思春期も終わった長男とは、大人同士の会話を楽しみ、現在思春期真っ最中、親を振り回して楽しむ二男をさらに高みから見下ろして楽しむ(時には本気で怒るけど…)日々を中心に、今までの子育てを振り返り、将来に気をもむ私の身辺雑記です。
[2007年05月30日(水) ]
今から四半世紀くらい前の中学受験は、鉢巻締めた小学生が「隣の子もライバルだ!」なんていうような光景をテレビのニュースで見たりして、おおなんて心の狭い塾があるんだろう…なんて見ていましたし、当時は結構奇問・難問も多かったと聞きます。
今は、ゆとり教育が子どもたちの学力を下げた、と、マスコミが報道していますけれど、当時よりいいことではないかしらと思うのは、受験問題から奇問がなくなり、難問も減っているのではないかなということです。親の立場からあちこちの中学の受験問題を目にすると、奇問・難問をもてあそぶのではなく、まっすぐに子どもたちに考えさせる良問が多いと感じます。学校としても、来てもらいたい子が解ける問題を作成してくれているのだなと感じます。それとも関連しているのでしょうか、今ではどこの塾でも、「隣のヤツを蹴落として…」なんて発破をかける話はひとつも聞きません。どこの塾に通う子も、それぞれの第一志望目指して、たとえ第一志望がだめでも、最善と思える学校に入学できるよう、互いに励ましあってがんばる姿を見ると、本当にうれしくなります。
ゆとり教育のために、しわよせを受けたのは、実技教科もそうですが、社会や理科もびっくりするほどです。小学校で学ぶ範囲ですから、テレビでクイズ番組を見たり、外遊びをしたり、家族旅行をしたりする中で自然と覚えるような一般常識とか雑学とか言えるような部分も多いと思うのですが、そういう内容を体系的に教室で学ばせたいと思うこともかなり外されています。でも、中学受験の範囲は、親が昔小学校で学んでいた範囲が残っていますし、中学側も、「これくらいは学んでわが校に来てほしい」と思うような内容を試験問題に出してきます。親から見ても、「自分たちが習ってきたことだし…」と思うのは無理ないと思うのですが、子どもたちが受験準備のために学ぶ量がずいぶんあることには胸が痛みます。
[2007年05月23日(水) ]
まだ長男が二歳のころのことです。
たまたま、某アミューズメントパークのチケットが2枚ただで手に入り、これはもうけもの、と、当時忙しかった夫は休みが取れなかったので、私の父と、私と長男と三人で行ってきました。二歳児は無料だったのです。とても楽しい一日を過ごし、いい思い出になりました。
ところが、数年して、長男は、当たり前のことですが、当時のことを全然覚えていないのです。やっぱりなあ、と思ったものの、ちょっとがっかりもしました。
アミューズメントパークの料金が、三歳未満が無料というのは、そういうことなのかもしれないな…とも思いました。やはり二歳児ではすみずみまで楽しむのは無理ですし、あとから思い出話をしても話に乗ってこられません。
それではと、私はこの経験から学び、二男が三歳を超えるのをじっと待ち、某某アミューズメントパークに、満を持して二人を連れて行きました。
……これまた失敗しました。
アミューズメントパークの中を歩いていて、向こうから歩いてくるキャラクター(の被り物をした着ぐるみさん)を見つけ、「ほらほら、来たよ、握手しに行こうよ」と誘いかけたら、長男はなんと言ったと思います?
