思春期も終わった長男とは、大人同士の会話を楽しみ、現在思春期真っ最中、親を振り回して楽しむ二男をさらに高みから見下ろして楽しむ(時には本気で怒るけど…)日々を中心に、今までの子育てを振り返り、将来に気をもむ私の身辺雑記です。
[2008年11月28日(金) ]
ナチョ・ドゥアトの振り付けによる、「ロミオとジュリエット」(曲はプロコフィエフ)を観に行ってきました。
ナチョ・ドゥアトというと、コンテンポラリーの人気振付家の一人で、まだ観たことがなかったのです。ですのでこの舞台はいったいどういうことになるのか、話はわかるのか、エロ丸出しだったりするのか(モダンやコンテンポラリーは油断できません 笑)、子どもも連れて行ったのでどきどきしておりました。
でも心配することはありませんでした。振り付けはとっても「コンテンポラリー」でしたが、とってもオーソドックスで安心して観ていられました。高校生の二男も連れてこられてぶつくさ言っていたんですが(いつものことです)、最初から最後までちゃんと観ていました。クラシックの「ロミオとジュリエット」を観たことがある人なら、振り付けの違いを楽しめたと思いますが、私はプロコフィエフの有名な曲にこんなふうに振付けているんだ〜と、振り付けの自由な動きに目を見張っているばかりでした。
舞台が終わった後、ドゥアトのインタビューがあって、観客の多くが残って話を聞きました。こんなに沢山の人が残ってくれたのは初めてだと、彼はうれしそうにインタビューに応えていました。彼はシェイクスピアが好きで、プロコフィエフの曲も好きで、よく読み、よく楽譜を読んで振り付けをしたんだそうです。振付家によっては自分のイメージを優先させるために、ストーリーを切り刻んだり、曲を並べ替えたりすることがありますが、彼はそれはしないと言い切りました。する必要もないし、原作者たちの思いをそのまま受け止めて振付けていきたいという考えなのです。コンテンポラリーのわけわかんない振り付けをする人たちの一人だと思っていたので、このオーソドックスな受け止め方に彼の、原作者たちへの敬意が伝わってきました。観客にとっても平易でわかりやすく、かつ、踊る人たちにとっても踊りがいのある難しい、しかし意味があって理解できる振り付けでもあったのではないかと思います。
舞台では、古典では踊らないようなジュリエットの母親や乳母までも踊りに踊ります。ジュリエットの母親役はまるでクラシックのプリマのような威厳を湛えていてすてきでした。そうですね〜「白鳥の湖」のオデットとか、「ジゼル」第二幕のジゼルとかミルタとか、そういう孤高の雰囲気を漂わせていました。娘にこれから待ち受けている運命をすでに予感してでもいるかのような感じでした。
タイトルロールの二人も当然のことながらすばらしいのですが、脇を固める人たちもすごくよくて。マキューシオで決まるでしょう!(※)と考えている私にも大満足のマキューシオだったし、すごいなーと思ったのは、このスペイン国立ダンスカンパニーのメンバーに、アフリカ系のダンサーが何人かいるのです。それがまた、脚も腕も長いから、見栄えがするのですね。いわゆるバレエブランだったら、絶対に見てくれで出してもらえないんじゃないかくらいの、いかにもなアフリカンの体型なんですが(お尻のあたりなどの雰囲気や、所作)、それがこのバレエではなんの違和感もなくヨーロッパ系のダンサーや、仮面をつけていても日本・韓国系だとこちらもやはり体型でわかってしまうダンサーの中に混じっていてそれも感動でした。
そうそう!日本・韓国のダンサーもいたんですけど、確かに観ていてすぐにわかってしまうんですが、頭はとってもちっこくて(肩幅も広いのかも)、その点の違和感は全然なくって、ああ、うれしいなあって思いました。コール・ド・バレエの場合、ダンサー全体でかもす雰囲気は大事。腕の短いのは技術でカバーできますが、頭は「あ、あそこにだれだれさんがいる」ってわかりやすいパーツですからね。そういうのが感じられず観られた(わかることはわかってしまうんですが、違和感がない…うーなんか書くと矛盾してますが)というのは彼らのものすごい努力の結果なんだろうと思います。
