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2011.04.18 21:30

昨日のブログの続きで、『自己チュー親子』より。


二五年ほど前から、生徒たちは自分が「やったこと」から目を背け、もっぱら「思ったこと」に閉じこもるようになった。「思ったこと」は「自己」の内面でもあり、ほかの人には見えない聖域である。自分だけの確かな世界である。

「やったこと」と「思ったこと」の対比がキレイな表現ですね。


日本社会が「消費社会」段階に入って五年くらいたった1980(昭和55)年くらいから、学校が不安定になり始めた。80年前後の中学生たちによる「校内暴力」がその嚆矢である。
高校講師の私がはっきりと変化を意識したのは1983年ころであり、ちょうど中学の「校内暴力」大発生の三年くらい後である。


「校内暴力」という言葉が出始めた頃の把握と、高校教師の現場体験からの話として、気に留めておきたい文章です。


1983年前後の高校生たちの変容について、うまく説明することはとても難しい。一言でいえば、生徒が学校の包括的な指導から離れ出したのである。かつての生徒ではなくなった。教師と生徒たちがズレ始めた。生徒たちが教師の後について歩かなくなった。自分の思うこと(内面的位置づけ)にこだわりだした。学校の公共性を認めなくなった。

1983年といえば、僕が10歳になる年である。9歳になる年(3年生)の担任は新任の女性教諭で、今ではひどいことをしたと思っていますが(注:今でも賀状のやり取りをする関係です)、毎日のように先生を「泣かす」クラスでした。「泣かす」というのも、本当に涙を流すこと、毎日でした。
「生徒たちが教師の後について歩かなくなった」のは、小学3年生の自分ですら体験していました(授業のスポイルとか、そういうことはやりませんでしたが…)。


自分の好きなように生きたいとは、誰しも望むものである。自分の好きなように生きるためには、社会や体制や周りとの距離を測らなければいけない。ということは、自分はどういう人間かを測っている必要がある。
(中略)
ところが「新しい子ども」たちは、社会や学校や周りとの距離を測らずに、自分の好きなように生きようとし始めた。これでは社会的な「個人」や「私」が形成されるはずがない。


まだ幼い若者が、好きなように生きたいと思えば思うほど、実は思うようには生きられません。
なぜなら「社会」との断絶が増えるだけですので。
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2011.04.17 18:34

諏訪哲二さん。

今、一番学びたい方の一人です。
以前『間違いだらけの教育論』を読み、義務教育でしかなしえない「教育の在り方」を知り(学び)、教育とは何だろう、自分が出来る教育(Z会という私企業を通じて)は何なんだろう、と、深く考えるキッカケになりました。

そして最近、『自己チュー親子』読了。これまた素晴らしい本でした。
ありがちな、モンスターペアレントを単に批判する書籍ではなく、1970年代から家庭のありようが変わり、モンスターペアレント的な親はどのように考えているか、を分析した本です。

このブログで中身を少しずつ紹介していきたいと思います。


“私たちは「私」を信じなければ生きてはいけないが、「私」への懐疑を同時に持っていなければならない。それが近代人の条件であり、モラルである。
しかし、「私」そのものが絶対化したら?
その「私」がほかの人の「私」と交流できなくなったら?
そうなったら、本人にとっても社会にとってもかなり危険なことになろう。”


本著を貫く見方です。
「私だけの私」という言い方も本著に散見されますが、「私だけの私」は本質的に、異質なものが同居する「社会」に蔓延ってはいけませんよね。
そしてこの「私だけの私」「自分だけの自分」が「自己チュー」なわけです。


“自分はひとつで」あってはいけないのだ。社会的な「個人」としての「私」と、自分や自分の外部で閉じている「私自身であるような私」とは区別されなければいけない。近代人は外に表示する「私」と、内面に確保される「(この)私」という、二つの私を持っていなくてはならないのであろう。”