[2007年05月16日(水) ]
国語の感想でほぼ言い尽くした感がありますが、算数に関しても国語と似たような思いがあります。
四則演算の理解と計算の速さ、これは基本中の基本だと思います。
ところが、ここのところをおろそかにしている中学受験を教える教師・親がいます。
知り合いのお子さんが苦労しているのを見ると、手も口も出したくなるほどです。実際出したこともあります。(私、文系なんですが…)
塾によっては、山ほどの宿題をだすところがあります。量をこなせばそのうち出来るようになるという考え方なのでしょう。また、難しい問題が解けるようになれば、易しい問題はあらためてやらなくても大丈夫です、と親に説明する塾もあります。
ところが、他の塾の中には、それほど宿題の多くないところもあります。そしてそんなに難問奇問もないのです。そういう問題は、学校別の対策が行われる時期になってから、必要な子にだけ、出されます。実績は案外、宿題の多くないところのほうがよかったりするのでは?とかんぐっております。
[2007年05月11日(金) ]
結婚してから毎年悩むのが、母の日のプレゼントです。
結婚してから、と書きましたように、贈る相手は義母です。母は「私はいいから。ほしいものもないし」と言ってくれるので、それに甘えて義母に何を贈るか、それはそれは必死で考えてきました。
義母の好みはなんなのか。何に一番喜んでくれるか。実にむずかしいです。
ある時、その好みを見つけて、それ以来ツボをつかんだプレゼントができるようになりました。
義母は昭和の初めの生まれです。戦中戦後、一番おしゃれをしたい娘時代をもんぺで過ごさなければならなかった世代です。ある年、花柄の日傘だったか、スカーフだったかを贈ったとき、ものすごく喜んでくれました。そのことを私の母に話したときに、「そりゃそうだ、あの世代は一番おしゃれしたいときにおしゃれのできなかった世代だから、花柄には飢えているよ」と言ったので、ああそうなのか、と、心の底から納得しました。
[2007年05月09日(水) ]
赤ちゃんのときから今まで、子どもたちは私が笑顔でいるかどうかを、結構気にかけているところがあります。
あれは長男がまだ生後2〜3ヶ月の頃だったでしょうか。ちゃんとおっぱいを飲んでくれるかしらと、心配そうにのぞきこむ私の顔に気づいた長男は、不安な顔になり、飲むのをやめてこちらを見るのです。はっとした私は、笑顔をつくって、「いっぱい飲んでねー」と声をかけると、安心したようにまた飲みだしましたっけ。
トイレトレーニングの頃、赤ちゃん用便座に座らせて、向かい合った私が両手を握ってやりながら「う〜ん」といきむときも、まじめな顔より笑顔で言うほうが効果がありました。一緒にいきむ私のほうは笑顔だと力が入らないので、つい真剣な顔になってしまうのですが、それでは長男も二男も不安がってしまうのです。
なにかをやらせよう、と親が下心満々で臨むときも、まず笑顔。
ごはんのときも、笑顔。私がトイレに入るときも、笑顔でトイレに消えました。
子どもたちが時間通りに何かができないときも、いらいらした顔を見せると逆効果なので、まず笑顔。どこでも笑顔。とにかく笑顔。
もちろん、人間ですもの、笑顔ばかりで子育てできたわけではありません。
いらいらをそのままぶつけるときもありました。
これは諭すだけではだめだというときはお尻をぱんぱん叩くときもありました。
でも、めったにないだけに、そういうときの効果はてきめんだったと思います。
今でも、私が不機嫌そうな顔をしていると、「どうしたの?」と心配そうに覗き込んでくる子どもたち。ありがとう。あなたたちのせいじゃないからね。ちょっと疲れたり、困ったことがあって悩んだり、このブログの話の種につまったりしたときだから、気にしなくていいのよ。
[2007年05月02日(水) ]
私は国語の教師でもなんでもありません。どちらかといえば文系の、本が好きというだけの人間です。ごく普通の公立の学校教育で国語を教わり、親の立場で子どもの勉強を見てやったり、よそのお子さんの勉強の様子を見聞きした上でのごくごく狭い範囲での感想です。
国語が得意になるには、…まず字を読むことが苦手では困ります。
小さいときから、本はたくさん読んでほしいなと思います。同じ本を何度も読み返すのも含め、毎日何かしら本のある生活が望ましいと思います。小学校中学年までで、1000冊近い本を読みきっていた長男は、国語が得意でした。小学校高学年になっても500冊を超えたかな?くらいの二男は、読むことはおっくうがりませんでしたが、読解問題はどちらかというとうんうんうなりながら考えるほうでした。
こんな二人の勉強を見ていての感想は、読解問題は、始めは、明快で、素直な良問を解かせることだなと思います。ひねってあったり、苦し紛れだったり、こじつけたりしているイジワル問題(これが案外、あるのです!)をやる必要はありません。難問も、6年生になるまではいらないと思っているほうです。素直な、でもきちんと考えさせる良問を解きなれた子は、ちゃんと筋道を立てた考え方ができるようになるようです。もちろん、それを支えるための読書と、日ごろから論理的に物事を考える訓練も必要だと思いますが。(たいしたことではないと思うのです。「メシ」「フロ」「ネル」という単語だけの会話をせず、文章にする生活をするだけでもずいぶん違うのではないでしょうか) つっかえないで読むために、漢字の勉強と音読は、基礎の基礎だと思います。つっかえる子は、自分が読んでいる途中でわからなくなるので、音読がきらいなことが多いようです。
私は、小学生のZ会のことは、子どもの年齢がずれていたため知らないので、それ以外の話になりますが、小学館とか、学研とか、老舗と言われる出版社の問題には素直な良問が多いように思います。反対に、受験塾の通信教育(受験非対応とうたっている内容のものなのに)には難問も多く、時には奇問に近いような問題すら散見されます。(小学校で習う、学年相応のレベルの問題が少ないように見受けられますし、意図的にそういう問題を排除しているようにも見受けられることがあります)
うちの子たちがZ会の通信教育(中学〜高校)をやっていて、感じたのは、Z会の通信教育は、大学受験を突破するために、高校時代にはこういう勉強ができていてほしい、であるならば、中学時代にはこういう勉強をしてほしい、という、最終目標から降りてくる目安の立て方をしているなということでした。