、自分の勝手で式を遅らせることに戸惑っていました。
そして、おばぁちゃんとの最後の「行かないで」という言葉が気になって仕方がありませんでした。

「親」として試されるときが、山のように持ち上がって来ました。

「あの時、お父さんの言う事を聞いて、静かに病室を出ていっていれば・・・・・・」
「あの時、このまま居たいとお父さんにお願いをしておけば・・・・・・・」
大泣きをしながら、娘は一人で苦しんでいました。
「あの時、あの時・・・・・・・・」その一つ一つの問答に私なりの意見を言いました。
旦那も「ごめんな、こんな時に苦しめて・・・」と娘に優しく声をかけます。

母は、式までに数日間家にいました。
ご近所さんや友人達が、母に会いに来てくださました。
母の思い出話、父への労り、ご自身の事・・・・・・母の死は、残された家族と共にご自身の慰めにもなっているのだと気づきました。
ご近所のOさんが「おばぁちゃんは、ゆっくり家に居られるんだから、いっぱい向き合えばいいよ。」とおっしゃってくださいました。
まるで、返事が返ってくるように寝ている母に、家族が思い思いに部屋に入っていきます。

ご近所のSさんが「あの時、声をかけたいという思いをこころの中に仕舞い込んだままだったら、もっと辛かったでしょう。一番最後に声を交わしたのが、お孫さんだったのだから、良かったんですよ。」と私が娘に伝えたのと同じように私に答えてくれました。

絶対大丈夫だよ。
絶対・・・・・親は、子どもに「絶対の安心感」を持たせなくてはいけないのです。
それは、芯のぶれないピアノ線のように、まだ細くても、これから太く育っていくと信じて。

追記
息子は、病室の隅で涙を堪えていました。
野球仲間の友達に、昨年おじいちゃんを亡くしたT君に「オレも、じいちゃん死んじゃった時ロビーで泣いたよ。」と
息子の気持ちに添ってくれました。
友は、ありがたいです。
その日の夕食
[2008年02月22日(金) ]

父の田舎は、長野県です。
年に何度か、父の田舎から野菜やお米が箱一杯に届きます。

父の得意の料理は、とろろ芋です。
すり鉢で、丁寧に長芋をすったきめ細かいとろろご飯が、美味しいこと美味しいこと。
「美味しくな〜れ」と長芋をゆっくり回しながら滑らかに下ろします。
その後、もう一度すりこぎで当て、生卵とだし汁でのばしていきます。
やれ、出汁が濃いだの、もっと丁寧に芋を下ろさないとダメなのだの・・・・よく二人で言い合っていました。

母が家に戻ってきた日
父は、もぬけの殻になっていました。
「夕飯どうする?」と私が聞くと
「どうでもいいよ。」と父はため息混じりで返ってきました。
「そう〜どうでもいいの?」と聞き返すと
「・・・・・・・・・・田舎から前に送られた来た自然薯があるんだよ。○△(甥っ子)が大変な思いで収穫してきてくれたんだから、腐らすのはもったいないんだよなぁ〜」と返ってきた。
「そうだよね。じゃぁ〜とろろご飯にしようよ。それで足りないようなら、うちに長芋があるから・・・」と言いながら、すり鉢を出しました。
「そうしようか、ばあちゃんも好きだったから」と父は甥っ子の作った自然薯の皮をむき始めました。

朝早くに母が家に戻り、それから私達と同じ食事を母の前に置きました。
父が長芋を下ろし、私が出汁を取る・・・子どもたちが匂いに誘われて、おじいちゃんと一緒に芋を下ろしました。
「そんなに強くやったらダメだよ。」と父のだめ出しの声が聞こえます。
「二つに分けよう・・・・」父は積極的に動き始めました。

夕飯の準備も整い、ご飯を盛り、美味しそうに下ろされたとろろをご飯にかけました。
誰も何も言わないのに、みんな母の枕元にいました。
「とろろ、出来たよ。」おじいちゃんはおばあちゃんに話しかけていました。
そんな父を旦那と子どもたちが囲んでいます。

その日の夕食の時、ほろ酔いになった父は戦時中の話を聞かせてくれました。
父の底力の原点は、そこにあると初めて知りました。
戦時手帳も見せてくれました。
私は2度目ですが、旦那は初めて見せてもらいました。
若い記憶に戻った父は、そこから歴史が蘇ってきたのでしょう。
何度も何度も、母の元に一人静に座っていました。


ロウソクの炎のように
[2008年02月20日(水) ]

ロウソクの炎を燃え尽きるのを見たことがありますか?
短くなったロウソクは、少しづつ細くなり、そのまま消えていくようにも見えます。
でも、燃え尽きるロウソクの炎は、最後の力を振り絞って、一度大きく燃えるのです。
そして、シュ〜っと、煙が出て消えていきます。

