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[2008年10月03日(金)
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私は二人の子どもに恵まれました。
子育てもその時代の流れがあり、私は自分が良かれと思った子育てをしてきました。
ですが、子どもはロボットではありません。
大きくなるにつれ、豊かな感情を親にぶつけてきます。
親は良かれと思っていたことは、何が何でもやらせたい。
子どもは親の言いつけを素直に聞き入れる事が大事で、それが大切だと信じていました。
それが、5年前の長子のある事件で、子どもは自分の思う通りには動かないということを知りました。
子どもの話を聴くことの大切さ、子どもの感情を癒すことの大切さ・・・・コミュニケーションの大切さを、
子育てに関する講習会の数多くの講師の先生方から、たくさんの知恵をいただきました。
ワークショップを経験をして、子どもの気持ちになったり、自分自身をかえりみたり・・・・・・と私の子育ては、スキルアップしていきました。
ですが、何かが足りない、口先目先の行き場はどこに置くのかは十分にわかってきましたが、
私には何かが足りないと気が付いたのです。
そのことに気が付いた時、はじめて私は「人の親」になれました。
長子が15歳の冬のときでした。
それを言葉にすると何かと書くと「オニババ化する女たち〜女性の身体性を取り戻す」三砂ちづる著 光文社新書にわかりやすく書かれていました。
この本は、性や思春期、月経、出産という、女性のからだにとって重要だと思われることについて、少し違った視点から取り上げたものです。作者はここまで断言していいのかしら?と思うのだが、視点を変えたら、ものすごく納得がいく内容でもありました。
「オニババ化する女たち〜女性の身体性を取り戻す」三砂ちづる著 光文社新書〜〜より引用〜〜
「母親の軸がないとしつけができない」
子どもはあふれるほどの愛情をたくさん与えて、たくさんふれてあげることはないよりも大切ですが、同時に、この社会で生きていくのですから、ある程度の年齢になったらしつけることも大切になってくる。そういうときに重要なのは、親の側がぶれないということです。ルールや線の引き方というのは、共同体や家族によってそれぞれ違うのは当然で、大切するものはさまざまでよいと思います。ただ、親の側がぶれないものを持っているか、そこだけが大切なのです。
しつけをすることと、子どもをコントロールしようとすることは、まったく違います。自分もコントロールされたことしかない母親は、子どもも思うようにコントロールしようとする。それは間違いです。しつけと、自分の思い通りにしてほしい、と言うことの違いは、しつけというのは、人間として生きていくことのルールを教えることです。自分の思う通りにしてほしい、というのは自分の都合のいいように動かしたい、ということです。
結局、親が、自分がどんなふうに生きていくのか、そんなふうに人と関わっていったらよいのか、ということに関して、確固たるものを持っていないと、子どもをしつけられないわけですよね。自分が何を大事にしているのか、ということがわからないと。つまり、親の軸がぶれていると、子どもは育てられないのです。ですから、私はそれがどんなルールであってもよいのですが、親の側がぶれなくて、人間の対する思いみたいなのがはっきりしていて、それをいつも外に出していれば、子どももぶれないのではないかと思うわけです。そこの部分で親がぶれるので、子どももやっぱりぶれてしまうように思います。
でも、そんな親でも、自分が確固たるものを持ったり、ぶれないよう成熟する、というのには限界があります。親自身も成長している存在ですから、はじめからその成熟が持てないまま子どもを持っていることももちろんあります。そこで周囲が、これだけやっていればなんとか大人になれるよ、ということで積み重ねてきたものが、子育てやしつけに関する世代からの知恵だったと思うのです。でも今は、母親自身がぶれてしまっているということに加え、そういった共同体の子育ての知恵というものもなくなってきてしまっている、というところが問題なのでしょう。子育ての知恵と子どもを管理することが混在していて、親になる人に確実なメッセージとして心に響くものを届けられていないのです。〜〜〜引用以上〜〜
このぶれない母親というのは、肝のすわった、腰のすわった女性というのは、女性の月経、性体験、出産をこなしていくことで、母親のなる頃にはそれなりの軸のある身体になれるような仕組みを本来もっているのが、現代の日本・・・いや今の70歳代の人たちから、女性の身体を軽視され、その身体性が失ってしまったというのです。
でも、どんな出産経験をしても、子を持つ親として「軸のぶれない親」というのは、経験上必然的だと感じます。
どんな軸なのかは、それぞれだけど、人として正しい軸が良いのが一番です。
そのために、私の軸を育てています。
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