ナチョ・ドゥアトはストーリーものはこれしか作っていないそうなので、これから私が彼の作品を見にいくチャンスがあるかどうかはわかりませんが、今回のようなよい機会があれば、ぜひ観にいこうと思いました。(ただし、次に手がけるコンテンポラリーは、エロティックなものになるんだそうです)
(※)
この舞台、この音楽はこうでなくちゃ、というツボみたいなのがものによってあるんですが、私にとっては「ロミオとジュリエット」ならマキューシオがどう動くか、というのはとっても気になります。ほかに、ラヴェルの「ボレロ」だと、トロンボーンソロになったときに、どれだけアンニュイな演奏ができるかな〜というのが期待の一つだったりしています。
[2008年11月14日(金) ]
最近、あちこちで白洲次郎・正子夫妻のことが話題になっているようで、骨董とか戦後日本の歴史とかいったことにとんと疎かった私も、この方たちはどんな人だったのかしら、と、興味が出てきていろいろと本を読み漁っていたところ、パルティオZの日記のコメントでもいらしてくださる方たちからお話をうかがうことができ、ついに先日、その方たちと一緒に武相荘まで出かけて行きました。
武相荘
まず入るとお茶事のときの待合のような、長い腰掛が並んでいる休憩所があり、囲炉裏もあって火が熾されてありました。薄ら寒い日だったので、なによりのごちそうと、みんなでまず手をかざし、一息ついてから邸内を見学しました。
晩年の夫妻の暮らしをしのばせる食器の配置、身につけていた衣服の展示、次郎氏が日曜大工で作ったテーブルや、正子夫人が趣味にあかせて集めた骨董の展示など、心がしっとりと落ち着いて、目にも心にもごちそうをたっぷりと戴いた気持ちになりました。
書斎と書庫にはぎっしりと本が並び、そのジャンルの幅広さに目を見張るとともに、いやいや、これではすまなかったはずだと心の中では思ってしまいました。毎日のように数冊の本が献本されていたでしょうし、ご自分の関わった本や雑誌も毎週、毎月のように何冊と届けられたことでしょうし、それに付随するこまごまとした雑多な品々や事柄もここの主人を煩わせていたと思います。本にかかわる生活とはそういうものなので、あまりにも綺麗に整然と並べられた書庫に、「ここだけは嘘もあるかもしれないな」とこっそり思ってしまったのでした。
お昼時になり、お茶処でいただいたお昼も、ふだんなら絶対いただかないようなぜいたくなお弁当で、お願いする時はもったいないな、ぜいたくかな、と思いましたが、せっかくここまで出かけてきたので思い切ってお願いしました。心のこもったお弁当とサービスは、思い切ってよかったなと思いました。気温の低い日でしたから、スープがあつあつで、それがまずうれしかったです。ごはんもおかずもデザートも、ひと品ひと品が個性的で、かつ全体の調和もとれていて、お腹もちょうどよくいっぱいになり、お腹も大満足しました。
腹ごなしもかねて、庭の散策。晩秋の庭には「侘助」が咲き出していて、いつもならお茶室に一輪だけ花器に挿してあるような花が、見上げる高さに咲いているのを見るのは、ちょっとしたカルチャーショックでした。椿の花が椿の木に咲いているのは当たり前のことなんですが…。
一方では、案内の方が「琉球朝顔ですよ」と教えてくださった大振りの朝顔もまだまだ咲いていて、夏と冬が同居しているような不思議な感じにもなりました。
大きな孟宗竹が斜面にぎっしりと植わっていて、遠くから見たときもすごいと思いましたが、近くで見るのもまた一興です。風の強い時などは、どんなふうに竹が鳴るのかしらと思うと、今、ここは周囲をすっかり家々に囲まれているのですが、何十年前の、まだまだ畑や田んぼばかりが見渡せたこのあたりが想像されて、ここから見えるあちらの高台、遠くの高台にもこんなふうに竹林があちこちに植わっていたのだろうと思うと、いつまでもここの緑がありますようにと祈らずにはいられませんでした。
ご一緒してくださったみなさんと、心の洗濯ができて、本当に楽しかったです。
季節を変えてまた伺ってみたいものです。
[2008年11月07日(金) ]
あれはもう何十年前のことでしょうか。
長いミーティングで互いのことを語り合って原案を固めたマイケル・ベネットが「コーラスライン」というミュージカルをつくり、ニューヨークで大ヒット、その後日本でも劇団四季が上演し、私も観にいきました。前田美波里さんや市村正親さん、野村玲子さんが出ていらして、美波里さんのシーラが印象的だったことを覚えています。