目が覚めた母は、ややうつろ気味でしたが、声のする方に顔を向けてくれます。
「痛い?」
『そうでも、ないよ。』と首を振る。
「また来るからね。」
『分かったよ。』と首を振る。
私達は、一日も早く母の回復を祈っていました。

次の日、母の一番気にしていた姪っ子と弟夫婦がお見舞いに来てくれました。
看護婦さんが「名前が言えるほど、回復しましたよ。」と教えてくれました。
母の元へ行くと、昨日よりハッキリとした目つきになっていました。
「おばあちゃん、○○ちゃん(姪っ子)が来てくれたよ。」
「おばさん、・・・○○です。少し太ったでしょう。」
「お義姉さん・・・・早く良くなってね。」
と口々に母に声をかけてくれます。
父は、冷たくなっている母の足を一生懸命にさすっています。

「おばぁちゃん、明日何か持ってくる?」
『いらないよ。』と首を振る。
「でもね〜、お煎餅は、まだダメよ。もう少し良くなってからね。」と私が意地悪に言うと
『ダメなの!?』と目を見開き、私の顔を見ました。
「ゴメンね。もっとよくなってお医者さんが良いって言ってからね。」と私は母の白髪頭をなでました。
明日、先生に内緒で私は、お煎餅を持って来ようと思っていました。

その夜、早めに帰宅した旦那と子どもたちが、面会終了時間一時間前に病院に入りました。
病室へ行くと母は点滴の処置をしたり、X線を撮りに行ったりしていたので時間が刻々と過ぎていきました。
旦那と子どもたちは、ただ母の帰りを待っていましたが、面会時間はとうに過ぎてしまいました。
看護婦さんは、特別に母との面会を許してくれたそうです。
「おばぁちゃん、」と子どもたちが声をかけると、
『うれしいよ』と首を縦に振ってくれたそうです。
しばらくして、静かに病室を出ようと旦那からのサインを受けた子どもたちは、
「もう一度、おばぁちゃんに声をかけてくる」と病室に戻ったそうです。
「おばぁちゃん、明日また来るからね。」
『行かないで』と言ったそうです。
「もう面会時間が過ぎたから、帰ろう。また来るからなお袋。」と旦那は子どもたちに声をかけたそうです。
それは、今日より明日の方が良くなると信じていたからです。

次の日の朝早く、病院から電話が来ました。
私は、家族全員起こして病院へ向かいました。
当直の先生は、母に心臓マッサージをしながら、経緯を話してくれました。
何十分も母のマッサージをしてくれました。
それは、病院と家族の話し合いで決めたことでした。
そして、母の意志でもありました。

主治医の先生が駆けつけてくれました。
母の命の電池を替えても、ロウソクは燃え尽きてしまいました。
家族に囲まれて安らかな顔をして、永久の眠りにつきました。

臨終の間近は耳が聞こえていると、ある本で読んだことがありました。
私は、家族みんなに「今のうちにおばぁちゃんに話しかけて、何か伝えて。言うなら今よ。」と催促して
一人一人、おばぁちゃんに話しかけました。

「おばぁちゃん、ありがとう、楽しかったよ。」



三人だけの約束
[2008年02月15日(金) ]

何年か前、母(お姑)と一緒にスーパーへ買い物に行くと「これ、おじいちゃん好きだから、買ってあげてね。」と小魚の佃煮を手に必ず言われました。
一日中顔を見合わせても、褒め言葉の一つ出てこない夫婦なのに、相手の好みの物をそっと
テーブルに置く、そんな両親です。

母が台所に立てなくなってから、父が三食作っています。
それは、父のポリシーで「食べることを自分でできなくなったら、もうおしまいだ。」という考えがあるからです。ですから、畑を耕し野菜を作り、調理場に立つわけです。

そんなことを言っても、高齢の父は、コンロの上に鍋をかけっぱなしにして、度々焦がしています。
そんな行動を見て、母が「祭っ子さんに、もうお任せしましょうよ。」と父を説得しましたが、
食べることに拘束されたくない父は、「どちらか(父か母)が居なくなったら、任せるよ。」と母と私に約束をしました。

『食』は、生きる上での「基本の基」です。
「食べられなくなったら、おしまいだ。」という裏側には、「食べたい物を食べたい」という想いがあるはずです。私は、両親のサポートに回ることにしました。

先週、母が緊急入院をしました。
「延命処置はどうしますか?早く決めてください。今ならまだ間に合う。」と医者に選択を迫られ、一縷の望みをかけて、延命処置をすることにしました。

その日の夜、消沈しきった父に私は夕食を運びました。
「美味しかった?」
「うん、旨かった。」
「明日から私が作ろうか?」
「いや、おばぁちゃんが帰ってくるから・・・・・オレが作るよ。」
「そうだね。」

