何度も言っていますが、私は無宗教の人です。
教会に関しては観光と歴史・美術の本でしか縁がありません。
私は、子ども時分から棘(とげ)のあるモノの言い方をしていたようで、
知らず知らずに人相がきつく見えたのでしょう。
母は、そんな私に「目は笑いなさい。」といつも注意をされていました。
「目は笑え」とはいかなるモノか・・・・、出来るわけないジャン。
私は長い間、母の言いつけを理解出来ないでいました
そんな私ですが最近、ようやく「目が笑える」ようになれました。
小さい子どもを持つママ達のわが子を見る目が「きつい」と感じることがあります。
「いじらないで」「触らないでね」「うるさくしないでね」「私を困らせないでね」「人様のジャマにならないでね」「汚いじゃない」「洋服が汚れる」・・・・・・まぁ〜理由はいっぱいあるでしょうが、視線がきつく感じのです。
きっと、私も同じように子どもを(社会の皆様たちに対しても)見ていたのでしょう。
子どもたちはそんな母の気持ちをくみ取ってくれる才能があるのです。
(今回の話に逸れるので、母の気持ちを汲み取る話はこれで終わりにします)
きつい視線の先には、緊張しか生まれません。
私は、その事に気が付いたのです。
相手を威嚇したいときの視線、自分の信念を貫き通したいときの視線は、時として必要でしょう。
だが、聖母マリアのように「全てを受け入れる」視線は、母として必要なわけです。
私の子どもが小さいときに、一枚の写真と出会いました。
それはアフリカの何一つもない草原で、子どもがしゃがみ込んで何かを見つけいじっているのを、母親らしき人影が、じ〜っと遠くから子どもを見守り、自分の元に返ってくるのを待っている写真です。
アフリカの草原の先には、家があるのか何があるのかわかりませんが、道草をしているわが子を、温かい眼差しで見守っている写真に、「早くしてよ。」とせっつく様子は何も感じませんでした。
きっと、母の元に帰った子どもは、満足そうな顔で、見てきた全てを母に話すのでしょう。
その母の目は、きっと聖母マリアのように「全てを受け入れる」・・・・「笑っている目」をしているに違いないと思いました。
「目が笑う」=「優しい眼差し」=「相手が安心して話せる」=「お互いに心穏やかになれる」
きっと、私の母はそう言いたかったのでしょう。
追記
だけどさぁ〜、旦那には出来ないんだよね。
「優しい眼差し」が。
追記 その2
ただ今、横浜では
アフリカ月間(5月31日まで)アフリカにご興味がある方は
是非、いろいろなイベントに参加してください。