ロングランの記録を打ちたて(その後「キャッツ」には抜かれるが)、一昨年ブロードウェイで再演された「コーラスライン」。そのオーディションの様子が映画になって、今、あちこちの劇場でかかっています。商魂たくましいなあとは思いましたが、観たい気持ちを抑えきれず、わくわくしながら映画館に行きました。
映画を観てびっくりしたのは、当時、日本版ではあれ、自分が観た「コーラスライン」がどんなに私の心に残っていたか。曲が流れるたびに、昔観た舞台の感動が蘇るのか、涙がでてしまうのです。ニューヨークの再演版では3000人もオーディションを受けに来たそうですが、最初に落とされてしまう人から、最終審査に残りながら最後に落ちてしまう人まで、どんな人も自分の可能性を信じて受けに来るのです。たとえその時は落ちても、自分自身を否定されたわけでない。たまたまその求められる役とギャップがあっただけ。明日はきっと、自分を求める舞台がある。
だから、選考されて役を得た人たちの実力と運、そしてそれを支えた努力には脱帽するしかありません。
もちろん、同時にアンダースタディ(代役)の審査も進んでいたようですし、映画では最終選考で落とされても、実際はあとでキャストが交代する時に呼ばれた人もいます。
特に、シーラ役は、初演の時は白人の女性の役でしたし、私も日本の舞台で美波里さんで観ていますから、背のすらりと高い、プリマバレリーナにもなれそうな白人女性という役柄設定のはずが、最後に選ばれたのはカラードの女性でした。彼女は映画の中で「自分はシーラに(外見が)向いていないのはわかっている」「でも、どう役に自分を近づけていくか、それが女優だ」というような内容の話をしていて、その時に「この人ならシーラになるかもしれない。外見の色白ささえ考えなければ、ぴったりだわ」と思ったのですが、まさか本当にシーラを射止めた時には、映画館の中で「すごい」と声をだしたかったほどでした。
感慨深かったのは、昔なつかしいオープンリールの録音が、映画の最初、そして折々に画面に現れて当時の音を再生していたこと。これが昔、話に聞いたオタカラのテープなのかと興味津々で見ました。
映画に登場した、再演時のスタッフたちには、初演時のメンバーがいました。それぞれが「コーラスライン」への思いをあたためつづけ、今回の再演にさらによいものを作り上げたいという意気込みが伝わり、ああ、「コーラスライン」は本当にダンサーたちの真実の物語なのだ、そしてそれはダンサーという特殊な世界だけにとどまらず、人間であればみな悩み、乗り越えていかねばならない普遍的な真実を語っているからこそ、長く人の心をつかみづけているのだと思いました。
来年、日本にもツアーが来るそうです。本場の「コーラスライン」を観たいなあと思う一方で、来年は同じ時期に見逃せないバレエの公演があるんです。8月だし、暑くてあまり出歩きたくない季節、これからゆっくり悩みたいと思います。でもきっとチケットがとれるなら、観にいくと思います、「コーラスライン」。
[2008年10月24日(金) ]
蜷川のシェイクスピアシリーズ「から騒ぎ」を観にいきました。
今回は、いつも一緒に行く人のほかに、「一度観てみたい」という友人がいたので、私は2回行くことになりました。
2回も観ると、それぞれの舞台が生(なま)ならではの醍醐味があります。
それぞれ、役者さんたちの間の取りかたが微妙に違うところがあって、新鮮に感じます。
1回目には気づかなかったのですが、実はその時にセリフを間違えたシーンがあって、2回目にそのシーンになったとき、「あれ、前回観た時はここは間違えていたのか!」と気づくことがありました。
かと思うと、2回目に役者さんがとちってしまい、自分で吹き出してしまうシーンもあり、場内爆笑となったところもあります。
どうやら、毎回の上演ごとに、たくさんのハプニングがあったようです。
観られるものなら、もっとたくさん行ってみたかったなあ。いえいえ、意地悪じゃないです。
たとえば…。