入院をして4日目、母は意識が戻りました。
ベットの横で、父は嬉しそうな顔をしていました。(口には出さないけどね)
母が家に戻ったら父は何を作ってあげるのかな?
きっと・・・・あれだろう。

打ち止め?
[2008年02月13日(水) ]

息子は4月生まれです。
出生時の身長・体重が、53センチ・2994グラム。
それから14年、今は175センチ・???グラムになりました。
私達夫婦の身長は、ほぼ一緒で170センチに少し欠ける高さです。
女性の私には充分だけど、旦那は、もう少し高さが欲しかったようです。
ですが、これも遺伝なのか、私の家系は背が高い人が多く、旦那の家系は、高くありません。
旦那は、その中でも背が高い分類に入るぐらいです。

昔は、女性が望む男性の価値観に3高がありました。
高学歴・高収入・高身長です。
より良い伴侶選びは、3高より、もっと大事な基準があるのですけれどね。
でも、ほどよい背の高さが欲しいと旦那は息子に託すわけです。

「おっ!お前、背が伸びたんじゃないか?ここに来いよ。」と柱の簡易身長測定器の前に立たせます。
息子は言われるままにその前に立ち、身長を測ります。
「2センチ伸びているゾ!」とニヤニヤの旦那。
もうすでに、お父さんの背を越している息子は、わざわざ目線を下げてお父さんと話します。
「もう〜終わりかな?!」と息子は計算機を持ってきて、計算をはじめました。

「オレの身長は・・・・174.4センチだから、・・・もう越えたから伸びないかもな。」
「何々?わかるの?」と私
パルティオの友達が教えてくれたんだよ。
(父の身長+母の身長+13)÷2=男の子
(父の身長+母の身長−13)÷2=女の子
だってさ。」
「だけど、せめてあと5センチは伸び欲しいなぁ〜」と旦那。

以前、息子は離断性骨軟骨炎で手術をしました。
最後の検査の時、エックス線を見ている医師に「息子の身長、まだ伸びますか?」と聞いたことがあります。
先生は「どれどれ、もう成長線が見えなくなってきているから、ぐ〜んと伸びるのは終わりかもね。」と言われました。確かに小学生の時に写っていた白い線が見えなくなっていました。
でも、あれから4センチは伸びているのです。

身長が伸びるスポーツがあるそうです。使う筋肉がそうさせるのでしょう。
スポーツによって体格や柔軟性が違いますものね。

リハビリの先生に「背が伸びる方法って無いですか?」と聞いたことがあります。
リハビリの先生は「寝ることですね。成長ホルモンが大事だと思いますよ。」と言い終わった後
「オレより大きくなったんだから、もう良いだろうよ。」と笑いながら話していました。
リハビリの先生の元に通って足かけ3年、その間息子はリハビリの先生の身長を超したのでした。

息子よ。
もっと、背を伸ばしたかったら10時前には寝てくれ。
でも、Z会の平日教室から帰ってきたら・・・・・無理なのか。
血が騒ぐ
[2008年02月11日(月) ]

先週末、何年かぶりに関東で雪明かりの朝を迎えました。
外が一面真っ白な世界は、世の中の全てを消してくれる力があります。
屋根も道路も垣根も電線も車も庭にも・・・・・全ての色が白一色になります。
天から大きな大きな風呂敷をかぶせられ、『目に見える全ての時間が止まる』そんな感覚になります。
そんな雪が降る朝は、私はつい小躍りしたくなります。

童謡の「雪やこんこ」の犬のように、外に出て行きたくなります。
私は、朝の準備を一通り終えて、我が家の前の雪道に、はじめの一歩をつけに外に出ました。

月例テストを受けるためにZ会の教室に向かう息子は、この雪のため駅まで歩いて行くことにしました。
そんな息子を見送りながら「帰って来たら、何か雪像作りでもする?」と聞きました。
「そんな暇はないよ。そんな時間があったら寝ているよ。」と答えて、
息子は、真っ白い道に息子の道を作りながら駅へと向かっていきました。
そんな息子の背中を見ながら『成長したなぁ〜』と感深いものを感じました。

子ども達が小学生の頃は、雪が降るとカマクラ作ったり、雪だるまや雪像を作って一日遊んでいました。
「フン、そうですか」と私一人、雪かきをしながらセッセと雪を集めました。
夜勤でまだ帰ってきていない隣の若夫婦の家と90歳で一人暮らしをしている家の前と・・・ガリガリと雪をかいていきます。
内地仕様の雪かきは、重い雪には対応ができないようで、重い雪を持ち上げて根もとが壊れてしまいました。
「あ〜〜つまらない。」
子どもが小さいときは、「もうお家に入るわよ。」と言っても「まだ!まだ!」とずっ〜と遊んでいたのに、子どもが大きくなると、雪かきもただの労働にしかならないわ(笑い)