良く分かる考え方ですが、正直「なんて上手に表現するんだろう…」と感じた文章です。
「表現の自由」を論じるときに、良く、「内心」が完全自由であることに対比して、制限付き自由であることを指摘するが、これに似た表現かと思います。

社会的な「個人」としての「私」がいなければ、社会の中で生きていく権利はない、といっても過言ではないでしょう。
第三者から「贈与」を受けるために社会で生きているわけですから…


“カンニング・ペーパーを答案用紙の下に隠してテストを受けながら、カンニングはしなかったし、その意志もなかったと言いはる生徒。他人の自転車を無断借用して、家の近くに乗り捨て、盗んだのではない、ただ、借りただけと言い訳する高校生”

これらの高校生は「私自身であるような私」の論理で言い訳をしているが、社会的な「個人」として通用するハズがありません。
また、問題の本質は、これらの高校生が“社会的な「個人」として通用しない(このままでは生きるのに苦しむ)”と理解していないことにあります。

誤解を恐れずに申し上げれば、悪意がある方がまだマシです。善意だからやっかいなのです。
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2011.04.16 20:46

実は20代の時に痛風を発症し、10年以上薬をのんでいます。

「ええっ!若くから…」って言わないの…
「ぜいたくしすぎ!」って言わないの…
「大丈夫なの?」って言わないの…
…笑

ピンピンしています。一度発症したら「付き合っていく」病気ですし、付き合っていけば何も怖くありません。
むしろ、尿酸値が高い(=こうなると痛風になります)まま、痛風を発症しない方が、痛みのサインが出ずに危険になります。
自分は発症したので、対策もよくわかっているわけで。

薬(尿酸排出剤)も、最初は毎日のんでいたんですが、徐々に2日に一回、3日に一回、とペースを減らしています。生活習慣を変えて、生活の中で尿酸が排出されるようになれば理想です(が、これはなかなか難しいかな)。


で、今日午前、検診結果を聞きに行きました。半年に一回程度は血を調べてもらっています。
結果、尿酸値は正常。
そればかりか、しばらく低めだったヘモグロビンの数値も上昇(血液が薄いんですよ。苦笑)。
全体において改善されていました。


異常な状態そのものは怖くなくて、その状態を続ける方がよほどキケンなんですよね。
だから、自分の健康状態は、知っておいた方がいいですよ、目をそむけるのではなくて。


追)病院で待っている間に読了した2冊。
ウェブはバカと暇人のもの』(中川淳一郎/光文社新書)
自己チュー親子』(中公新書ラクレ/諏訪哲二)
両方良い本でした。
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2011.04.11 01:24

ほんとにたまたまですが、昨日今日で読んだ、全くジャンルの違う本に、全く同じ内容が出てきました。
それが表題。


昨日読み終えた本はこちら。
うちの子が、なぜ!―女子高生コンクリート詰め殺人事件』(佐藤稔/草思社)
#少し怖いタイトルで恐縮ですが…未成年凶悪犯罪者の心理や生い立ちを著した本は、若者心理を知る上でとても勉強になるため、結構読んでいると思います。

あとがきにこんな言葉が示されています。

「あらゆる子は、三歳になるまでに一生分の親孝行を完成してくれるのだ。」


続いて、今日半分ほど読んだ本はこちら。
自己チュー親子』(諏訪哲二/中公新書クラレ)

セラピストの金盛浦子さんの講演での言葉が紹介されています。

「みなさん!もう子どもたちに要求するのはやめましょうよ。生まれてからの三年間で充分、親孝行してもらったでしょ」


さすがにビックリしましたね、2日連続で同じ意味のフレーズでしたから。


うちの娘も今三歳。
教育に携わる僕に。
父親である僕に。
今というタイミングで強烈に刻まれたこの言葉。

きっと何か意味があるのだろう、と思っています。


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寺西隆行
ICT CONNECT 21 の寺西隆行です。小松高校→東大理一→工学部環境系→教育の道へ。教育とマーケティングをずっと見つめながら過ごすことが喜びです。
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