この舞台には、三人の楽人さんがでてきて、劇の中のいろんなシーンで演奏してくれるのですが、その中に、客席後方の出入り口から他の役者さんの先導で入ってきて、客席の階段をだーっと駆け下り、舞台いっぱいをぐるぐると駆け回る入りをするところがあります。1回目はそれはもうものすごい速さで、あれでどうしてあんなふうに吹き続けていられるのだろうと、立ち止まった時にはっと気づいて、「いやいや、音大に入った時はこんなことをするなんて思いもよらなかっただろうなあ」と同情してしまいました。マーチングバンドだって、全力で走って隊形変化するなんてありえませんものね。
それが、2回目の時は、先導で走る役者さんがゆっくり走っていたので、「ははあ、さすがにゆっくり走ってくれと言われたのだろう」と思いました。全力で走りながら楽器を吹いたり、ドラムを叩いたりするのは至難の業です。息があがっちゃいます。これをほとんど毎日、たまには1日2回興行をしていたのですから、大変なことです。ちなみに楽器は、ドラムと、チューバと、ソプラノサックス(とクラリネットの持ち替え)でした。
映画でもよくあることですが、舞台の幕があがったばかりのときに、セリフが聞き取りにくいということがあります。映画や舞台のしょっぱなにたくさんの伏線を埋め込んでいることがあります。2度以上見ると、それがはっきりわかるので、演劇好きの人が何度も同じ舞台を観にいく楽しさが少しわかったような気がしました。
また、このようなハプニングの多い「ゆるい」舞台は、シェイクスピアだから許されるのかもしれません。以前「鹿鳴館」を観たとき、すみずみまできっちり作り上げられた舞台は、セリフひとつを詰まったり、言い間違えただけでガラガラと大きな城が崩れるようなあやういバランスの上に乗っているような感じがありましたから。演ずる方にも、観る方にも、ピンと張った緊張感が求められる舞台もありますが、「から騒ぎ」は喜劇ということもあり、舞台で起きるどんなことも…それがストーリーにアクセントをつける暗い陰謀のシーンでも…ハッピーエンドになるのだもの、という気楽さで観ることができます。
映画にしろ舞台にしろ、最初からセリフが聞き取れるというのは、イロハのイだと思います。最近の作品は言葉が速くて、聞き取れずに始まってしまうとあとが辛いです。伏線のいくつかはここにありますし、登場人物の人間関係もここで紹介していることが多いわけですから。今回の舞台は最初からセリフが聞き取りやすく、その点はばっちりでした。
今回の舞台では、小出恵介くんが初舞台を踏みました。蜷川さんは毎回、テレビや映画でおなじみになった若い俳優さんを起用しますが、大きく化ける時と、「やっぱりテレビや映画と、舞台は違うからねー、がんばっているけどむずかしいねー」と思う時があります。意地悪なようですが、私はなるべく公演の後半に行くようにしています。そのほうが、新しい役者さんも舞台になじんでいるだろうと思うから。で、小出くんですが、よかったですよ。のどもつぶれていなかったし、全力でがんばっていたし、それでいて後半に観にいったからでしょう、気持ちの余裕もみえて、ちょっとしたハプニングにも動じずにいるところはさすがだと思いました。
これから新潟公演を皮切りに、地方公演が続きます。みんなが身体に気をつけて、無事千秋楽を迎えられますように。
[2008年10月01日(水) ]
カテゴリは「鑑賞日記」に入れましたが、実はまだこれからの話です…。
友人がピアノの二重奏をやることになり(二台のピアノで演奏)、相手の方との「合わせ」をしていてしっくりと合わないことに悩んでいました。お互い、大人で、それなりのレベルですから(友人は音大卒、今はピアノ教室を主宰)、自分なりの音楽というものがもうできているわけです。それはむずかしいだろうなあとぼんやり話を聞いていると、どうやらラヴェルの曲をやるらしい。
私が、「フランスの音楽ってむずかしい。かるがると演奏しているフランス人の演奏家の公演を聴いていると、まるで舞台の上50センチのところに音楽が漂っているように感じる。でも、ただふわふわというのではなくて、ちゃんと芯があって、、、」と自分がフランス音楽に感じているところを語ったら、「それだ!」と友人がうれしそうに声を上げました。
「…50センチのこと?」
「そう」
そうなんですよね。この感覚。今までいろんな友人に語ったことがあるんですが、今回ほどインパクトを与えられたことはありませんでした。自分と同じような感覚で受け止めてくれたことにちょっとうれしくなりました。
