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夏の大掃除 (2008年08月24日)
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プロフィール

野中すみれと申します。
二人の息子の胃袋を満たすのに毎日苦労しています。

水無月

[2008年06月25日(水) ]

去年の6月、むしょうに水無月(みなづき)が食べたくなり、探したのに見つからないまま季節が終わってしまいました。

今年は6月に入ってからせっせと探していたのですが、なかなか見つかりませんでした。やはり旧暦6月を意識したほうがよいのかしらと思案していたら、やっと見つけることができました。近所の和菓子屋にはなくて(というか、水無月そのものを知らなかった。やはりもともとが京都のお菓子だからでしょうか)、ちょっと足を延ばしたこの街の老舗にありました。

水無月をネットで検索すれば、その由来などはあちこちに詳しく書いてありますので孫引きを避けるために書きませんけれど、昔の人たちはお菓子にも季節感や祈りやさまざまなことをかけていたんですね。

  


今、和菓子屋さんに行くと、やはり季節のお菓子である「若鮎」(ぎゅうひ餡の入った、鮎の形をしたちいさなどらやきのようなもの、名前は違っても「鮎」の字は入っていることが多い)や麩まんじゅう、寒天やくずを使って視覚的に涼感を誘うお菓子(すぐ思いつくのは葛桜とか水まんじゅうとか…)が並んでいます。普段はあまり食べることがなくても、今の季節、和菓子屋さんに入ってみませんか。どれも一つずつ買いたくなるくらい、いろんなお菓子が並んでいます。

梅ジャム

[2008年06月18日(水) ]

最近の事件などで心が乱れるときには、何かに集中するのが一番。
…なんてわけではなかったのですが、ちょっとは心が落ちついたのは確か。
毎年のように梅を漬けているのですが、さすがに飽きてきた。
そこで、今年も梅漬けを作るときに、まだ青かった梅ははねておいたのですが、その梅が黄色くなってきたところでジャムでも作ってみようかと、新しいことに挑戦してみました。
これです。

  


1キロの梅を、下煮して下ごしらえし、種を外し、実を刻んで裏ごしして砂糖と一緒に煮詰める。
単純作業なんですが、初めてだったこと、裏ごしに思いのほか力がいったことなどで、小さな容器に少しずつ詰めて、取りきれなかった飴のようなジャムのついた鍋を流しに置いたら、どっと疲れてしまいました。

それでも初めてにしては上出来のジャムになったので、よしとしましょう。
梅のペーストはものすごく酸っぱくて、砂糖は800グラム使ったのですが、何回かに分けてどさっ、どさっと入れていく時は、これだけの量がなければだめだとわかってはいても、ジャムを作っているというより、梅の香りのついた飴を作っているんじゃないか(色もそんな色ですし)と錯覚するくらいです。やっぱりジャムはお砂糖をたくさん使いますね。昔、シュークリームを初めて作ったときも感じましたが、お菓子の状態しか知らないと、いくらでも食べてしまいますが、一度材料を調えて作ってみると、とてもそんなことはできませんね。(シュークリームのあの薄い皮に使うバターの量は、半端ではありません)

ここで、家族の感想などを書ければよいのですが、全然興味を示してくれず、今のところ私が一人で食べています。パンにつけてもよし、プレーンヨーグルトにトッピングしてもよし、私としては気に入ったジャムになったのですが残念です。

ただ、来年も作るかどうかはわかりません。裏ごしはとても疲れたので。(苦笑)
やっぱり追熟の梅より、木で熟れきった実を使うほうが実の種離れもよいでしょうし、またおいしく作れますしね。

あきらめないで

[2008年06月11日(水) ]

秋葉原の事件はあまりにも衝撃的で、大人として何のメッセージを子どもたちに送れるのだろうと考えてもなかなか心の中で整理がつきません。

だけど。

人と人とのつながりを、どうかあきらめないで。
世界には何十億人の人がいるのです。
一生の間に出会う人、話をできる人は、その中のほんのわずかに過ぎないのです。
今が絶望だからといって、あきらめるのは早すぎます。

よい本を心の支えにしてほしいと思います。
古典と呼ばれ、長生きしてきた本。
生きる勇気を与え、正邪を見極める方途を示し、登場人物の生き方を我が身にあてて考えることのできる本。

今こそ、人間の持つ善の方向性を勇気を出して外に示さねばと思います。
無念にも亡くなった方々への誓いとして。
若いみなさんへの、小さいかもしれないけれど生きるための希望のよすがとなるために。
ああいう大人がいるのなら、これから生きていくのも悪いことばかりではなさそうだなと思ってもらえるように。

95kgと97kgのあいだ

[2008年06月06日(金) ]

またまた蜷川のゴールド・シアターの鑑賞です。
1985年の劇の再演なので、今まで見た劇のように、あの当時の雰囲気かとちょっと身構えていったんですが、この劇はちょっと違っていました。

不条理劇なんですが、今まで以上にシュールです。
その裏側に何か読み取るものを…というのがあるんだろと決め付けて見に行った割には、あまりにシュールで、ばかげて(=不条理=absurde)いるので、ただ舞台を見て、舞台のエネルギーに身を任せてゆれているだけでよかった。理屈は抜き。

セリフはあります。ひとことひとことに観客に突きつけてくるものはあります。ただ、それをいちいち受け止めていてはかえって劇を小さくまとめてしまうような気もする。今までの劇に使われたセリフをモブシーンで複数の役者が同時に話すこともありました。そのセリフを以前話していたなと覚えていて聞くのか、この劇で初めて聞くのかでも観客の感じ方は違います。支配対被支配の構図もでてきますが、それをその通りに受け止めなくてもいいゆるい演出のように感じられるので、私は上っ面だけでながして、不条理を楽しむことにしました。

最初から最後まで、役者たちのエネルギーが刹那も途切れることなく舞台に渦巻きます。私はそのエネルギーに振り回されました。それだけでよいのだと思いました。今回の劇は言葉のもつ意味、裏の思いを考えるには、あまりにも不条理だったからです。

人がかつぐ95キロの砂袋と、97キロの砂袋、その違いを担ぎ方でどう表せと?
その演技を年配の役者がやるだけでも充分不条理。
妊婦役の女性がやるだけでも充分不条理。
いちいち考えていてはストーリーは進まない。
バレエの舞台の美しさに見とれるように、今日の舞台は舞台のエネルギーに身を任せ、翻弄される観客になりました。