外に出て行ったきりの私を、娘と旦那が「お母さん、血が騒いで表に行ったきりだわ。」と話していたそうです。
テレビの中では、交通情報が流れ、雪の被害が沢山報道されていました。
大雪・台風・水害・・・自然の力は、やはり大きいです。

そうそう〜、北海道に居たとき、内地ほど『約束時間』にうるさくなかったことを思い出しました。
「モシモシ・・・ダメだわ〜、雪がひどくて行けそうもないわ。」
「しぁ〜ないね。」
道産子の大らかさは、きっとここから来ているのかなぁ〜。

追記

雪かきの途中で、近所の小学生と一緒になりました。
我が家の町内には大小の雪だるまがあちらこちらに飾られてありました。




北海道仕様
[2008年02月08日(金) ]

私は北海道出身です。
こちらに嫁に来て内地(本州のこと)と北海道の違いに驚いたことが数々あります。
例えば、家の作り方(水道、屋根、窓・・)、季節の過ごし方、食べ物の違い、着る物、車・・・・
勿論、習慣も人の付き合い方も違います。
風土も季節の温度も湿度も地形も・・・と違うのですから、その土地ならではの習わしが続いているのでしょう。
ですから、「郷に入れば郷に従え」という言葉に納得をしています。
郷に入れば、郷の良いところが発見でき、私は心豊かになれました。

内地の生活に慣れた冬に、田舎に帰ることがありました。
空港に降り立った温度計は、マイナス6度。
久しぶりに痛いような寒さを体感して、私は内地仕様の体になったと驚いてしまいました。
空港から市内に入り、私はまっすぐにデパートに入りました。
目的は、北海道対応のコートを買うことでした。
デイスプレイされているコートは、一見、本州で売っているものと違いがありませんでしたが、
袖口が2重になっていたりと、素人目には分からないところで、寒さ対策がいっぱいあるのでしょう。とても、暖かく身を包んでくれました。
長靴、車、水道・・・と北海道仕様は、極寒にも耐えうる工夫がされています。

先週、娘の受験旅行で関西に行ってきました。
前日に関西のホテルで宿泊して、当日は娘が受験をしている間、私は一人で大阪見学をしてきました。(良いところいっぱい、それはまた後ほど)
着用したコートは、北海道仕様の茶色のコート。
フードの周りにボアが付いた無難なコートです。

これが・・・・暑い。
寒さ対策のために巻いていたマフラーもしまい、帽子手袋は、バックの底に押し込む始末。
買い物荷物を両手に持ち、コートを脱いで収めるスペースなど全くなかったので、汗だくになって着ていました。
あ〜〜、関西仕様のコートが欲しかった。
亀と龍
[2008年02月06日(水) ]

先月、「初めての気功教室」に参加をしました。
講師は、昨年から「キレイな体を作りましょう」でお世話になった先生です。
前回は、健康のための食事と運動について講習をしていただきました。
今回は、体の中を見つめてみようという企画で、引き続きお願いをしました。

気功って、何なんでしょう。
講師の先生は、「『気』は、生きているもの全てにあるものなの。誰にもある『気』は今私達の体に中に眠っている状態の人が多いの。『気』は、自然や人間の活動を維持する目にみえないエネルギーなの。からだの中の『気』(エネルギー)を活用して、生命力(自然治癒力、免疫力)を最大限に高めていくために、今、眠っている『気』を呼び起こしてあげましょう。」と言われました。

先生は、実際に私達に『気』を感じられるように、空気を浄化した部屋に「天然の石」と「花のポプリ」「薬草」などをテーブルの上に置きました。
その上にそっと手をかざすと掌に温かいものを感じます。場所を変えると温かさが感じません。
先生は「これが『気』です。邪悪のあるものからは『気』が出ません。気を強く感じる人は、邪悪なモノを何となく感じるそうです。その場に立つと身震いするとか、嫌な気持ちになるとか・・・・、いい気を感じましょう。」と気功のための動作を教えてくださいました。

先生が面白いことを教えてくださいました。
「たまに空を見ると良いですよ。雲の形が「亀と龍」に見えると良いんですって、亀と龍が向かい合って見えれば、なおさら良いそうです。」この話を受験生の娘に教えてあげました。
受験に向かう電車の中で、娘が「お母さん、あの雲、亀に見えるよ。あ!!あれは龍だわ。亀がいっぱい泳いで見える。」
「そうね〜。良いことがあるかもね。」と私は軽く微笑みながら答えました。
娘には、良い『気』が芽ばえてきたのかもしれません。良いことだわ〜。

・・・・・・私には、ゾウの○ンコと蛇にしか見えなかったのですが・・・・・
| 次へ