モーツァルトの曲をベートーベン風に演奏すると、すごく不思議に聞こえます。
そんなに重くないよーって思います。
フランスの音楽は、モーツァルトとはまた違った感じで、軽くて、音楽に重さがあるのなら、その重さを感じさせません。バレエで体重を感じさせずきれいなジャンプを決めるダンサーの演技でも見ているような感じです。
友人は、この「50センチ」を相手方に伝えて、お互いの音楽の歩み寄りを図ったそうです。
今週末、私はその演奏を聴きに行きます。うまくいくといいのですが。
友人は、ラヴェルを弾いてからショパンを弾くと、腕がつりそうになる、と言いました。
私はピアノに関しては聞くばっかりなので、そういう技術面の話を面白く聞きました。
作曲家の数だけ、曲の数だけ、「こう演奏してほしい」というのがあるんでしょう。(そんな、他人事だと思っていないで、自分でも練習しないといけないのですが…)
週末が楽しみです。
[2008年09月19日(金) ]
先日、エミリー・ウングワレー展に行ったとき、隣のブースでこの ウィーン美術史美術館所蔵「静物画の秘密展」 もやっていたのですが、その時は時間がなくてはしごができず、終了間際にあわてて観にいくことができました。
食わず嫌いでこの時代の絵画に縁のなかったひとにも楽しめるような工夫が凝らしてあって、楽しかったです。
当時の風俗や、暮らしぶりの描写のおもしろさはもちろん、画家たちがそれぞれに工夫をこらし、当時の絵画の技法の特徴や、描かれたものが意味するところなど、ちょっとしたことがわかるだけでその絵の前でくすっと笑ったり、細部まで宝探しのようにながめつくしたり、いろいろと楽しめます。
絵にはいかにもそれらしく見せたり、逆に理想を描くために現実にはありえない形になっていたりするのをそれとはわからないように工夫したりと、画家の努力のあとがそれぞれの絵に残っています。友人と行ったのですけれど、フラワーアレンジメントをしている彼女は、花々が描かれている絵を見ながら、「実際にこんな活け方をしたら、花瓶もろともひっくり返っちゃうわよねー」とつぶやいていました。
ウィーン美術史美術館の館内の写真も展示されていて、やっぱりこういう絵は、いつも飾ってあるところまで行くのが一番だなと旅心も湧いて、何度か行ったことのある友人の話から想像をふくらませてしまいました。いつかは美術館めぐりをやってみたいですね。でもいつになることやら。
[2008年09月12日(金) ]
江戸東京博物館で開催している「北京故宮 書の名宝展」を観にいきました。
画も書もただ観るだけしかできない私なので、技術的なすばらしさとか、書家一人一人についての薀蓄などとうてい語ることはできませんが、そんな私にも展示されている作品ひとつひとつから訴えてくるものが感じられ、何世紀も昔の人の書き残したものがこうやって外国まで旅して喜んで鑑賞されることはなんとすばらしいことなのだろうと思いました。
ご存知の通り、今回の白眉は王羲之(おうぎし・が書いたものを模写したという)の「蘭亭序」です。詳しいことはネットで検索してもいろいろと出てきますのでそちらにおまかせすることとして、少しはすいていることを期待して夕方に出かけていったのに、さすがに「蘭亭序」の前は黒山の人だかりでした。私も列に並び、ゆっくりと鑑賞してきました。
私にとって、王羲之は、並み居る中国の書家の中でもよく名前を知る人です。親近感を感じていると言ってもよいくらいです。というのは、独学ながら書をたしなんでいた父が、私の小さい頃はこの王羲之を手本にしていろいろ自分の字に工夫をこらしていたのを覚えているからです。そのすっきりとしていやみのない、親しみの持てる書体は、何も知らない私にも「おうぎし」の読み方と一緒に心に留まりました。
父が生きていたら、この展覧会にきっと行っただろうな、展示されているひとつひとつを見ながら、私や子どもたちにいろいろ語りかけたことだろうなと思います。
二男と一緒に行ったのですが、二男もじいちゃんと一緒に来たかったなとぽつっと言っていました。
会場を出ると売店があり、書の好きな人たちをねらって、筆だのすずりだのがたくさん売られていました。二男がほしがったので、じいちゃんも喜ぶだろうと、筆と小筆を買ってやりました。(書も習っていないのが見え見えの二男にはもったいないと思われたでしょうね…売店のご主人)
翌日の朝、二男は「くさいくさい!けものくさい!」と言いながら自分の部屋から出てきました。新しい筆はけものくさいんですね。あんな小さな筆なのに…。でも、書き心地は上々のようです。
[2008年09月05日(金) ]
先週は、上野でフェルメール展・コロー展・そして友人の出展している書道展と、雷雨を気にしながらもたっぷりと堪能してきました。
書道展では、入り口で必ず記名させられるのがすごくいやなのですが、目をつぶって(本当につぶっていては書けませんが)えいやっとやっつけるように読めればいいでしょう的な字で名前を書いて、誘ってくれた友人に案内されて鑑賞しました。毎年来ているので、友人の字の進化していく様子に、自分もこのままではいけないと励まされる思いです。何百枚も書いて書いて、出展作を書き上げたのだそうです。その労にも頭が下がります。大きな紙を四枚も使った大作なのです。今年は友人のお母さまの作品も出展されていて、年齢からは想像できない力強い筆運びにさらに元気をいただきました。
コロー展はものすごく混んでいました。期間の終わりというのもあったと思います。
たくさんの頭の後ろから伸び上がるようにして観て歩きましたが、やはり円熟期の絵が一番よかった。他の作家の作品もところどころに並んでいて、「なんだかずいぶんセザンヌっぽい絵だわ」と思って近付くと、それはセザンヌ本人の絵だったりして。でも、モンドリアンやブラックの具象画を初めて観ることもできて、それは私にとってちょっとした収穫でした。
そしてフェルメール展。
当時のデルフトの画家たちの絵も出展されていて、お互いに影響を与えている様子もわかる、丁寧な展覧会です。
以前、ファン・メーヘレンによるフェルメールの贋作を扱った本(『私はフェルメール』ランダムハウス講談社刊)を読んでいたこともあり、「フェルメールってどんな絵を描いたんだろう」と、興味がありました。フェルメールばかり、どうしてもてはやされ、メーヘレンの贋作が真作と思われたのか、写真ではなくこの目で見たかったのです。
フェルメールの絵は、確かにすごかったです。
絵の持つエネルギーがすごい。技術的にも、素人目でもわかる光の扱い方、構図の取り方、絵の勢い、人物の生き生きした様子、目の力、瞳の輝き、など、他のデルフトの画家たちと一線を画するものがありました。そのことを理解させるために、これだけの他の画家の作品が並べられたのかと思いました。
そして最後に並んでいた絵。「ヴァージナルの前に座る女」。これはサザビーにより真作と認められた(attributed to)絵だということです。この絵は、贋作なのか真作なのか論争になり、結局今は真作だということらしいです。
「らしい」と書きましたが、これは、上で書いた、贋作の本の影響もあります。attributed toと決められても、結局贋作だったということも結構あるらしいです。しかし、今回の展覧会の日本語の説明では、真作であるとありました。(真作と認められる、ではなく)
実は、この絵は、上に挙げた本でも取り上げられていたので、とても興味があったのです。そんなに紛らわしい作品なのかしら。目の利く人たちが二つに分かれて論争するほどの絵なのかしら、それは興味がわくというものです。きっと素人目にはものすごーくフェルメールっぽいのだろう、と写真を見て想像していました。
ところが、一目見て、私はがっかりしてしまいました。あまりにも元気のない絵なのです。
本人の作品だとしたら、ずいぶん筆の勢いがおとろえていた時期のものだと思います。
attribute…魔法のような言葉です。この言葉がつくだけで、オークションでは値が上がるのだ、と上記の本にもありました。でも、この言葉がついている限り、正真正銘の真作だとも言い切れないことも忘れてはいけないのです。主催者側が真作だと言い切るのは、ちょっと不親切かなと思いながら会場を後にしました。
[2008年08月29日(金) ]
先日、友人と「ぐりとぐらとなかまたち 山脇百合子絵本原画展」に行ってきました。
原画は印刷された本からは感じられない「ちから」を感じます。この原画展でもそれをたっぷり堪能してきました。
ていねいできれいな、そして印刷に回るまで絵の細かい部分の配置なども最後までチェックしている様子が原画から読み取ることができます。いろいろな絵が画面に散らすように描かれていたのが、最終的に切り張りされて斜めに直線的にリズムを感じるように配置された絵を見たりすると、最初の絵でもそれはそれとして完成されているのに、さらによいものを求める作者のあくなき思いに頭が下がりました。
それにしても、ぐりとぐらのシリーズだけでもものすごい量の絵、絵、絵、です。
お料理の上手なぐりとぐら。お掃除も上手なぐりとぐら。
二人で、「一家に一匹、ぐりとぐら♪」と思いついてしまいました。
きっとグリム童話に出てくる夜働く小人さんたちのように、まめに働いてくれるでしょう。
わが家に来てくれないかなあ。
なんて、子どもの夢に介入してはいけませんね。
展示の一番最初にあったのが、「いやいやえん」でした。
私が最初に買ってもらった「厚い童話」です。岩波の薄い童話は何冊かありましたが、長編はこれだけだったと思います。後年、リンドグレーンの「ながくつしたのピッピ」とか、「少年少女世界の名作全集」などを買ってもらうようになりましたが、とにかく、あの赤い表紙の本は印象的で、話の筋も破天荒で(当時としては)、原画を見ていると当時住んでいた家とか、低学年の頃のいろんなできごとや友達づきあいのことなどを思い出していました。
私の子どもたちが字が読めるようになると、母が家の奥から探し出してきました。よく取っておいたものだなあとびっくりしました。
「しげる」(いやいやえんの主人公)は、あの本の中でいつまでも幼児のままです。
私はいつの間にか大人になり、母親になっていました。
なんだか不思議な感覚です。
山ほどのぐりとぐらを見て帰りましたが、やっぱり私には「いやいやえん」は「ぐりとぐら」以上の親近感があります。
最初に出合う本というのは、やはり本人にとっての存在感が大きいのでしょうか。子どもに与える本についてはそんなに考えていなかったのですが。
[2008年07月30日(水) ]
サワキさんのブログでも紹介されていた、エミリー・ウングワレー展に行ってきました。サワキさんが書いてくださらなかったら、いつものように「行きたいな〜でも暑いな〜」で終わっていたかもしれません。サワキさん、ありがとうございます。
最終日で、混んではいましたが、鑑賞に不便を感じるほどではありませんでした。
アボリジニの儀式に使うためのボディペインティングが、バティックの染色に、そして大きなキャンバスに変わっても、彼女の表現は変わりません。小さいときから染みこんでいるオーストラリアの大自然が彼女の指先から再生され、決然として迷いなく、表現の変化を楽しみながら、自分の内なる世界を描き出しています。そうだ、そうです、描かれたキャンバスはそのまま、彼女の「曼荼羅=世界・宇宙」なのでしょう。老齢での作品群ですが、一つとして老境を感じさせるような、枯れたような印象を与える絵はありません。絶筆に近付けば近付くほど、さらに新しい、さらに力強い筆致、表現、印象を見る人に与えて、こちらは驚くばかりです。
まるで縄文土器のようなエネルギーのほとばしり。丁寧に、最後まで飽きずに仕上げる粘り強さ。打ちつくされた後の碁盤でも見るような、同じようだけれどひとつひとつ違うキャンバスの模様。印象派のような筆遣いを感じる一瞬もないではないけれど、繊細な印象派とは全然違う。むしろ野獣派のほうが近いかもしれない。それでも野獣派すら圧倒する彼女のエネルギーの強さ。見続けていて疲れない。(これは私が絵を観たあとに感じるポイント。西洋の肖像画などでは、見る人のエネルギーを吸い取るようなものが時々あるのです)
展示されているバティックを見て、これを身にまとったら、さぞ元気が出るだろうと思いました。
アボリジニは、オーストラリアに入植した白人たちによって、さまざまに虐げられてきました。エミリー・ウングワレーもその中の一人でしたが、仲間と共にたくましく生き抜いた強さが、遺された絵からほとばしっています。ぜひ、ご自分の目で、実際に見てもらいたい美術展です。おみやげに数枚の絵葉書を求めましたが、エネルギーは全然伝わってきません。実際に見た人の「よすが」にしかなりません。